乙女ゲームのエンドロールまで
「お父さま、あれを僕にください」
わたしの方を指さしながら、その少年は父親に玩具でも強請るように、そう言った。
西園寺家の、嫡男の誕生パーティの席でのことだ。
彼――西園寺幸人さまは、今年で六歳になる少年だった。
幸人さまの暴言に、周囲の人々がざわめく。
ホテルの会場を貸し切っての立食パーティだ。
きらびやかなドレスをまとっていた女性や、夜会用の礼服を身につけていた男性が、そのパーティの主役の発言に度肝を抜かれたような顔をしている。
メイドらしき女性が、慌てたように少年の小さな肩にふれた。
「坊ちゃま、何をおっしゃっているのです……? あの方は、花園家のご令嬢ですよ。そんな失礼なことは……」
わたしは、ぎゅっとピンク色のレースが愛らしいドレスのスカートを握りしめた。
子供用のドレスだ。だって、仕方ない。わたしは、まだ六歳だ。――たとえ、前世で二十歳まで生きた記憶持ちであっても。
だから、パーティには来たくないと言ったのだ。
――これは、ゲームの始まりの合図。
けれど、父親にも仕事の付き合いがあって、優しい母親にも「お母さまは、まりなちゃんと一緒に行きたいわ」とお願いされてしまったら、子供のように駄々をこねることもできなかった(見た目は子供だけど)。
わたしは、西園寺幸人さまをじっと見つめる。
漆黒の瞳、烏の濡れ羽色のさらさらとした髪。
その端整な容姿も人目を引いたが……何より、彼には子供ながらに王者としての気品があった。
他人に命じることに慣れている。そう、感じさせられる。
幸人さまの眼差しが、痛いほどに注がれている。あまりにも強烈な視線に、わたしは彼から目を逸らすこともできなかった。
その妙な緊張に包まれていた場を引き裂いたのは、わたしの父親の笑い声だった。
「幸人さまは、とてもユニークな方ですね」
わたしの父親の発言に、幸人さまの父親が――どこか申し訳なさそうな顔をした。
「花園さま……愚息が、失礼を致しました。まりなちゃんも、幸人が失礼なことを言って、すまないね。どうも甘やかしすぎたせいか、おもちゃと人間の違いも、わかっていないらしい」
「いえいえ、まりなは出来た娘ですから。気にしていませんよ。――そうだ、まりな。せっかくだから、幸人さまと仲良くしたら良い」
父親がわたしの肩をつかんで、朗らかに言った。
顔をしかめてしまいそうになるのを堪えて、わたしは無理やりに笑みをつくった。
「ええ、もちろん。わたしも、幸人さまと、仲良くしたいわ。よろしくお願いしますね」
わたしは決して父親や、パーティの主催者の面目をつぶすような真似はしない。
たとえ、どれほどに西園寺幸人さま――あなたが嫌いでもね。
仲良くなる気なんて、さらさらない。
それでもこの場をうまく収めるために、わたしは嘘をついた。
わたしの表情を見て、幸人さまは、ポカンとしたような間抜け面をさらしていた。
その変化に、わたしは内心では「あれ?」と、違和感をおぼえた。
なぜ、彼は鳩が豆鉄砲くらったような顔をしているのだろう。
……まさか、試された?
わたしは慎重に、幸人さまの様子を観察した。
このパーティには、大人だけではなく良家の子息子女もたくさんいる。
西園寺家の子息といえば、日本でも有数の大企業の御曹司。
しかも天皇家との縁の深い、旧華族の家柄だ。
そういう名家の息子の息子として生まれれば、幼いころから婚約者がいて当然だったりする。
この場には、その地位を虎視眈眈と狙う者も多いだろう。
西園寺家と繋がれば、繁栄は約束されたようなものだと――社交界の大人たちが、いつか口にしていたことを耳にしたことがある。
ちなみに、我が花園家も、残念ながらその一員だ。
父親も会社経営をしているが、それでも中小企業のこと。
本来ならば、ここに呼ばれることなどないはずなのだが、母親が名家の出身だという縁で、今回は招待された。
だから、父親が、どうにかして、この場でコネクションを作りたいと考えているのは、理解できる。
――理解できる、けれど……。
わたしは絶対に、幸人さまは選ばない。
もちろん、他のキャラクターも。
――この世界がゲームだと知ってから、わたしは自分自身にそう誓っていた。
1
ゲームと同じ、金持ち学園に入れられてしまった。
他の公立の学校がよかったが、幸人さまを筆頭にして――父親にも強くその学園に進むよう訴えられてしまったため、自分の意思ではどうにもならなかった。
というか、こちらの意思など無視して、いつのまにか願書も入学金も納められていた。
小・中・高とエスカレーター式なので、高校一年の春になった今でも、幸人さまと離れることができない。
幸人さまは、生徒会長になっていた。
「まりな、考えごと?」
やわらかな声が、耳朶を打つ。
わたしは考え事のために俯いていた顔をあげた。
格調高い執務室――といった風情のある生徒会室だ。
室内にある家具はアンティークで揃えられており、あたたかみと重厚感をもたらしている。
桜蘭学園は、通常の学校ではありえないほどの広さを誇り、敷地内には手入れされた庭園がある。
この生徒会室は南向きの二階にあるので、窓から外を眺めれば――学園の正面にある女神の噴水を目にすることができるだろう。
前世では一般階級で暮らしていた身からすると、こんな世界があるのか、と感嘆してしまう。
それとも、ゲームの世界だから、大げさに描かれているのだろうか。
「まりな、また自分の世界に入っているね? 僕の方を見てよ」
