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迷宮の街  作者: 諸葉
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とある少女の始まりのお話

 延々と続く石床を、一人の人物が歩いていた。靴の音だろうか、こつん、こつん、と、歩を進めるたびに床を叩く音だけが響く。外套マントで体をすっぽりと覆い、フード(頭巾)まで被ったその風体は、通りを歩けば奇異の目で見られることだろう。だが、今この場には彼、あるいは彼女以外にはそんな目を向ける人も、どころかなんの生き物もいなかった。

 規則的に積まれた石で造られた壁。床も天井も同じようにできていて、それが延々と続く通路となっている。石、あるいはこの通路自体になにかの仕掛けでもあるのか、壁自体がぼんやりと発光して道を照らし出していて、ほかにランプや蝋燭ろうそくといった光源はない。壁面から発せられるその光はあまりに頼りなく、通路の四隅には暗闇がわだかまるように影ができ、先を見ようにも立っている場所から十歩ほどの距離を見通すのが精々だった。

 窓一つなく延々と同じ光景が続くその道は、常人であれば半時も経たないうちに方向感覚を失うだろう。そんな中、外套の人物は迷うことなく歩を進める。ときに道に沿って曲がり、分かれ道があれば躊躇することなく選んで、歩く。まるで頭の中に描いた地図をなぞるような、迷いのない行程だった。

 やがて石壁をくり貫いて作られたような木製の扉の前で、外套の人物はようやくその足を止める。通路はまだ続いているが、この扉を無視して進むつもりはないようだ。

 被っていたフードを下ろすと、現れたのは年若い少女の顔だった。薄暗い灯りに照らされる紫がかった髪に、鋭い眼光を放つ琥珀色の瞳。顔立ちは凛々しく、美しいと評されてもおかしくはないだろう──唇のすぐ下からいまだ外套の中にある身体まで伸びている、この大きな傷痕がなければ。すり減って変色した皮膚が醜く引きつったその痕は、それを隠すために外套で身を覆っているのだと誤解されてもおかしくはなかった。

 そう、それは誤解だ。彼女が隠しているのは、傷痕などではない。外套の留め具を外し、すり合わせていた前を開ける。露わになった身体には、使い込まれた様子が見て取れるほど、小さな傷が無数についた革鎧レザーアーマーと、右腕に装着された肘まで覆う金属製の手甲ガントレット。足には鉄板を前面に打ち付けた脚絆ゲートルを穿いていて、脚や腰といったすぐに手が伸ばせる場所には数本の短剣が差された帯が巻かれている。防具で覆われていない場所にはすり切れた布が包帯のように巻かれていて、鎧姿ではあるものの、軽装の部類に入ると言ってもいいだろう。

 少女は扉の取っ手らしき金具に手をかけると、ゆっくりと押し開けた。ぎい、となにかが軋む耳障りな音がする。扉の中には、二、三人が並んで寝転がれる程度の広さの小部屋があった。床も壁も天井も扉の外と同じ石で造られていて、部屋というよりは通路の行き止まりを扉で仕切ったような形だ。四方を発光する壁が囲んでいるせいか、通路と比べればいくらか明るいように思える。

 少女は開けた扉の隙間に体を滑らせるように、部屋へと入る。手を離した扉はゆっくりと元の位置へ戻り、開いたときと同じ耳障りな音を立てながら、閉まった。

 同時に、部屋の中央に円陣が浮かび上がる。なんらかの言語で呪文らしきものが刻まれたその円陣が光を放つと、その中央に黒いもやのようなものが噴き出すように現れた。

 ぱさ、と布が地面に落ちる音がした。少女が外套を脱ぎ、それを地面に放ったのだ。次いで背負っていた背嚢バックパックも地面に置く。そうすると、ようやく──彼女が外套で隠していたものが露わになった。

 左肩の付け根、丁度革鎧との境い目──顎のあたりから続く傷痕の終着点から、それは"生えていた"。彼女の脚と同じくらいの太さに、先端は膝をゆうに超える長さ。鈍色に光るそれは──機械の、腕だった。まるで右腕にはめた手甲と同じように、その腕は金属の装甲に守られ、手の甲に当たる部分には鋭い鋲が打ち付けられている。その指先と呼ぶべき部分は異様なほど鋭く尖っていて、自身の体すら傷つけてしまいそうだ。

