冒険者の日常
迷宮の壁に、足音が反響する。ぼんやりと光る壁の光源だけを頼りに薄暗い通路を歩くのは、徒党を組んだ三人の若者たちだ。先頭を行くのは古ぼけた板金鎧を着て、腰には長剣を帯びた戦士風の青年。彼に続いて、安価な布のローブをまとった術師が二人、後ろを歩いている。一人は駆け出しの魔術師がよく用いる木の長杖を、もう一人は僧侶が用いるメイスを腰から下げていた。
「本当に、大丈夫なのかな……」
僧侶風の恰好をしているのは、少女だった。不安そうにそう漏らした彼女に、戦士の青年は足を止めることなく振り返る。
「お前は昔から心配性だなぁ。大丈夫だって。地下一階じゃゴブリンやコボルトみたいな雑魚しか出ないって聞くし、村を襲ってきた時は、オレが何度も追い払っただろ?」
「それは、そうだけど……」
「こいつは準備のことを言ってるんじゃないのか、兄さん?」
魔術師風の青年に冷静に言われて、戦士はうっと言葉を詰まらせる。どうやらこの三人は兄弟のようだ。
「し、仕方ないだろ! まさか登録料があんなに高いなんて知らなかったんだから……」
「僕たち全員の所持金を合わせても、一人分にしかならなかったもんな。おかげで一人ずつ、順繰りに支度金を渡して登録はできたけど」
魔術師の弟が肩をすくめながら言う。つまり彼らは、最初に一人だけが登録を済ませ、その後受け取った支度金を二人目に渡して登録料に充て──それを三人分繰り返したわけだ。対応した受付嬢には咎められることこそなかったものの、本来なら三人で1500gpの支度金が900gpになってしまった。もちろん登録料を差し引いた、本来の意味での支度金の金額は変わらないから、これは単純に彼らの準備不足とも言えるが──
「まあ、その支度金のおかげでお前たちの装備は一応整えることはできたんだし、いいじゃないか」
「安物のローブに、なんの装飾もない杖とメイスだけど。背嚢やらキャンプ用品やらが意外と高くついたしなぁ……」
気楽そうに言う兄をたしなめるように、弟が皮肉を言った。その言葉通り、彼らの持ち物はどれも買ったばかりの新品だ。
「でも、兄さんの装備は買えなかったわ。傷薬とか、水薬も……」
「オレには祖父さんが遺してくれた剣と鎧があるからな。村にいた頃が使ってるんだ、下手に新しいものを買うより、使い慣れてる方がいいに決まってるって!」
そう言って、戦士は誇らしげに胸を張る。彼らの祖父は、故郷では名の知れた冒険者だった──らしい。その子供──つまり彼らの両親は冒険者にこそならなかったが、祖父の遺した装備品だけは売り払ったりせず、大切に倉庫にしまっていたのだ。
長兄の戦士が着ている鎧と腰に帯びた長剣こそ、祖父が遺したという装備品だった。彼は昔からそれらを持ち出し、たまに故郷の村へ迷い込んでくる魔物を追い払っていたのだ。
「それに、ケガをしたらお前が治してくれるだろ?」
「う、うん……。でも、なるべく無茶はしないでね」
「いざとなれば、僕の魔術だってあるんだ。心配しなくても大丈夫だよ」
どうにも引っ込み思案な末の妹を励ますように、魔術師の次兄がいくらか優しく言った。
「そうそう。なんてったって、こいつは村一番の秀才だからな!」
おどけるように言う兄に弟は一瞬顔を歪めたが、すぐにふう、とため息を吐いて冷静な表情を取り繕った。
「そういうこと。突っ込むしか能のない猪兄貴よりも、よっぽど頼りになるだろ」
「なんだと!?」
「ちょっと、こんなところでケンカしないで……あ、ほら、扉が見えてきたよ」
弟の皮肉に食って掛かろうとした兄を止めるように、妹が通路の先を指差した。
ちょうど曲がり角のそこには、壁の一面を切り取って、代わりに埋め込まれたような木製の扉がある。通路はまだ先へと続いていたが、先頭を行く戦士は扉の前で足を止めた。
「よし、記念すべきオレたちの初陣だ。いくぞ!」
戦士は扉の持ち手に手をかけ、ひと息に押し開けた──
***
太陽が頭の真上に上る頃、酒場の騒がしさはピークに達しようとしていた。注文を叫ぶ客と、テーブルの隙間を縫うように走り回る給仕たち。中には昼間から酒を飲んでいるものもいて、店の中は喧噪で満たされていた。
すっかり行きつけとなった酒場のテーブルの一つで、アリスたちは周りの騒がしさに辟易するように顔を寄せていた。そうしないと、声が聞き取れないのだ。
本来なら宿で一度集合し、昨日の戦果を分配するはずだったのだが──レティシアが昼近くになるまで起きてこず、仕方なしにすこし早めの昼食も兼ねてと、場所を酒場へ移したのだ。テーブルの上には空になった食器が広げられているが、こんなことなら先に分配を済ませるべきだったかもしれない。
「それで、結局いくらになったの?」
顔を寄せ、なんとか聞き取れる程度の声量で、エリィが訊ねた。いくら店内が騒がしいからといっても、誰が聞いているかわからないのだ。用心するに越したことはない──特に、自分たちのような駆け出しのうちは。
「懸賞金とゴミ拾いが合わせて951。それからタック商店で売った分が328だったよ。えっと……」
同じく顔を寄せ、金額を思い出しながら、その数字だけをアリスは答えた。これも用心のうちだ。しかしそこから先を答えられず、助けを求めるようにレティシアを見る。朝寝坊の魔術師はいまだに眠たげな目をしていたが、頭の方はしっかり回転しているらしく、リーダーの求めにすぐに応じてくれた。
「全部で1279。一人400と、あまりが79だね」
「400かぁ。アリスの装備も良くなったし、上々じゃない?」
戦果を聞いたエリィが、機嫌よく言った。自分たちの力量を考えれば、一度の探索で得られた分け前としては上出来だろう。
今アリスが着ている鎧は、初陣の前にタック商店で購入した革鎧ではない。昨日の鑑定で得た、金属製の胸当てだ。革鎧と比べれば多少重くはなったものの、その防御力は比べるまでもない。いずれは買い換えるつもりだったものがいち早く手に入ったのは、幸運だった。
「それじゃあ、分けるね。あまりはどうしようか?」
「ああ、ちょっと待って。一つ提案があるんだ」
早速分配を始めようとしたアリスを、レティシアが遮った。出会ってからこっち、様々な知恵と知識を与えてくれたこの魔術師をアリスはすっかり信頼しているようだ。大人しく口を閉ざして待つリーダーに、悪いね、とひと言断って、レティシアが続ける。
「分配のことなんだけど。例えば今回なら、一人350にしたとしよう。さっきのあまりと合わせて、229の余剰が出ることになる。それを、例えば地図用の羊皮紙や携帯食料、傷薬なんかの消耗品──つまり、探索する上で必要になる資金として、貯めておくのはどうかな?」
