幕間 ─ 吸血鬼は恋をする 後編
物心ついた時から、少女は使用人たちとともに大きな屋敷で暮らしていた。屋敷は広大な森の奥深くにあるらしく、窓から見える景色は彼方まで続く木々だけだ。屋敷の周りから離れたことは、一度もなかった。定期的に訪れる家庭教師に勉強を教わり、良家の子女としてのマナーを学ぶ。それが、少女の持てる知識の全てだった。
少女の名は、セレス。その名前を贈ってくれた両親は、屋敷にはいない。使用人たちから聞いた話では、仕事の関係でとても遠い街で暮らしているそうだ。幼い頃は両親に会いたいと泣き、使用人たちを困らせたこともあったが、今はそんな風に思うこともなくなった。両親は定期的に、たくさんのプレゼントを屋敷に届けてくれる。それは玩具であったり、新しい服であったり、装飾品であったりしたが──セレスが読み書きを覚えると、両親は手紙を添えてくれるようになった。そこには一緒に住めないことに対する謝罪と、離れていても愛していると、綴られていた。
その手紙を読んだ日を最後に、セレスは泣かなくなった。
使用人たちは皆親切で、従順に仕えてくれる。けれど親しい、と呼べるような者は一人もいなかった。皆、どこかセレスを恐れるように接していたのだ。その傾向は、セレスが成長するに従ってより強くなっていった。
けれど、孤独を感じたことはない。
セレスの傍には、いつも"彼女"がいたから──
***
その夜、セレスは浅い微睡みの中にいた。眠りの淵と現実とを行き来するこの曖昧な感覚が、セレスは好きだった。もっとも、昼間にもそうしているうちに深い眠りへと落ちてしまうことの方が多い。そのせいだろうか、この日セレスは熟睡には至れないまま夜を過ごしていた。
夢現の中、セレスの身体をなにかが這い回る。それは冷たく、温かく、硬く、柔らかい。相反する矛盾の塊のような感覚を、しかしセレスは不快に思うことはない。微睡みの中にあろうとも、それが何であるか、知っているからだ。
「んぅ……」
身体中を撫で、弄ばれるようなその感覚に、小さな唇から艶やかな吐息が漏れる。
それは大切な、愛しい人。セレスは微睡みに身を任せたまま、ゆっくりと両腕を動かして、"彼女"を求めようとした──
その瞬間、なにかが壊れるようなけたたましい音がして、セレスは眠りの淵から無理矢理引き上げられた。同時に、身体中を満たしていた"彼女"の感触が消え失せる。
「な……なに……?」
ベッドの上で起き上がったセレスは、怯えたようにつぶやいた。真夜中の部屋は暗闇に満たされていて、窓枠にかけられたカーテンの隙間からわずかに月明かりが差し込んでいたが、室内を見通すには至らない。セレスは枕元の台に置かれたランプを手探りで探し当てると、火を灯した。
ぼんやりと、あたたかな光が部屋を満たしていく。それでも部屋中を照らし出すには足りなかったが、人工の光は怯える少女の心をすこしだけ落ち着かせてくれた。
部屋の外から、またなにかを壊すような音がする。次いで、誰かの叫び声がした。
屋敷に仕える使用人は多くいたが、住み込みで働いているものはほんの数名だ。いつもなら、そのうちの誰かが真っ先にこの部屋へ来てセレスの安否を確認するはずだった。しかし今、部屋を誰かが訪ねてくる様子はない。外から聞こえていた音もいつの間にかすっかり止んで、夜の屋敷は静寂を取り戻していた。
この屋敷の中で、なにかただならぬ事態が起こっている。しかしそれを自ら解明しに行くような勇気は、セレスにはなかった。
セレスはベッドの足元、ランプの光から逃げるようにこびりつく暗闇を覗き込む。今にも泣き出しそうなその顔を見かねたように、黒く塗りつぶされたような闇の中で、なにかが蠢いた。
透き通るほどの白い肌にボロ布のような粗末な衣服をまとい、背に流された長く美しい銀髪。およそ色というものが欠落しているような様相の中、唯一、そして鮮烈に色づいた紅い両の瞳。"彼女"は忽然とセレスの目前に現れ、見下ろしていた。セレスよりも少しだけ大人びていて、しかし未成熟な女の形をしたそれは、火の灯ったランプの傍にいるにも関わらずその身体が照らされることはなく、足元にはいまだこびりつくような闇がわだかまっている。
セレスが縋りつくように両手を伸ばし、その華奢な身体に腕を回すと、"彼女"はゆっくりとベッドに上がって、ぎこちない動きで抱擁に応じた。抱きしめた白い肌は石のように冷たく、押しあてた胸にはなんの鼓動も伝わってこない。けれど構わず、セレスは"彼女"を強く抱きしめる。
