第三章 奪われたもの、喪ったもの(6)
夜も更けきった頃、アンジェラはただ一人、廃屋敷の傍にある朽ち果てた小屋にいた。
腐りかけた木製の寝台以外、何も残されていない。
壁のところどころから隙間風が吹き込んでくる。
破れた窓から煌々とした月明かりが差し込んでいた。
「ああ……師姉様……師姉様ぁ……」
寝台に横たわり、愛用の刀を抱きながら、アンジェラは恍惚とした表情でうわ言のように呟いていた。
刀の柄を、桃色の舌で愛おしそうに繰り返し舐めまわす。
「……もっと、もっと私を憎んで……私のことを想って……私を、私を忘れないで……」
姉弟子の―シェリーのことを想うだけで、身を斬られるような切なさと熱い昂ぶりが波のように押し寄せてくる。
産まれてからずっと、乳母と二人きりで狭い離れで暮らしていた。
その頃の彼女にとって、乳母は唯一の温もりだった。
温もりを喪い、家族の困惑と嫌悪の入り混じった視線に苛まれた日々。
やがて師母の元に引き取られ、姉弟子と出逢った。
そこで初めて、彼女は人間らしい生き方――誰の目も気にすることなく、明るい太陽の下で生きる喜びを知ることができた。
師姉が大好きだった。
厳しい稽古の合間、師姉と二人で草原に寝転び、静かに過ごす一時は何物にも変えがたい大切な時間だった。
このまま時が止まってしまえばいい、と何度思ったことだろう。
だがその平穏も、あの夜が変えてしまった。
家族が殺された、という知らせを受けた時には衝撃を受けたが、同情の気持ちは湧いてこなかった。
自分を人とも想わなかった家族に、愛情など感じるわけもない。
しかしそれによって、彼女は無実の罪を着せられた。
誰も助けてくれなかった。
死刑の判決が下された時には、奈落の底に突き落とされたように感じた。
嫌だ、死にたくない。
このまま消えてしまうのだけは嫌だ。
気がついたときには、彼女は看守を倒して森の中を逃亡していた。
闇深い森の中で、追っ手の影に怯えながらひたすら走り続けた。
渇きと飢えと絶望の中で、懸命に喘いだ。
生きたい、生きたい、死にたくない、とひたすら心の中で繰り返した。
里を抜け出し、遠く離れた町に辿り着いた。
だが当然ながら、妖かしの民の少女を温かく迎えてくれるような人は一人もいなかった。
誰もが皆、嫌悪と若干の好奇をはらんだ目で彼女を見ていた。
あの頃と同じだ、と彼女は思った。
家族の冷たい視線の中で生きた、幼い頃と。
しかしその頃と違っていたのは、彼女は飛燕刀術を修めた戦士であるという点と、何より自由だった、という点だ。
自由――そう、自分は何者にも束縛されない、自由な燕なのだ。
裏の世界に入り込んだきっかけは、たまたま出くわしたチンピラ同士の争いだった。
まるで素人同然の彼らを、彼女は野菜でも斬るかのようにあっさりと斃した。
そしていつしか、金次第で誰でも葬る殺し屋『蒼血燕』と呼ばれるようになっていた。
どこの組織にも属さず、ただ報酬さえ貰えれば善悪も問わず誰でも殺した。
義理や人情など、彼女は持ち合わせていない。
法に裏切られて無実の罪を着せられた彼女は正義など信じていなかったし、愛情を傾ける存在もなかった。
暗黒街の住人は、そんな冷酷非情の権化ともいえる彼女を恐れ疎みながらも利用した。
そんな血生臭い日々の中でも、ただ一人――姉弟子のシェリーのことを不意に思い出した時だけは、胸が騒いだ。
ある日、彼女は二つの興味ある噂を聞きつけた。
一つは、うだつの上がらないチンピラだった男が、数年前から急に羽振りが良くなり財を成したという話だった。
しかも、それはどうも妖かしの民から奪った品を売りさばいたおかげだという。
もう一つは、最近『白金燕』と呼ばれる妖かしの民の刀術使いが活躍している、という噂だった。
彼女は一瞬で、それが姉弟子だということを悟った。
すぐさま、その男の豪奢な屋敷を襲った。
容赦なく皆殺しにし、男は時間をかけて痛めつけ、その悪行を全て吐露させた。
男は紛れも無く、彼女の家族を殺した犯人だった。
彼女は男からその時の模様をつぶさに聞き出し、他の仲間たちの名を吐かせた。
そして最期は、ナマスのように切り刻んでやった。
その後、愛しい師姉様と再会した。
きっと来るだろう、という予感があった。
そして、仇を討った私を優しく抱きしめてくれて……きっと、こんなに穢れてしまった私を殺し、私と一緒に死んでくれるだろう、と。
だが、その望みは果たされなかった。
何もかもが空ろで虚しかった。
業火に包まれた屋敷の中で煙を深々と吸い、床に倒れ伏したまま茫々と涙を零し続けた。
いったい、私は何のために生きてきたのか、
そして今、どうしてこんなところでただ一人死んでいかなければいけないのか。
私がいったい何をしたというのか?
それから何があったのか、彼女は覚えていない。
意識を取り戻した時には、川辺で倒れていた。
彼女の生への執着、姉弟子に対する深い愛憎が成させた業か、彼女は生き延びたのだ。
彼女はしばらくの間、『蒼血燕』の名を捨て各地を転々とした。
男が吐いた仲間の居所を探るための彷徨だった。
(すぐには殺してやらない……。じっくり、じっくりと殺してやる……)
獲物を探し当て、たっぷりと死の恐怖を味わわせてから殺していった。
こうして全ての復讐を成し遂げた彼女は、最後の『目的』を探し求めた。
そう――愛しい師姉様――シェリーとの決着である。
「ああ、師姉様……。逢いたい、逢いたい、逢いたいよう…」
身体を刀ごと抱きしめ、息を激しく荒げながらアンジェラは呟く。
空が白み始めるまで、それは延々と繰り返された。
(続く)