冒険者の装備品は、安価な革鎧やローブはともかく、魔法の武具や希少な金属が使われたものなど、それ自体が資産になるような代物も存在する。そのため、装備の買い替えは個人の裁量で行うのが冒険者間での暗黙の了解だ。今回のアリスのように戦利品として装備を得た場合、売却した金額と同じ額を分配金から減らすこともある。
だが、消耗品となると微妙なところだ。使った者が使った分だけ自費で購入するパーティがほとんどであるが、では地図のように全員が必要とするようなものはどうするのか、といった問題も出てくる。傷薬や水薬にしたって、使う頻度が高いのは当然ながら敵の攻撃を受け止める前衛だ。一つ一つは安価ではあるものの、積み重なれば決して馬鹿にできない金額になる。
アリスは感心するように唸った。
「それは……考えたこともなかったな」
素直な答えに、レティシアは優しく微笑んだ。
「今のところ、せいぜい地図用の羊皮紙と戦利品用の革袋くらいしか使ってないからね。だからこそ、今のうちにどうするか決めておいた方がいいかと思って、さ」
「そうね。あたしも毎回必ず癒しの奇跡を願えるとも限らないし。そうなった時に薬を使った人が買うんじゃ、公平とは言えないわ」
「うん。それに、ある程度パーティとしての資金がたまれば、それを使って戦術の幅も広げられる。例えば、魔法の巻物の購入とかね」
魔法の巻物。フェクトの道具屋にも並んでいた、魔法の道具の一種だ。その名の通り魔法の力が込められた巻物で、開くと様々な魔術が発動する。魔術の心得がない者でも簡単に、かつ強力な呪文を行使できる優れものだが、使い捨てな上に値も張るため、駆け出しのパーティではとてもではないが手が出せない。
確かに、入手できれば迷宮の探索する上で心強い味方となってくれるだろう。
「いい案だと思うけど……管理が難しくないかな?」
レティシアの提案に反論することに抵抗があるのか、遠慮がちにアリスが言った。もちろん、とレティシアはうなづく。
「そうだね。ひとまず資金そのものはキミに預かってもらうとして、それを使う時はできるだけ三人揃って買い物に行こう。もし今後パーティメンバーが増えてそれも難しくなった時は、ボクが帳簿をつけるよ。それでどうかな?」
金というものは、いつの時代も人を狂わせる。自分の所持金ならいざ知らず、パーティで共有する資金となればごまかして手をつける輩もいるだろう。実際、程度の差はあれどそうしたトラブルで揉めるパーティだって存在する。もちろんこの場にいる三人が互いにそんなことをするはずはないと思ってはいるが、レティシアが提案したのはそもそもそうした余計な疑念を抱かせないための方策だった。
「それだと、レティシアの負担が大きすぎない?」
「ああ、言ってなかったっけ? この子の実家、結構でかい商会なのよ。小さい頃は跡を継ぐために、算術やらなにやら毎日勉強してたもんね」
「ああ……あの頃は、自分が魔術師になるなんて思ってもいなかったからね。キミが毎日木剣を振り回していたのと同じで、さ」
幼馴染である二人が、昔を懐かしむように言う。言われてみれば、エリィの両親が傭兵だったという話は聞いていたが、レティシアの家族については聞く機会がなかった。戦士となるべく育てられ、しかし神の声を聞いて僧侶になったというエリィと同じように、きっとレティシアにも将来を決めるような、なにか大きなきっかけがあったのだろう。
しかし、商人の娘が冒険者とは──
「意外かい?」
「あ、いや……」
意地悪な微笑を浮かべたレティシアに胸中を見透かされたように言われて、アリスが答えに窮した。実際、商人として働いているところなど今の彼女からは想像もできない。
好物をゆっくりと味わうように、狼狽えたアリスの顔を見つめながらレティシアは微笑み、答える。
「ふふっ。まあ、そういうことだから。商人としての働きを期待されると困るけど、帳簿をつけるくらいならお安い御用さ」
「う、うん……わかった。その時は、お願いするね。……なんだかレティシアには頼みごとばかりで、申し訳ないけど」
「なに、人に頼られるのも悪い気はしないものさ。むしろキミになら、もっと積極的に頼ってほしいとまで、ボクは言うよ」
「それ、後が怖いんだけど……」
そう言って笑い合うアリスとレティシアのやり取りを傍から黙って見ていたエリィが、不意ににやっと笑みを浮かべて口を挟んだ。
「なんだか、あたしが知らないうちにずいぶんと仲良くなったみたいじゃない?」
茶々を入れられた二人は顔を見合わせると、アリスはすこしだけ頬を赤くして目を逸らし、レティシアはやれやれとばかりに肩をすくめた。
「エリィ、妬いているのかい? いけないな、いくらマリアンが聖女のように大らかな人とは言っても、浮気はよくないよ」
「だっ……だから、シスターとはそういうのじゃないってばっ!」
あっさりと逆襲され、一瞬で耳まで顔を赤くしたエリィが叫ぶ。それでもこの喧噪の中、それを気にするようなものはおらず、二人は口論──と言うにはいささか一方的だが──を始めた。
アリスはテーブルの上のマグに手を伸ばすと、すっかりぬるくなった中身を飲み干し、ふう、とひと息ついた。
平和だ。美味しい食事で腹を満たし、二人の友人と尽きることのない話題を楽しむ。少々騒々しいとはいえ、満ち足りた時間だ。次の探索のことすら、このひと時だけは忘れてしまっても構わないだろう。
二人が満足したら、この後どうするか聞いてみよう。そう思いながら、アリスはじゃれ合うような口論を続ける二人を楽しげに見ていた。
その時。
酒場のドアが、音を立てて乱暴に開かれた。
***
酒場の客層を考えれば、それ自体はさして珍しいことでもない。すでにどこかで一杯ひっかけた酔客が、ふらふらと頼りない足取りで入ってくることも珍しくないのだ。
きっと誰一人、気にも留められなかっただろう。転がり込むように店内に入ってきた若者が、こんなことを叫ばなければ。
「た、助けてくれッ!」
しん、と水を打ったように酒場の喧噪が消え失せる。店中の客や店員の視線が、その若者に集まった。
酒場へと入ってきたのは、年若い青年だ。古ぼけた板金鎧と、腰に長剣を帯びている。この街の住人であれば誰もが冒険者だと推察できる、どこにでもいる若者だった。彼は自身に注がれる視線に一瞬気圧されたようにたじろいだが、勇気を振り絞るように声を張り上げた。
「オレのパーティが迷宮で壊滅して……! やられた仲間がまだ、迷宮に残ってるんだ! 誰か、手を貸してくれないか!?」