「怖いよ、キルシュ……」
震える声で、セレスは"彼女"の名を呼んだ。
物心つくよりも前、もしかしたら産まれた時からずっと、"彼女"はセレスの傍に居た。セレスも、それが当たり前のことだと思っていた。"彼女"は喋らない。自らの意思表示をしない。ただ、傍に在るだけだ。けれどセレスはいつも傍に居てくれる"彼女"を信頼し、そして心の底から愛していた。それは一度も会ったことのない両親や、どこか恐れるように接してくる使用人たちという環境のせいもあったのかもしれない。セレスにとって、いついかなる時でも傍に居てくれる"彼女"の存在は、かけがえのないものだった。
たとえ"彼女"が、自分と同じヒトではなかったとしても、それは変わらない。"彼女"は食事も睡眠も、必要としない。水の一滴すら、口にしているところを見たことがなかった。それでも"彼女"は痩せたり衰えたりすることもなく、セレスと同じように成長していく。そう、"彼女"のそれはまさに成長としか言い表せない。"彼女"の容姿はいつも、セレスと同じかすこし上くらいの年齢に見える。食事をまったくとっていないにも関わらず、その異様に白い肌を除けば至って健康に成長しているように見えるのだ。
それはまるで姉妹のように、"彼女"はセレスと共に在り、セレスのすべては"彼女"と共に育まれた。
不思議なことに、使用人たちは"彼女"の存在を認知していなかった。だからこそ、彼らはセレスを恐れたのかもしれない。自らが認識できない"なにか"と親しげに接している少女を。実際のところ、ただの狂人だと思われていたのかもしれないが。
けれど、それでもよかった。セレスにとって、"彼女"が傍に居てくれさえすればそれでよかった。
キルシュ──その名前も、幼い頃にセレスが勝手につけたものだ。なにも喋らず、話しかけても反応を示すことすら稀な"彼女"から、名前を聞き出すことなどできなかった。あるいは名前など、最初からなかったのかもしれない。幼いセレスは考えた。名前がないなんてあんまりだ、と。そして、当時は読むのも難しかった本のページをいくつもめくり、そこから一つの名前を選び取った。
それが、キルシュだ。"彼女"は相変わらずその名前にも反応を示さなかったが、嫌がるような素振りも見せなかった。それからずっと、セレスは"彼女"をキルシュと呼んでいる。それは両親からセレスという名をつけられたのと同じ、自分から"彼女"への、最初の贈り物だった。
ゆっくり、ゆっくりと、キルシュの腕が背に回される。薄布越しにもはっきりわかる肌の冷たさは、しかしセレスを安心させるものだった。話しかけても、キルシュはなにも答えない。けれどこうして抱きしめれば、ぎこちなくも抱擁を返してくれる。暗闇に潜んでいる時も、呼びかければすぐに姿を現してくれる。そして──"食事"の時は、時々甘えるように口づけをねだってくれる。
キルシュが示す数少ない反応が、セレスにはたまらなく嬉しくて、愛おしかった。触れ合ううちに少しずつ、体温を思い出したように温かさを返してくれるキルシュの抱擁に、不安と恐怖に怯えていたセレスの心が解れていく。
このまま待っていれば、きっと使用人の誰かが来てくれる。それは楽観的ではあるが、年端もいかぬ少女が選択できる唯一の選択肢だった。
やがて、部屋の外から足音が近づいてくる。相変わらず縋りつくようにキルシュを抱きしめたまま、セレスはベッドの上でその足音を聞いていた。
足音は部屋の前で止まり、ゆっくりとドアが開かれる。部屋へ入ってきたのは──使用人、ではなかった。
「おっと……ようやくアタリだな」
そう言って小さく笑ったのは、見知らぬ男だった。ランプの頼りない光に照らされた顔はだらしなく緩み、下卑た笑みのように見える。目の周りはまるで亡者のように落ち窪み、痩せこけて薄汚れたその顔を見ているだけでセレスは嫌悪感を感じずにはいられなかった。
男はずかずかと部屋へ入り込むと、台の上に置いてあるランプを断りもなく手に取り、セレスたちの上へ掲げた。照らし出された二人の少女の肢体を見て、男はにたり、といやらしい笑みを浮かべる。
