アクマナ
◆
『学級崩壊』というのが全国的に問題となっているらしいけど、僕のクラスはそれには当てはまらない。
何故なら、僕のクラスはとっくの昔に『学級』ですらなくなっているからだ。
僕のクラスは県下でも最低ランクの高校の、さらにあらゆる意味で最悪の生徒を集めた、いわゆる『掃き溜めクラス』というやつで、授業というものをまともにした事は、僕が入学する以前からなかった。
教師も荒廃しきったこのクラスの扱いに慣れているのか、マニュアル通りの授業を機械的にこなしている。教科書を読み上げ、黒板に文字や図形を描き、チャイムが鳴ったら去っていく。一度も注意をした事がないし、僕らもされた事がない。
教室は常に騒然としていて、席を合わせてトランプや麻雀や携帯ゲームをしていたり、教室の後ろでは数人がプロレスごっこをやっている。高校生なのに。
だからこのクラスは『学級』なんて上等なものじゃない。
動物園だ。
このクラスで授業中、ちゃんと席に着いているのはたった二人しかいない。
僕、阿久津祐介ともう一人、隣の席の真鍋帝だ。
僕はきちんと教科書を開き、ノートにシャープペンを走らせているが、真鍋は一応席に着いてはいるものの、筆記用具はおろかノートも教科書も机に出していない。いつもそれ以外の本――図書館から借りてきたぶ厚いハードカバーの小説や、タイトルだけで難解だとわかる専門書を読んでいる。今だって体が黒板の方を向いているだけで、熱心に読んでいるのは心理学の本だ。
どうして真鍋みたいなやつがこのクラスにいるのか、不思議でならない。彼はこんな、自分の名前が漢字で書ければ入学できるような高校じゃなく、東大合格者を何人も排出している事を売りにしている進学校でも余裕で合格できるし、しかもそこで学年トップを取れるほどの秀才なのに、どういう事情があってこんな勉強とは縁もゆかりもない学校に入学したのだろう。受験当日にタチの悪い風邪でもひいたのだろうか。
浅田に見事な関節技が極まり、教室の後ろが一際騒がしくなる。観客の熱狂と浅田の悲鳴が相乗して、その一角だけプロレス会場だ。
浅田というのは、いつも不良(このクラスで不良じゃないやつは、僕と真鍋と浅田くらいしか居ないが)のオモチャにされ、よくこうやってプロレス技やら格闘技の技の実験台にされている生徒だ。
彼もまたこのクラスには似つかわしくない大人しい人間だが、成績面で該当してしまったようだ。実際、かなり頭は悪い。アメリカの首都がニューヨークだと思っているやつだ。
入学当初は僕が不良らに目をつけられ、しょっちゅう絡まれていた。いい加減無視するのもうんざりしてきた頃、彼らがトイレの個室で大をしている浅田に偶然遭遇し、それから彼らの標的は浅田に変わった。ホースで水をかけられ、大量のトイレットペーパーを放り込まれ、びしょ濡れ紙まみれになって出てきた浅田は、次の日からウンコマンというあだ名になった。
浅田は僕の代わりとなったのだ。可哀相だとは思うが、僕としては浅田にはもう少し彼らのオモチャになっていて欲しい。
関節技から解放された浅田は、今度はパイルドライバーの体勢に持ち込まれた。観客の興奮はさらに高まり、技をかけている方も声援にテンションが上がりまくっている。
さすがに本気でパイルドライバーをかけるような真似はしなかったが、かなり大きく鈍い音が床からした。案の定、浅田は脳天を押さえてうずくまっている。これは泣くかもしれない。あ、泣き出した。
泣きが入った浅田に連中は悪ノリし、数人がかりで彼の服を脱がしにかかる。抵抗しようとするが多勢に無勢で、あれよあれよと浅田はブリーフ一枚にさせられてしまった。白いブリーフ一枚の浅田は完全にベソをかき、追い討ちとばかりにみんなで彼の細い体に平手打ちを入れていく。
教室に浅田の悲鳴と彼の体を打つ音が響くが、先生はまるで何事もないかのように淡々と授業をしている。異常な光景だが、これがこのクラスの日常だ。浅田がパンツ一丁になるのはこれが初めてだが。
結局浅田の服は没収され、彼は残りの授業をブリーフ一枚で受ける事を余儀なくされた。先生が教科書を読み上げる声に、浅田のすすり泣く声が混じってとてもシュールな絵面になっている。ウンコマン浅田は、今やパンツマン浅田へと進化していた。不幸中の幸いなのは、ここが男子校で女子の目がない事と、夏だから風邪をひく心配がない事だ。
◆
弁当を食べ終わり、僕は余った昼休みの時間を読書に当てる。と言っても、読むのはパソコン雑誌だ。パンツマン浅田はまだ弁当を食べている。泣きながら食べるとは、また器用なものだ。
パソコン雑誌のネットサーフィン裏技記事を読んでいると、僕の足元にひらりと一枚の栞が落ちてきた。
「すまない、それは俺のだ」
