ゾンビ映画のゾンビとは大衆のことである
一、ゾンビとは大衆のことである。(←結論)
言うまでも無いことであるが、ゾンビアポカリプスものでいうところの『ゾンビ』とは大衆のことである。
では、大衆とは何かというと、これは人間の九割以上を占めている神経症的な性質を持つもの、つまり去勢という過程を経て、人間精神を獲得した者たちのことを言う。
では、ゾンビ映画の主人公とは未去勢者の視点なのだろうか。
わたしは、この問いに対しては、イエスともノーとも言いがたいと考えている。
少なくとも、我々は統合精神に欠けておらずとも『大衆』を得体の知れないものと考えている。我々は大衆に属しながらも自分だけは大衆に属していないと信じている。その意味で、ゾンビ映画は『自省的』な作品である。
この構造を作り出したジョージ・A・ロメロ監督は、恐ろしく知性的である。
ともあれ、ゾンビ映画におけるゾンビとは大衆にほかならない。知性がなく、ノロノロと生前の習慣に従って動き、時に生者を襲い仲間にする、生きているのか死んでいるかもわからないものたちなのだ。
いくつかの事例をもとに、その証明をしてみよう。
二、ゾンビは数が多い。
再び、ゾンビ映画の巨匠、ジョージ・A・ロメロ監督の『死霊のえじき』においては、あるドクターがゾンビと人間の割合を、40万対1であると明言する。
このように、ゾンビは少なくとも数の原理において人間を圧倒する。
たまにゾンビが全力でダッシュしたり、壁を走ったり、組体操したりする作品があったりもするが、基本的にはゾンビは人間を数で圧倒するのだ。
このゾンビというワードに大衆という言葉をあてはめてみよう。
我々が大衆と対峙する場面というのはさほど多くはない。しかし、例えば、マスコミにしろなんにしろ『世論』という言葉や『常識』という言葉を聴いたときに、まず考えるのは、自分の内なる声と大衆の声とのギャップである。
このときに、まずその声が正しいかどうかという客観的な事柄はどうでもよく、多数決の論理によって正しさが決まっていくこともあろう。
去勢済み主体にとって、この多数決論理は神の言葉に等しい。自分の主義主張はともかくとして、実効性のある言葉として、その言葉は強制力を持つ。
例えば、電車の中でエロマンガを読んではいけないだろうか。法律的には微妙なところであるが、少なくとも常識には反しているといわれるだろう。
我々はゾンビの数に圧倒される。
数の暴力によって、そうせざるをえない状況にある。
この圧力を作品の中で『ゾンビ』というカタチに抽象化しているといえるのではないか。
三、ゾンビに噛まれるとゾンビになる
ゾンビに噛まれたり、あるいは傷つけられたりすると、自らもゾンビになる。
これもゾンビ映画の特徴である。
我々が大衆と対峙するときもこれとまったく同じ現象が起こる。
いわゆる同調圧力という現象である。
我々はエスカレーターで誰かが右に並んでいると、そちらにあわせるようにして立つことが多いといわれる。これは日本人に強い要素なのかどうかという問題も興味深いところであるが、少なくとも人間であればそのような現象がみられるらしい。
シンクロシニティという現象で、ある一定の好意を持つか、あるいは敵意がないことを見せるために、我々は相手と同じ行動をとるという。例えば、相手があくびをしたらこちらもあくびをしたり。
このように、我々は意図せず、あるいは意図して、大衆に合わせてしまう。合わせざるをえない。この自分というものが侵される嫌悪感をゾンビに仮託しているのだ。
四、ショッピングモール
ゾンビ映画でよくあるシーンといえば、ショッピングモールでの100パーセントオフの買い物である。
これを見たときに、まさに資本主義的な大衆の原理に逆らっている様だと理解できる。
資本主義とは、大衆の原理である。
まず、お金という幻想を共有しあっていなければならず、これを人類の9割が認識し、認定しあっているからこそ、資本主義というのは成り立つ。
アンチ・オイディプス論からすれば、さらに資本主義には権力という味付けがなされているが、大衆は権力に逆らえない。
ゾンビに考える頭はないのだ。
大衆に属していない未去勢的な人間だけが、資本主義を打倒できる。
かといって、映画の主人公が未去勢だというわけではないし、ゾンビ映画が反権力的な思想映画だというわけでもない。単純に、ゾンビ映画は俯瞰しているのだ。我々個人が『大衆』を思い描くときに、『大衆』がどれほど考えなしなのか。
五、破滅か逃避か
最終的にゾンビ映画は破滅か逃避かの二択になることが多い。
破滅パターンはゾンビがなだれこんできて、自ら引き裂かれるかあるいはゾンビになるかというパターンだ。
最後の引き金になるのは、『人間』であることが多い。
例えば、ドーンオブザデッドでは、略奪者に襲われてゾンビがショッピングモール内になだれこんでくる。
このときの『人間』はきわめて反社会的である。
だから、ゾンビ映画で本当に怖いのは人間であるといわれたりもする。
しかし、今一度思い出してほしいのだが、あくまでゾンビ映画の主体となっているのは『ゾンビ』である。
このゾンビが、本能の奔流となって人間を襲うとき、ひとりひとりの個性は解体される。
言ってみれば、略奪者はデマゴーグであり、大衆を扇動した者であるが、そいつらもまた大衆をコントロールすることができずに、滅びてしまうのだ。
無力な人間は、ゾンビを駆逐することはできず、ただ逃避するのみである。
六、かくしてゾンビ映画はたゆまぬ歩みを続ける。
このように、ゾンビ映画とは大衆という、いわば我々の集合的無意識を顕在化させた作品なのである。したがって、ゾンビはただの恐ろしい怪物なだけでなく、奇妙な愛らしさも、輝くような知性も有していなければならず、一匹一匹は恐ろしく弱くなければならない。
あえて言おう。
原理主義者であるといわれるかもしれないが、ゾンビは走ってはいけないのである。