同時に、入り口周辺では薄暗くて見えなかった男の容貌が露わになった。ほつれて破け、汚れ放題の服の上から動物のなめし皮を何枚も重ねて作られた革鎧を着ている。顔と同じように痩せこけた貧相な体つきは、立派な防具だけがかえって違和感を感じさせた。
そして、腰には武器らしき鞘がぶら下げられている。セレスがキルシュに"食事"を与える時に使う、玩具のような小刀とは違う──本物の、武器だ。
「おい、見つかったのか?」
開けっ放しのドアから、違う声が聞こえた。続けて入ってきたのは、やはり同じように武装した大人の男だった。先に入って来た痩せ男とは対照的に、がっしりした体型のその男は、セレスたちを見て厳つい顔をわずかに歪めた。
「ああ、間違いねえ。ほら、茶色の髪に金色の目の子供。聞いてた通りだ」
「……そのようだ。では、もう一人が──」
男たちはセレスから、やはりここに至るまでなんの反応も示さないキルシュへと視線を向けた。彼らにはキルシュが見えているようだ。しかし、そのことに驚いている余裕は今のセレスにはなかった。男たちはひとしきり観察するようにキルシュを見ていたが、彼女がなんの反応も示さず、こちらを見ようともしないことに拍子抜けしたように視線を交わす。
「ホントにコイツが悪魔かよ? ただのガキじゃねぇか」
「知るか。コレが本物だろうと偽物だろうと、俺達には関係ない。依頼主の意向通りにするだけだ」
「へいへい……」
相棒の真面目腐った発言に辟易して、痩せ男はめんどくさそうにため息を吐いた。
悪魔? 依頼? 彼らは一体何の話をしているのだろう。使用人の人たちは、どうして誰も来てくれないのだろう。セレスの不安は増すばかりだったが、今の彼女にできるのは、キルシュを抱きしめて少しでも心を落ち着けることくらいだ。
ひゅう、と小さく、風が吹き抜けるような音がした。それは肌に感じるほど近くで聞こえた気がしたが、セレスがそれを気にする間もなく、厳つい顔の男が近づいてくる。
「ひっ……」
セレスは怯え、反射的に声を漏らした。男の動きがぴたりと止まる。厳つい顔を気まずそうにしかめながら、男はセレスへ声をかけた。
「驚かせてすまない、お嬢さん。俺達はある人物から依頼を……あー、つまり、とある人から君達を連れてくるように頼まれたんだ。わかるか?」
男は顔に似合わずゆっくりと、子供を諭すように話しかけてきた。震えながらもセレスがうなづくと、ほっとしたように表情を緩める。
「一緒についてきてくれれば、乱暴な真似はしないと約束しよう。どうだ?」
「……」
怯えを隠そうともせずに自分を見上げてくる娘に、男は困ったようにため息を吐いた。そんなやり取りに業を煮やしたのか、痩せ男が口を挟んでくる。
「おいおい、ガキ相手になに慎重になってんだよ。こんなもん、ふん縛って連れてきゃいいじゃねえか。いや、待てよ……」
痩せ男はなにか思いついたように言葉を止めると、セレスの肢体にねっとりとした視線を這わせた。
今、セレスが身にまとっているのは肌が透けて見えそうなほど薄い生地のネグリジェだ。キルシュと触れることの多いセレスは、その存在を少しでも近く感じるために、こうした薄い布地の衣服を好んで着用していた。使用人が部屋を訪ねることもない、誰に気兼ねすることもなくキルシュと触れ合える夜ともなれば、尚のこと。
薄く、しかし上品な質感の布地から薄っすらと透けてみえる下着のライン。腰から臀部にかけての曲線は女性らしい丸みを帯びていて、短いワンピースの裾から伸びた足は、ランプの光に照らされてその白く瑞々《みずみず》しい素肌を露わにしている。今は抱きしめたキルシュに押し付けられている胸も、発展途上にありながらその存在感を十分に感じるほどに押しつぶされ、薄い布地を押し上げていた。
およそ少女とは思えぬ色香をまとうセレスに、痩せ男がごくり、と生唾を飲む。にやにやと下卑た笑みを浮かべ、落ち窪んだ眼をぎょろぎょろとしきりに動かし、セレスの肢体を見ながら隣の男へ話しかけた。
「なあ、確か依頼は生かして連れてこいってハナシだったよな」
「ああ、そうだが……お前、まさか」
痩せ男の思惑に気づいたのか、厳つい顔の男は驚いたように顔を向ける。
ヒヒッ、と痩せ男が奇怪な笑い声を上げた。
「どうせあのハゲ親父ンとこに連れてったって、なにをされるかなんて目に見えてんじゃねえか。だったらよぉ、すこしくらい味見してもバチはあたらねえだろ?」
