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第四章 あなたを、忘れない(9)

 シェリーは懸命に気息を整えた。

 やがて身体の震えが止まり、代わりに鉛の塊を背負わされたような疲労が全身を包んだ。

 だが、刀はあくまでも手離さない。

 徐々に呼吸を静め、アンジェラを待った。

 アンジェラが、ようやく刀を杖代わりにして起き上がった。

 口元からだけではなく、目の端と鼻、耳からも血が流れている。

 その顔には、すでに死の影が色濃く映っていた。


「……師姉、様ぁ……」


 もはや息をするのも困難であろうアンジェラが、消え入りそうな声で呼んでいた。


「……アンジェラ……」


 妹弟子の声の弱々しさが、シェリーの胸を突き刺した。


「……痛い……痛いよぉ、師姉様ぁ、師母様ぁ……」


「アンジェラ……!」


 子どものような泣き声でシェリーと亡き師母を呼ぶ彼女は、もはや『蒼血燕』と恐れられる殺し屋ではなかった。

 シェリーが故郷で共に過ごした、あの泣き虫の少女に戻っていた。


「……あ、師姉様だぁ……。痛い、痛いの、師姉様……。助けて……私、死にたくない、死にたくないよお……」


「アンジェラ!」


 今すぐにでも駆け寄って、アンジェラを抱きしめてあげたかった。

 だが、もはや彼女の命を救うことは不可能だろう。

 そして彼女の瞳の奥には、まだわずかながら狂気の光が残されている。

 手にした刀も離そうとしない。


「……どうして、どうしてなの、師姉様……殺す……助けて……ああ、一緒に……師姉様も……」


 自らに迫る死の恐怖、そしてシェリーに対する深い愛情と殺意で、完全に錯乱していた。

 いったいどうするべきなのか。

 今の状態なら、彼女を殺すことは容易いだろう。

 だが、もう、本当にそれしか方法はないのだろうか。

 無実の罪を着せられて里を追われ、人界で暗い闇の底を彷徨い、狂気にとりつかれた妹弟子のアンジェラ。

 彼女の魂を救うことはできないというのか。


 シェリーは目を閉じた。

 師母様と、シェリーと、アンジェラ。

 三人で過ごした平穏な日々。

 突然引き裂かれた日常。

 失意のまま病の床についた師母様。

 楽しかった思い出、辛すぎる記憶が蘇ってくる。

 自らの死を予見した師母様はまだ身体が動くうちに、とシェリーに奥義と鈴を授けた。

 最高位である『免可』にまで達した者にのみ伝える奥義。

 そして、師母が片時も手離そうとしなかった一対の鈴。


(……そうか、今が、その時なのか……)


 マナたちは、師母とアンジェラの壮絶な死闘を、固唾を呑んで見守っていた。

 眠りについていた屋敷の人々も、騒ぎを聞きつけて庭に出ている。

 しかし、両者の気迫の凄まじさに、誰一人近づくことができなかった。


(……師母様……)


 マナは師母の勝利を信じて疑わなかった。

 だが、その心中を察すると、胸に鈍い痛みを感じずにはいられない。

 妹弟子と命を懸けて戦わなければならないなどと、想像することすらできなかった。

 長い沈黙の後で、師母が目を見開いた。


「……これより先は、見ることを許さぬ! 全員、目を閉じよ!」


 師母が凛とした声で命じた。

 マナは瞬時にその意味を悟った。

 師母は奥義を使おうとしているのだ。

 他流派の人間はもとより、門弟のマナやココにもまだ伝授を許さない秘伝の技を。

 マナは否や応もなく、瞳を硬く閉じた。


 シェリーの気迫に押され、マナだけではなくその場にいた全員が目を閉じた。

 ただ一人、敵として対峙するアンジェラを除いて。


「あは、師姉様、奥義を……私も教えてもらえなかった、奥義を使うのね……あは、ああ師姉様……大好き、大好き……抱いて、昔みたいに、優しく、抱きしめて……」


 蒼血燕――アンジェラが、一歩ずつシェリーに詰め寄ってきた。

 口元には狂気の笑みを張りつかせ、右手には血に塗れた刀を持って。

 シェリーは刀を鞘に納めた。

 そして、胸元から下げていた鈴を外し、それをすっとアンジェラに向かって突き出した。

 辺りは静寂に包まれ、月光が柔らかな光で二人を照らしている。

 シェリーの鈴が、美しい音色を響かせた。


 アンジェラの身体から痛みが消えていた。


(……なに? どうしたの、私……)


