表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
調律師  作者:
1/2

〈上〉

神様は、存在する。

彼は、間違いなくこの世の神様である。

彼は、間違いなくこの世の全てを見ている。

……が、神様というものはそもそも、この世に伝わるような善良なものではない。祈りや懺悔も受け取らない。人間が滅びようが、自然が破壊されようが、地球そのものがなくなろうが、彼には何も感じない。


俺の知っている神様は、そういうものである。



「はは、所詮神様だって人間と同じさ。人間が道端の石ころに無関心であるように、神様だって宇宙の端っこの地球に住む人間なんかには無関心なんだ。

けれど、どうして俺が、その神様を知っているのかと訊かれれば、それは俺が〝調律師〟だからだ」

少年は笑った。

「調律師ってのは……うーん、そうだな。説明するとするなら、神様が、感情を持つ愚かな人間のために作った、まあ所謂、神様の暇つぶしだよ。

別に、人間を救おうとして創ったわけじゃない。あくまで、彼は自分の娯楽の為に、調律師を創った」

少年は、どこにでもいそうな、ごく普通の男子高校生だった。

身長も高いわけではない。恥ずかしがりな部分を持ち合わせ、本を読むのが好きでよく読書をしていた。目立った人間ではないけれど、好感を持てる人間だった……それも、つい先ほどまでの話だが。


別人に見えた。

少なくとも、彼はこんな表情をする人間ではなかった。

こんな……心底興味がなさそうな、有る意味恐怖を感じてしまうような表情。


「お前は、誰」

「誰とは愚問だね、長い間一緒にいた友に向かって」

「シノ、なんだな」

「そうだな。あえて言うなら、お前がよく知ってるシノだよ」

「小さい頃から、一緒に遊んでた…シノ、なんだよな」

シノはため息をついた。

「そうだな、この際だから全て言ってしまおう。初めて俺を、異常だと感じてくれた、お前には」

そう言ったシノは、どこか寂しそうだった。

目を細め、手で顎を触る。

この仕草―――目の前のシノが今まで自分と一緒にいたシノならば、この仕草はシノが何か嫌なことを周りに悟られないように隠している証拠。どこまでが、本当のシノなのか。もうそれを知るのはシノ本人だけではあるが、この仕草をするシノは本物だと、信じたかった。


「俺さ、死なないんだ。もう長いこと、生きてる。俺の両親より、俺はずっと年上さ。

もうずっとずっと、ずっと……長い間俺は生きてた。とはいえ、不老不死とかじゃあない。

体は死ぬが、まあ言葉で表すなら俺の〝記憶〟がね、次の命に引き継がれる。


俺はシノ。

でも、その前はトウヤ。

トウヤの前はヨウゾウ。

その前は…なんだったかな?


もう、初めて生を貰い受けたときの、自分の名前すら、思い出せないよ。

ねえ、俺は人間なのかな?」



………


なんと、答えたのか。

それすらも、もう思い出せない。


確かなのは、シノが僕の答えに微笑んでいたこと。

いつもの、笑う時に目元にできる皺が、とても懐かしく感じたこと。

それだけは、はっきりと覚えていた。



もう、〝あれ〟から百数年経った。

僕は二度目の生を受けた。何のきっかけだったのかは、今だに僕には理解出来ない。

ただ、〝あの出来事〟のあと、僕は確実におかしくなった。


シノは僕に謝った。何度も、何度も。


そして、あいつは言った。

〝お前は、俺が生きてきた途方もない生の中で、最も大切な……友だ〟


今考えてみれば、それがきっかけだったのかもしれない。

その言葉を聞いた瞬間、瞼がとてつもなく重くなった。

目を開けていられない、身体中も重くて立っていられなかった。


目を開けたときには、いつもの日常になっていた。

起きては寝、起きては寝、何年も何年も。

やがて、"僕"は寿命を悟り、息を引き取った。


体が動かなくなる感覚。苦しさにもがこうとも、もう体はいうことをきかない。

世界との別れに途端に切なくなるも、涙も出ない。

足先から、手先から、枯れていく感覚。


ああ、死ぬんだ。

そう思う間もなく、まるで眠るように逝った―――…はずだった。



煩わしい光が、瞼の向こうでうるさく光る。起きろ、起きろ、と言われているみたい。

その光に促されるように、重い瞼を持ち上げる。


決して、信じられるような話ではない。が、僕は生き返っていた。

否、正しくは―――光野遊星みつのゆうせいという名前の人間になっていた。

優しい父と母に囲まれ、祝福されながら生まれた、光野遊星という人間に僕はなった。


最初は、理解できなかった。だが、次第に僕は理解した。


16年間、彼はこの地で生きていた。

僕は、そのミツノユウセイの人格を、僕の人格に塗り替えた。

つまりは、僕がミツノユウセイという人間を消し去ったのだ。ミツノユウセイとして生きてきた体に、僕が乗り憑った。16年間生きてきた彼の人格は、僕の人格に押しつぶされて消えた。僕は、彼の体を乗っ取る形で、この世に再び生を受けた。