 少女の体格は、平均よりも少しばかり大きいくらいだろう。鍛えられ、引き締まった身体はそれでも女性らしさを損なっていなかったが、その機械の腕は、異形というよりほかはない。彼女が大げさなまでに外套で身体を隠していた理由は、まさしくこれのせいだった。

 そうこうしているうちに、黒いもやは膨れ上がり、吐き出すように地面になにかを落とした。ひとつ、ふたつ、みっつ──ほぼ同時に落とされたそれらは、みな一様に同じような姿をしている。人間の子供程度の体躯に、尖った大きな耳と鷲鼻。ボロ切れのような布をその体に巻きつけ、手には──武器が、握られていた。

 中央の一体は硬い木を削りだしただけの棍棒。その右隣にはもう一体、石で造られ、ぼろぼろに刃こぼれした小刀ナイフ。最後の一体は、なにも持っていなかった。もしかしたら、爪や牙に毒でも持っているのかもしれない。

 三体がそれぞれに顔を上げる。白目のない濁った瞳をぎょろぎょろと動かして、目の前に立つ人間を捉えた。耳の付け根近くまで裂けた口の端をつり上げ、歯をむき出しにして威嚇する。あるいは嗤ったのかもしれない。

 "敵"が、たった一人だということに。


 怪物たちが体勢を整えるよりも早く、義腕の少女が動く。相手の間合い一歩手前まで一息に踏み込み、半身を反らして、その巨大な機械の腕を振り上げる。最初に狙ったのは、中央の一体──棍棒を持っているやつだ。その手にした得物を振るうどころか構えることすら許さず、文字通りの鉄拳が振り下ろされる。

 どがん、と石床を殴りつける音が響く。ほかに人がいたなら、部屋全体が震えたような錯覚を覚えただろう。棍棒を持っていた怪物はそれを認識する暇もなく頭と上半身をぺしゃんこに潰されて、義腕と石床に体液を飛び散らせた。衝撃で跳ね飛ばされた棍棒が壁にぶつかり、床に落ちて乾いた音を立てる。

 なにも持っていなかった怪物が、突然吠えた。それは同族を殺した目の前の人間に対する怒りの言葉だったのかもしれないが、少女にはただの奇声としか認識できない。噛みつきでもするつもりなのか、しゃにむに飛びかかってきたそれを少女は振り下ろしていた左腕で払う。剣ならば逆袈裟に切り上げるような形で、無造作にその剛腕は振るわれた。ただ打ち払っただけの動作だったが、その鋼鉄の質量と相手の体躯を思えば、それで十分だった。むしろ先の一撃がやり過ぎだったくらいだろう。

 先ほどよりもいくらか液体が飛び散る音がして、二体目の胴体は石壁の染みになった。残された手足と首が転げ落ち、ごろごろと石床を転がる。

 残るは、小刀の一体──

 主な武器たる義腕を大きく払い、壁に打ち付けている今が好機と思ったのか、最後の一体が小刀を振り上げ、襲い掛かってくる。いかに刃こぼれしていようと、それが刃の形をしている限りなにかを傷つける役目は十分に果たすだろう。急所を刺されれば、致命傷になるかもしれない。

 無論、それが届けば、だが。

 少女の右手には、いつの間にか帯から抜き放たれた短剣が握られていた。狙いがブレない程度に軽く振り上げ──もはやその必要もないほど近かったが、それでも相手の小刀が届くよりはるか遠くから、投擲した。

 短く、しかし鋭い刃が突き立ったのは、胴体だ。ロクに防具も身につけていなかったから、刃が見えなくなるまで深々と刺さっている。他に狙うべき急所はいくらでもあったはずだが──

 頭は丸い頭蓋に守られている。投擲した程度では、滑って弾かれるかもしれない。

 むき出しの首は、的にするには少々小さい。この体躯の相手ではなおさらだ。

 胴体では──即死はしない。即死するほど重要な臓器は、やはり堅牢な骨に守られている。だが、足止めするにはこれで十分だった。小刀を振り上げた怪物は己に突き立てられた短剣に怯み、今にも飛びかかろうとしていた足をほんの一瞬止めてしまって──それで、十分だった。

 どずん、と再び石床を殴る音が部屋を震わせて。

 ようやく、その部屋は静かになった。


 少女は背嚢を拾い上げると一つの革袋を取り出して、最後に倒した一体に近づく。頭を潰され、地面にへばりついた遺骸から短剣を抜き取ると、その指を切断した。生臭い体液が滴るそれを手にした袋に放り込む。その拍子に、ちゃぷん、と音がしたことを思えば、恐らくは同じようなものが相当量収められているのだろう。同様に、頭が残されたものからは耳を削ぎ、豪快に潰してしまった最初の一体からはすこし悩んで足の指を切り取った。