 アンジェラは戸惑っていた。

 自分の置かれている状況が、一瞬分からなくなった。

 ふと前を見ると、そこに敬慕する師姉様がいた。


(……師姉様!)


 幼い頃から、ずっと大好きだった師姉様。

 辛い修行の時も、師姉様がいつも励ましてくれた。

 里の人間たちから『災厄の子』などと苛められて家に泣き帰った時、師姉様は優しく慰めてくれて、翌日にはその相手に仕返しをしてくれた。


 大好きだった。


 ずっとずっと一緒にいたい、一緒にいてくれる、と信じていた。


 逢いたかった。


 血生臭い闇の中で、ただ師姉様に逢いたい、という想いを抱き続けてきた。

 今、目の前にその師姉様がいた。

 あの頃と同じ、優しくて慈愛に満ちた表情。

 アンジェラに向かって両手を差し伸べている。

 あの温かな腕に抱かれたいと想った。

 そのままずっと、二人で抱き合っていたい。


「師姉様っ!」


 アンジェラは刀を捨て、師姉の下に駆け寄った。

 ふわり、と身体が軽くなったように感じた。

 師姉がアンジェラの背に腕を回し、ぎゅっと抱きしめてくれた。

 その温もりが心地好かった。

 師姉の身体からほのかに漂う花の薫り。

 里に咲いていたその花の名を思い出そうとしたが、どうしてもそれが出てこなかった。


「……逢いたかったわ、アンジェラ……」


 師姉の、柔らかな声が耳朶をくすぐった。

 胸の奥から何ともいえない喜びがつきあげてくる。

 細く長い指が、アンジェラの白金の髪をそっと撫でた。

 愛する師姉の胸に顔を埋め、アンジェラは泣いた。

 こんなに幸せなのに、何で涙が出てくるのだろう。


「ごめんなさい、アンジェラ……」


 なぜ謝るの、師姉様?


 アンジェラはそう問いかけたかったが、急に気持ちの良い睡魔が訪れてきた。


 わたし、何だか眠くなってきちゃった。

 このまま、眠ってもいいかな、師姉様?


「……おやすみなさい、アンジェラ……」


 うん、おやすみ、師姉様……。



 シェリーの腕の中で、アンジェラは永遠の眠りについた。


「本当にごめんね、アンジェラ」


 妹弟子の魂を救うためには、もうこの技を使うよりなかった。

 師母様から授けられた奥義の一つ、『楽死夢鈴』。

 対峙する相手に幻覚を見せ、無力化させてしまうという究極の技だ。

 師母様から譲り受けた鈴は、その催眠術をかけるために必要なものだった。

 一度かかってしまったら、もう逃れる術はない。

 相手には、自分が幻覚を見せられているという自覚すらないからだ。

 胸に飛び込んできたアンジェラを抱きしめながら、シェリーは首の後ろにある急所の点穴を突き、痛みを感じさせずにその命を奪った。

 殺し屋・蒼血燕として、数々の人間を無惨に屠ってきたアンジェラを葬る手段としては甘いと思われるかもしれない。

 だが、たとえ彼女がどんな化け物に変わり果ててしまったとしても、シェリーにとっては愛した妹弟子であることに変わりなかった。

 せめて苦しまずに、愛に包まれたまま静かに送ってあげたい。

 私と師母様だけは貴女を愛していた、ということを伝えたかった。

 シェリーは、双眸に涙を浮かべて月を見上げた。

 アンジェラの魂が静かに天に昇っていくのが、見えたような気がした。


(続く)

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