新たな出会い
宿屋中に響くような号泣がようやく収まり、小さく嗚咽を漏らすサラを、アリスの言葉通りにエリィが抱きしめ、その背を撫でている。慈愛に満ちたその表情は聖女のように穏やかで、とてもではないが魔物相手にメイスを振るって生計を立てている冒険者とは思えない。サラの加入を巡る騒動──と呼べるほどのものではなかったかもしれないが──にも一応の決着が着いた今、隣で二人を見守るレティシアも優しげな表情で黙っている。
そんな三人からすこし離れて、アリスは女将──サラを宿の従業員として雇っている主人に、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、女将さん。結局、出し抜くようなことをしてしまって」
サラが冒険者になるためにこの街を訪れたことをアリスに話したのは、他ならぬ女将自身だ。その上で、自分は彼女が冒険者になることには反対だと、明言した。もしも彼女を誑かすような輩がいたら、ただじゃおかないと釘を刺したのだ。だが結果的に、アリスは自分のパーティへサラを誘い、彼女はそれを承諾した。結果だけを見れば、女将の行動はまったくの逆効果だったことになる。
責められて当然のことを、自分はやった。もしかしたら、もうこの宿は使えないかもしれない。それでもリーダーとして、パーティのことを考えた結果彼女を誘ったことに、後悔はなかった。ただ、女将の心情も理解できる。彼女はただ、サラのことが心配だっただけだ。年端もいかぬ娘が冒険者になる──それがどういうことか、この街で長年宿の主人として冒険者と接し続けてきた女将には十分すぎるほどわかっていたのだろう。
しかしアリスの予想に反して、女将はゆっくり首を振ると、困ったように微笑んだ。
「いいのよ。あなたは十分、誠実な対応をしてくれた。自分たちの事情を話して、あの子がどうして冒険者になりたいのかを訊いて。その上で、無理強いもしなければ嘘もごまかしもしなかった。宿の主人として、そのことについてもう文句を言うつもりはないわ」
女将は小さくため息を吐くとうつむき、自嘲するように言う。
「そもそも、私はあの子の親でもなければ親戚でもない、ただの雇い主だもの。今の仕事をやめて別の職に就くって言われても、それを無理に止める権利なんて最初からなかった。それなのに……人の生き方に口を出そうだなんて、おこがまし過ぎるわよね」
「女将さん……」
冒険者になるのは、サラの夢だった。それを他人の意見で曲げてしまうのは、確かに彼女の言う通り、傲慢な行いかもしれない。しかし、サラがこの街にたどり着いてから今日に至るまで平穏無事に暮らせたのも、そしてなによりアリスたちと出会えたのもまた、女将の行い故だ。いくら行商である夫の馬車に同乗してきたとはいえ、なんの関係もない少女を自分の宿に住まわせ、その上真っ当な仕事と報酬まで与える理由など、本当はなかったはずなのだから。
だから、アリスは言った。
「でも、女将さんの気持ちは伝わってると思います。ほら」
うつむく女将のところへ、サラが歩いてくる。時折鼻をすすりながら、それでもしっかりとした足取りで、サラは──最後の、挨拶をするためにやってきた。
女将は、年端もいかぬ少女を見上げる。見上げるほどの長身と、力には自信があるんですと言う彼女に、思えばずいぶんと助けられてきた。最初は同情心から宿に住まわせることに決め、雇うという建前のために簡単な仕事を与えようと思っていた。しかし、任された仕事に文句の一つも言わず、真面目に、一生懸命に働くサラを見ているうちに、少しずつ、女将は彼女を頼るようになった。宿を利用する客から元気で愛想の良い少女の話を聞く度に、嬉しくなった。いずれサラが故郷へ帰る時、それらがすべて失われてしまうとしても。そしてそれは、彼女が夢を叶えたとしても同じことだ。それならば、命を危険に晒し、明日の糧にすら苦労するかもしれない不安定な道よりも、安定した、真っ当な道を示してやるのが、きっと本人のためにもなると思ったのだ。それが、彼女の夢を諦めさせることと同義であっても。
けれど──その夢を叶えるために、突然手を差し伸べられて。自らの心中を吐露し、その手を取るべきか涙を流して苦悩する彼女の姿は、痛ましくて見ていられなかった。その涙は、自分一人の押しつけがましい"善意"などで流させて良いものでは、決してなかった。だから、口を挟めなかったのだ。彼女の、サラという人間の人生を決めてしまうような選択。それを選ぶ資格が、いったい本人以外の誰にあるだろうか。