幸人さまの声は、とても耳に心地よい。
演説などしたら、さぞ栄えるだろう、と他人事のように思う。
まるでモデルのような、すらりとした体型だ。
幼い頃の面影をわずかに残しながらも、幸人さまはすっかり大人の男になってしまった。
近くにやってこられると、身長差で――わたしは、いつも首を傾けなければならない。座っていても、立っていてもだ。
かつての傲慢さは鳴りをひそめ、幸人さまは今では誰の目から見ても、物腰のやわらかな青年に成長していた。
――その胡散くささに気付いているのは、きっと、わたしくらいだろう。
幸人さまは六歳にして、周りを試すような言動をする子供だった。
周囲の目をあざむくような態度をとることくらい、この西園寺幸人さまにとっては造作もないことだろう。
幸人さまは、わたしの隣に腰を落とすと、胸丈まであるわたしの髪にふれた。
そして、わたしの肩口に頭を乗せてくる。
その重みと、頬にかかるさらさらとした髪で、わたしは少し目を見開いた。
「……幸人さま?」
「ようやく、こっちを見た。……いつも、きみはどこを見ているのかな?」
「どこと、おっしゃっても……」
ここは『シンデレラは眠らない』という、乙女ゲームの世界だ。
そして、目の前には大嫌いな幼馴染である、西園寺幸人さまがいる。
六歳の誕生日パーティ以来、幸人さまに妙に好かれてしまって――もちろん親同士の目論見もあってだが――わたしは幸人さまの遊び相手にさせられてしまっていた。
それから十年だ。
口で言うのは簡単だが、十年もの歳月……ずっとそばにいられてしまえば、やはり多少は、情も湧いてきてしまうのが人間というものだ。
幼馴染という気安さもあって、ここまで接触されていても、わたしには抵抗や嫌悪といった感情は湧いてこない。
――まあ、さすがに毎日のように肩やら髪やら手やらを触られているせいで、慣れてしまっただけなのかもしれないけれど。
もちろん、キャラクターの誰とも付き合わない、という意思に変わりはない。
わたしはずっと、あの誓いを守っている。
「――まりな」
吐息が口元をかすめるのを感じて、わたしは顔を引いた。
幸人さまがじっと、こちらを観察するように見つめている。
少し身動きすれば、唇同士が触れ合いそうなほどの近しい距離だ。
幸人さまの瞳には劣情の火がともっていて、わたしは、わずかに身を強張らせた。
「……大丈夫、約束どおり――卒業するまでは、何もしないから」
幸人さまはそう笑ったが、わたしの首元に落ちる吐息は……熱い。
わたしたちは、対外的には婚約者ということになっている。
それは幼い頃からの幸人さまの訴えだったし、わたしの父親がそれを歓迎してしまったせいだ。
家格が違いすぎる、と最初は難色をしめしていた西園寺家も、幸人さまの強い要望をはねのけることはできなかったらしい。
……けれど、そこに、わたしの意思などない。
第二次性徴って残酷だな、と思う。
最初は、ただの面白そうな玩具としての興味しか、幸人さまにはなかったと思う。
まわりは言うことを聞く大人ばかりで、六歳の子供の命令にしたがう者たちばかりだったのだから。
――だから、きっと、あれは彼なりの世界への反抗だったのだろう。
実際のところ、わたしと幸人さまはこれほど近しい距離にいながら、見知らぬ他人ほどに心の距離が離れている。
『僕たちは婚約者になったから』
そう、中学生になった時に、幸人さまから言われた。
わたしは少しだけ目を見開いた後――口元に、作り物の笑みを浮かべた。
もはや自分に馴染んでしまっていて、どこまでが嘘なのか、自分でもわからない微笑みだ。
『……そうですか』
ここで格下である花園家が袖をふれば、西園寺家に対して失礼なことになってしまう。
そもそも、父親と西園寺家の総意だ。
ただの中学にあがったばかりの小娘が、口を出せることではない。
――だから、わたしは家を出る決意を固めた。
そして卒業まで何もしない、という約束を、幸人さまに取りつけた。
さすがにどうにかして働くにしても、高校くらいは卒業していないと世間では厳しいということは、わたしにもわかっていたから。
逃げたという事実も体裁が悪いので、友達とどこかの山登りや樹海に行った結果、行方不明という形を取ろうと思っている。
前世のわたしは、病弱な子供だった。
一日の大半をベッドの上で過ごしていた。
二十歳まで生きられたのが、むしろ不思議なくらいだ。
暇にあかせてゲームばかりしていたから、こんな世界に転生してしまったのかもしれない。いや、果たして転生なのか。
もしかしたら、わたしはまだベッドの上にいて……こんな、現実感のない夢を見ているのかもしれない。
――そんなとりとめのないことを、考えてしまう。
「痛……っ」
いきなり首筋に痛みを感じて、わたしは顔をしかめた。
わたしの肩口に顔を埋めていた幸人さまが、どこか冷えた眼差しで、わたしを見上げている。
「まりな……いま、なにを考えていたの?」
「……幸人さま?」
わたしは先ほど痛みを感じた首筋を、手で押さえつける。
思い返せば、痛みの前に――まるで唇のような柔らかい感触を、そこに感じたような気もしていた。
幸人さまは眉をひそめている。
「……僕に信じさせてね、きみだけは」
その言葉に、わたしは意識が前世に引きずり込まれるのを感じた。
確か、幸人さまのその台詞は、ゲームが終了するときに言われる言葉のはずだ。
心臓が、激しく脈を打つのを感じる。
――まさか……ゲームは終わった?