厳つい顔の男は一瞬憤怒の表情を浮かべたが、すぐに不快感を露わにすると、背を向けた。
「勝手にしろ、俺は廊下にいる。終わったら連れてこい。ただし、殺すなよ」
「なんだよ、お前はヤらねえのか?」
「てめえと一緒にするんじゃねえ、屑が」
心底軽蔑したように吐き捨てると、男は最後に振り返る。これから自分がどんな目に遭うのか、まるで理解していない少女に憐れむような視線を送ると、男は部屋を出ていった。
「ケッ……こんな薄汚れた仕事してる時点で、テメエも似たようなモンだろうが」
痩せ男は相棒が出ていったドアを睨みつけると、気を取り直したようにセレスへ向き直った。ニタニタと気色の悪い笑みを浮かべながらにじり寄る男に本能的な恐怖を覚えて、セレスはベッドの上で後ずさろうとする。しかし、こんな状況であってもキルシュは微動だにすらしない。
「い、嫌……! こ、こないで、ください……っ」
キルシュを手放すことなどできるはずもなく、セレスは精一杯の声を絞り出して男を拒絶した。しかしそれすら、男の獣欲を煽るだけだった。
「へへっ、いいねえ。こういう時は、多少嫌がってくれた方が盛り上がるってモンだ。なに、心配すんなって。すぐ気持ちよくして──」
勝手なことを言いながら、痩せ男はセレスへ手を伸ばす。その薄汚れた手が、少女の肌に触れようとして──
ぱん、となにかが弾けるような音がした。
「……あ?」
男が間抜けな声を漏らす。なにが起こったのか、男も、セレスも、理解していなかった。気が付けば、セレスの背に回されていたはずのキルシュの片腕が、男の方へ向けられている。丁度、伸ばされた手を払ったような恰好だ。しかし、先ほどの音は手をはたいたような音ではなかった。それに、はたかれたはずの男の手は──
手首から先が、無くなっていた。
「……あ、ああ……? ああああああああッ!?」
ようやく自らの手を失ったことを理解した痩せ男が、絶叫する。寸断された手首から、思い出したようにどす黒い血が噴き出した。
「て、てッ、テメエ──ッ!?」
男の手首からは血が止めどなく溢れ、床を黒く染めていく。ランプの光に照らされたそれは、まるで闇が広がっていくようだった。突然自らの片手が失われたことに動転しながらも、男は残されたもう片方の手で武器を抜こうとして──叶わなかった。
キルシュの手が、もう一度振られたのだ。今度は反対側の、元の位置──セレスを抱いていた時に、戻すように。しかし今度は、男に触れられるような距離ではない。その白い手は空を切ったが──やはり同じようにぱん、と弾けるような音がして、男の上半身が丸ごと消え失せた。一瞬遅れて、ばちゃり、と粘性のある液体をぶちまけたような音がする。さっきまで男の上半身だったものがどす黒い液体となって、叩きつけられるように床を汚していた。
ばん、とドアが乱暴に開かれる。
「おい、どうした──!?」
痩せ男の絶叫を聞き、血相を変えて部屋へ戻ったもう一人の男は、その惨状を見て息を呑んだ。
壁と床に飛び散った、大量の血液。さっきまでニタニタといやらしい笑みを浮かべていた痩せ男の顔はどこにもなく、腰のあたりで綺麗に寸断された下半身が呆然と立ち尽くしていた。それもやがて力を失い、ゆっくりと自身が作った血だまりの中に倒れ込む。
ばしゃ、と水音がして、残された男は我に返った。気が付けば、最初から最後まで少女にただ抱きしめられていただけの"悪魔"は、上半身だけを振り返り、その真っ赤な両の目でこちらを見ている。ぞくり、と背すじを冷たいものが走った。この男は、こいつに殺されたのだ。この、少女の形をした"悪魔"に──!
「貴様ァッ!」
男は衝動的に叫ぶと、腰に佩いた剣の柄に手をかけた。
自分が部屋を出てから屑と罵った男の絶叫を耳にするまで、ほんの十数秒だ。そんな短い間に、いったいどうやったらこんなことができる? 人間の上半身を綺麗に両断し、跡形もなく消し去って──いや、血の塊に変えてしまうほどの威力をもったなにかで、ヤツの身体の半分は床にぶちまけられたのだ。
わからない。なんなんだ、こいつは。長い傭兵生活で様々な仕事を請け負ってきたが、こんな状況は、こんな化け物は、見たことも聞いたこともない。
依頼主からの依頼は、生きて連れ帰ることだった。だが、もはやそんなことは言っていられない。こちらが殺されては、連れ帰ることすらできないではないか──!