結果として、サラは選んだ。冒険者への道を。幼い頃から夢見ていた、おとぎ話の英雄への道を。そして恐らくは、多くの苦難に満ちた、険しい道のりを。彼女は、自らの意思で選び取ったのだ。
「サラちゃん……」
名を呼んで、女将はかける言葉を失った。もはや、彼女の選択を責める気などない。かと言って、背中を押すような励ましを贈れば良いのか──その先にあるのは、必ずしも幸福とは限らないのに。
「女将さん」
まだすこし涙のにじんだ声で、しかしはっきりと、サラが言った。女将を見つめる瞳はいまだ濡れていたが、そこには固い決意の光が宿っている。
「今まで……お世話に、なりました」
そう言って、サラは深々と頭を下げた。
「サラは、冒険者になります。頑張って強くなって、悪い魔物をいっぱいやっつけて……いつか、たくさんの人を幸せにします。だから……えっと、だから……」
これはきっと、彼女にとって一つの大きな区切りとなる。自らの意思でその選択を選ぶことができたのは、幸運なことかもしれない。それに、その選択の場に自分が居合わせることができたことも。結局のところ、女将はサラが好きなのだ。それは大人だから子供の面倒を見るべきだとか、この街に連れてきたのが夫だからとか、そんなことは関係ない。この素直で純真で、いつも元気いっぱいな少女が、好きなのだ。だからこそ、彼女の進退にまで口を挟もうとしていた。
今はもう、そんなつもりはない。例え選んだ道の先になにが待っていようと、この少女ならきっと、前を向いて歩いていけるだろうから。
女将は優しく微笑むと、高い肩に手を伸ばして、そっと置いた。
「サラちゃん」
言うべきことはもう、決まっている。
「頑張りなさい。胸を張って、前を向いて。あなたの笑顔は、あなたの夢と同じくらい、たくさんの人達に元気を与えてくれるわ。それでも……」
女将の微笑みに、どこか寂しげな色が差す。きっと、そんなことにはならないだろう──そう思いながら、続けた。
「それでも、もし、疲れたら……いつでも、ここに帰ってきなさい。私にできるのは、これだけだけど……綺麗なシーツと温かいベッドを用意して、いつも待ってるわ」
「っ……!」
瞬間、サラの瞳にまた涙がにじむ。しかし今度は、それを零すことはない。女将がかけてくれたのは、子供だからと面倒を見る大人としてではなく、宿の主人として──つまり、対等な一人の人間としての、最大級の励ましの言葉だ。
サラが女将の心遣いのすべてを理解できたかどうか、それはわからない。しかし少女はごしごしと目元を拭うと、決意に満ちた表情で──
「はい! ……行ってきます、女将さん!」
元気いっぱいに、返事をした。
***
「わあ……」
開け放たれた冒険者ギルドの巨大な門をくぐると、感極まったようにサラは声をあげた。
「ギルドに来るのは初めてなの?」
「いえ! 女将さんのお使いで、何度か来たことがあります!」
「そっか、加盟店だもんね」
感慨深げに辺りを見回すサラに、エリィが訊ねた。ギルド加盟店──割引等のサービスを提供する代わりに、冒険者という上客を優先的に迎えることができる制度だ。更に言えば、もし加盟店で冒険者がなにかしらの問題を起こした場合も、ギルドが対処してくれる。荒くれ者の多い冒険者を相手取る商売にとっては、むしろこちらの方がありがたいのかもしれない。
はきはきと返事をするサラは、すっかりいつもの調子を取り戻したようだ。
「でも、今まではただのお使いでしたから。……これからは、サラも冒険者としてここに来るんだなって思うと、なんだか不思議な感じがして」
「そうだね。立場が変われば、たとえ同じ場所でも違う景色に見えることはままある。願わくば、長い付き合いになることを期待したいけれど……おや」
とにもかくにも、まずは冒険者登録だ。ギルドの中は相変わらず冒険者でごった返していて、それは諸手続きを行うカウンターの前も同じだった。他愛もない会話をしながらアリスたちは列に加わろうとして、なにかに気づいたレティシアが小さく声をあげた。
「……あの人、いつもの受付の人じゃない?」
幼馴染の視線を追ったエリィも気が付いたのか、ほら、と視線で示した先には、ギルド職員の制服を着た一人の女性が歩いていた。制服を着崩すこともなくきっちりと身に纏い、大き目のフードを目深に被っているせいで顔の判別も難しかったが、ほとんどの職員がそれをかぶっていないせいでむしろ彼女が誰であるかを判断するのは容易だった。