彼がそう言い終わったあと、ほんの数秒の静寂ののち──まるで何事もなかったかのように、その場の客たちは青年から視線を戻して、食事や会話に戻っていった。程なく、酒場を再び喧噪が満たしていく。その場の全員が、彼の存在を無視しているようだった。
「え……お、おい……誰か……」
呆然とした青年がなおも助けを求めたが、それに応じる者は誰一人としていなかった。しばし立ち尽くしていた彼は、ふらふらと頼りない足取りで近くのテーブルに近づく。
「な、なあ、あんた、冒険者だろう!? 頼む、助けてくれ……!」
店の入り口から一番近いテーブルについていた、屈強そうに見える戦士風の男に青年はすがりついて言った。身に着けた鎧の上からでもわかる鍛えられた体に、使い込まれた装備。恐らくは中堅どころのパーティなのだろう、テーブルについている仲間たちと視線を交わした戦士はそのことごとくを逸らされ、手にした杯を置くと面倒くさそうにため息を吐き、足元に縋りつく青年に冷たく言い放つ。
「報酬は?」
「……え?」
呆けたような顔の青年に、やっぱりなと言わんばかりの呆れ顔で、男は続けた。
「報酬だよ、報酬。まさか知り合いでもなんでもない赤の他人のために、タダで迷宮に潜って自分と仲間の命を危険に晒してこいってのか? 死体回収なら、冒険者ギルドに話を通して依頼を出してきな。相場通りの額を用意できるなら、請け負うヤツもいるだろう」
「そ、それは……」
青年が言い淀むと、ふん、と戦士は面白くなさそうに鼻を鳴らす。相手をするうちに気分を害したのか、青年を見下ろす視線には軽蔑すら感じられた。
「おおかた、ギルドでも同じことを言われたんだろう。それで金がないから、ここでこうやって良心ってやつに訴えてるわけだ。いいか? お前が今言ってるのは、自分たちの利益のために、見ず知らずの他人になんの見返りもなく死んでくれって言ってるのと同じだ。あの迷宮がどんなに危険な場所か、仲間が死んだっていうならわかるだろう。自分や仲間の命をむやみに危険に晒したいヤツはいない。お前が必死こいて仲間を助けようとしてるのと同じで、な」
「……」
言い方こそ厳しいものだったが、男が言っていることはなにも間違っていなかった。壊滅したパーティの死体を回収するために、救出隊が組まれることはままある。ただしそれは、危険に見合うだけの十分な報酬を提示できる場合のみだ。よほど親しい関係でもなければ、なんの見返りもなく助けに行く者はいないだろう。
冒険者がなにを求めて迷宮の深奥を目指すのか、その理由はそれぞれだ。中には自らの腕を試すために、ただ戦いを求めて迷宮へ挑む者もいるかもしれない。あまねく人々全てを救いたいと考える、聖人君子もいるかもしれない。しかし、パーティを組む仲間たちを危険に晒してまで我を通そうとするものは少ないだろう。仮にこの戦士が青年を助けたいと思ったとしても、仲間のことを考えれば断るのは当然のことだった。
「……兄弟なんだ……」
「あん?」
うなだれた青年が、ぽつりとつぶやく。
「死んだ仲間は、オレの弟と妹なんだ……。一緒に田舎から出てきて、この街で冒険者になって一旗あげようって……。今日、初めて迷宮に──」
「お前の身の上話を聞いて、俺の気が変わると思うか? 店にも迷惑だ。出ていきな」
「うう……っ」
冷たく言われた青年は、涙を堪えながらふらふらと立ち上がり、酒場を後にした。その背中が見えなくなってから戦士の男は深々とため息を吐き、仲間たちから同情の言葉をかけられている。彼とて、痛む良心は持ち合わせているのだ。だからこそ、断ったのだから。
──店の奥のテーブルから、一部始終を見ていたアリスたちは顔を見合わせた。エリィは静かに瞑目すると両手を組み、祈りの言葉を口にする。酒場を出ていった彼の幸運を祈ったのだろうか。
「彼の言い分が正しい。反論の余地もないくらいに、ね。むしろ、あの迷宮がどんな場所か知っている者ほど、ああやって哀れっぽく良心に訴えるだけの態度は反感を買うだろう。まったくの逆効果だ」
レティシアは静かに言うと、テーブルの上で固く握られたアリスの拳にそっと手を重ねた。
「アリス。残念ながらボクたちにはまだ、他の誰かを助けるほどの力はない。二度の探索が成功したのも、地下一階の入り口付近を軽く歩いた程度だからだ。運の要素も多分にあっただろう。次も必ず生きて帰れるという保証はどこにもないんだよ。いつだって」
もう片方の拳に、祈りを終えたエリィの手が重ねられた。
「弱者を救済することは、多くの聖職者にとっての使命であり、義務でもあるわ。でも、自らの命を差し出してまで、他人を救えなんて言う神様はいない。それを悔しく思うことはあっても、恥じる必要はないのよ」
「……」
二人の仲間から、まるで優しく慰められるような言葉をかけられて、アリスは黙り込んだ。うつむいて、テーブルの一点を見つめている。何事かを考えているのか、あるいは内なる良心の呵責と戦っているのか。困ったように幼馴染の二人が顔を見合わせると、やおらリーダーは顔を上げた。
その表情は、決意に満ちている。
「ごめん。レティシア、エリィ」
その一言を聞いて、レティシアはやれやれと肩をすくめ、エリィは優しく微笑む。まるでそうなることを予期していたかのように。
「アリス。キミはボクたちのパーティのリーダーだ。そしてキミをリーダーに据えたのは、ボクとエリィがそう決断したからだ。だから、キミが下した決断には従うよ。それはキミが強制したわけではなく、ボクとエリィが決めたことだ。それだけは覚えて、そして考えてほしいな」
「……うん」
アリスはしっかりとうなづくと、二人の手を一度握って、立ち上がった。
「行っておいで。会計は済ませておくよ」
「ごめん。ありがとう」
酒場を駆けだしていくリーダーの背中を見送って、ふう、とレティシアはため息を吐いた。
「まさに勇者の行動よね。あとは結果が追いつくかどうか?」
からかうように言うエリィをジト目で見ながら、レティシアは応じる。
「勇者様ご一行にしては、従者の我々はあまりに貧相だね。さて、さっさと会計を済ませて追いかけよう。放っておくと二人で迷宮に突撃してしまいそうだ」
「……ねえ。真面目な話、本当に良かったの?」
給仕を呼んで会計を済ませ、席を立ったあと、表情を引き締めたエリィが訊ねた。
「良くはないさ。鑑定の時、シスターにした"施し"の話とまったく矛盾しているからね。でも、悪くもない。アリスがただ正義感に従って行動するとは思えないし、彼女なりに考えがあるんだろう。それに──」
「それに?」
憂鬱そうにかぶりを振って、聡明なる魔術師は言った。
「きっとこれは、ボクらにとっても必要な経験だ。その結末がどんなものでもあっても、ね」