 おぞましい行為だ。傍から見れば、彼女の所業は狂人のそれに見えるだろう。だが、これは彼女にとって必要なことであり、そして日常でもあった。

 この石の壁と床が延々と続く迷宮を探索し、現れる魔物を狩り、その証拠として体の一部を持ち帰って、懸賞金に換える。運が良ければ、宝物が見つかることもある。彼女はそうして生計を立てているのだ。


 ある人は、彼女らを蔑んだ。あるかどうかもわからない宝物を目当てに危険を冒す、愚か者たちだと。

 ある人は、彼女らを利用した。誰もやりたがらない危険な仕事を買って出る、奇特な者たちだと。

 ある人は、彼女らに憧れた。スリルと宝物を求め、未踏の地へ挑む勇気ある者たちだと。


 人々は、それぞれの意を込めて彼女らをこう呼ぶ。

 自ら危険を冒す者。

 冒険者、と──




***



 大通りの脇に露店を開いた男が、そこかしこに立ち並ぶ店に負けじと行き交う人々へ客寄せの声を張り上げている。丁度朝の仕事を終え、ひと息ついた人々が休憩をとるような時間だった。朝の静かで清涼な空気から、にぎやかで活気のある昼へと移り変わる時間だ。太陽はまだすこし傾いていて、涼しげな風が街の中を吹き抜けていく。

 着の身着のままで道端に寝転がっている酔っ払いもいなければ、道行く人々を威圧するように睥睨へいげいする衛兵もいない。主要な道は歩きやすいように綺麗に舗装されていて、それだけでこの街が栄えていることがうかがえる。道行く人々の表情は穏やかで、少し大きな街へ行けば、どこでも見られる平和な光景だった。

 通りを歩く人々の半数ほどを占めるのが、住民でも旅人でもない点を除けば、だが。

 そんな中を、一人の少女が通りに沿って歩いている。きょろきょろと辺りを見回しているせいで何度か通行人とぶつかりかけたが、怒る人はいなかった。少女がその度に素直に謝ったせいもあっただろうが、恐らくはその恰好のせいだろう。

 あちこちに傷やへこみが見られるものの、動物のなめし皮を何枚も重ね、胸の前面を覆う装甲とした革鎧をつけている。両手には革製の手袋をはめていて、足には──こちらも革で作られた脚絆だ。そして、背中には傷の目立つ小さな盾を背負い、腰には鞘に収められた、一般的な長剣ロングソードを佩いている。どれも見ただけでわかるほど使い古されていたが、仮にも武装している相手に喧嘩を吹っかけるような無謀なものはそうそういないというわけだ。

 そして、この街では彼女のような存在が珍しくないことも、理由の一つ。平時であれば、あるいは他の街であれば、こんな格好をしていればたちまち衛兵がすっ飛んでくるところだろう。街によっては入ることすらできないかもしれない。しかし、道行く人々は誰も武装した少女の恰好を気にしなかった。時折ちらりと一瞥するものもいたが、すぐに興味を失ったようにそのまますれ違うだけだ。

 行き交う人々の中には、少女よりもよほど立派な装備に身を包んだ、まさに歴戦の強者を思わせる風貌のものもいる。金属鎧を身に纏い、歩く度にがしゃがしゃと不快な音を立てている戦士風の男。華美なローブを身に纏い、陽の光を嫌うように大きなつばのついた帽子を被った魔術師らしき女。周りには仲間と思しき数名が、やはり同じように武装した姿で歩いていた。

 この街がどこかと戦争をしているとか、あるいはその前準備をしている──なんてことはない。でなければ、住民たちが平然と彼らに混じって通りを歩くことなどできないだろう。それに道行く彼らの恰好やその所作は、兵士と呼ぶにはあまりに無秩序だった。

 ただこの街では、そんな者たちが平然と通りを出歩くのが普通なのだ。その理由は、この少女が目指す場所にも関係があった。


 商店や露店が並び、人で賑わう大通りからすこし離れた場所に、その建物はあった。石造りの頑丈そうな見た目に、剣と盾をかたどったシンボルを掲げている。その大きさに相応しい巨大な門扉は開け放たれ、牙獣を模した石像がその両隣で門番のように鎮座していた。