僕が栞を拾うと、隣でコンビニで買ったサンドイッチを片手に本を読んでいた真鍋が声をかけてきた。もしかすると、入学して初めて彼と喋ったかもしれない。
栞を渡すと、彼は「ありがとう」と言って視線を本に戻した。僕はこの機会を逃す手はないと、思い切って彼に話しかけてみた。
「何……読んでるの?」
真鍋は僕に話しかけられるとは思っていなかったのか、「ん」と口に入れたサンドイッチを飲み込むと、さっき渡した栞を本に挟んでから表紙を僕に向けてくれた。
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だった。僕も中学の頃、夏休みの読書感想文の宿題で読んだ事があるが、はっきり言って内容はちんぷんかんぷんだった。
「サリンジャー、好きなの?」
「いや、全然。ジョン・レノンを暗殺した犯人が愛読していた本だというから読んでみたが、さっぱり内容がわからん。だが精神分析の面から見ると、非常に面白い。著者も主人公も実にクレイジーだ」
嬉しそうにクレイジーと言う彼の姿はとても意外で、こういうキャラだったとは思いもしなかった。けれど話し方はイメージ通りというか、やっぱり頭が良さそうな感じがする。
「真鍋くんは授業中いつも本を読んでいるけど、どんなジャンルが好きなの?」
「そうだな……特に好きなジャンルはないな。片っ端から濫読しているが、強いて言えば何がしかの身になる本に興味がある」
「サリンジャーが?」
「ああ。人を殺すような人間が読むような本だ。興味が湧いて然るべきだろう」
そういう角度で興味を持った事がないから分からないが、彼くらい頭が良い人間は僕とは違った感覚なのだろう。僕のような凡人が興味が湧いて然るべきなのは、彼がどうしてこの学校に入学したのかだ。
率直に質問してみると、彼は自宅から一番近いという理由でこの学校に入学したと言う。何とも安易な選び方だ。
「けどさ、きみならもっと上の学校に行けただろ? 勿体ないなあ」
「そうかい? 勉強なんて家でもできるさ。家でもできる事のために、毎日通学に長い時間をかける方がよっぽど勿体ない。だから僕は一秒でも早く家に帰れるように、この学校を選んだんだよ。それに社会に出た時に注目されるのは最終学歴くらいだ。東大くらい出ておけば、高校なんてどこに行ってても誰も気にしやしないよ」
「東大くらいって……まるでもう入れるのが決まってるみたいな言い方だね」
「決まってるから言えるんだよ。試しに去年のセンター試験の問題をやってみたが、ほぼ満点取れた。時間もかなり余ったし、本番でも楽勝だよ」
彼にとって、学校とは読書と昼寝と弁当を食う場所だと言う。授業なんて受ける必要がないし、逆に教師側にプレッシャーを与えてしまう。だから彼はこのクラスに入れられたのだろう。頭が良すぎるのも考えものだ。ジョン・レノンを撃った犯人は警察に逮捕されたが、彼ならきっと完全犯罪をやってのけるだろう。
午後の授業が始まっても、パンツマンは変身を解除できなかった。教室に入ってきた先生は、一瞬肌色の割合が高い浅田の姿にぎょっとしたが、すぐに平静を取り戻して授業を始めた。
しばらくはいつものように淡々と授業が進んでいた。とは言ってもやはり教室はお祭騒ぎで、誰一人として先生の話を聞いていない。
だが授業も残すところあと十分となった頃、再び浅田のすすり泣く声が聞こえ始めた。
最初は鼻をすするだけだったのが徐々に大きくなり、ついには先生の声よりも大きな嗚咽へと変わっていった。さすがにその頃には教室のみんながイライラしてきて、浅田に向けて消しゴムやら紙クズやら思い思いのゴミを投げつけだした。
運動会の玉入れのように、浅田に向けてゴミの集中砲火が起こる。
先生はまだ授業を続けようと懸命に教科書を読んでいる。浅田の惨状が見えていないはずなどないのに、何故そこまで無関心を貫けるのか不思議なくらいだ。浅田も教師や学校に助けを求める事が絶望的に無意味なのを悟っているのか、泣く事だけが唯一の抵抗とばかりに涙を流し続ける。
「うわああああああああああああっ!」
しかしとうとう限界がきたようで、浅田は絶叫して立ち上がった。
ブリーフ一枚の彼は奇妙な雄叫びを上げながら机の上に飛び乗ると、机の上をぴょんぴょん飛び移りながら窓へと向かった。
窓際の生徒は突然奇行に走った浅田に驚き、椅子をガタガタ言わせて後退る。ちょうど風を入れるために空いていた窓に手をかけると、
「死んでやるぅっ!」
物騒な事を叫んで窓枠に足を乗せた。
これはさすがに先生も無視できず、慌てて浅田を止めようと駆け出した。教科書を投げ捨て、スリッパで懸命にダッシュする姿は実に教育者らしい。それが己の保身のためでなければ、僕も惜しみない拍手と賞賛の言葉を与えよう。