いや、ゲームは高校が終わるまでのはず。
桜の下で、選んだキャラクターの一人と、微笑んで終わるシーンのはずだ。
けれど、わたしは、まだ高等部一年になったばかり。
――ここは、もしかしてあのゲームとは内容が違う?
唐突に、湧いてきた疑問だった。
もしかしたら、幸人さまエンドで終わったのかもしれない。
だとしたら、わたしは、もう自由なはずだった。
自分で選択する権利を得ているはずだった。
「……まりな? どうしたの、熱でもある?」
幸人さまが、わたしの額にそっと手を置いた。どこか、心配そうな表情をしている。
「いえ……いつもと同じです」
そう言いながらも、やんわりと幸人さまの手からすりぬけて、立ち上がった。
幸人さまは、わたしをじっと見つめている。
「そうかな? 青くなったり、赤くなったりしていたけど……」
「……そうですか?」
――おかしい。
わたしは、できるだけ本音が外に表れないように、努めていたはずだ。
こんなに幸人さまにバレバレだったなら、もう少し態度に気をつけなければ……逃亡が発覚してしまう。
わたしが頬に手をあてて微妙な気持ちになっていると、幸人さまが、くすりと笑った。
「――まりなのことなら、何でもわかるよ。だてに十年も、きみを見ているわけじゃない」
その言葉に、一瞬、囚われそうになった。
けれど、意思の力で振りほどく。
わたしは幸人さまに背を向けた。
ケータイに着信が残っている。迎えの運転手からだった。
「……先に帰ります。車が迎えにきていますので」
「ああ、気をつけて」
何故だか、その言葉に含みを感じた。
わたしは立ち止まって、ふいに思い出したことを、幸人さまに尋ねた。
「そういえば、わたしは……何故、ここに呼ばれたんでしたっけ」
わたしは生徒会メンバーではない。
普段ならば、副会長や会計や書記である他のキャラクターたちが、放課後はこちらに集まっている。
けれど、放課後に呼びだされて、幸人さまと二人きりで話して終わってしまった。
他のメンバーがいないということは、これは『あえて作り出されたシチュエーション』のはずなのに。
幸人さまは、どこか自嘲とも取れる笑みを浮かべる。
「……何でもない。ただ、まりなと、少しの時間でも、過ごしたかっただけ」
「……そうですか」
わたしは一礼して、樫の扉を開けて、生徒会室を出ていく。
視線を感じて、わたしを見つめていた相手に目をやった。そこには、廊下の端に、居心地が悪そうに身を縮めている女生徒が三人いた。
彼女たちは、わたしを見るなり、ビクリと肩を震わせる。
「……どうしました?」
わたしは、そう彼女たちに声をかけた。
先頭にいた少女が、真っ青な顔で、ブンブンと手を振っている。
「あ、あのう……その、悪気はないんです! もちろん、私たちは、お二人がご婚約されていることは、存じ上げておりますし! ただ、私たちも、幸人さまにプレゼントをお渡ししたかったというか……ですので、お二人の邪魔をする気など、まったくなく……!」
ものすごい勢いでまくしたてられて、わたしはポカンとしてしまう。
彼女たちの視線は、わたしの目ではなく……なぜか、わたしの首筋の一点にそそがれていた。なぜか、全員が顔を真っ赤にしている。
わたしは彼女たちの様子に、首を傾げてしまう。
女生徒たちの手には、包装された箱のような物が握られている。
おそらく、彼女たちは、幸人さまのファンクラブの会員だ。
幸人さまはモテるから、よく女生徒からプレゼントやファンレターをもらっていた。
「……プレゼントですか? 宜しいのではないですか。幸人さまも、きっと喜ばれると思いますよ」
「――ああ、まりな様は、なんて心が広いお方……。ありがとうございます! 今日は幸人さまのご誕生日ですもの! やはりファンクラブとしては、プレゼントを手渡したくて……」
「あ……」
わたしは、一瞬、間抜けな声を漏らしてしまった。
そうだ、今日は幸人さまの誕生日だった。
そういえば、父親が朝に『今夜は、どこどこのパーティだから、まりなも必ず出席するんだ』と言っていた気がする……。
会社のパーティや、どこかの家の主催する席に呼ばれることなど日常茶飯事なので、すっかり耳を素通りしてしまっていた。
確かに、幸人さまの名前をそのときに聞いた覚えもあったが、『幸人さまも出席するのか』という程度にしか、受け止めていなかった。
「まりな様?」
気遣うような声音に、わたしは意識を現実世界に引き戻した。
わたしは、幸人さまのファンクラブの子たちに向かって、愛想の良い微笑みを浮かべた。
「何でもございません。……では、車を待たせているので、わたしは失礼しますね」
そう言い残して、その場から離れた。
そして歩きながらも先ほどの幸人さまの態度に、思いを巡らせていた。
……少し、薄情だったかもしれない。
けれど、そう思うのは、ほだされてしまっている証拠なのかもしれない。