なんて身勝手な話だ。

僕が生き返ったせいで、ミツノユウセイは突如としてこの世から追い出されてしまったのだ。


もはや、僕は普通ではなかった。



「なるほどね。こりゃ、クソみたいな気分だ」

僕の記憶が、他人に乗り憑る。

ミツノユウセイの記憶は全て僕の記憶となり、ミツノユウセイの性格は僕の性格となった。記憶も性格も、僕がもらい受けた。だから、僕が僕として生活をすれば、周りに違和感を与えることなく、自然に生活できるということだ。


今僕は、高校生。

シノに全てを打ち明けられた〝あのとき〟と同じ歳だった。


「僕は、〝調律師〟になったのか」

シノがどうなったのかは、今となっては知る由もない。

けれど、僕は生き返って、ミツノユウセイとして生きている。それがたまらなく煩わしく、また悲しくもなった。



「やあ、キミが新しく資格を受け取った、ユウセイだね」

二度目の高校生活に半ばうんざりしていたある日、玄関に不審者がいた。

「宗教の勧誘とかなら、間に合ってますんで」

「あああ、違う違う。そんなんじゃないから逃げないで、待って」

そそくさと早足で去ろうとする僕を見て、焦って追いかけてくる。


警察に連絡した方がいいのかな。

思考を巡らせているうちに、不審者は、僕の早さに合わせて隣を歩いた。

ちらりと横目で彼を見るが、彼は着物を着ていて物珍しさはあるものの、普通の男だった。


「誰なんですか、あんた」

「私は、キミと同じ調律師の資格を持つ人間さ。

キミはまだ、代わったばかりだからね。神様とコンタクトすらとれていないんでしょう?