「がッ……!?」
剣の柄にかけた手に激痛が走る。男は構わず剣を抜き放とうとしたが──できなかった。手元に視線を落とすと、黒い──どこまでも黒い、闇としか形容できないものが、手に突き刺さっていた。その根元は地面へと続き、ベッドの足元にわだかまる暗闇から伸びている。
「な、なん──ぐおッ!?」
なんだ、これは。たったそれだけの疑問を口にする暇もなく、今度は両足に激痛が走った。足元を見ると、やはり影がまるで鋭利な棘のように両足を貫き、地面へ縫い付けている。いつの間にか、男の足元にはその体格の数倍はある影が出来ていた。いや、影というよりまるで液状化した暗闇がまとわりついているかのようだ。だって、ランプはすぐ傍にあるというのに、この黒い闇はまったく影響を受けることなく広がっているのだから。
"悪魔"が、すうっと、手を上げる。呼応するように、足を貫いた黒い先端がするすると男の体を這い上ってくる。足元に広がる闇からも、まるで触手のように黒い先端が立ち上り、男を取り囲んだ。
「ひッ、ひぃっ……!」
足を地面に縫い付けられ、手も縛られ、身動き一つままならない男に、無数の闇が迫る。恐怖に耐えかねた男は、情けない悲鳴を漏らし──最後に、あの"悪魔"が傍らの娘を抱きしめるように、その目と耳を塞ぐのを見て。
全身を、貫かれた。
「がッ──! ぐ、ぎぃッ──!」
声にならない悲鳴が上がる。あまりの激痛に声も上げられない──わけではなかった。声が、出せないのだ。まるで喉になにかを押し込まれたように、男の口からはくぐもった悲鳴が漏れ出るだけだった。全身を貫いた無数の闇が皮膚の下を通り、体内を破壊しながら、上へ上へと昇っていく。その一つ一つが耐え難い苦痛をもたらしたが、もはや男にはどうすることもできなかった。やがてそれは首筋を這い、頬を伝い──脳に、達した。
「あギッ! ガ、あががッ……!」
びくん、と男の巨躯が跳ね、口からは人のものとは思えぬ異様な声が出た。全身をびくびくと痙攣させながら、男の体は宙へと持ち上げられる。これだけ体中を刺し貫かれているというのに、男からは一滴たりとも血が滴っていない。
『話せ』
男の頭の中に、音が響き渡った。そう、声ではなく、音だ。言葉として意味を成しているにも関わらず、それは音としか形容できないものだった。
「お、おレたちは、依頼をう、うケた傭兵、だ……」
意思とは無関係に、男は話し始めた。独りでに口が、舌が動き、喉を震わせ、吐き出す息が言葉になって出てくる。
「依頼の、なイようは……こ、こノ屋敷に住む……悪魔憑きの、娘を……つレて、こい、と……。場所、は──」
男はとある街の名前と、人名を口にした。自分たちはその人物の依頼を受けて、この屋敷を襲ったのだ、と。
傭兵ならば、本来は依頼者の名前や依頼内容を理由もなく他言するのはご法度だった。それが今回のような内容であれば、尚のこと。しかし今や、男は自らの口を閉ざすことすらできない。
だが、所詮は雇われの傭兵だ。依頼者がなぜこの少女を必要としたのか、理由までは聞かされていないし知ろうともしなかった。依頼主が金さえ払えば、それでいい──込み入った事情など、聞いても厄介ごとの種になるだけだ。だが今回に限っては、そもそもこの依頼を受けたこと自体が間違っていた。悪魔憑きなどという存在するかどうかすら不確かなものを、侮っていた。
結局、男が知っていることはそれだけだった。それは自分の意思に関係なく喋らされたのだが、仮に自由の身であったとしても、同じことをしていただろう。自分の命を、乞うために。傭兵としての矜持など、この化け物の前では保つことすらできなかった。
だが──知っていることすべて洗いざらい話した男をこの"悪魔"がどうするかなど、考えずともわかるはずだ。人間の体を跡形もなく潰したり、こうして捕らえた人間をその意思に関係なく喋らせたり──そんな化け物が、用済みとなった男をわざわざ解放するだろうか。
男の体はぐん、と引っ張られるように、あるいは突き飛ばされるように、開け放たれたままのドアの方へ飛ばされる。その先には廊下があり、運がよければ窓を突き破って屋敷の外へ放り出されるかもしれない。男の体は間違いなく重傷を負っていたが、それでも命だけは助かるかもしれない。