教師が浅田を止めようと羽交い絞めにするが、必死の形相で窓の手すりにしがみついた彼はなかなか大した抵抗を見せる。あの細身の浅田が、大人の渾身の力に抵抗できるのは意外だった。火事場の馬鹿力というやつだろうか。
浅田と教師がくんずほぐれつしている席の生徒は、もうとっくにどこかに行ってしまっている。他の生徒たちも、皆それぞれの遊戯を一時停止し、突如始まった浅田の命をかけたパフォーマンスの観客になっていた。皮肉な事に、彼が不良たちにパイルドライバーをかけられた時よりも遥かに好評だ。
体格や体力は、明らかに教師の方が浅田より上だろう。しかし今の彼はただの浅田ではない。パンツマン浅田なのだ。つまり、パンツ一枚の彼は他に服を着ておらず、素肌に汗をかいた彼の体はとても滑りやすい。
案の定教師はぬめる彼の体が掴みきれず、とうとう手を滑らせて彼を放してしまった。
勢い余って尻餅をつく教師。この好機を逃さず、浅田が机に足をかけ、窓から飛び出そうと勝負をかけた。
「おばえらびんなじんでじばえええええっ!」
奇妙な雄叫びを上げ、浅田は一気に窓から飛び出そうと勢いをつける。飛び下り自殺の決定的瞬間に、教室が一斉に沸いた。
これは拙い、と僕が席を立ちかけたその時、
「待ちたまえ、浅田くん!」
もの凄くよく通る声が歓声をかき消した。
声は僕だけでなく、教室に居る全員の動きを止めた。もちろん浅田もだ。
見れば、僕の隣の席の真鍋が両手を広げて立ち上がっていた。
真鍋は自分の一言で浅田が止まったのを見ると、満足そうに頷く。
「今ここできみが死んでも、それは何の意味もないぞ」
真鍋は右手を胸に当て、芝居がかかった大仰な仕草でゆっくりと浅田へと近づく。
呆然とした浅田は、窓枠に足をかけたまま真鍋から目を反らせないでいた。これまでは彼が観客に注視される対象だったが、今ではその立場が完全に逆転している。今この瞬間、この教室の主役は間違いなく真鍋帝だ。
クラス全員の視線を一身に浴びながら、真鍋は悠然と歩く。
「まず落ち着いて見てみたまえ、今のきみの姿を。そんな格好で死んだら、きみの家族は何と思うだろう。自分の息子がパンツ一枚で死んだなど、どうして悲しむ事ができよう。せいぜい笑い話にしかならないではないか」
浅田ははっとして、自分の姿を見る。アバラの浮いた貧相な裸体を晒している事に、ようやく気がついたようだ。いや、たとえボディビルダーのような肉体美でも、白のブリーフ一枚で死んだら滑稽に見えるはずだ。僕は別にブリーフを悪く言う気はまったくないけれど、あれほどそれ一枚だけの姿が情けない下着もそうはないと思っている。
「次に、ここの高さだ。たった四階程度の高さから落下したところで、本当に確実に死ねるだろうか? できるかもしれない。けれど確実じゃあない。もしかしたら骨折程度で済むかもしれない。けどもし万が一、後遺症の残るケガで終わってしまったらどうだ? きみは残された一生を障害のある体で過ごすだけでなく、自殺未遂者として非難される事になるんだぞ。飛び下り自殺は首吊りと違って、落ちる場所と高さがモノを言う死に方だ。俺だったら、こんな中途半端な場所から飛び下りるくらいなら首吊り自殺を選ぶね」
たしかに、四階という高さの問題もあるが、落下地点の問題もある。窓の下には幸か不幸か植え込みがあり、もしそこに落ちようものなら運悪く(運良く?)助かってしまう可能性がある。
それに植え込みを飛び越えたところで、外はグラウンドだ。舗装されているならまだしも、土の地面だとどうにも心許ない。やはり真鍋の言う通り、確実性がないだろう。
「それに、本当に今ここで死んでしまっていいのかい? きみにだって、何か一つくらいは言い残した事や、やり残した事があるだろう。それをせずに死ぬなんて、勿体ないとは思わないか? きみが生きた証を、これまでの人生を何か形にして残さないと。そうでなくてはきみの死はまったくの無駄になってしまう。俺だったらそんなのは絶対耐えられない。せめて遺書を残し、身辺を整理してから事に望むね」
そりゃあ僕だって耐えられない。少なくとも、パソコンの中の親や他人に見られたら困るデータを消去し、ベッドや本棚の裏に隠したエロ本やAVを処分しない事には死んでも死にきれないだろう。
浅田も僕と同じ心境なのか、『そうか、そうだった』という顔になる。きっと彼も、ベッドの下にエログッズを隠しているクチなのだろう。
ゆっくりと真鍋は浅田に近づく。ゆっくり、ゆっくり。刺激しないように細心の注意を払って近づくと、これまたゆっくりと右手を浅田の肩へと置く。
「さあ、だからもうこんな馬鹿な真似はやめるんだ」
真鍋の手が肩に触れると、電気が走ったように浅田の体が震えた。この学校に入学して初めて、暴力を孕まない触れ合い。人の情けとぬくもりに初めて触れ、浅田は感極まって涙ぐむ。それは、さっきまでの絶望や怒りの冷たい涙ではなく、感動の熱い涙。