***
すぐに追いついた二人が見たのは、アリスの手をとって涙ながらにありがとう、ありがとうと感謝の言葉を繰り返す青年と、困惑顔のリーダーの姿だった。二人の姿を見つけて救われたような表情をするアリスに、レティシアは苦笑しながら間に割って入った。
「やあ、どうも。もう聞いているかもしれないけど、ボクたちは彼女のパーティメンバーだ。どんな話になっているかわからないけど、一つだけ断っておくよ。ボクたちもそちらと同じ駆け出しと大して変わらないパーティだ。だから、"お仲間がいる場所"によっては断るかもしれない。いいね?」
「あ、ああ……わかった」
さり気なくアリスに手を振りほどかれた青年が、ようやく落ち着いたように涙をぬぐいながらうなづいた。
「さて、手短にいこう。お仲間はさっき言ってた二人だけかな?」
「そ、そうだ。魔術師と、僧侶の二人……」
戦闘中、後衛は前衛に守られるものだが、いざ死ぬときは単純に体力のない者から倒れることが多い。後衛を失ったパーティが前衛のみで命からがら逃げだすという事態も、そう珍しいことではなかった。
「場所は覚えているかな? 地図はある?」
「ち、地図? 道具屋には売ってなかったけど……」
「……地図は自分で描くものだよ。まあいいや、覚えている限りでいいから、道順を言ってみてくれ」
若干呆れ顔で言うと、レティシアは自分で描いた地図を取り出して、青年に見えないように広げた。なんとなく、彼らが壊滅した理由も察せてきた気がする。地図のことすら知らないということは、事前に迷宮に関する知識をほとんど得ていなかったのだろう。あるいは、情報を集めようとすらしなかったのかもしれない。それだけで、冒険者としては資質を問われても仕方のないことだ。それがたとえ、駆け出しと言えども。
「ああ。迷宮の地下一階に降りて、オレたちは道なりに真っ直ぐ進んだ。それで、最初に見つけた扉を開けたんだ。そこで怪物の群れが出てきて……」
「戦闘になった、と。場所はそこかい?」
「……ああ」
青年は悔しげに言った。つまり、初戦で壊滅してしまったわけだ。それも罠や不意打ちにあったわけでもなく、単純に力及ばず負けて、敗走したのだ。確かに、戦士としては恥じるべきことかもしれない。
そんな彼の様子などお構いなしで、レティシアはしばし考えたあと、うなづきながら地図をしまった。
「なるほどね。その場所なら、ボクらも行ったことがある。入り口からも近いし、恐らく回収は可能だろう」
「ほ、本当か!?」
勢い込んで近づこうとする青年からレティシアが一歩距離を置き、さり気なくエリィがかばうように前に立つ。幼馴染に半分隠れるようにして、レティシアは続けた。
「ああ。ひとまず、ボクたちにも準備が必要だ。貴方は冒険者ギルドに行って、パーティメンバーの死体の回収に行くことを伝えて、ギルドに預けてあるお仲間の登録証を借りてきてほしい。それがないと、回収にいけないからね。いいかい?」
「ああ、わかった!」
「準備が終わったら、迷宮の前で落ち合おう」
言うや否や、青年はギルドの方に向かって駆け出した。まるでもう仲間たちが助かったとでも言わんばかりの浮かれように、疲れたようにレティシアはため息を吐いた。
「あの……ごめん。言い出したのはわたしなのに、結局レティシアに任せちゃって」
成り行きをただ見守っていただけのアリスが申し訳なさそうに言うと、レティシアはいつもの微笑を浮かべて答える。
「頭を使うのはボクの役割。キミの役割はこれからさ。やると決めた以上、成功させる心積もりでいこう」
「うん……!」
「とりあえず、宿で装備をとってこないとね。最低でも一回は戦いになるだろうから、いつも通りの準備として……死体を抱えないといけないから、できるだけ身軽にいきたいけど」
三人はひとまず宿へ向けて歩き出した。こちらは別段特別な準備が必要なわけでもないので、さほど急ぐ必要もない。
「そうだね。それにしても、彼らのパーティが三人でよかった。もしもう一人でも多かったら、断っていたところだよ」
「え、どうして?」
「詳しく話すと長くなるんだけど……迷宮に挑むパーティは通常六人まで、というのは知っているね? その理由の一つなんだけど、あの迷宮は、死体もパーティメンバーとしてカウントするんだ」
「迷宮が……?」
いまいち話が見えないアリスに、もどかしげにレティシアが続ける。もちろんそれは理解の及ばないアリスに対してではなく、事細かに説明している時間がないからだ。
「本当に残念だけど、詳細はまた今度、ね。とにかくパーティは六人までにしないといけなくて、七人以上で迷宮に立ち入ると厄介なことになる。そして、その人数のカウントは死体にも適用されるってこと。今はそれだけ、覚えておいて」
「つまり、今回はあたしたち三人と生き残った彼、それから死体の二人を合わせて丁度六人ってわけね。あと死体を担ぐせいで帰り道はもっと危険だから、自分たちの命を最優先に行動すること。これだけは約束して」
「……わかった。わたしたちまで死体になったら、意味がないもんね」
「そういうこと」
およそ聖職者とは思えない口ぶりだったが、真剣な表情で念を押すエリィにアリスはしっかりとうなづいた。
あくまで優先すべきは今生きている者で、自分と、仲間たちの命だ。全員が死ねば、助けに行く者すらいなくなるのだから。
***
迷宮前の広場で落ち合った四人は、逸る青年を抑えながら慎重に迷宮へと降りて行った。人数が増えたからといって、単純に戦力が増強されたと言えるわけではない。むしろいつもと勝手が違う分、危険ですらあるかもしれないのだ。
「登録証に使われている魔法の宝物はね、二つに分けると互いを引き合う性質を持つんだ。手を広げて、その上に置いてみて」
言われた通りに青年が二人分の登録証を手の平に広げてしばらくすると、ずず、ずず、と少しずつその向きが変わっり、二本ともが同じ方向を示して止まった。
「これだけだと、方角がどちらかわからない。見るべきは折られていない方の先端だ。つまり、貴方の記憶通りの場所に、対になる登録証がある」
「な、なるほど……だから登録証が必要だったのか」
「まあ……」
感心したようにうなづく青年だが、レティシアは微妙な表情で言葉を濁した。むしろ場所を確認するだけなら、今回は必要なかったのだ。あくまで彼の記憶が正しければという前提ではあるが──どうやら、彼はレティシアの"話し相手"としては不十分らしい。
「それより、見たところ戦士みたいだけど、前衛を任せても大丈夫かな?」
助け舟を出したというわけではなかっただろうが、アリスが口を挟んだ。青年は古ぼけてはいたが板金鎧を身に着けており、腰には長剣を帯びている。戦えない、ということはないはずだったが──