 平和な街には似つかわしくない、物々しい建物だ。少女はようやく見つけた目的地の前で立ち止まり、その威容を見上げた。

 建物の中から数名、やはり武装した若者たちが出てきた。彼らは大通りの通行人がそうであったように少女のことを気に留めた様子もなく、何事かを話しながら通り過ぎていく。

 少女は見上げていた視線を下ろすと、意を決して門をくぐった。




***




 ぴかぴかに磨かれた石床に、長い敷物が入り口から奥へ向かって一直線に敷かれている。突き当りには人の腹あたりまである木製の台が横並びに繋がっていて、例えるなら酒場のカウンター席のようになっていた。敷物が示す道の両脇には待合用の長椅子と、いくつかの掲示板のような板が壁に掛けられており、そのどれもが何事かを記した羊皮紙を大量に貼り付けている。

 それらがなにを意味するのか、ここへ来たばかりの少女は知らない。だからまず真っ直ぐ歩いて受付らしき場所へ向かおうとしたのだが、その足はすぐに止まることになった。

 あの横並びのカウンター──恐らくはこの建物の総合受付のようなものだろう──の向こうには、同じ恰好をした女性が何人かいて、訪れた者の応対をしている。受付嬢、といったところだろうか。着方に多少の差異はあるものの、皆一様に同じ恰好をしているのはそれが彼女らの制服なのだろう。カウンターの上でそれぞれに羊皮紙や幾ばくかの貨幣を広げ、何事かやり取りしている彼女らの背後には、ぎっしりと本らしきものが納められた棚と、それらに挟まれるようにして一枚の扉があった。

 少女が足を止めたのは、彼女らが皆応対中であったからだ。それも、一人や二人ではなかった。列を成して並ぶよう整理する人員もいなければ訪れている者たちも整然と並ぶ気などないらしく、中には人だかりのようになっているところもある。恐らくは先ほどすれ違った一行のように共に行動する仲間たちがひと塊になっているのだろうが、そのせいでどの受付も混雑の極みにあった。見ればそこかしこに同じような者たちが空くのを待っているのか、あるいは単に暇を持て余しているのか立ち話をしていて、辺りを喧噪で満たしていた。

 これではいつ自分の番が回ってくるかわからないし、そもそもどこに並べばいいのか──困ったように少女が辺りを見回していると、一つだけ、空いている場所があった。繋がったカウンターの一番端で、他の受付嬢と同じ制服を着て、フードを目深に被った小柄な女性。他の同僚たちが慌ただしく応対に追われている中、彼女の前だけは誰も寄りつこうとしていなかった。もしかしたらそこだけ違う業務を担当しているのかもしれないが、駄目で元々、と少女はその受付に足を運ぶ。

 顔の半分ほどを覆っているフードのせいか、少女が目の前に立ってようやく気がついたように、顔を上げた。

 フードの陰から覗く顔は凛々しく整っていたが、それをかき消すように細められた藍色の瞳が、睨むように見上げてくる。美人なだけに迫力があった。とても歓迎の言葉など望めそうにないその口が開き、何事かを言うよりも先に──


「こんにちは」


 あっけらかんとした挨拶をされて、目前の受付嬢は一瞬呆気にとられたように開きかけたままの口を止めた。


「……こんにちは」


 最初に聞いたその声は素朴で、ともすれば少女のような声だった。最初の印象からはまるでちぐはぐで、そのどちらかが作りものではないかと思うほど。

 思わずのん気な挨拶を返してしまい、被った仮面が崩れるようにはっとした表情を浮かべると、その女性は咳ばらいを一つくれた。

 そして何事もなかったかのように元の冷たい表情を整えると、恐らくは何百回、もしかしたら何千回と繰り返したのかもしれないその言葉を、先ほどとは別人のように大人びた、平坦な声で述べる。


「──ようこそ、冒険者ギルドへ」




***



「ご用件をどうぞ」


 席に座ったまま、声音も変えず受付嬢はそう続ける。こちらが見下ろしているのに、威圧感すら感じるほどの愛想のなさだった。誰も寄りつかなかったのはこのせいだろうか──しかし、今更間違えましたと踵を返すわけにもいかない。