一筋の光明を見出した男の体が、部屋の入り口へと迫り──そこで、男の意識は途切れた。ばしゃっ、となにかをぶちまける音がする。部屋の入り口をくぐった瞬間、男の体は血液の塊となって廊下の壁に叩きつけられたのだ。男を拘束していた真っ黒な触手が、しゅるしゅると根元──ベッドの下にわだかまる暗闇へ戻っていく。
ようやく、屋敷は夜の静寂を取り戻した。
***
キルシュに目と耳を塞ぐように抱きしめられてから、不思議なことになんの音も聞こえなくなった。男たちの声も、窓越しに聞こえていた夜の森で鳴く虫や鳥の声も。ただ手でふさいだだけで聴覚が完全に遮断されるはずはないが、セレスはそれを不審に思うことはなかった。むしろ愛しい人が自ら抱きしめてくれることに、安堵すら感じていた。この異様な状況で自らの身に危機が迫る中、縋りつくように彼女に身を委ねたのは、仕方のないことだ。セレス自身は、所詮年端もいかぬただの娘なのだから。
セレスが見たのは、キルシュが痩せ男の上半身を吹き飛ばし、もう一人の男を縛り上げたところまでだ。彼女は、人を殺めてしまった。それはとても罪深いことだと、セレスは理解している。けれど、咎める気はなかった。キルシュは、自分を守ってくれたのだ。あの男の伸ばしてきた手を振り払い、武器を抜こうとしたその体を吹き飛ばして。もしもそれが罪だというのなら、罰を受けるべきは自分だとまで思っていた。それほどまでに、キルシュが自分を守ってくれたことがセレスにとっては嬉しく、そしてこの窮地においては唯一の救いだった。本来ならそのような現場を目撃すれば、人外の存在に対して抱くはずの恐怖や畏怖すら感じなかったし、そんな自分を異常だと思うには彼女はまだすこし幼く、そしてセレスにとってキルシュの存在があまりにも大きすぎたのだ。
やがて、キルシュの腕が解かれる。名残惜しさを感じながらセレスが顔を上げると、途端に周囲の音が聞こえてきた。といっても、聞こえるのは屋敷の外、森の中で鳴く虫や鳥の声と風の音くらいのものだ。先ほどまでいた男たちは──声どころか、姿すら見えなかった。代わりに大量の血痕──いや、もはや血だまりと言った方が正しいほどのおびただしい血液が、床にぶちまけられている。それが放つ生臭い異臭に吐き気を催し、セレスは手で口元を覆った。なんとか堪えると、震えながら部屋を見渡す。やはり、大量の血を除けば男たちの痕跡はない。身に着けていた装備の欠片すら、残されていなかった。
あの男たちはどこへ消えたのか。いまだ誰一人姿を現さない使用人たちはどうしているのか。部屋を出て、調べるべきかもしれない。けれどその夜起こったことは、今まで暴力や恐怖とは無縁の、穏やかで平穏な暮らししか知らないセレスにとって、あまりにもショックが大きすぎた。部屋中にただよう生臭い臭いに必死に耐えながら、しかしその場から離れることすらできず、ただ呆然とベッドの上でへたり込むことしかできない。
セレスの瞳から、涙が溢れてくる。どうして、こんなことになったのか。自分はただ、キルシュと静かに暮らしていただけなのに──。その悲嘆は、突然訪れた理不尽に対する、精一杯の抵抗だった。
不意に、ひゅう、と風が吹くような音が聞こえた。あの男が手を伸ばしてくる直前に、聞いた音だ。どこから聞こえたのかは、すぐにわかる。セレスはこぼれ落ちる涙も拭わずに顔を上げると、キルシュの真っ赤な瞳が見つめ返してきた。その口は小さく開き、鋭い牙が覗いている。開いた口の奥から、ひゅう、と、また音がする。それは、キルシュの喉から出ていた音だった。
ただの呼吸音、ではない。そもそも、キルシュが呼吸を必要としているかどうかさえ怪しかった。しかしキルシュは何度も繰り返し、息を吐く。まるで、なにかを成そうと繰り返し挑戦するように。
「──」
やがて、ただの吐息に、音が混じった。
「──セ──、レス──」
「え……?」
それはまるで、風の音がたまたま意味を持つ言葉に聞こえたような、そんな音だった。喉を震わせ、吐き出す息に無理矢理音を乗せるような、不自然なものだった。
しかし──
「セレ──ス──。セレス──」
何度も、何度も繰り返し、キルシュはセレスの名を呼んだ。キルシュが喋っているところなど、見たことがなかった。そもそも、"食事"の時以外に口を開いているところすら見たことがない。