浅田は、ついに声を殺して泣き出した。そして、静かに手すりから手を離す。
「誰か、浅田くんの服を」
真鍋の声に、教室の後ろから浅田の服が投げ入れられた。いくら不良と言えど、この状況で彼の服を返さないほど非情ではないらしい。
真鍋は慎重に浅田を窓から引き離し、彼に服を手渡す。
「今日はもう帰りたまえ。そして、これからの事をよく考えるんだ。きみがこれからするべき事を、ね」
そして教師の方へ振り向くと、
「先生、構いませんね?」
完全にこの場を取り仕切っている彼の声に、まだ尻餅をついたままの教師は何度も首を縦に振る。
教師の承諾を取り付けた事に満足そうに微笑むと、真鍋は浅田の背中に手を添えて彼を教室の中央へと導いた。
取り囲んでいた観衆たちに見守られながら、浅田はもそもそと服を着る。
ようやく普通の浅田と成った彼は、まだ少しぐずりながらも、静かに教室を出て行った。
教室の扉が閉まると、これまで息を飲んでいた観衆たちがどっと息を吐き出す。そして長い沈黙の後、誰か知らず拍手が漏れ始めた。
このクラスが創設されて以来、ここまでみんなが一体となった瞬間があっただろうか。きっと最初で最後の共同作業だろう。誰もがこの事態の最功労者に惜しみない拍手を贈り、真鍋もそれに応えるように悠然と席へと戻る。
しかし意外だった。彼はてっきり浅田が飛び下りようが手首を切ろうが、無関心を貫くだろうと思っていた。
しかし実際は誰よりも真摯に浅田に歩み寄り、熱い説得をもって彼を絶望から救った。冷血そうに見えて、実は優しいやつなのかもしれない。
そんな奇異と賞賛の視線を投げかけている僕と目が合うと、真鍋はにやりと笑った。
僕もつられて笑い返した。
ようやく教師が正気を取り戻し、そそくさと教壇へと戻る。さっきまでの出来事などどこ吹く風か、やはりいつも通りに授業を始めた。
そして生徒たちも、中断していたそれぞれの遊戯に戻った。
結局、あれだけの事件が起きようと、このクラスは何も変わりはしない。
やはりこいつらは動物だ。
◆
翌日、やはりと言うか当然と言うか、教室に浅田の姿は無かった。
前日に自殺未遂をやらかしたのだから、とてもではないが登校できないだろう。いくら当分は不良たちも敬遠していじめてこないだろうとは言え、どの面を下げて教室に入れば良いのか僕にだって分かりやしない。
ぽつんと空いた浅田の席に、菊の花が花瓶に入れられて供えられていた。タチの悪い悪戯だ。
◆
その翌日も浅田は学校に来なかった。
そしてその翌日も。
浅田が登校拒否を始めて四日目。花瓶の菊が萎れ始めた頃、夕方のHRの時間に真鍋が担任に手を挙げて質問した。
「先生、浅田くんがもう三日も欠席してますが、彼はどうしたのですか?」
浅田という、今もっともホットなキーワードに教室がざわめく。彼は空気が読めていないのだろうか。誰もが訊きたいが、訊くのがはばかられる質問を、どうしてそう平然とできるのだろう。普段はモラルの欠片もない不良たちでさえ、その話題はタブーとしているというのに。
もうこの時点で、このクラスの誰もが浅田は自殺しているだろうと予想していた。最初の二日までは登校拒否の線も濃厚だったが、彼の席に置かれた意味深な菊の花が、みんなの心に彼の死を強烈に印象づけていた。
担任は腫れ物に触られたように肩を大きく震わせたが、咳払いを何度か挟むと、
「ああ……浅田な。浅田はな……あ~」
どうしてそこで止める。そんなどもった言い方だと、否が応でも次の言葉を期待してしまう。せめてすんなり「浅田は風邪だ。お前らも気をつけろよ~。夏風邪はタチが悪いからな~」とかさらっと言ってくれれば、こんな嫌な緊張感は味あわなくて済むのに。
クラス全員が固唾を呑んで見守る中、ようやく決心がついたのか、担任はごくりと音が聞こえるほどの大きな唾を飲み込むと、
「浅田は……亡くなったそうだ」
とうとう決定的な言葉が出てしまった。
波打つほどに教室が騒然となる。当然の結果の如く、みんなの予想が当たってしまっていた。まさか花瓶の菊の花が、こんな結果を暗示しているなんて。
「彼は自殺したんですか?」
あまりに破壊力のある質問に、ざわついていた教室がぴたりと静まる。
またしても質問したのは真鍋だ。どうして彼はこうデリケートな質問を、さも当然のような顔をして訊けるのだろう。
だが誰もが心の中でそう思いながらも、片隅では彼の勇気ある無情な質問を賞賛していた。結局、みんなそれが知りたいのだ。
