1.チョコレイト
白は黒。
黒は白。
汚いは綺麗。
綺麗は汚い。
そんな世界のそういう話。
冷たい粗石が積み重なる貯水塔のかべを一匹のイモリがはう。
外はシンシンとふりつもる雪のように優しい。
肌寒い風がキシキシと塔を揺らしたかと思ったら、その塔に一つだけ、ぽつんとおとなしそうに閉じられていた窓があった。
ここよりも少し遠いところから、カルマート通りに知らせる時報の鐘が鳴ると、しばらくして、窓が動き始める。
重く、ギギギギィと音をたてて開かれ、そこから顔を出したのは目も覚めるような赤い髪の少女だった。
その顔は塔の下。橋向こう。川向こう。ここから一番近いダウンタウンへ向いていた。
ずっとずっと目を閉じたまま少女は深く息を吸った。
そして両手に向かって吐いた息は、かすかなチョコレイトのにおいをゆらゆらさせて、リボンが解かれたように消えていく。さっき食べた板チョコレイトの雲の味だ。
ふいに壁のイモリが走り出した。そのせいで小さなコケのつぶが、パラパラと少女の鼻の前にこぼれていった。
「ふ、ふ、ふ、ふぇっくしゅん!」
ずびずびと鼻水はぶら下がり、ピロピロ笛を吹いたかのような勢いだ。ひどく赤らげた顔をしながらポケットのちり紙で鼻を拭う。
「さっむいかな……」
窓際の椅子に掛けられていたあたたかい毛糸のポンチョを取ろうと手探りしながら、少女はゆっくりとまたひんやりする窓の金具に手を付けた。
一日中深い夜闇の帳が落ち、太陽という言葉すらない。この不思議な世界、ムルキヤ。
その西の方角にある町フルーエンピアトのカルマート通り、三小節目のはじまりに少女は住んでいた。
この塔は彼女の作業場。本当の家は、塔を出たらすぐにあるアーチのレンガ橋を通ったところにある。
毛糸のポンチョを羽織り、手袋をつける。そしてニット帽の三つ編みをチラチラさせて、彼女は愛用の杖をつく。
少女の家から川沿いに一本続くカルマート通りを歩き、ダウンタウンを目指して、杖で道を切り開く。
そう遠くない。歩いても彼女の足で30分くらいなのだ。
しかし、なぜだか今日は違った。
まず、川のほうからチョコレイトの香りがどんぶらこと流れてきたのだ。
無類のチョコレイト好きだったので、かつてなく少女は困惑した。
ダウンタウンで必ず買って帰るチョコレイトは、一番大好きなミルクチョコレイト。でもどうやら川に流れているのは、カカオ90パーセント以上確実のビターチョコレイトなのだ。たぶん苦すぎて吐きそうで泣きそうなくらいの。
どうしようかな。
川に流れてるチョコレイトなんて、やっぱり危険すぎるかな。よしたほうがいいかな。
が、すぐにその考えを改める。
そうだ、わたしはカルマート川の調律師だった!!