「登録をお願いしたいんです。わたし、さっき街に着いたばかりで」


 少女がそう言うと、受付嬢は当然のようにうなづく。それこそ、今まで飽きるほど繰り返してきた作業をこなすように。


「新規の冒険者登録ですね。かしこまりました。登録手数料に300gpをお支払いいただきますが、よろしいですか?」


 300gp──要するに金貨300枚分の価値のある宝石や貨幣を納めろということだ。元々は一枚一枚がまさしく金の如く貴重品であった金貨──ただの平民であれば、そんなものをじゃらじゃらと持ち歩くほどの資産を持つことはない。だが熟練の冒険者ともなれば、身につける武具に金貨数百、あるいは数千枚もの値がつくこともままあるのだ。店を構える商人ならばともかく、無頼の冒険者が大量の金貨を持ち歩くのは現実的ではなかった。そのために生まれた風習のようなものだ。

 それにしても──少女はフードの奥から相変わらず睨むように見上げてくる受付嬢から目を逸らし、背負っていた背嚢を下ろす。慇懃丁寧な言葉遣い。応対そのものは至って普通なのだが、何故だろう、彼女の声はまるで罪状を読み上げる裁判官のように辛辣で、犯してもいない罪を償わなければならないような気すらしてくる。

 もちろん罪人でもなんでもない少女は懺悔などするわけもなく、背嚢から取り出した袋をカウンターの上に置く。どちゃり、と重たげな音がした。300gpといえば庶民にとってはそれなりの大金だが、この少女には用意があったらしい。あるいは、必要になることを見越していたのか。

 小さく一礼して、受付嬢が袋の中身を検める。


「……300gp、確かに。字の読み書きはできますか?」

「はい」


 この街に限らず、冒険者を名乗るものたちの出自は実に様々だ。由緒正しき血筋を持つものもいれば、脛に傷を持つものもいる。全員が真っ当な教育を受けて育っている保証はない。

 その点でいえば、この少女は比較的まともな出自の持ち主であるようだ。


「では、当組合ギルドに加入するにあたって守るべき規約、冒険者としての責務と受けられる支援、その他諸々──全て登録書に記してありますが、主要なものだけ読み上げますので、その後にサインをお願い致します」


 決まりですので──答えなど初めから聞いていないというように彼女はそう宣言すると、受付の下にある棚から一枚の羊皮紙を取り出して少女に見えるように向きを変えてカウンターの上へ置き、内容を読み上げ始めた。いや、彼女からすれば文字が逆さに見えるのだから、正確には諳んじているのだ。恐らくは隅々までびっしりと記された、文言の全てを。


「当ギルドに加入された冒険者の方は、加入と同時に例外なく領主様が発行された依頼、即ち"かの迷宮を探索し、魔物が溢れる原因を調べ、その謎を解明すること"──これを受諾することになります。これがために、この街はほぼ無制限にあなた方冒険者を受け入れているからです。その報酬は望むまま──」


 かの迷宮──この街を訪れる者であれば、知らぬ者はいない。街はずれにある、地下迷宮だ。いつ発見されたのか、誰が作ったのか。あるいは自然に発生したものなのか──何一つ記録にすら残らないほど昔から、それはあった。内部の構造は文字通りの迷宮と化し、いまだ最奥にたどり着いたものはいない。そして迷宮には溢れんばかりの魔物と──宝物がある、という。冒険者が迷宮から持ち帰る宝物は街に富をもたらす半面、いつ地上にまで魔物が溢れだすかわからないという危険も孕んでいた。だから領主はただの魔物退治にまで、報奨金として報酬を与えるのだ。それが多少なりとも、街から危険を遠ざけることを願って。そして──恐らく何代も前から──このような依頼を掲げ、報酬は望むままを与える、と。

 無論達成できればの話ですが、と受付嬢は冷たく言う。それも当然かもしれない。これだけ街が冒険者で溢れかえっているにも関わらず、今以てその依頼は達成されていないのだから。


「このため、当ギルドに所属する冒険者は例外なく迷宮の探索要員と見なされます。とはいえ、全員が実際に迷宮へ立ち入って調査をするわけではありません。当ギルドが冒険者としての活動であると定めた仕事をしていただければ結構です。当ギルドが制定する、冒険者としての活動は大きく分けて二つ──一つは先ほど申しました通り、迷宮へ立ち入り、その調査を行うこと。その場合、調査の証拠として退治した魔物の一部や宝物などを持ち帰っていただきます。魔物の場合は退治した懸賞金という形で領主様から報酬が渡されますので、腕に自信があればそちらで生計を立てるのも良いでしょう。また、新たな階層や大掛かりな仕掛け等、探索に大きな影響を及ぼす要素を発見した場合、別途報奨金が支払われます」