「そ、それが……」
青年は申し訳なさそうに言うと、鞘から剣を引き抜いた。
「うわ」
「ああ……」
「……」
嘆息が三つ、迷宮の壁に吸い込まれる。鞘から現れた刀身は、根元近くまでしか残っていなかった。これでは短剣の方がまだ刃渡りがあるだろう。
「戦ってる時、無我夢中で振り回してたら壁を叩いちまって……」
「へし折れた、と……」
いかに魔法で保護された迷宮の壁と言えど、いったいどんな力でぶつければ剣が折れるのか──アリスとレティシアは呆れる面持ちでそう思ったが、エリィだけは違った。残された刀身が、刃毀れしていることに気づいたのだ。よく見れば彼の板金鎧もところどころにへこみがあり、錆びも浮いている。彼自身は正真正銘駆け出しの冒険者のようだし、おおかた誰かから譲られた古い粗末な武具をロクに手入れもせず、そのまま使っていたのだろう。もちろん、わざわざこの場で指摘することでもないので黙っていたが。
「それじゃあ、わたしの盾を貸すよ。戦いになったら盾だけを構えて、とにかく後ろに敵を通さないことだけ考えて。倒すのはわたしたちに任せていいから。もし勝手なことをしたら、その時点でわたしたちは引き返すよ。いい?」
「わ、わかった……」
たった数日、たった二度の探索の成功。それでもその経験の差からか、真剣な表情のアリスに気圧されるように、怯えた表情で青年は盾を受け取り、うなづいた。
これでひとまずの準備と作戦は整った。あとは向かうだけだ。一行は、目的地に向かって歩を進めた。
「戦ったのは、どんな相手だったの?」
道すがら、アリスが訊ねる。もしかしたら、自分たちもまだ遭遇したことのないような大物だった可能性もゼロではない。事前に聞いておくのは、決して無駄ではなかった。
青年は悔しそうに答えた。
「コボルトだ……。数は、確か五匹。故郷の村にいた頃、追い払ったこともある相手だ。だから、オレは真っ先に斬りかかって一匹を仕留めた。すぐに弟が呪文を唱えて、もう一匹を丸焼きにしたんだ。でも……残ったやつらが、弟と妹に……っ。ちくしょうっ……」
「……そう」
ようやく、彼らが壊滅した理由の全貌が見えてきた。明らかな準備不足。出てくるのは倒した経験のある相手ばかりだという驕り。そして、戦術の誤り。
群れからはぐれ、あるいは追い出された魔物が飢えた挙げ句に小さな村を襲うのはよくあることだ。大抵は一匹や二匹で、その程度なら農具を持った村人でも追い払うのはたやすいだろう。だが、迷宮で相対するそれとはわけが違う。召喚陣から現れる魔物は飢えに弱ってもいないし、何匹出てくるかもわからない。そして、そのほとんどは粗末なものとはいえなんらかの武器を手にしている。
五体という数は、確かに三人のパーティを上回る数だ。しかし、アリスたちは同じ数の相手を難なく退けたことがある。まず、魔術師は炎の呪文でただ一体だけ倒すのではなく、眠りの呪文で全体の動きを封じ込めるべきだった。たとえ抵抗する個体がいたとしても、それを優先して倒していけば結果は違っていただろう。少なくとも、二人もの死者を出した挙げ句命からがら逃げだすような事態にはならなかったはずだ。
そして──恐らくこれが一番の違い。エリィの存在だ。元々戦士として育てられたエリィは、そこらの戦士にも引けを取らない強さを持っている。アリスと共に前衛に立って、後衛のレティシアを守ることができる。無論、そのメイスを振るって敵を打ち倒すことも。元々僧侶は魔術師と違って金属製の装備を身に着けることができるし、場合によっては前衛を務めることもある。しかし、エリィのように戦士とほとんど同じ働きを期待するのは酷というものだろう。
結局のところ、彼らが不運だったのではなく、自分たちが幸運だったのかもしれない。程なくして目的地の扉の前に立ったアリスはそんな思いを胸中にしまい込んで、仲間たちを振り返った。
「いくよ。手筈通りに」
それぞれがうなづくのを確認して、アリスはドアを押し開ける。
「ああ……ちくしょう……っ!」
部屋に入るなり、青年が呻いた。玄室と呼ばれるその小部屋には、生臭い匂いが漂っていて、その原因が足元に広がる血だまりのせいだとすぐにわかる。そして、自分たちと同じくらいの年齢の男女がその中に沈んでいた。女は胸のあたりを一突きにされたのか、胸元を赤黒く染めている。男は抵抗したのだろうか、ローブのあちこちを切り裂かれ、それと同じ数の傷から血を流して死んでいた。その傍らには、へし折られた木の杖が転がっている。
扉が閉まると同時に、部屋の中央に円陣が浮かび上がった。
「落ち着いて。敵が出てくるよ」
長剣を引き抜き、両手で構えながら、アリスが警告する。ひとまず死体のことは後回しだ。言われた通りに盾を構えた青年を真ん中に、その左右をアリスとエリィが固める。仮に彼が期待通りの働きができなかったとしても、すぐにフォローに入れるように陣形を組んだのだ。
召喚陣が光り、中央に見慣れた黒いもやが現れる。そこからぼとり、ぼとり、となにかが産み落とされるように落ちてきた。数は、五体。いや──
「コボルトが五体。後ろにもう三体、なにかいる!」
彼らの時とは違うものが現れたのか、あるいは後列に気が付く前に壊滅したのか。現れたのは想定以上の数だった。地面に降り立ったコボルトたちは黒いもやをすこしずつ晴らして、警戒するように唸りを上げている。後ろの三体は完全にもやに覆われていてその正体は判然としないが、背格好はコボルトと大差ないように見えた。
「レティシア、お願い!」
「──眠りよ」
声をかけるまでもなく詠唱を始めていたレティシアが杖を掲げ、敵に向かって突き出す。霧のようなものがコボルトたちを包みこんだ。敵の集団を強い眠気が襲い、その動きを封じる呪文だ。直接殺傷するわけではないが、数で攻めてくる相手には覿面に効果を発揮する。
「エリィ!」
「ええ!」
アリスとエリィは正面の一体にそれぞれ斬りかかった。動きの止まったコボルトを切り伏せるのは容易い。だからと言って、コボルトすべてを侮るのは危険だ。冒険者ならば、常に心に留め置かねばならないことだ。油断は常に心につきまとい、致命的な結果を招こうとする。
中央の一体が呪文に抵抗したのか、動き出した。アリスとエリィがそれぞれ一体ずつ仕留めたのと入れ替わるように、正面に立つ青年に向かって走りだす。
「く、くそぉッ!」
青年は一瞬狼狽えたが、己を鼓舞するように声を張り上げると、突っ込んできたコボルトを盾で押し返すように殴った。コボルトは手にした武器を力任せに盾に向かって押しつけたが、さすがに一対一の力比べではそうそう人間が負けるはずもなく、青年はつばぜり合いのような恰好でコボルトを押しとどめ続けた。