どちらにしろ、わたしは幸人さまの想いを受け止める気などないのだから。
父親の策略にも、乗る気はない。
――運命の相手は、自分で決める。
ふと、少し開いた窓から、桜の花びらが廊下に舞い込んでくるのが目に留まった。
ひらひらと、数枚の薄い花弁が、陽光をあびて舞い落ちようとしていた。
前世の記憶が、ふいによみがえる。
……病室で、ずっと、敷地内にある桜を見下ろしていた。
看護師さんは、わたしにこう言ったのだ。
『降ってくる桜の花びらを宙でつかめることができれば、願いがかなうのよ』――と。
わたしは、その花びらに手を伸ばした。
しかし無情にも、空中で、ひらひらと手からすりぬけていく。
急に、背後から、笑うような声が聞こえた。
振りかえれば、見知らぬ青年が立っていた。
桜蘭の制服を着ていることから、生徒には違いないだろう。だが、まったく見覚えがない。どこか、純朴な雰囲気がある。
「花びらをつかみたいの? やってあげるよ」
「え……でも……」
ここは二階だ。
先ほどは風のおかげで、うまく窓の隙間をすり抜けてきたのだろう。
ほとんどは、ここまで花吹雪はやってこない。窓を叩いて落ちていくだけだ。
そんな偶然に近い確率でやってきたものを、うまく捕えることができるとは思えなかった。
「いいから」
その少年は、悪戯じみた笑みを浮かべる。
そして、次に桜の花弁が入ってきたときを見計らって、ひょいっと手でうまく包みこんでしまった。
「わぁ……」
わたしが感嘆の声を漏らすと、彼は照れたような笑みを浮かべる。
そして青年は、わたしに花びらを差し出した。
「――はい。あげる」
「あ……でも、他の人からもらったら……」
こういうのは、キャッチした本人でないと、願い事の意味がないはずだ。
受け取るべきか迷っていると、青年は微苦笑する。
「――大丈夫、きみのために取ったから。これは、花園まりなさん。きみのものだ」
「どうして、わたしの名前を……」
「だって、きみたちは有名人じゃないか。生徒会メンバーもだけど」
そう言われて、納得してしまった。
あんな華々しいメンバーたちに囲まれているから、自然と、わたしの名前まで知れ渡ってしまったのだろう。
彼は花びらを、わたしの手の中にそっと落とした。
「はい、幸せのおすそ分け」
その茶目っ気のある言い方に、自然と笑みがこぼれてしまった。
それは、久しぶりに浮かべた、作りものではない微笑みだった。
わたしが笑うと、青年も頬をわずかに赤らめて笑う。
まるで――前世で知り合った相手のように、わたしは彼に近しい距離間を感じた。
「名前を……聞いても良い?」
普段のわたしならば、こんなに砕けた口調はしない。
青年は奥歯に物が挟まったかのように、ぼそぼそと呟いた。
「……笑わないでくれよ。小野里古道……って言うんだ」
「おのさと……こどう、さん?」
珍しい名前に、わたしは目を瞬かせた。
「古い道って書く。祖父が名付けたんだよ。日本男児の心を忘れちゃいかんってね」
小野里古道は、そう言って肩をすくめる。
わたしはその様子に、くすりと笑みをこぼした。
「素敵。良い名前だと思う」
「……そう言ってもらえると、救われるけどね。花園まりなだって、良い名前じゃないか」
そう言われて、急にわたしの心が冷えていくのを感じた。
「だって……これは、そういう設定だもの」
「え……?」
彼は、きょとんとしている。
わたしは、引きつる顔に無理やり笑みを浮かべた。
「ううん、何でもない。……ただ、わたしは羨ましいの」
誰かに決められたルートではなくて、自分で選び取れる道。
……そういうものに、ひどく憧れてしまう。
だって、わたしの周りには設定されたキャラクターしかいない。
幸人さまや、他のキャラクターがわたしに向けてくるのは、偽りの感情だ。ゲーム内で作り上げられた疑似感情。それは、決して愛なんかじゃない。
わたしは、モブキャラであるべきだ。
――主役は、荷が重すぎる。
小野里古道は……幸人さまのような、目を見張る美形ではないかもしれない。
副会長のように知的な雰囲気もなければ、広報のような軟派でもない。ましてや、書記の子犬のような愛らしさもない。
けれど、そばにいるだけで、ほわんと胸の奥があたたかくなるような感覚があった。
――これこそが、前世のわたしが、求めてやまなかったものだ。
平凡な家庭に生まれて、平凡に育ち、ごくごく平凡な家庭を持つ。それこそが何より幸せだと感じてしまう。今も、昔も。
……普通でなく育ったせいだろうか。
前世は極度の病弱のために、今はゲームの中の世界のために。
平凡なんて望めなかった。
「花園さん?」
彼が、ふしぎそうな顔をしていた。
わたしは、かなりの勇気をふりしぼって聞いてみた。
「あのね……また会ってくれない、かな……その……友達として」
顔が熱くなっていくのを感じる。
おかしい。こんなことを口にするのが、勇気がいるなんて。これまで、何度も流暢に言ってきた言葉のはずなのに。