だからセレスはこの時、初めて──この吐息に乗せた音のようなキルシュの声を、初めて聞いた。それも、まるで怯える自分を励ますように、懸命に、その名を何度も呼んでくれている。
「キル、シュ……っ」
こんな状況だというのに、たったそれだけのことが嬉しくて、セレスの瞳からまた涙がこぼれ落ちる。キルシュはぎこちなく手を動かすと、その細く白い指で、涙を拭った。
「──私、は──貴女を──護る──」
いつもどこか茫洋とした眼差しで、自らの意思で動くことすら稀で。どんな時でも、ただ傍に在るだけだったキルシュ。それでも、セレスにとっては十分だった。キルシュの存在は、それだけでセレスから孤独という感情を忘れさせてくれた。
「だから──怖がる、必要──は──ない──」
それなのに今は、鮮血のような紅い瞳が、セレスをとらえて離さない。透き通るほど白い肌と、すこしだけ色づいた唇から紡がれるぎこちない言葉。その一つ一つが、今までずっと伝えられなかったキルシュの想いを、語っていた。
「貴女を──傷、つける──すべて、から──。私は、貴女を──護る──」
「……うん。うん……!」
金色の瞳から止め処なく涙を溢れさせながら、セレスはキルシュの華奢な身体を抱きしめた。
***
どれくらいそうしていただろう。涙が止まり、ようやく落ち着いたセレスが顔を上げると、キルシュは変わらずじっと紅い視線を返してくる。残念ながら、その口はもう閉ざされ、いつもと変わりない様子だ。それでも、彼女が変わらず傍に在るという事実は、この異常事態でセレスに勇気を与えてくれる。
行動しなければ。せめて、屋敷にいるはずの使用人たちの安否だけでも確かめないといけない。そして──可能ならば、誰がなんの目的で先ほどの男たちを送り込んだのか、突き止めなければ。
「……キルシュ。使用人の人たちがどうしてるのか、確かめたいの。ついてきて、くれる……?」
今までは何も言わずとも、キルシュはセレスの傍をひと時も離れたことはなかった。いつ、どこへ行っても、必ず傍についていてくれた。だから、こんな風に問いかけるのは初めてだ。きっと何も言わずにセレスが部屋を出たとしても、いつも通りについてきてくれたことだろう。けれど、こうして意思を通わせることができた今、彼女の意思を確認しておきたかった。
もし断られたらどうしよう──そんな心配もないわけではなかったが、セレスはやはり、キルシュを信頼していた。
だが、彼女はまったく別の答えを口にする。
「──死んで、いる──」
「……え?」
一瞬意味がわからず、聞き返したセレスに、再度キルシュが口を開く。
「皆、死んで──いる。先ほどの、者どもに──殺されている。生きている、のは──セレス。貴女、だけ」
「……そんな」
薄々わかっていた。これだけの騒ぎが起こっているのに、誰一人として部屋へ来ないこと。最初に聞こえた、なにかを壊す音。そして、誰かの叫び声。あの時、あの男たちは屋敷にいる人を殺して回っていたのだ。あの厳つい男は、誰かに自分たちを連れてくるように頼まれたと言っていたが、その実態は拐かしと変わらない。しかもここへたどり着く前に殺しているということは、目撃者や関係者を生かしておく気など、最初からなかったというわけだ。
それでも、もしかしたら屋敷の外へ逃げおおせているかもしれない。どこかへ隠れて、息をひそめて助けを待っているかもしれない。だが、そんな希望をキルシュは否定した。彼女がどうやって彼らの生死を知ったのかはわからなかったが、セレスがキルシュの言うことを疑うことなど、できるはずがない。
それに──
「じゃあ……私の、せいで、みんな……」
あの男たちは、"悪魔憑きの少女"を捕らえるために、屋敷に住む者を皆殺しにした。あるいは、そう依頼主に命じられていたのかもしれない。けれど、自分の存在が彼らを殺してしまったのは、間違いなく事実だった。年端もいかぬ少女が背負うにはあまりにも重すぎる、事実だった。
遠巻きに、どこか恐れるように接されていたのは本当だ。けれど彼らは従順に、親切に仕えてくれた。それがたまたまこの屋敷で働いていたというだけで、ここに自分がいたというだけで、殺されてしまった。理不尽に、容赦なく。
「──殺した、のは──あの者ども、だ──」
ぎこちない手つきで、震えるセレスの栗色の髪を撫でながら、キルシュが言う。それはきっと、彼女なりの精一杯の慰めだったのだろう。