調律師として、私がキミの案内役となったんだ」

「ふーん」

「私の"今の"人間の名は、島田幸成(しまだゆきなり)。年上だとか、先輩だとか気にせず、気軽に呼んでくれれば…」

「じゃあ幸成さん」

「早い、順応がッ」

「順応力があるのは、僕の取りえです。幸成さん、さっそく質問いいですか」

「うん、何でも聞いて」

「遅刻しそうなんで、僕学校行ってもいいですか?」

「……」


絶句した幸成さんをおいて、学校へ向かった。

その間僕は、シノのことを思い出していた。

やはり僕は、シノに〝調律師〟としての資格をもらったんだ。

幸成さんの話を聞いて、確信を得た。


死ぬ時の感覚は、思い出したくもない。

調律師、というものは、死なないとシノに聞いた。

僕はあと何回、僕を看取ればいいのだろう。


結局、考え事に押しつぶされて、今日の学校の記憶は全くない。



「学校、集中できなかったかい?」

「なんでいるんだ」

校門の前に、今朝の―――幸成さんが立っていた。

幸成さんは僕の反応に苦笑しながら、腕を組んだ。

「私もね、生を受けるのは三回目だけれど…一番初めに、〝調律師〟の話を聞いた時は一日中考え込んだものさ」

「はぁ、そうですか」

気のない返事をすると、幸成さんは僕の顔を覗き込んだ。

「場所を変えよう、私の家においで」

「いや僕知らない人にはついて行かないように常日頃言われてまして…」

「私が信じられないかい?ふむ、それならば少々手荒だが…」

幸成さんはそういうと、自分の大きな手で僕の目元を覆った。

僕と違ってひんやりした手が、いきなり顔に触れて、息が詰まった。


真っ暗な状況だが、すぐに僕は落ち着いた。

目隠しされただけだ、どうでもない。

「怖いかい?」

「いや…ていうか、何してんですか」


怖いより何より、ここは校門である。

部活で半分以上の生徒はまだ学校にいるものの、帰宅部や今日は活動しない部活はみんなここを通る。

僕はあまりクラスでも馴染めていない方だけれど、明日は質問されるに違いない。こんな不審者紛いの着物男に、目隠しをされているなんて、普通じゃない。


「ああでも、僕はもう普通じゃないのか」


体裁を気にしているが、僕は既に普通ではない。

普通ではないのに、普通に生活をしているなんて。

「滑稽、だよな」

まるで、身を潜めてのうのうと生活する殺人鬼のようだ。



「想像して、ここは息ができない場所。

水の中でもいい、宇宙でも。

息を吸おうとしても、空気がない。

キミはもがく、苦しむ。

やがて恐怖する。

自分は、助からない場所にいる。


キミはもう、体験したはずだ―――死の、向こう」


目隠しをされているからか、いつもより声がよく聞こえる。

頭の中で、イメージが急速に組み立てられた。


ああ、イメージなんかではない。これは、実体験だった。


苦しい、苦しい。

それでも、もう助からない。

怖い、怖い。

それでも、誰も来ない。


死を覚悟するというような場面。アニメやドラマで、ありがちなシーン。

それでも、お決まりな光景の中。自分の本意ではなく死んでいく人間、命を落とす勇敢なヒーローでさえ、決まって死ぬ間際は思うのだろう。


「死にたくない」


そうやって、僕も死んだ。



「ご、ごめん。泣かせるつもりじゃ…あ、もう目を開けて大丈夫」

隣から困惑する声が聞こえ、目隠しがゆっくりとはずされた。

しかし、目の前に広がるのは、見慣れた校門なんかではない。

いつの間にか、生徒達の声も聞こえない。

それどころか、生きている心地すらしない。


まるで、そう―――…明晰夢を見ているような。


僕は袖で目元の涙を強引に拭い、辺りを見回す。

真っ黒だ。

暗いのか、黒いのか、判断がつかない。

明りがあるのだろうか。

幸成さんの姿がはっきりと見える、けれど光がどこにも見当たらない。


「どこ、ここ」

「ここは、まあ私たち〝調律師〟の間で〝今際(いまわ)の地〟と呼ばれる場所だ。夢か、現実かと訊かれたら、夢に近い。ここでは痛みも苦しみも感じない。

けれど、長居はしてはいけないよ。

ここは安楽ではあるけれど、これらは全て本物ではない」

「今際…」

「目を閉じて、死の感覚を脳内に浮かべると、ここに来ることができる。

まさか、泣くとは思わなかったんだ。

いきなり目隠しして、ごめんね。怖かっただろう」

「いや、いいです。それより…ここは、何」

「ここは、神の住処」


変な感じだ。

目の前で喋っているのに、耳から音が入ってくるわけではない。

言うなれば、頭に直接音をたたきこまれているような、違和感の感じる会話。

ここは、本当に普通の場所ではない。


「〝調律師〟はみんな、ここに来ることによって、神様とコンタクトをとるんだ。

遊星くん、神の名前は"   "という。さあ、呼んでみて」

「ちょっと待って、今の何語?聞き取れなかったんですけど」

「大丈夫、資格は既にもらっている。あとは、勝手に喋ってくれるさ」

「わけわかんないんですけど」