アリスは両手に握った長剣を勢いよく振り下ろし、動きの鈍った二体目のコボルトを両断する。派手な血しぶきとともに袈裟懸けに切断されたコボルトの首と腕が宙に舞ったが、それを注視している暇はない。その場で振り返る勢いのまま、青年が押しとどめているコボルトの背を斬りつけた。
「はぁっ!」
武器と盾を押し合い、隙だらけの背中から斬りつければ、それは眠りの呪文で動きを封じられたものを切り伏せるのと大して変わりはない。ざっくりと背を切り裂かれ、コボルトはあっさりとくずおれた。同時に、アリスの背後でなにかを激しく殴打する音が聞こえる。考えるまでもない、エリィだ。彼女が自分より遅いはずはないから、恐らく後列にいたなにかに一足先に襲い掛かっているのだ。
後れを取るまいとアリスも踵を返し、敵の後列に向かって駆け出す。黒いもやの晴れたそこにいたのは、豚面の獣人──オークだった。一体はすでにエリィに殴り倒されていて、残る二体も狼狽えたように立ちすくんでいるように見えた。それが数で勝っていたはずの自分たちがあっという間に窮地に追い込まれたせいか、あるいは目の前で撲殺された無残な同族の姿によるものかは知れなかったが。
アリスは大きく踏み込み、オークの腕を狙った。武器ごとそれを切り落とし、悲鳴をあげる間もなくその首を続けざまに斬りつける。普段と違い、両手で力いっぱい振りぬかれた長剣は如何なくその切れ味を発揮した。生臭い体液を噴出しながら、豚面の獣人は迷宮の冷たい床に倒れ伏す。──残りは、一体。
ふわ、と優しい香りがアリスの鼻をくすぐった。瞬間、残る一体のオークが炎を浴びて燃え盛る。恰幅のよい体にため込まれた脂肪をあっという間に焼き尽くし、黒焦げに変えて、戦闘は終わった。
どさ、と音がした。魔物たちに動くものがいないことを確認したアリスが振り返ると、青年が盾を持ったまま腰を抜かしたようにへたり込んでいた。目の前で繰り広げられた戦闘と、その戦果が信じられないといった様子だ。
「す、すげえ……」
彼は呆然とつぶやいたが、アリスは応じることなくエリィとレティシアに視線をやった。二人とも首を横に振る。いつものように戦利品などを収集せず、さっさと戻ろうということだ。
アリスはうなづくと、青年をうながした。
「さあ、長居は無用だ。早く二人を教会に運ぼう」
「あ……ああ!」
はっとした青年は立ち上がると盾をアリスに返し、率先して自らの弟を背負う。
「妹さんは、あたしが運ぶわね。アリス、先頭よろしく」
「わかった」
倒れている僧侶は華奢な体格だったが、レティシアに背負えるとは思えない。エリィの提案に異を唱えるものはおらず、一行は二人をパーティに加えると、早々に玄室を後にした。
***
玄室での戦闘のあと、結局なんのトラブルもなく、アリスたちは地上へと戻ってきた。もっとも入り口から一番近い玄室だったため、あるとすればその短い道中で彷徨うものに遭遇することくらいだったが、そのような不運に見舞われることはなかった。
門番のように迷宮の入り口を警備する衛兵が死体を背負ったアリスたちを呼び止めると、手慣れた様子で荷車を貸し出してくれた。教会までは大通りを通って歩かねばならない。それは単なる厚意ではなく、死体を背負ったままうろうろされては困るという事情からだろう。二人を荷車に乗せ、上から布をかぶせて覆い隠してから、一行は教会へ向かった。
「本当にありがとう。あんたたちのおかげで、弟と妹を助けることができた。この恩は、必ず返すよ……!」
自ら率先して荷車を引きながら、感極まった様子で青年が言った。
しかし──
「お礼なら、兄弟三人が揃ってからでいいよ」
「……ああ。そうだな!」
静かに、冷静にレティシアが答える。その声には、無償の人助けを終えた高揚や安堵は感じられない。その言葉を激励と受け取ったのか元気よく返事をした青年は、憂鬱そうな表情で後ろを歩く魔術師に気が付かなかった。
エリィも黙ってあとに続いている。いつもならエリィが黙ればレティシアが、レティシアが黙ればエリィが、なにかしらの話題を見つけて話し出すのに。
今回の探索は、なんの見返りもないただの人助けだ。彼は恩を返すと言ったが、それに期待するほど自分たちも困窮しているわけではない。もしかしたら、ようやくタダ働きから解放されて疲れたのかもしれない。事が終わったら、二人にはもう一度謝っておこう──アリスはそう思った。
教会があるのは、大通りからすこし離れた場所だ。場所を聞いたアリスは最初、人通りの多い大通りに面するのを避けたのかと思ったが、違った。
実際に目にした教会は、領主の館にも負けないくらいの荘厳な建物だった。その権力と奉ずる神の偉大さを誇示するように、華美な装飾で彩られている。この街の教会は、規模が大きい──レティシアからそう聞いてはいたものの、こうして実際に目にすると圧倒されそうになる。確かにこんな建物、人通りの多い場所に立てるわけにはいかないだろう。
さすがに荷車を中に入れるわけにはいかず、再度二人を背負った一行は、教会のどんなに背の高い人間でも頭をぶつける心配のない入り口をくぐった。
内装も、負けず劣らず豪奢なものだ。正面奥には色のついたガラスがなにかの絵を作るように組み合わせられ、はめ込まれた天井近くから神々しい陽光を降り注がせている。見上げるほどの天井まで伸びた柱にも一つ一つ飾りが彫られ、ぴかぴかに磨き抜かれた石の床はまるで鏡のようだ。
明らかに冒険者にとっては場違いな場所ではあったが、中を見回すと自分たち以外にも同業者はあちこちにいた。もちろん、そのほとんどが神に祈りを捧げにきたわけではない。忙しなく行き来する見習い僧侶たち、司祭や司教らしき人物。彼らが傷つき、あるいは麻痺や呪いに侵された冒険者たちを癒やしているのだ。その規模は、迷宮の入り口前にあった臨時の施療所とは比べ物にならない。
一人の司祭らしき男がアリスたちに気が付くと、柔らかな笑みを浮かべながら近づいてきた。
「ようこそ、冒険者の方々。なにかお困りごとでしょうか……おや」
出迎えの言葉を述べながら、背負われた死体に気が付いたようだ。すぐに笑みを引っ込めて深刻そうな表情を作るあたり、こうした対応には慣れているのだろう。
「司祭さま、どうかお助けください! 弟と妹が、迷宮で怪物に……!」
弟を背負った青年が、叫ぶように言った。司祭はうなづくと、見習いを呼びつけて何事かを命じる。うなづいた見習いが何処かへ去ると、司祭は青年を安心させるように、穏やかな表情で声をかけた。