担任にとっては、真鍋の質問は拷問に近いだろう。こんな重苦しい空気の中、クラス全員の期待と興味のこもった視線を一身に浴びて、けれどそれは彼自身のせいではなく、ただ浅田の担任というだけでこんな責め苦を受けている。不祥事の起きた企業の記者会見で、自分には何の責任もないのに身代わりに謝罪させられる偉い人は、きっと彼のような気分を味わっているのだろう。
沈黙が流れる。
けれど再び開いた担任の口からは、
「せ、先生は……知らん……」
という拍子抜けするものだった。
しかし、その言葉が決定的だった。
自殺にしろ事故にしろ、担任するクラスの生徒が亡くなったのだ。何かしら情報が入っていて然るべきはず。むしろ誤魔化す事で、質問を肯定してしまっている。
言葉の裏を読む脳すらない不良たちは、うやむやな態度の担任に不満を垂れる。恐らく、この教室で浅田が自殺したのを確信したのは、僕と真鍋だけだろう。
盛大なブーイングを受けながら、担任が教室を出て行く。話はそれで終わりだった。
――と思っていた。
他の生徒たちと同様、僕が帰り支度をしていると、
「なあきみ、今日はこれから予定があるかい?」
唐突に真鍋が話しかけてきた。
「いや、特にないけど……」
僕がそう答えると、彼は何のためらいもなく、
「これから浅田の家に行かないか?」
なんて悪魔みたいな事を言ってきた。
◆
いつもとは方向の違う電車に乗りながら、僕はとんでもない事になったなあ、と内心ため息をついた。
隣には、真鍋が何気ない顔をして吊り革に掴まって立っている。これから自殺したクラスメイトの家に行こうっていうのに、なんとまあリラックスした顔だろう。彼にとって、これから行く場所は近所のコンビニと大差ないらしい。
浅田の住所は、真鍋が前もって調べていた。
調べていた――というほどの事ではなく、ただ単に学期の最初に配られた、クラス全員の住所と電話番号が書かれた連絡網のプリントを持参していたのだ。
連絡網のプリントは、当たり前だが僕も持っている。だがそれは自分の部屋の、勉強机の引き出しの中に入れっ放しだ。真鍋が今こうして持参しているというのは、彼が今日放課後に浅田の家に行こうと計画していた事に他ならない。
恐らく彼は、今日の担任の態度で浅田が自殺した事を確信したから、今から訪問すると決めたのだろう。きっとプリントは、浅田が早退した翌日から持ち歩いていたに違いない。
一度も降りた事がない駅の改札口を抜けると、真鍋が鞄から地図を取り出した。とことん用意周到な男だ。
プリントに書かれた住所を地図と照らし合わせながら、商店街を抜けて住宅地に入る。
「ここだ」
真鍋は立ち止まり、僕に分かるように一軒の家を指差した。
普通の二階建ての一軒家だった。葬式はもう終わったのか、それとも自殺という体面の悪さから身内だけでひっそりと執り行ったのか、鯨幕や忌中の張り紙はなく、家だけ見たら本当に浅田の家かどうか怪しい。
表札には、浅田と書いてあった。どうやらここで間違いないようだ。
とうとう来てしまった。教室を出てからずっと考えていたが、浅田の家に行き、彼の家族に会って、一体何を言えばいいのだろう。どんな顔をすればいいのかすら、未だに僕は分からないでいる。それでも真鍋の誘いに乗ってのこのこやって来たのは、やはり彼の死の真相が知りたかったからだ。
不意にブザーが鳴ってどきりとした。真鍋が玄関のチャイムを鳴らしたのだ。
彼は鉄の心臓でも持っているのだろうか。ブザーがなり、玄関のドアが開くまでのわずかな時間、僕の心臓は破裂せんばかりに高鳴っているのに比べ、真鍋は相変わらず平然としていた。
ついに玄関の扉が開く。出てきたのは、浅田の母親のようだ。客向けの愛想笑いすらする元気がないのか、僕らを見ても何も反応がなく、ただ小さな声で「どちら様?」と訊ねただけだった。
「僕たちは、和彦くんのクラスメイトです。ずっと欠席しているのでお見舞いに来たのですが、和彦くんの様子はどうですか?」
幽霊のような浅田の母親に仰天している僕をよそに、真鍋がさも病気で欠席しているクラスメイトを見舞いにきた体を装う。ちなみに、和彦とは浅田の下の名前だ。僕はこの時初めて知った。
しかしまあ、浅田が自殺している事なんてとっくに知っているはずなのに、よくもまあそんな白々しい台詞が吐けるものだ。しかも、いかにも級友を心配してますという顔で。浅田の説得の時といい、真鍋は勉強だけでなく役者の才能もあるらしい。
浅田の母親は虚ろな目で僕たちを見ると、「ああ……」とようやく事情を飲み込んだようだ。
「それは……わざわざありがとうね。けど、和彦は……もう…………」
それ以上は聞かなくても分かっていた。けれど浅田の母親は勇気を振り絞るように、
「和彦は……死んだんです。四日前に」
真鍋の息を飲む音が聞こえた。やはり彼は役者だ。
僕は初めてそれを知った体を装わなければならなかったが、声が出なかった。幸い無言である事が、級友の死をいきなり報せられたショックを演出してくれたようで、とりあえず不審には思われなかったようだ。