何がなんだかさっぱりわからない、が、調律師の情報を掴まなければならないため、ここで引き下がることもできない。とりあえず、聞きとれた部分だけ…と口を開く。

「"   "……え、は?僕、今…」

勝手に、喋った。

しかも、口にしたのは幸成さんが言った〝神の名前〟とやらと同じような言葉。自分で言った言葉が、自分で聞きとれていない。僕は今、なんて言ったんだ。

思わず口元を押さえると同時に、視界の黒が歪んだ気がした。

「はッ……」

ぐらり、と地面が揺れる。


いや、そもそも地面なんてないのかもしれない。

全ては夢の中、痛みもなければ苦しみもない。

恐怖なんか、感じる必要もない。


隣をちら、と見ると、幸成さんは平然としている。


それでも、得体のしれない場所で、得体のしれない状況だ。

恐怖が押し寄せるのを、ぐっと耐えた。



「はは、呼んだか?」

背後から、声。

あれ、なんか―――聞き覚えが。

「―――……し、の…?」

そこに立っていたのは、昔の親友。そして、僕を異常にした調律師。

「いいや違うな。この姿は、お前の記憶から拝借した。俺には姿形がないのでな、こうしてお前らの中の記憶の人間を使うのだよ」


シノ、ではないのか。


それはそうか。

ここは、ほぼ夢の世界。シノが出てきても、おかしくは…ない。


「この人間が、お前の記憶の中で一番大きかったものだから。どうだ?似ているか?」

「……幸成さん、この人が…神様?」

「ああ、まあね」

「なんか、思ったより普通、かも」

僕の言葉に、シノの姿をした神様は首を傾げた。

「さてな、お前らにとって何が普通で何が普通でないのかなど、俺の興味の範囲外だ。

ただ俺は、お前らが俺の暇つぶしになるように、働いてくれればよい――――ああ、お前」


幸成さんが僕の背中に手を添えた。

どうやら、僕の事らしい。


「お前は代わったんだってな。お前の先代調律師はよく働いてくれた。お前も、頑張れよ」

先代、というのは、シノのことだろうか。やはり僕は、シノから受け継いだのだ。

「働く、て?」

「なんだ?調律師の仕事を教わっていなかったのか?

お前、何のためにお前を案内に行かせたと…」

「すみません。先に、挨拶を…と思いまして」


神様はじっと幸成さんを見る。苦笑した幸成さんは、僕に向き直った。

「調律師の仕事は、簡単だ。生きる価値のない人間と、生きる価値のある人間を見極めること」

「生きる、価値…?」

「そう。キミが生きる価値のない、と思った人間から、生気を吸い取るんだ。ただ、その人間が死ぬ映像を頭に浮かべながら、その人間に触れればいい。

触れる場所は、どこでもいい。

死ぬ映像も、なんでもいい。

刺されて死んでも、溺れて死んでも、飛び降り自殺でも。なんでもいい。触れればたちまち、その人間は死ぬ。

吸い取った生気を、生きる価値のある人間に渡せばいい。これも、相手に触れる。

今度は、その人間が幸せになる映像を頭に浮かべる。


それだけさ。簡単だろう?


ああ、ちなみに。

"調律師"の資格の受け渡しは、一万人の"見極め"を終えたのちに可能になる」


い…いち、まん、にん…


「…そ、れは……」

僕は、頭が真っ白になった。

「僕が、殺した事に…なる…」

「殺すのは嫌か?」

神様が笑う。


ああ、この人はやはり、シノではない。

まるで、状況そのものを楽しむように笑うこの世の神様は、何倍も質が悪いように感じた。


「嫌だ」

「何故?」

嫌だ、と言うのがわかっていたように、神様の切り返しが早く、僕は言葉に詰まった。

やっと絞り出した言葉も、かすかに震えていた。

「命を、奪うだなんて…」

「それは本当にお前が命を奪ったのか?」

神様はにいっと口角を上げた。


「お前はただ触れるだけさ、その人間のことなんか知ったこっちゃないだろう。


それならば訊くが、お前は命を奪ったことはないのか?

あるだろう。

この世を生きれば、誰だって誰かの命を奪う。それは俺が作った、この地球での摂理だからだ。

豚や牛は殺すが、人間は殺せない。

そんなのは意味のない同族意識か、或いはただの馬鹿だ。


そもそも、触れてはいけないと言うならば、どこからが人を殺すことで、どこからがそうではないのか。


ある少女が自殺したとする。

これは、自分から命を捨てたものだ。ところが、この少女は学校でいじめられていた。

さらに親には相談できず、一人で苦しんでいた。

さらに、ある日ふらふら歩いていたら男とぶつかって、罵声を浴びせられた。

転んだ彼女は、顔に偶然落ちていた犬の糞がつく。


自分の不幸に絶望した彼女は、そうして死んだ。



さて、この少女を殺したのは誰だ?


いじめていた学校の人間か?

気付かない能無し教師か?

知ろうともしない馬鹿な親か?

罵声を浴びせた男か?

糞を落とした犬か?

それを拾わない飼い主か?


それとも何か?

そもそも学校なんかなければよかった、と。少女を殺したのは、学校の創始者になるのか?


