第一章 帰郷、旅立ち(2)
人里を遠く離れた辺境の地。
そこで師母と共に刀術の修行を積む、一人の少女。
彼女の名はココ。
蜂蜜色の肌に、短く切り揃えられた黒髪。
体格は小柄で痩せているが、一つひとつの動作が非常に俊敏だ。
クリクリとした活発そうな瞳が、猫のような印象を与える。
小粒の汗が、いくつも浮かんでいた。
刀身一メートル程の反身の刀を、右手で構える。
ココの額には、小指ほどの大きさの白い角が生えている。
それは、彼女が鬼族の血を引くことを如実に示していた。
他の種族は彼らを一括りにしがちだが、角の数や肌の色などによって細かく種族は分かれている。
蜂蜜色の肌と額の小さな角、他の種族と変わらぬ体格の彼女は南方の一族の出自だった。
「じゃあココ。次は転身流刀、それから崩刀側錐脚ね」
「……はいっ!」
師母が静かに指示を下すと、若干息を荒げながらも元気良く答えた。
丹田に意識を集中させ、呼気を整える。
薄桃色の愛らしい唇から、細く長く息を吐いた。
ものの数秒で汗が引き、先程まで激しかった鼓動が落ち着きを取り戻す。
全ての構えの基本となる握刀の構え。
足をやや開いて真っ直ぐ立ち、余計な力を入れずに刀を持つ。
そこから腰を素早く回し、振り向きながら刀を鋭く払った。
背後から狙う敵に対し、不意の一撃を浴びせる転身流刀だ。
そこから飛び退って回避した敵に対し一気に間合いを詰め、相手の武器を中段から突き上げて構えを崩す。
この攻防兼用の崩刀から、瞬時に半身の構えに移り、相手のわき腹めがけて蹴りを放つ。
これら一連の攻撃を、ココは流れるような動作でやってのけた。
手にしているのは刃を落とした模擬刀ではない。真剣だ。
彼女の体躯に合わせて細身にしてあるとはいえ、そこそこの重量はある。
さらに、その足元も都会の道場のように石畳や丁寧に磨かれた木の板場ではなく、雑草が生い茂る原野だ。生半可な技量ではない。
「ふむ、だいぶ良くなったね。でも崩刀の時、ちょっと肘を曲げすぎね。あれじゃあ、胆力を込めた相手の武器は払いのけられないわよ」
師母はそれまで、原野にどんと置かれた巨石の上にちょこんと座って愛弟子の稽古を見守っていた。
無造作に伸ばした白金色の髪が、春の風を受けてなびいている。
その肌は透き通るように白く、ココとはまるで対照的だ。
薄い翠色の瞳には、柔和な笑みを浮かべている。
胸元のペンダントに付けられた鈴が風に揺られて美しい音色を奏でた。
彼女の名はシェリー。
年齢は一見すると二十代前半のように映る。
長く伸びた細い手足、まるで人とは思えないような超俗的な気配を持つ彼女は、『妖かしの民』と呼ばれる種族の一員だ。
一族の伝承によれば、神々による天地創造の際に『もっとも神に近い人』として生み出されたのだと言われている。
もっとも、現在この大陸全土を支配する帝国を建てた中央人の神書によれば、妖かしの民は『不吉なる者』なのだそうだが。
「肘……」
ココは首を少し傾げ、もう一度崩刀の構えをとった。
「うん、ちょっと待ってなさいね」
師母が、巨石からふわりとココの真横に舞い降りた。
まるで体重がないかのような動作だった。
見慣れぬ者にとっては、確かに妖かしの仕業かと思われるような動きである。
「ここをこう、うん、腰を引いちゃ駄目よ。上体を浮かせないように、ね」
ココの腰に後ろから手を回し、手を取って指導する。
武術の流派によっては、指示は口頭のみというものも多いが、彼女の流派は丁寧に教えることが開祖以来の伝統だった。
遠い昔、『刀仙天女』の尊称で呼ばれた達人が、妖かしの民のために編み出し伝授した刀術、『飛燕幻舞流刀術』。
その技は、特に腕力で劣る女性が習得することを前提としている。
「師母様、師姉様はまだかなあ?」
稽古の途中だったが、ココが愛らしい瞳を輝かせて尋ねる。
「そうねえ、何しろ帝都からだから……。でも、近い内に着くんじゃないかな」
師母が遠くを見るような目で答えた。
周囲を険しい山々が取り囲む草原に建てた小屋で、彼女は愛弟子と生活を営んでいる。
最寄りの村までは、健脚の者でも丸三日はかかるだろう。
近在の猟師などもめったに近づくことはない。
人目を避ける後ろ暗い理由はないが、師と弟子二人の生活に侘しさを覚えることもないし、豊かな山野で食料や薪に困ることもなかった。
(早く逢いたいな、師姉様……)
(続く)