「それは……初耳で、……あの、ご愁傷様です」
これも真鍋の嘘だ。本当はついさっき担任から聞いているはずなのに。だが真鍋が担任に質問していなければ、彼が死んだ事すら僕らは知らなかった。少なくとも、事実として確信できなかった。そしてずっと登校拒否だと思い続け、いずれは彼の事など忘れてしまっていただろう。
「あの……もしご迷惑じゃなければ、和彦くんにお線香をあげたいんですけど。いいですか?」
まだ浅田と仲の良いクラスメイトを演じるつもりなのか、真鍋はさらに一歩踏み込んだ事を言い出した。
浅田が自殺したという確証は得られた。もうこれ以上ここに居ても、何にもならない。真鍋には他に何か目的でもあるのだろうか。
「ええ、ぜひそうしてやって……」
浅田の母親は、泣き腫らして真っ赤になった目を細めて、僕たちを家に招いた。
◆
後飾り壇のある和室に案内された僕たちは、モノクロ写真の浅田と再会した。
写真の彼は笑っていたが、僕は学校で彼のこんな笑顔を見た事がない。
遺影の隣には、骨壷があった。遺骨が入っているだろうそれはとても小さく、生きていた頃もそう大きくも太くもなかった彼の肉体だが、死んで焼いてしまえばこんなにも小さなものに納まってしまうのか、と不思議な感じがした。
先に焼香したのは真鍋だった。僕も彼の真似をして焼香を済ませた。
線香と沈香の臭いが部屋中に満ち、独特の重苦しい雰囲気に息が詰まる。まるで生きている感じがしなかった。この部屋は、死者のための部屋であり、生きている僕たちが足を踏み入れるのは場違いな気がする。
しばらくすると、浅田の母親がお茶を持って入ってきた。お礼を言って一口啜ったが、味なんて分からなかった。
「今日は……どうもありがとうね。和彦もきっと喜んでいると思うわ」
そんなふうに言われると、とても心苦しい。僕たちはまったくそんな気などなかったのだ。ただ興味本位で訪れ、嘘までついている。
それでも真鍋はそんな事を一切感じさせず、胸を詰まらせたような顔をして、
「いいえ、そんな……。僕たちこそ、和彦くんが亡くなったなんて知らずに……申し訳ありません」
なんて言っている。
「それで、あの、和彦くんはどうして亡くなったんですか?」
母親の肩が震える。あまりにも酷な質問だが、僕たちは彼が死んだのを今日初めて知ったという設定だ。知らないからこそ訊けるのだが、真鍋はそうじゃない。知っていて、それでもこんな事を訊ける彼を、僕は改めて只者ではないと思った。
母親はしばらく黙り込んでいた。そりゃそうだろう。息子が自殺したなんて、赤の他人においそれと言えるはずがない。ひた隠しにしたいはずだ。
けれど息子の友人にはすべてを知ってもらいたかったのか、浅田の母親はとうとう僕たちに浅田の死のすべてを語ってくれた。
結論から言って、浅田は自殺だった。
教室の窓からの飛び降りが未遂に終わったあの日、彼はいつも通りに帰宅し、急に部屋の掃除を始めたという。
二階の彼の自室から物音がしていたが、掃除をまめにする息子の事だからと、母親は何も不審に思わなかったそうだ。
そして翌朝、いつまで経っても部屋から出てこないので母親が部屋に入ると、ま新しいロープで首を吊っている彼を見つけた。
何故か彼は学生服を着ていた。夏なのに詰襟のホックをすべて閉じ、まるでこれから記念写真でも撮るかの如く、きっちりとした身なりで首を吊っていた。
動転してかなり時間を浪費したが、仮にすぐ救急車を呼んでも間に合わなかったと、救急隊員に慰めの言葉をかけられた。発見時、彼の体はとうに冷たくなっており、恐らく家族が寝静まった深夜に決行したのだろう。
遺書は彼の勉強机にあったので、すぐ発見された。
遺書には、両親に向けた先立つ不孝への謝罪と、これまで彼が学校でいじめを受けていた事が記されてあった。
「あの子が学校でいじめにあっているというのは、薄々勘付いていたの……。時々、制服がやけに汚れてたりするし、あちこちに細かいケガをしてたから。何より母親ですもの。子供の事なら何だって分かるわ。けれどあの子、家では一生懸命それを隠そうとしてたの。きっと私たちに心配かけまいと、あの子なりに気を遣っていたんでしょうね」
ようやく乾いただろう母親の目に、再び涙が溢れる。自分の母親と同年代くらいの女性がしくしくと泣く姿は、何とも言い難いものがあった。
「たしかに、和彦くんは学校で酷いいじめに遭っていました。僕らも友達でありながら、助ける事ができなくて本当に申し訳ないと思っています」
いつの間にか、真鍋は僕らをただのクラスメイトから友達へと昇格させていた。