社交界や、他の生徒の前ではいくらでも言えたことだ。
『ごきげんよう。また、お会いしたいです』――と。
けれど、それが上っ面のことではなくて、本音だというだけで……これほど、緊張してしまう。
嫌がられたら、どうしよう。
――そんな否定的なことまで、考えてしまう。
顔がこれ以上ないほどに、上気しているのを感じた。涙まで浮かんできているような気がして、唇をぎゅっと噛みしめる。
ふいに、頭にやわらかな感触が落ちてきた。
驚いて見上げると、そこには困ったように微笑む、彼がいた。
「……参ったなぁ。花園さんが、ここまで可愛くて、親しみやすい方だったなんて」
「古道……さん?」
「古道でいいよ。きみって、他の人に対する態度と、俺に対する態度が、あきらかに違うよね?」
「え……そ、そうかな?」
頭を撫でられて、うれしさで口元が緩んでしまいそうになった。
「そうだよ。他の人に対しては、クールな雰囲気でさ。『あなたなんて、興味ありませんから』って、つれない態度じゃないか」
古道が、つんとすました態度で答えた。
おそらくは、それが、普段のわたしの真似なのだろう。
理解した途端に、わたしは噴き出してしまった。
「古道って、おもしろいね。――でも、普段のわたしなんて、よく知っているなぁ」
「見ていたから」
「え……」
真面目な古道の表情に、わたしは笑みを固まらせた。
彼の頬がほのかに染まり、その真摯な眼差しが――わたしに注がれている。
古道の背景は桜だ。
一瞬、ゲームの最後のシーンを連想する。
「見ていた……?」
「ずっと、きみを見ていた。きみは西園寺幸人の婚約者だ。……俺なんてすごく普通の男で、とうてい釣り合わない。だから、諦めようと思っていた。でも、さっき――きみが困っているのを見て、放っておけなくて……」
時が止まったような気がした。
古道の瞳に、わたしが映っている。
「ごめんね。迷惑だったよね」
「そんな! 迷惑だなんて……っ」
大きな声をあげてしまい、わたしは慌てて口に手を押しあてた。
そして誰にも迷惑をかけていないだろうか、と心配になり、今更ながらに周囲に目を走らせる。
けれど、わたしたちの他には、その廊下には誰もいなかった。
――その刹那、わたしは違和感をおぼえた。
いくらゲームの中とはいえ、放課後のこの時間は――廊下には、生徒の往来があってもいいはずだ。
けれど、古道に出会ってから、誰とも……すれ違っていない。
……こんなことは、あり得るの?
いや、もしも、これがゲームの『イベント』だというなら、わかるけれど……。
でも、古道は明らかに――と言っては失礼だが、モブキャラだ。
かつてクリアしたゲームの中にも、こんなキャラクターはいなかったのだから。
思索に耽っていた――わたしの肩を、古道の手がつかんだ。
「花園さん」
「……え、ええ」
先ほどまでの思考が霧散してしまう。
「俺の想いが迷惑でなければ、うれしい。だけど、きみは……西園寺幸人の婚約者だ」
頭から冷水をかけられたような気分になる。
せっかくつかめそうだった幸せが、手からすりぬけていくのを感じた。
古道は、ようやく見つけた――キャラクター以外で、好きになれそうな相手だ。
――手放したくない。
そんな焦りで、頭が真っ白になってしまう。
わたしは慌てて言い募った。
「た、確かに……彼は婚約者だけど……っ。それは親や――その、幸人さまが一方的に決めたことで……」
「――きみの意思じゃなかった、と?」
古道は、顔をしかめている。
わたしは、ぎこちない動きになるのを自覚しながらも、頷いた。
「……でも、それじゃあ……西園寺家も、きみの両親も納得しないだろう」
わたしは拳を握りしめて、床に視線を落とした。
……逃亡計画を、彼に話していいものだろうか。わずかの間、躊躇する。
けれど、古道の愚直なほどまっすぐな眼差しが、わたしの心の壁を溶かした。
「……逃げるつもりなの」
「――逃げる? いつ? どこへ?」
古道は、ますます眉根をよせた。
とても現実的な話じゃないと、考えているのかもしれない。
「高校卒業したら、すぐにでも。もちろん世間体があるから、完全に事故のように見せかけるつもりだけど」
古道は、しばらくの間、黙り込んでいた。
その優しい面差しが苦々しく染まっていくのを、申し訳なく思った。
「……協力させてくれ」
「――でも、それでは……古道に迷惑をかけてしまう」
「良いんだ。愛する女にかけられる迷惑ならば、男の勲章だから。……あ、愛するとか言っちゃった。まだ、そんなんじゃないよね! ごめん、調子に乗った!」
両手をあわせて、古道は拝むようなポーズをしている。
わたしは、唖然としてしまう。
けれど俯いている古道の耳が真っ赤になっているのを発見して、噴き出してしまった。
――そのとき。
「……楽しそうだね」
背後から聞こえてきた馴染みのある声に、わたしは身体を凍りつかせた。