 ここまでが一つ、と受付嬢は一旦区切るように言葉を切った。


「もう一つは、この街の施設や住人、あるいは周囲の村々から寄せられる依頼を受諾し、遂行すること。それも間接的な迷宮探索の一助──つまり冒険者としての活動と認められています。基本的にどの依頼を受諾するかは自由ですが──報酬目当てで実力に見合わない危険な依頼を選ばれますと、当ギルドの判断によって受諾を拒否する場合もございますので、ご了承ください。──以上が、あなたがこの街で冒険者となった際に負う責務となります。最低でもひと月に一度は、どちらかの活動とその報告を当ギルドへ行ってください。ここまででなにか質問はございますか?」


 ようやくお鉢が回ってきたが、長々と説明されたことを咀嚼して飲み込むように少女は考え込む。意外なことに、黙り込む冒険者志望を前にしても受付嬢は怒りも急かしもしなかった。


「もしひと月以上、そのどちらもしなかったらどうなりますか?」

「その際は当ギルドから警告を出します。それを放置した場合、冒険者登録抹消となります。抹消後の再登録は認められていませんし、未登録の者が冒険者として活動することを当ギルドも領主様も認めておられません。また、基本的に冒険者として登録された方は住民登録をしていませんので、実質的な追放ととっていただいて構いません」

「……じゃあ、"できなかった"場合は?」


 なぞかけのような少女の問いに、受付嬢は細めていた目をすこしだけ見開いた。


「冒険者としての活動に支障をきたすような大けがをした場合は、程度によっては猶予を設けます。再起不能と判断された場合は、残念ですが登録抹消となります。その場合は追放ではなく、なんらかの処置がとられますが──」


 冷徹な裁判官──ではなく受付嬢が、初めて言葉を濁した。そのような状態で生きて帰ってくること自体が稀、ということだろう。


「……迷宮内外を問わず、死亡、あるいは行方不明になった場合も同様に猶予期間ののち、登録抹消となります。生き残り……失礼、別動隊や他のパーティが捜索中ということであれば別途猶予を設けますので、その際はご報告を。他には、なにか?」

「大丈夫です。ありがとう」


 一瞬、時間が静止したように受付嬢が動きを止めた。が、それもまばたきするほどの間だ。

 ごほん、とまた咳ばらいが一つ。


「注意点を一つ。冒険者も、この街の住民であることに変わりはありません。窃盗、傷害、殺人──それまで如何に迷宮探索に貢献していようと、それら一切が考慮されることなく、犯した罪は法のもとに裁かれます。内容によっては登録抹消もありえますので、くれぐれも良識のある生活を送られますよう」

「はい」


 要するに、冒険者だからといって無法を行うような特権は与えられないぞ、と釘を刺されたわけだ。もちろんそんな気は毛頭なかった少女は素直にうなづいた。


「以上がこの街で冒険者として活動する上での、大まかな説明となります。異存なければ、こちらにサインを」


 説明された内容と、それに付随する細かな──本当に細かな制約までがびっしりと記された登録書の一番下にある署名欄を指して、受付嬢は言った。


「偽名、通名、愛称、なんでも構いません。もちろん本名も。あくまで冒険者として登録する名前、というだけですから」


 なんと適当な話だろうか──だが、そうでもなければ登録すらできない事情を持つものもいる、ということだろう。少女はカウンターの上に置かれたペンを取り、慣れない手つきでその名を記した。

 紙面にインクが染みこんだことを確認して、登録書の向きを逆にし、受付嬢へと差し出す。ギルド制服の大きな袖口から伸ばした手で受け取って、受付嬢はそこに記された名前を見つめた。


「……アリス様、でよろしいですね?」

「はい」


 少女の記した名は、どこにでもある平凡なものだった。本名のようにも、あるいは偽名のようにも思える。そして、そのどちらでもよかった。


「これにて冒険者ギルドへの仮登録が完了となります。このあとは訓練所にて職業審査を受けたあともう一度ギルドへお越しいただき、その結果──要するに適正のある職業を登録することで、冒険者登録が完了となります」


 先走って迷宮に駆けこんだりしないように──そう言いながら、受付嬢はアリスが腰に佩いている長剣を一瞥した。


「……あなたの場合は恐らく戦士でしょうが、これも決まりですので。訓練所の場所は──」


 説明を続けようとした受付嬢の声をかき消すような大きな音を立てて、彼女の──正確には総合受付の奥にある扉が、派手に開け放たれた。



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