「自分たちで解決しようとせず、ちゃんと先生に相談してたら良かったんだ。担任の先生だって、和彦くんがいじめにあっていたのも知っていたし、相談すれば誰かきっと力になってくれていたはずなのに。……今さら言っても仕方ないけれど、僕たちの思慮の無さがこんな結果を招くなんて……、何とお詫び申し上げればいいか……」
それまで悲哀にくれていた母親が、真鍋の懺悔に顔を上げる。
「先生は知ってた……? 和彦がいじめられていたの?」
「ええ。先生はいつも和彦くんを気にかけていました。いえ、和彦くんだけじゃなく、僕たち生徒全員の事を大事に思ってくれていると思います。だから和彦くんが自殺した事も、僕らに秘密にしていたのでしょう。僕らにショックを与えないために」
「ちょっと待って。あの……本当に先生は和彦がいじめられていた事を知ってたのね?」
「はい、もちろん。だって僕らの授業を担当している先生たちは全員、何度も現場を目撃していましたから」
真鍋がきっぱり断言すると、浅田の母親は俯いたまま「そう……そうなの……」と何度も呟く。涙が止まったのは良いのだが、今度は爪を噛みながらぶつぶつと独り言を呟きだした。
彼はたしかに事実を言っている。だけどそれは、今ここで話すべき事なのだろうか。けれどまあ、さっきまで死んだ魚のようだった浅田の母親の眼が、今では爛々と輝き力強い光を放っている。
きっとこれで良かったのだろう。僕はそう納得し、すっかり冷えたお茶を口に含んだ。
冷えた緑茶は、とても不味かった。
◆
浅田邸を出て、駅へと向かう。
もうすっかり日は暮れている。まばらに並ぶ街灯に照らされた道を、僕と真鍋は並んで歩いた。
とにかく疲れた。
肉体的ではなく、精神的に。
悲しみに暮れる人を見て同情的な気分になるのは、きっとテレビやスクリーンなどを通して見るからだろう。
現実に肉眼で見たところで、重苦しい空気と本人から漂う悲愴感に当てられて、こちらまで気が滅入ってしまう。
泣けるドラマや映画など、その典型だ。
あれは画面を通して客観視する事によって、登場人物に感情移入する事ができる。もし実際に自分の身の回りで起こったら、脳が受け入れられずにフリーズしてしまうだろう。
親しい友人や家族に不幸があった人が、『実感が湧かない』とか『現実味がない』とか、すぐに涙が出ないのはそのせいだ。脳が現実を受け止められず、まるで他人事のように感じてしまう。そして時間が経ち、事態を客観視できるようになって初めて、過去の自分に感情移入できるのだ。
恐らくそのせいで、僕も真鍋も浅田が自殺した事を確信しても、何の感情も浮かんでこなかった。
きっとしばらくすれば、もっと人間らしい感情も現れるだろうと思う。
けれど今は、疲労と空腹しか感じない。
なので駅に着くまで、僕たちは一言も会話しなかった。
◆
駅の構内で真鍋と別れ、僕は彼とは別の電車に乗った。彼の家は学校から歩いて通える距離にあるから、結果的に学校へと戻る形になる。
家に帰り、夕飯を食べ、風呂に入った。
今日一日であれだけの事があったのに、普通に食事ができる事に少々驚いた。けど僕が夕飯を食べない事によって浅田が生き返るわけでもないし、やはりこれが正常な反応なのだろう。
自室に戻り、ベッドに横になりながら、買ったばかりのデジカメの説明書を読む。
最新式、とまでは言わないが、高校生の小遣いで買えるクラスとしてはなかなかのものだ。
説明書を片手にデジカメの操作をしながら、僕はこれまでの事を振り返ってみた。
どうして浅田は自殺したのだろう。
真鍋に説得されて衝動が収まったとしても、再びいじめられたのなら、また自殺したくなるのも頷ける。人間とは気が変わる生き物だ。
だが問題なのは、〝なぜ真鍋に説得された日の深夜に自殺したのか〟という事だ。
あの騒ぎの後浅田はすぐに帰宅したから、それから不良と接点があったとは思えない。
まあ学校の外でもいじめられていたのなら話は別だが、自殺未遂騒ぎをやらかした直後の浅田をいじめるほど、彼らもチャレンジャーではないだろう。
一体何が原因で、彼は自殺したのだろう。
真鍋の説得で改心したように見えたのは、錯覚だったのだろうか。
あれほどの熱弁も、彼の決意を鈍らせる事はできなかったというのか。
「んん?」
思考の片隅に奇妙な引っかかりを感じ、僕は思わず変な声を出してしまう。
ちょっと待て。真鍋のあれは、本当に説得だったのだろうか。今改めて冷静になってよく考えれば、おかしなところがいくつかある。
僕は脳をフル回転させて、あの時の事を思い出す。
そうして彼の言った言葉を一語一句正確に、とまでは言わないが思い出してみると、ある恐ろしい事が分かった。
彼は、浅田を説得していたのではない。
浅田に『どうせ自殺するのなら、遺書を書いて自分をいじめた奴らに復讐しろ』、と暗に促していたのだ。