おそるおそる振りかえると、そこにいたのは予想通り――西園寺幸人さまだ。
幸人さまは、いつものように柔らかい笑みを浮かべている。
「ゆ、幸人さま……」
「まりなは、僕の婚約者だよ。きみが魅力的すぎて、他の虫が寄ってくるのは仕方がないことだとは思うけど……僕にとっては、あまり楽しいことじゃないな」
幸人さまはそう言いながら、わたしの腰に腕をまわした。
そして、強引にわたしを連れていこうとする。
古道は目を丸くして、その場に立ち尽くしていた。
「――あ……っ、ごめんなさい、古道! ……あ、あの……ゆ、幸人さま?」
わたしは、幸人さまにむかって声を張り上げた。
幸人さまは、どこか不機嫌そうだ。
「……なに?」
その態度を見て――わたしは場違いにも、安堵してしまった。
もしも、逃亡計画を聞かれていたなら、こんな態度で済むはずがない。
重々しい空気に包まれながらも、わたしたちは正面玄関口から出た。
そこには西園寺家の黒塗りの車が停まっていた。
わたしは自分の家の車がどこにあるか目で探しながら、幸人さまに向かって聞く。
「……幸人さまも、もうお帰りになるのですか?」
「今夜は、誕生日会だからね。生徒会の仕事も、終わらせたし。――まりなも、一緒に帰ろう」
「え……でも、うちの車が……」
「大丈夫。もう花園家の執事には、連絡を入れておいたから」
そう言われて、わたしは憂鬱な気持ちが込みあげてくるのを感じた。
――ということは、先ほどの古道とのことを、車内でネチネチと言われるのだろう。
幸人さまは、わたしが異性と話すことを嫌がる。
最近では、すっかり彼以外に話せる男子生徒は、いなくなってしまった。
けれど車内に乗り込んでも、幸人さまは、ずっと黙っていた。
彼は何かを考え込むように、肘をついて外を眺めている。
わたしは、車内の気まずさに耐えかねて――自分から、彼に声をかけてしまった。
「幸人さま……?」
「――さっきの男だけど……あいつには、気をつけた方が良い。僕と同じ匂いがする。……嘘の男だ」
その発言が、脳裏に染みわたるにつれて――わたしの中で、ふつふつとした怒りが込みあげてくるのを感じた。
「嘘の男ですって……?」
「ああ。同族だから、僕にはわかる」
――違う!
彼ほど、信じられる相手はいない。
あんなに純粋な笑顔を向けてくる相手を疑うなんて、わたしにはできない。
――幸人さまは、嘘で塗り固めたような男だ。
だから、古道を清らかな目で見ることができないだけだ……!
わたしは心の中で、思う存分に、幸人さまを罵倒した。
そして、先ほどのことを思い返してしまう。
幸人さまに連れていかれたわたしを見て、古道はどう思っただろうか……?
そのことを考えると、胸にちくりと痛みが走った。
「ほら……、また、何か我慢している」
幸人さまの手が伸びてきて、わたしの頬にふれてきた。
わたしは、ほんの少しだけ眉根をよせる。
それが、わたしが幸人さまにできる精一杯の抵抗だった。
幸人さまの長い指が、そのまま首筋に落ちてくる。
わたしの意思とは無関係に、背中が自然と震えてしまう。
――官能を感じさせる手つきだ。
……本当は、愛なのではないか、と錯覚させるほどの、優しいふれ方だった。
彼の指が、ある一点で止まる。
先ほど、痛みを覚えた箇所だ。
「……彼に、きみの何がわかるの? キスマークがつけられた女を、普通は口説けるはずがないよね。もしも、それに気づいていないなら鈍すぎるし、きみのことを見ていない証拠だろう」
キスマークと言われて、ようやく先ほど、幸人さまに何をされたか理解する。
急に、全身が熱くなった。悔しさとか、怒りとか、恥ずかしさとか、色んな感情がないまぜになって、彼を睨みつけてしまう。
幸人さまは嬉しそうに笑った。
「……ようやく、今ちょっとだけ、僕を見たね」
幸人さまの唇が近づいてくる。
わたしの感情が途端に冷えていく。
手足から抵抗する力が抜けて、意思を持たない人形のようになる。
……こういうのを、現実逃避というのだろうか。
抵抗など、意味はない。彼が望む限り、わたしに意思など持てない。
「まりな……そんなに、僕のことが嫌い?」
幸人さまが、わたしの名前を呼んでいる。
けれど、それには答えなかった。
2
前世のわたしは、貧乏だった。
いや、正確には中流家庭だったと思う。
けれど、わたしがずっと病弱だったから……ずっと、お母さんはわたしのそばで、見ていなければならなかった。仕事を辞めざるを得なかった。
治療にはお金がかかる。
お父さんは、必死に働いてくれた。
わたしは、病室のベッドの上で、だんだん痩せていく父親を見ていた。
けれど、父親はわたしには弱音を吐かなかった。つらいのは、わたしだ、と言ってくれた。
――わたしの最後の一年の記憶は、ぼんやりとしている。
ほとんどが、意識がなかったせいだろう。
たまに目が覚めれば、自分の口に酸素マスクがつけられているのが見えた。
手足はろくに動かない。