「どうか落ち着いて。お二人を、奥の部屋にお連れしてください」
「は、はい……!」
アリスたちのことをすっかり忘れたように、歩き出した司祭の後を追って、青年は歩き出してしまった。アリスは仲間たちの判断を仰ぐように二人を見たが、相変わらず二人とも黙ったままだ。エリィに至っては、孤児院の件があるせいか若干不機嫌にも見える。しかし、もう一人の死体をここに放って帰るわけにはいかない。少し遅れて、アリスたちも後に続いた。
通された部屋は薄暗く、蝋燭に灯された小さな火がいくつも並んで室内をぼんやりと照らしていた。中央には丁度人一人が寝かせられるくらいの石造りの台座が置かれていて、周りにはなにかを象った置物や杯のようなものがいくつか置いてある。それがなんなのかアリスにはわからなかった。宗教的に意味のあるものなのだろうか。
先に入室していた司祭の傍には、先ほど呼びつけられていた見習い僧侶が控えるように立っている。
「お二人の蘇生、でよろしいですね?」
「は、はい! どうか、お願いします……!」
そう司祭が確認すると、青年は弟を背負ったまま、腰を折って頭を下げる。
うなづいた司祭は、しかしすぐに蘇生の準備に取り掛かるような様子はない。
「蘇生の奇跡──つまり、一度失われた命を神の奇跡によって復活させ、その魂を呼び戻す。これは本来、神の定めたもうた運命に逆らう、とても罪深い行為です」
「……え?」
いきなりなにを言いだすのかと、青年は頭を上げて司祭を見た。しかし、彼は穏やかな表情のまま、滔々と語り続ける。
「しかし、我らが神はとても慈悲深い。祈りを捧げ、信仰にその身を捧げる者を決して見捨てることはありません。しかし──あなた方は冒険者であらせられる。無論、神は例え信徒でなくともその手を差し伸べてくださいますが……祈りや信仰の代わりに、別の形で神に信仰心を示す必要がございます」
「そ、それって……」
段々話が読めてきた。それは青年も同じようで、薄暗い室内でもわかるほど顔が青ざめていく。遠まわしな言い方だが、この司祭が言いたいのは、つまり──
「信仰の形は様々ですが……冒険者の方々には、一般的に寄進を行っていただいております」
蘇生してほしければ金を払え、ということだ。
「い、いくら払えば、いいんですか……?」
震える声で、青年が問う。彼にとっては、弟妹を人質にとられたも同然だ。司祭は変わらず穏やかな表情のまま──不気味なほどだ──、答える。
「研鑽を重ねた尊い命、呼び戻す魂が強ければ強いほど、蘇生には多大な祈りが必要となります。しかしお二人の場合は──」
ちら、と司祭は視線を走らせる。二人に背負われているのは、とても"研鑽を重ねた強い魂"の持ち主には見えないだろう。
「寄進というのは本来であれば、自ら進んで行うもの。その金額は決して私どもが決めるものではありません。しかし、蘇生の儀式には様々な神具を使いますので──お一人、500gpほど納めていただければ」
「ご、500……!?」
それは失われた命を呼び戻すという、本来ならあり得ない行為の対価としては決して高くはないのかもしれない。しかし、駆け出しの冒険者にとっては到底払えるはずのない金額だった。
アリスがちら、とエリィを見ると、不機嫌そうな表情を隠さずにうなづき、小声で答えてくれる。
「蘇生の儀式に色んな神具や薬を使うのは本当よ。その分費用がかかるのも、ね。残念ながら金額も妥当」
それほど広い部屋でもないのだ、司祭にもエリィの声は聞こえていたはずだが、彼は眉一つ動かさなかった。
「どうなさいますか? もしもご準備が必要でしたら、ご遺体は私どもで預からせていただくこともできますが……」
あくまで伺いを立てる恰好で、司祭は訊ねた。だが、青年に選択肢などない。一体なにをどうしたら、二人で1000gpなどという大金を用意できるのか。
ただ、あるとすれば──
「ボクが支払おう。二人で1000gp、でいいですね?」
ずっと黙っていたレティシアが、ようやく口を開いた。それも、驚くような内容を。
1000gp──二度の探索は確かに成功したが、分配した金額だけでは半分にも満たないはずだ。そもそも一度目の戦果はその日の飲み代でほとんど使ってしまったし。それとも、貯えがあったのだろうか──
「い、いいのか、本当に……?」
大金をあっさりと肩代わりすると言い放ったレティシアに、青年は震える声で聞く。救いの手を差し伸べられた喜びよりも、1000gpという大金の方が恐ろしいようだ。
「ああ。返せとも言わない。ただし、ボクたち全員ができる手助けはここまでだ。これ以上は助けられない。これが、本当に最後だ。いいね?」
「あ、ああ……。ありがとう……」
聞いたことのないほど冷たい声で、レティシアは繰り返し念を押した。青年がうなづくと、レティシアは背嚢からずっしりと重そうな革袋を取り出し、司祭に手渡した。
恭しく受け取った司祭は中身を検めると、穏やかに微笑んだ。もはやその笑みは、この場にいる誰にも一欠けらの安心すら与えられないものになっていた。
「確かに。それでは、蘇生の儀式を執り行いましょう。蘇らせたい方を、この台座へ」
「あ……そ、それじゃあ、妹から……」
今更になっていつまでも赤の他人に家族の死体を背負わせておくのは忍びないとでも思ったのか、青年はそう言った。エリィは無言でうなづくと、背負っていた亡骸を台座にゆっくりと寝かせる。出血はとうに止まっていたが、エリィのローブには赤黒い染みができていた。
台座の周りに置かれた杯に、見習いが薬品のような液体を注ぐ。儀式の準備だろう、その間に小声でアリスはレティシアに訊ねた。
「本当によかったの? 1000gpも──」
「ああ。とりあえず、そっちの心配はしなくていいよ。説明もあとでちゃんとする。それより……ちゃんと、見届けるんだ。キミが下した決断と、その結末を」
「……うん」
いつになく真剣で、しかし悲しげなレティシアにそう言われて、アリスは神妙な顔でうなづく。結局、この時彼女の言った言葉の意味をすべて理解するのは──もうすこしあとになってからだった。
「それでは、儀式を始めます。静かに、祈りを捧げてください──」
司祭はそう言うと、台座の傍に置かれていた豪奢な装飾のついた杖を手に取り──
ささやくように、神の名を口にした。
瞑目し、両手を組んだ見習いが後に続くように唱和する。
司祭は瞑目し──
詠唱を始めた。奇跡を代行するための、言葉を。
青年は祈りを捧げる。どうか、妹を救ってください、と。信じたことすらあるかどうかもわからない神へ、すがるように。