このまま自分がここにいたら、またあの男たちのような者たちが襲ってくるかもしれない。そしてまた、誰かが殺されるかもしれない。自分の命は、きっとキルシュが守ってくれるだろう。けれど、他の人は──
「私……」
もう、ここにはいられない。けれど、どこへ行けばいいのだろう。どこへ逃げれば、いいのだろう。生まれてこの方屋敷から離れたこともなく、近くに村や町があるのかどうかすらわからない。そもそも屋敷の周囲を囲う、この深い森を無事に抜けられるかどうかすらわからなかった。
「どうしたら、いいのかな……」
途方に暮れて、セレスはつぶやく。キルシュは沈黙したままだ。自らの人生を、その生き方を決めるには、セレスはまだ幼く、そしてあまりにも唐突すぎたのだ。
生き方──ふと、セレスの頭の中でなにかが引っかかった。
その目が、いまだ床を汚している大量の血だまりに向けられる。
「キルシュは、この血……飲まない、の……?」
恐る恐る、セレスは訊いた。
吸血鬼とは、人の生き血を啜る怪物。物語では生娘の血を好んだり、はたまた見境なく人を襲ったりとその描かれ方は様々だが、彼女の場合はどうなのだろう。大量の血液──床にぶちまけられてはいるものの、彼女にとっては食料であり、恐らくは力の源となり得るもののはずなのに。
キルシュは、ゆっくりと話し始めた。
「血、とは──魂の──雫。命の、奔流──。存在の──残滓──。それを、取り込む──という、ことは──。その存在を、魂を──受け入れること──」
「故に──私は。貴女の、血を──欲し。貴女の、存在を──。この、身体に──感じる、ことに──恍惚を、覚える」
「──私は──貴女の──魂、に。──存在、に──惹かれて、いる」
ひゅうひゅうと喉が鳴り、吐息に乗せて言葉が紡がれる。途切れ途切れのその言葉は、しかし確かに彼女の想いで──
「故に──私は。貴女以外、の。なにをも──欲さず。貴女、だけを──欲する。セレス──貴女の、存在を。魂、を。貴女だけ、を──感じて、いたい──から」
吸血鬼の生き方としては、恐らくは間違っているのだろう。あるいは、特異なものなのだろう。けれど、キルシュは自らをそう在るものとして定め、ずっと寄り添ってくれた。自分の生き方を、彼女は自分で決めたのだ。
では、自分は──? そんなこと、決まっている。
「……私も。私もだよ、キルシュ。あなた以外に、なにもいらない。あなたが傍に居てくれれば、それでいい。離れたくない。ずっと、ずっと、一緒に居たい──」
そうだ。それが自分の、セレスの生き方だ。吸血鬼という怪物を愛し、その傍に寄り添うこと。それは人間としては、きっと間違っているのだろう。しかし、セレスは自らをそう在るものだと決めたのだ。それは今まで、殊更言葉にしなくても、なにか行動を起こさなくても、得られるものだと思っていた。この平穏な暮らしが、彼女とともに過ごす時間が、ずっと続いていくものなのだと。
けれど、それは間違いだった。あの男たち──その背後にいる存在は、自分たちが静かに暮らすことを許してはくれなかった。だったら──誰かがそれを邪魔するのなら。二人がともに在ることを、間違っていると云うのなら。
抗ってやろう。きっと自分にできることなんて、たかが知れている。自分はただ、キルシュに守られるだけの娘だ。それでも、彼女とともに在りたいという願いだけは本物なのだから。
「キルシュ……」
彼女の腕に抱かれたまま、セレスは紅い両の目を見つめる。
「愛してる。愛してるよ、キルシュ。探しに行こう。二人で一緒に、静かに暮らせる場所を。誰にも邪魔されないで、ずっと一緒に、居られる場所を」
金色の瞳はいまだ涙に濡れていて、それでも決意に満ちていた。吸血鬼の紅い双眸は、そんな彼女を眩しげに見るように、すこしだけ細められる。それはまるで、微笑んでいるようだった。
「貴女が、望むなら──」
キルシュは答える。それが、当然のことだと言わんばかりに。
セレスは、キルシュに口づけを贈った。いつもと同じ、冷たくて、柔らかさを感じるだけの、ただの口づけだ。けれどそれは、今までずっと秘めていた想いを通わせ、ようやく結ばれた二人が交わす、口づけだ。
それはこれから歩む旅路への決意であり、二人の間で交わされた、生涯をともにする契りだった。