唯一、自由になる視線だけを動かせば、ベッドの脇で両親が涙を流していた。
二人は医者らしき男性と、何かを話しあっている。
普段、わたしに対しては、励ましの言葉しか言わない父親が、こう――つぶやくのが聞こえた。
『うちにもっとお金があれば……娘に、治療を続けてやれたのに』
わたしのベッドの脇には、生命維持装置がある。
そこから規則的な機械音が聞こえていた。
――いずれ、その音も聞こえなくなるのだろう。
わたしは、皆に気付かれないように、そっと瞼を閉じた。
……良いんです、お父さん。
もう、良いんです。
充分ですから。
* * *
『お父さま、あれを僕にください』
西園寺幸人さまは、わたしを指さしてそう言った。
――まるで、お金や権力で、他人の感情すら手に入るとでも、確信しているかのように。
だから、西園寺幸人さま。
わたしは、貴方のことが嫌いです。
3
幸人さまの誕生日パーティは、とある有名ホテルの広間を貸し切って行うことになっていた。
多くの招待客と同様に――わたしも、今はパーティドレスを身にまとっている。
開始時刻になるまで、オレンジジュースを飲みながら、壁際で待っていたときのことだ。
父親が、ホールに入ってきたのが見えた。けれど隣には、いつもいるはずの母親がいない。
こういうパーティには、家族で一緒に行くことが多い。だが、幼馴染の誕生日パーティという気安さと、父親の仕事の終わりの時間の都合から、わたしだけが先に会場に到着していた。
「お父さま?」
近づいてみれば、父親の様子がいつもと違うことに気付く。
礼服をきっちりと身につけているが、その顔には憔悴の色が濃い。血の気が引いている。
「ああ、まりなか……」
「どうなさったのですか? お顔の色が……」
「――ああ、実は……」
そのとき、会場でパーティの始まりの合図が鳴り響いた。
父親はふいに黙り込み、会場の奥の檀上を睨みつける。
そこには、幸人さまが立っていた。
幸人さまが、マイクをもって話を始める。
――まずは、来場者へのお礼の口上だ。いつもの誕生日パーティでお決まりのことで、特別変わったところなどない。
わたしは父親を横目でうかがい見た。
父親は、幸人さまから目を逸らしていない。
わたしは父親の様子が気になって、幸人さまの挨拶もそこそこにしか、耳に入ってこなかった。
けれど、とある幸人さまの一言に、心臓が止まりそうになる。
『実は……正式発表はまだなのですが……、我が社と、ご縁のある、花園さまが会長を務めていらっしゃる――が、経営統合することになりまして……』
「え……? 経営統合……?」
幸人さまが口にしたのは、わたしの父親が経営している会社の名前だった。
わたしの隣で、父親が歯切りするような音が聞こえる。
「合併とは名ばかりの……事実上の、吸収だよ。……あの若造は、裏から手をまわして、こちらの取引先に圧力をかけてきたんだ。もう、うちとは取引しないように、とね。――おかげで、我が社は大損失。倒産寸前で、私も辞任せざるを得ないところまできていたが……そこで、向こうから合併の声がかかった」
わたしは硬直してしまった。
――まさか、社員の首を切らずに済むよう、父親はその申し出を受けるしかなかった、ということだろうか。
……わたしは、父親が経営する会社が、そんな危機的状況にあることも知らなかった。
「――私はずっと……西園寺家に嫁に行くならば、お前は幸せになれるだろうと思っていた。だが、そんなことはなかった。とんでもない思い違いだ……」
父親は、苦悶の表情で、そうこぼした。
ふいに、前世で、わたしに苦しい表情は見せなかった父親と、目の前にいるゲーム内の父親のすがたが重なった。
わたしは……ゲームの中のキャラクターの感情は、作り物だと思っていた。
けれど、もしかしたら、そうではないのかもしれない。
――でなければ、父親がこんなに、わたしのために悩むはずがない。
「……あの若造は、悪魔だ。こちらが、社員を引き合いに出されたら何も言えないのを知っていて、お前を――しようと……」
「え……?」
父親が、わたしの両肩をつかんだ。
その目が血走っている。
「外に車を用意している。早く、この会場から出て行くんだ。後のことは、うちの執事に任せろ」
「お、お父さま……?」
「早く行くんだ……っ」
会場内で、目立たないように、父親の声はひそめられていた。
だが、視線を感じた方に顔を向けると、檀上にいた幸人さまと目が合う。
彼は、冷酷な笑みを浮かべている。
――そう、あれが彼の本質。
優しさなど偽り。
他人は物と同じ。自分にとって有益か、無益かの、違いでしかない。
――愛によく似た、執着だ。
わたしが抵抗する気など失せるよう、彼は真綿の檻を作りあげようとしている。
彼はわたしが、現実から逃避することも許さない。
ましてや、逃亡計画などもっての外だ。
……計画に気付かれていたのだ、と、わたしは確信した。
いつから?