いつも、誰に対しても事務的で冷たい態度を崩さない受付嬢。アリスがこの街を訪れてすぐ、冒険者登録をしにギルドを訪れた際に応対してくれた女性だ。その時は彼女が担当しているカウンターだけ行列ができていなかったから──恐らくはその態度のせいだろう──たまたま登録の手続きをしてもらっただけだったが、その冷たく機械的な応対とは裏腹な細やかな気遣いと的確なアドバイスを気に入ったのか、その後もアリスはギルドを訪れる度に世話になっていた。
「ほんとだ。珍しいね」
彼女がカウンターの外に出ている姿を見るのは初めてだ。体型を隠すようにだぼついたギルドの制服を、裾を引きずるスレスレで揺らしながら、歩いている。見れば手には羊皮紙を何枚か抱えていて、恐らくは受付以外の仕事中なのだろう。挨拶の一つもしようかと思ったが、仕事の邪魔になってはいけないと思い直し、アリスは長蛇の列へ並ぼうとしたが──
「……ねえ、なんかこっちに来てるけど」
エリィの言葉にもう一度振り向くと、例の受付嬢は確かに真っ直ぐこちらへ歩を進めていた。相変わらずフードのせいで目線は合わなかったが、自分たちの方へ歩いてきているのは明白だ。
「彼女に限ってただの挨拶ってことはないだろうし……アリス、キミ、なにかしたのかい?」
「まさか。だいたい、ここ数日はほとんど一緒に行動してたじゃない」
冗談交じりのレティシアの言葉に、戸惑いながらアリスは答える。なにかしらの問題を起こした冒険者はギルドから使いを出されて警告を受けると聞くが、そんな心当たりなどあるはずがなかった。そもそも自分が冒険者として活動してから、まだ半月と経っていないのだ。
そうこうしているうちに、受付嬢はアリスの目前で足を止め、軽く見上げた。カウンター越しでも何度か感じたことだが、こうして間近に立たれると小柄な彼女を見下ろす形になる。
「こんにちは」
いつものようにアリスが挨拶すると、藍色の瞳は相変わらず透き通るように無感動な視線を返してきた。最初は挨拶のたびに戸惑うような素振りを見せていたが、どうやらもう慣れたらしい。
「こんにちは、アリスさん。丁度今、あなたに使いを出すところでした」
挨拶から続く言葉に、サラ以外の全員がぎょっとする。冗談で言ったことがまさか本当になったのか、と。
「……わたしに?」
「ええ。ところで、本日はどのようなご用件で?」
「あ、えっと……新しくパーティに入ってくれる人が見つかったので、その登録を。って言っても冒険者登録もまだなので、まずはそっちからなんですけど」
「なるほど」
そう言って、受付嬢はちらりとサラを見た。アリスたちのパーティに関する手続きのほとんどを行ってきた彼女のことだ、新しく加入するとなればそれが誰を指すのかくらいはすぐにわかったのだろう。サラが慌ててぺこりと頭を下げると、軽く会釈を返して、受付嬢はアリスへ向き直った。
「ギルドの掲示板に、パーティメンバー募集の張り紙を出したことは覚えていますね? それを見て、あなた方のパーティに参加を希望する方がいらっしゃいました」
「……それはまた。偶然とはいえ、凄いタイミングだね」
そばで話を聞いていたレティシアが、呆れたように言った。メンバー募集の張り紙を貼ったのは、アリスたちがパーティを結成した当日だ。それからなんの音沙汰もなかったというのに、こうしてサラという新しいパーティメンバーを迎えることになったその日に現れるなんて。
とはいえ、嬉しい報せには違いない。
「その人は、今どこに?」
「ギルド内でお待ちいただいております。お会いになられますか?」
「はい。もちろん」
アリスがエリィとレティシアを見ると、二人は笑顔でうなづいた。これは二人にとっても──いや、パーティ全体にとって、喜ぶべき話だ。
「行っておいで。サラにはボクたちがついておくよ」
「二人は話さなくてもいいの?」
アリスの言葉に幼馴染の二人はちらりと視線を交わす。そわそわと落ち着かない様子で成り行きを見守っていたサラの肩にぽんと手を置くと、エリィが答えた。
「ちゃんと話してきてくれるんでしょ? なら、後で紹介してくれればそれでいいわ」
「同じく。加入の是非については、キミに任せるよ」
「わかった。それじゃ、そっちは頼むね。……ごめん、サラ。わたしから誘っておいて」
申し訳なさそうにアリスが謝ると、サラは慌てて両手をぶんぶんと振った。
「とんでもないです! レティシアさんとエリィさんも一緒だし、サラは大丈夫ですから! ……あ、でも、サラにもあとで、紹介してもらえると」
「もちろん。サラはもう、わたしたちのパーティの一員なんだから、ね」
「……はい!」