そして──司祭は念じた。捧げられた神具から魔力が吸い上げられ、杯に満たされた液体が蒸発するようになくなっていく。
台座が光り、部屋を明るく満たした。それは、不思議な光景だった。台座の周りに渦を巻くような力の奔流が、魔術師でないアリスにすらはっきりと見えた。やがてその流れは台座の上で寝かせられた少女に注ぎ込まれ、真っ白だった肌が、見る見るうちに色づいていく。
全ての奔流が消えると同時に台座の光も消え、室内を再び蝋燭の頼りない光が照らした。
「う……」
呻くような声が、聞こえた。それは少なくとも、アリスには聞き覚えのない声だ。つまり──
台座の上に寝かせられた少女が、ゆっくりと目を開いた。
「あ、ああ……! やった、やったぞ!」
青年は──少女の兄は、声を喝采をあげた。それは弟を背負っていなければ飛びついていたのではないかと思うほどの喜びようで、その時初めて司祭がかすかに眉をひそめていたことにアリスは気が付いた。まあ、こんな場所で大声をあげれば叱られたって無理はないのだが。
少女は兄の方へ顔を向けると、ゆっくりと体を起こした。
「にい、さん……? 私、いったい……」
「ああ、オレだ! 大丈夫か? どこか痛いところとか、ないか?」
「う、うん……」
少女は自らの置かれた状況が飲み込めず、混乱しているようだ。無理もないだろう。死んだ瞬間をどれほど覚えているのかわからないが、目が覚めたら知らない人に囲まれて、こんな石の台座に寝かされていたのだから。
「ここは街の教会だ。お前は迷宮で……死んじまったんだ。でも、こうして生き返った!」
「迷宮で……? 私……うっ」
兄の言葉にようやく事態が飲み込めたのか──あるいは死の瞬間まで思い出してしまったのだろう、少女は青ざめると口を抑えた。
「お、おい! 大丈夫か?」
「状況説明が端的すぎるのよ。……大丈夫? 気分が悪いなら、癒やしの奇跡を願うわ」
刺々しく青年に言うと、エリィは優しく少女に声をかけた。年端もいかない少女が実際に体験した死の瞬間だ。その一瞬の恐怖と絶望、苦痛は計り知れるものではない。それをこんな風にひと息に思い出させれば、具合が悪くなって当然だった。
少女は気丈にも首を振って、こみ上げるものをなんとか堪えた。
「だ、大丈夫、です……。ありがとう、ございます……」
「そう……。具合が悪くなったら、すぐ言ってね」
それ以上無理強いすることもなく、優しくエリィがそう言うと、少女はもう一度礼を言って、台座から慎重に降りた。
蘇生したと言っても、体の状態が万全に戻るわけではない。衰弱し、ふらつく少女をかばうように支えながら、エリィが壁にもたれさせる。レティシアはこれ以上手助けはしないと言ったが、こうして世話を焼いてしまうのは彼女らしかった。
「……よろしいですか? それでは、もうお一方をこちらへ」
「は、はい……」
一連のやり取りを辛抱強く黙って待っていた司祭が、青年をうながした。体のあちこちを切り裂かれ、無残な姿の魔術師が石の台座に横たえられる。
「兄さん……」
立っているのもつらいのだろう、しゃがみ込み、壁にもたれた少女が涙声でつぶやいた。もう一人の兄が自分と同じ末路を辿ったことを、悟ったのだ。
「大丈夫だ、きっとすぐに起き上がるさ……」
長兄が、末の妹を元気づけるように言った。現に、彼女はこうして復活を果たしたのだ。弟だって、すぐに生きかえる。そこに、微塵も疑いはなかった。
少なくとも、この青年にとっては。
「それでは、蘇生の儀式を執り行います」
見習いが準備を整え、司祭が再び宣言する。先ほどとまったく同じ動作で杖を掲げ、神の名をささやき、奇跡を詠唱する。
ぴし、となにかがひび割れるような音がした。
青年は祈りを捧げる。妹と同じように、弟にも慈悲をくださいと。
司祭は念じた。神具から魔力が吸い上げられ、杯に満たされた液体が蒸発するように消えていく。力の奔流が渦となって、台座を包み──
「……え?」
呆けたような声で、青年はつぶやいた。台座を包んだ力の奔流は、弟の体へ注がれることなく霧散してしまったのだ。やがて、台座が光を失う。
ぴし、と、またなにかがひび割れるような音がした。
「お、おい……」
台座の上に寝かせられた少年の体に、異変が生じていた。肌のあちこちに、ひび割れるような亀裂が入っている。それは幾条にも分かれ、全身に広がっていく。
ばさっ、と、少年の右手が崩れ落ちた。
「ま、待って! 待ってくれよ! なんで……!」
青年は取り乱して弟の体に取りすがるが、彼が触れた場所から、その体が崩れ落ちていく。一滴の血を流すこともなく、まるで横たえられていたのは最初から人間ではなかったかのように、崩れた体は灰となって台座の上に零れ落ちた。
やがて、その身にまとっていたローブや衣服を遺して、弟の体はすべて灰となって消えた。
「残念ですが……蘇生の儀式は失敗に終わりました」
「あ、ああ……なんで……」
涙を流して崩れ落ちる青年に、いかにも無念そうな表情で、厳かに司祭は言う。
「いかに神が慈悲深くとも、人の身を通す以上、その御業のすべてを行使することは叶いません。しかし、ご安心ください。体は灰となっても、魂はいまだ、天に召されてはおりません」
「そ、それって……?」
涙を流し、すがるように見上げてくる青年に、司祭は微笑んだ。まるで、絵にかいた聖人のように。
「はい。この状態からでも、もう一度、蘇生の儀式を執り行うことが可能です。成功すれば、灰となった体も神が作りたもうた状態に戻り、魂も舞い戻ることでしょう」
「そ、それなら……!」
「しかし──」
希望を見出した青年に、司祭は神妙な顔で告げる。
「灰からの蘇生には、先ほどまでの儀式よりもより高度な儀式が必要となります。執り行うのも一人ではなく、扱う神具の数も比べ物になりません。ですので──」
持って回った、遠まわしな言い方。彼が言いたいことが、アリスには手に取るようにわかる。
しかし、アリスがそれを最後まで聞くことはなかった。
「ここまでだ。もうボクたちにできることはない。出よう」
レティシアは静かにそう言うと、司祭に軽く会釈して退室した。エリィも無言で、そのあとに続く。
司祭が青年に告げたのは、途方もない額だった。1000gpなど、はした金に思えるほどの。泣き崩れる青年に、司祭は"寄進"の準備ができるまで、灰は教会で大切に保管しておくとか、装備は持ち帰って構わないとか説明しているが、果たして聞こえているのかどうか。
アリスはその場を後にした。青年の泣き声と、薄っぺらな慰めの言葉をかける司祭の声に背を向けて。
『ちゃんと、見届けるんだ。キミが下した決断と、その結末を』
レティシアの言葉だけが、頭の中に響いていた──