――わからない。
ただ、逃げなければ、という意識で、頭がいっぱいになる。
わたしは足早に、会場から飛び出した。
4
ゲームはいつ終わるのだろう。
ハッピーエンドやバッドエンドで終わって、エンドロールが流れたあとは、登場人物はどこへ行くだろう。
……彼らは、はたして幸せに暮らせたのだろうか。
そんな、答えの見つからないことを、延々と考えてしまう。
赤い絨毯の敷かれた一階のホールを、駆けぬけていく。
きらびやかなシャンデリアが、頭上で輝いていた。
まるで、童話のシンデレラみたいに、わたしはひたすら走っていた。
けれど、わたしが履いているのはガラスの靴じゃない。追ってくるのは王子さまではなく、世界で一番嫌いな幼馴染だ。
わたしの勢いに、ドアマンや、フロントの者たちが目を丸くしている。
けれど、なりふりなど、もはや構う余裕はない。
――頭がおかしいあの男から、逃げなければ……。
わたしは、家紋がついた黒塗りの自家用車を見つけた。
いつものドライバーではなく、馴染みの執事が扉のそばに立っていた。
それにひどく安堵して、泣きそうになってしまう。
「お嬢さま、お早く……っ」
慌てたような声で、車内に入るように執事に促された。
わたしはドレスの裾が扉に引っかかないようしながら、車に乗り込んだ。
――その直後のことだ。
閉ざした扉の窓ガラスが激しく叩かれて、ビクリと肩を震わせた。
まさか、幸人さまが――と思ったが、そこにいたのは意外な人物だった。
「古道……?」
どこか必死そうな表情の、古道だった。
「きみのことが心配で……つてを使って、パーティに入らせてもらおうとしていたんだ。そしたら、きみが走って出てきて……車内に入れてくれないか?」
「古道! ごめんなさい、すぐ開けるから……っ」
「お嬢さま!」
わたしの言葉に、なぜか、執事が焦ったような声を上げた。
――なぜ、執事は止めさせようとしているんだろう。
だって、古道ほど、信用できる相手はいないのに。幸人さまとは違うのに。
わたしは執事の声には構わずに、扉を開けた。
「あ……」
先ほどは気づかなかったが、古道の手には皮手袋がはめられていた。
その手には縄のようなものが握られている。
「あーあ、選択肢を間違えたね」
古道はそう言って、素朴なその顔に、凶悪な笑みを浮かべた。
* * *
ゆらゆら、体が揺れている。
何かを枕にして眠っていたようだ。
――きっと、全部、夢に違いない。
だって、ゲームの中では、あんな『選択肢』も『イベント』も、なかったはずだ。
でも、もしも――エンドロールが終わって観客がいなくなっても、ゲームが続いていたなら……?
わたしはそっと、目を開けた。
幸人さまが、優しくわたしの頭を撫でていた。
いつもと同じ、やわらかい笑みだ。それに安堵してしまう。
……ああ、きっと、あんなのは悪い夢だったんだ。
わたしが幸人さまの方に手をあげようとすると、手首に重さを感じた。
金属がぶつかるような音が響く。
――わたしは、手錠をかけられていた。
「まだ、寝ていていいよ」
幸人さまはそう言った。
窓の外には緑が広がっている。
いったい、どこへ向かっているのだろう。どんどん、山奥に向かっているようだ。
あれから、どれくらい経ったのだろう。日は高くなっている。
幸人さまはずっと、機嫌がよさそうに微笑んでいる。
……それが、ひどく恐ろしかった。
「僕はね、きみが最後の選択肢さえ間違えなければ、許してあげようと思っていたんだよ。ちゃんと、そのためのヒントまであげたのに」
「選択肢……?」
もしかして、何かを嗅がされて眠らせられていたのかもしれない。
思考があいまいで、ぼんやりとしている。
ひどく体が、けだるい。
「小野里古道だよ」
「古道……」
わたしは、何かを言おうとして――結局、何も言えずに口をつぐんだ。
その様子を、幸人さまはじっと眺めている。
……執事は無事だろうか。
ふと、心配になって、無意識のうちにドライバーの方に視線を送った。
そこで運転していたのは、古道だった。
「え……?」
唖然としているわたしを見て、幸人さまは笑う。
「……だから、言ったじゃないか。嘘の男だ、って。――アナグラムだよ」
小野里古道。おのさとこどう。
Onosato kodou
Usonootokoda
うそのおとこだ。
嘘の男だ。
――わたしは、悲鳴をあげた。
暴れて逃げようとするわたしの腕を、幸人さまがつかんだ。
「残念でした。ゲームは終わらないよ」
そう、何もかもを見透かしたような言い方で、幸人さまは、わたしに深く口づけた。