川べりに近よってチョコレイトの香りに集中した。びっくりすることに、チョコレイトの臭い主は人のようだった。動物かと思ったら少女よりも大きくて背の高い、男の人のようである。
杖も靴をぽーんと投げ捨てて、裸足になって川にゆっくりと入っていく。
深呼吸を一つして。
少女はきゅっと目を閉じて、チョコレイトの主がいる川の流れのはやい淵を目指した。不思議なことに彼女の足はするすると滑らかに透き通っているかのようで。川に入っているのにもかかわらず、足をすくわれるようなおぼつかなさは全くなかった。
岸から生えたのか、太い根っこのようなものがチョコレイトの主の襟首をひっつかみ、どうもうつ伏せで流れているため、天然川の首吊り状態になっていた。
「あの、大丈夫ですか?」
とりあえず声をかけたくて、扉みたくうつ伏せから仰向けにしてみた。
「うっげっほげっほ!」
「こんにちは」
「よう、じょ…?」
「生きてる?のかな」
「そうみたい、だな」
「ど、どうする?」
「……取り込み中だから、話しかけないでおいてくれ」
ぽちゃん。
こうして扉は数秒間の会話でくるりと閉じられた。
少女はよく分からないし、不自然だったので、しょうがなくそこで30分待った。
「いやちょっといつまでいるんだ!?長くないか!?」
「そうだよ!な、な、な、長すぎるよおおお!!!!」
「え?いや、僕は、別に待ってろとか……」
くるっと見上げた先には、互いに、泣きはらしている顔があった。
少女の深く閉ざされた瞳からぼろぼろと宝石のような雫がいくつもいくつも零れている。チョコレイトの主は、それが正直言って有難迷惑に感じた。だが怒りにも悲しみにもとれる表情が、自分と同じもののように見えてしまって、つい呑まれた。
「なんで生きてるの!?なんでずっと息してないの!?なんで死なないの!?おかしいよ!!怖いよ!!悲しいよ!泣いちゃうよおお!」
チョコレイトの青年は、30分たっても息の一つもしていなかったのだ。ただただ青白い苦しそうな顔をしたまま、生きていた。本当は水の中で涙を、流し、隠し、泣いていたのだった。捨てたかったのだ。
そのすべてが少女にとってあまりにも恐ろしく、奇怪なことだった。
うわあああん!!うわあああん!!と大きな声をあげて必死に泣きじゃくって、抱き着いた。チョコレイトの主は、その重みが、なんともいえないあたたかいものを手にしたような気持ちになった。
「えっと……うん。なんでだろうな。おかしいんだ。どうにも僕は」
「ひっく、ひっく……でもチョコレイトの匂いがするから…わたしは好き…。カカオ豆90パーセントいじょうのビター味だけどっ!」
「さっきから思ってたけど、それなんなんだい。チョコレイトとやら」
「なんかね、身体のどこかからチョコレイトの匂いがするの。どこだろ。ここじゃあないな」
くんくんくんと抱き着いた主の胸を嗅ぎ、次は手、腕、わき、首。といったところで少女はざばっと抱え上げられた。
「うんわかったわかったわかった。それよりもきみはどうしてこんなところに」
「わたしはエメナシュー。カルマート川の調律師!」
「あ、ああ。なるほどね。きみが僕なんかを助けようとして助けられたのも合点がいく」
「きみじゃない!エメナシュー!」
エメナシューよりも長い長い足を持つチョコレイトの主は、軽々とカルマート川の岸の上に辿り着くと、くさっぱらで、エメナシューのものと見られるとっ散らかった靴を拾う。濡れた足のままでいるのも良くないのでそれを片方ずつ彼女に履かせた。
「ぶえっくしょおおーい!!」
「…知らない人にはあまり関わりなさんな」
エメナシューの豪快すぎるくしゃみの音に、彼は顔を歪ませながら、その人差し指で空気を撫でる。
するとふいにぽかぽかする風がエメナシューの鼻先を吹雪いたかと思ったら、いつの間にか彼女の濡れた服がふんわりと乾いていた。
「な、な、な、何いまの!!」
「ただの風だろう」
「そんなんじゃなかった!サアーって!」
「はやくおかえり」
「ねぇもう一回!もう一回やって!」
「僕はもう帰るんだよ。じゃあね」
「……」
チョコレイトの主はばっさりとそう言い切ってしまうと、エメナシューは意外にもすっと身を引いた。
それに安堵して彼は立ち去ろうとすると、後ろから弱弱しい力が彼の外套を引っ張った
エメナシューは申し訳なさそうに、困った顔で、何かを探しているようだった。
「ごめんなさい。帰るから。でも目が見えないの。だから、わたしの杖、どこにある……?」
エメナシューの目はぴったりとずっと閉じたまま。チョコレイトの主もそれにはずっと気づいていた。
彼は無言で辺りを見回すと、どうしてか木に刺さった小さな杖を引っこ抜き、彼女の手にやさしく握らせた。
「ありがとう」
チョコレイトの主は、ぽたぽたと濡れた髪の毛を垂らしながら、黙り込む。
「えっと……」
「ほら、帰りなさい」
エメナシューの頭をポンポンと撫でると、一瞬にして彼の気配は最初からなかったみたいに夜闇に溶け込んで、消えていった。