ぱっと笑顔を咲かせ、嬉しそうに手を振るサラと軽く手を振りあって、アリスたちは二手に分かれた、レティシア、エリィ、サラは冒険者登録を済ませにカウンターへ、アリスは受付嬢の先導に従って、それぞれ歩き始める。
「ずいぶんと、信頼されていらっしゃるようですね」
不意に、受付嬢が話しかけてきた。こんな風に彼女の方から、しかも仕事に関係のないことを話してくるのは初めてだ。もっとも今は待ち人のいる場所へ案内されているだけなのだが、それでも今までの態度を見てきた限り、こうした世間話の類を好むようには見えなかった。
多少は気を許してくれているということなのだろうか──そんなことを思いながら、アリスは答える。
「そう見えますか?」
「ええ。メンバーの加入や脱退は、パーティにとってその内情を大きく変化させるものです。特に見ず知らずの人間を仲間に迎え入れるとなれば、誰しも自分の目で相手を見極めたいと思うもの。加入が決定する前なら、口を挟むこともできますから」
それをしないということは、少なくともエリィとレティシアはアリスを信頼し、その判断に任せられると思ってくれているということだ。事実、サラの加入に関してはほぼアリスの独断であったにも関わらず、説明こそ求めたものの二人とも最終的には受け入れてくれた。唯一エリィが最初に難色を示したのは、恐らくは女将と同じ理由だったのだろう。サラの心情と、そして女将とのやり取りを聞いてからは、その考えも改めたようだ。
アリスは嬉しそうに目を細める。
「二人とも、わたしにはもったいないくらいの仲間です。一緒にパーティを組んでからずっと、今でも教えてもらうことばかりで。だからせめて、それに応えられるようになりたいと思って……いや、なります」
「……妙な言い方をされるのですね」
「あはは……。前に、一応パーティのリーダーですって自己紹介したら、エリィにどやされたことがあって。アンタはあたしたちが選んだリーダーなんだから、胸を張って堂々と言いなさい! って」
「なるほど……」
先導して前を歩く受付嬢の表情は、相変わらずわからない。ただ、なんとなくアリスには、彼女がこの会話を楽しんでくれているような気がした。だって、たとえ黙って案内だけしたとしても、彼女の業務には関係がないのだから。
もしかしたら、自分が関わったパーティの一つとして気にかけてくれていたのかもしれない。それはそれで、嬉しいことだ。彼女はアリスのことを、パーティのリーダーとしてメンバーから信頼されていると言ってくれたが、アリスとてこの不愛想だが確かな仕事と細やかな気遣いをしてくれる受付嬢を、信頼しているのだから。
話をしながら着いたのは、待合所のようにテーブルや長椅子が設置された壁際のスペースだ。そこにも何人もの冒険者がたむろしているが、受付嬢は迷うことなくそのうちの一人に近づいた。
椅子の一つに座っているのは、まだ若い、少女とも言える女性だった。端正な顔立ちと切れ長で鋭い目つきは大人びて見えるが、年自体はアリスたちとそう変わらないだろう。黄昏のような穏やかさを感じさせる赤褐色の髪は後頭部で結い上げられていて、まるで馬の尻尾のように揺れていた。
すこし色褪せた平服に、革製の胸当てらしき防具をつけているほかは、装備らしきものは見当たらない。唯一目を引くのは、背負っている弓とぎっしりと矢が詰まった矢筒だけで、他には武器らしきものも持っていないようだった。
彼女はテーブルの上に置かれた木製の小さな球やコインを、なにやら真剣な表情をしながら指先で弄ぶようにいじっている。こちらに気づいている様子はなかった。
「お待たせいたしました」
受付嬢が声をかけると、赤褐色の彼女は飛び上がらんばかりに驚いて──実際、跳ねるように立ち上がった。端正な顔は一瞬で崩れ、眉根は下がり、年相応の少女の貌が露わになる。
「ご紹介します。アリスさん、こちらがあなたのパーティへ加入を希望されている、職業盗賊の──」
驚いて目を白黒させている少女に構うことなく、受付嬢はいつものように淡々と述べる。悪意がないのはわかりきっているが、果たして目の前の彼女にはどう映っていることか。
しかし、それこそ彼女は気にしないだろう。一歩分退いて、受付嬢は手振りとともに、紹介した。
「リネットさんです」
その説明で、ようやく目の前の見知らぬ冒険者が、自分が加入を希望したパーティの関係者であると気づいたようだ。リネットと呼ばれた盗賊の少女は、先ほどまでの大人びた顔つきはどこへやら──おどおどとした様子で、ぺこりと頭を下げた。