殺したのは、殺したと自覚のあるものだけさ。

現に彼女は、自分で死んだ。

自分で死んだというのに、誰かが殺しただなんて言ったら、筋違いだろう?」


確かに、そうかもしれない。

神様の言うことは、合理的かつ正しいのだろう。この世を創った神なのだから、世界の〝正しさ〟が神そのものになるのは、頷ける。

殺した、殺してない、その境目は〝自覚があるのかないのか〟という一点だけである。


けど、


「はは、ムカつく野郎だ」

僕は笑った。

「そんな屁理屈、どうでもいい」

「ほほう、どうでもいい、か。しかしお前はもう調律師だ」

神様は、暴言を吐く僕を気にも留めない。

本当に眼中にないのか、それともおもしろがっているのか。

「だからなんなんだよ。僕はお前の思い通りにはならない。

生きる価値がある、ないなんて…僕が決めることじゃあない。僕は、神様じゃあないから」

「神ではないが、神の力を持った人間だ」


僕は息をついた。

「…帰る。幸成さん、帰りましょう」

唐突な僕の言葉に、幸成さんははっと我に返る。

「か、帰るのかい?」

「ああ、もういいです」

僕は頷いた。


きょとんとしているシノの姿の神様は、目を丸くした。

僕は神様に向き直り、親指を立て下に向けた。

「僕は、神様なんて信じない。お前なんか、くそくらえだ」


気にくわない。

シノを壊したのはこいつだ。

シノを苦しめていたのはこいつだ。

長い間一緒にいた親友は、〝こんなこと〟をさせられていた。

長い間、ずっと、ずっと。


一万人殺したあいつは、どんな気分だっただろう。

終わらない生に苦しみながら、すり減った精神で、藁にもすがる思いだったのかもしれない。

僕はシノに巻き込まれた形で、調律師となった。


けれど、憎む気にはなれなかった。

これは、同情心からか、はたまた別の感情からか。


シノの最後に見せた、懐かしい笑顔が―――頭から離れなかった。


………


「まさか…喧嘩を売るとは…」

幸成さんが、僕の足元にしゃがんで項垂れている。

「幸成さん。幸成さんは、もう既に調律師の仕事をしてるんですか」

僕が訊くと、幸成さんは一瞬間をおいて頷いた。

「責めるかい?」

「いいえ」

僕の返答に、幸成さんは驚いたように僕を見上げた。

責められる、と思っていたのだろうか。

許されたことに気が解けたらしく、幸成さんは弱った表情を浮かべた。

「初めはね…我慢、できると思っていたよ。殺さずに、ずっと生きること。

死ぬのは怖いし、生きていて楽しかった。

けれど、三度目の生を受けて感じてしまった―――私は、終わりのない生を貴重だと、尊いものだと…思わなくなっていることを。

終わりがあるから、貴重だと皆が感じる。

最近ね、私は人間が物にしか見えないんだ。人形や、ロボットにしか。


怖いんだ。

このまま、何度も何度も生を受けて、私は人間でいられるのだろうかって。

このままだと、大切な人さえ手にかけてしまいそうで。

そうやって、だんだんと狂っていく自分に恐怖を感じていた」



しゃがんで膝を抱えていた幸成さんは、頭を膝に落とす。

くぐもった声が、罪悪感に塗れていた。


「遊星くん」

「はい」

「とりあえず、これ…私の連絡先。困ったことでも、悩み相談でもいい。何かあったら連絡してね」

僕の手に二つに折られたメモ用紙を置いた幸成さんは、手を振って去っていった。



生きる価値のない人間なんて、山ほどいる。

いや、そもそも価値なんて、人間が決めてはいけないものだろう。

「ああ、僕は人間じゃないのか」

そう思うと、納得できた。


生きる価値のない人間の命を、生きる価値のある人間に渡したら、この世はどうなるのだろう。

なかなか効率的な世界になる。

けれど、それで正しいのかと聞かれれば、安易に頷くことができないのが現状だ。


道徳的な面と、効率的な面。

現在は、中立の場所にあるこの世。


僕たちがやろうとしていることは、効率的な面の特化。

「僕から見た、人間のクズはたくさんいる」


集団いじめを楽しむ生徒、ゴミを平気で捨てる子供、虐待する大人、罪を犯す人間。


罪、という言葉さえ、人間が作った言葉。

罪とは、どこからどこまでの話なのだろう。

どこまでが許すべき罪で、どこまでが断ずべき罪なのだろう。


神様の視点で見れば、人が殺されようが、泣き叫ぼうが、滅びようが、ただの"映画"のような気分で笑うのかもしれない。笑いながら「こいつら、馬鹿だなあ」なんて吐き捨てているのかもしれない。

それでも、人間にとっては大きな出来事だ。

それは、"感じることのできる"人間だからこそ、わかるのだろう。


「―――ああ、だから」

神様は、僕たち人間に裁かせるのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