どうしてそう思ったのかと言うと、それは今日浅田の家に行って、彼の母親に詳細を聞いたからだ。
まず、彼は自室で首を吊って死んでいた。それは、真鍋が『俺だったら、こんな中途半端な場所から飛び下りるくらいなら首吊り自殺を選ぶね』と言ったからだ。
飛び降りるだけなら、高さなんて関係ない。生徒が授業中に窓から飛び降りた、という事実があればそれでいいのだ。
だが自殺となると、四階だと成功率は低い。しかしだ、衝動的に自殺をしようという人間が、果たして成功率などを考えるだろうか。
折りしもあの時浅田は、露骨にいじめに遭っている自分を誰も助けてくれない事に絶望していた。そして飛び降りる直前、僕たちに向けて呪詛のような言葉を残している。
つまり、あれは僕らに対するあてつけなんだ。教室から飛び降り自殺をして事件を起こし、警察やマスコミなどの介入を招いて僕らを断罪しようとしていた。
けど、それは確実じゃない。
たとえそれで浅田が死んだとしても、彼の自殺を隠すような学校や教師だ。それにあの場に居たのだって、ほとんどが不良である。いざとなったら我が身可愛さに、学校側と口裏を合わせて事故と証言するに違いない。
そこで次の『せめて遺書を残し、身辺を整理してから事に望むね』というのが効いてくる。これまで自分をいじめてきた奴らを、遺書で告発しろという事だ。
遺書は確実な物的証拠となり、警察やマスコミに渡れば大きな武器となる。上手く使えば、いじめに参加していた全員の人生を破壊できるかもしれない、最強のアイテムだ。
そして身辺の整理――つまり部屋の掃除だ。きっと家族が遺品を整理する際、見られては困るものを処分したのだろう。
あと、浅田ははなぜか制服を着ていたらしいが、これはきっと『自分の息子がパンツ一枚で死んだなど、どうして悲しむ事ができよう』というのに関係していると思う。
彼はたぶん、正装してから事に及ぼうと考えたのだろう。学生の正装と言えば、学生服だ。だから夏なのに詰襟を着ていたというのは、これで説明がつくはずだ。
教室を出た後からの浅田の行動を推察すると、彼はまっすぐ家には帰らず、まずホームセンターにでも行ったのだろう。
そこで首を吊るためのロープを買い(ロープはま新しかったそうだ)、学校が終わる頃まで時間を潰す(いつも通り帰宅した、と彼の母親は言っていた)。そして帰宅後、部屋の掃除をして遺書を書き、家族が寝静まった深夜に首を吊って自殺した。
何という事だ……。
全部説明がついてしまった。
興奮で胸がどきどきしている。
真鍋は、浅田を完全にコントロールしていた。
しかも、周囲に居た人間にはまったく気づかせないで。
そして、ここまで分かってしまうと、さらに新しい事に気がついてしまう。
どうして真鍋が今日、浅田の家に行ったのか。
それは、結果を確かめたかったからだ。
自分が仕掛けた罠に獲物がかかったかどうか見に行く狩人のように、真鍋は浅田がきちんと自分の言った通り自殺しているかどうかを確認しに行ったのだ。
今思えば、浅田の母親から彼が自殺したと聞いた時、真鍋が息を飲んだのは驚いたからではないのだろう。
あれは、思わず出そうになる歓喜の声を、咄嗟に噛み殺したために違いない。
すごい。すご過ぎる。
彼は、ただ学校の勉強ができるだけの奴じゃない。知識を自分の目的のために使える、本当の意味で頭のいい奴だ。
僕は改めて、真鍋帝という男の頭脳と、人を一人死に至らしめて平然としている精神力に身震いした。
やはり彼は、色んな意味であのクラスに相応しい人間である。
◆
翌朝。
HRの時間になっても、担任の先生は教室にやって来なかった。いつもなら、たとえクラスのほとんどが遅刻していようと、形だけでもHRをしにやって来るのに。
授業が始まるが、今度は教師が来なかった。代わりに副担任がプリントを持って来て、自習という文字を黒板に大きく書いて去っていった。当然、誰もそんなものはやらなかった。それ以前に、今の時点で教室には僕と真鍋しか居ない。
さすがに三時限目まで自習が続くと、これは何かあったのではないかと思うようになってきた。
ぽつぽつと重役出勤をしてきた他のクラスメイトたちも、連荘で自習が続く事を不思議に思う脳みそは持ち合わせているようで、足の速い奴を一人斥候に出して情報を集めだした。
そして斥候役の彼は、掛け算もろくにできないくせに、見事に自分の仕事を果たして帰って来た。
彼が言うには、どうやら緊急職員会議が開かれているそうな。
しかも、その会議には浅田の両親も出席しているという。
浅田の両親がどうして学校に。
なんて不思議に思っている不良たちをよそに、僕だけはその理由に思い当たるふしがあった。
いや、もう一人居る。
浅田の両親を学校に向かわせた張本人――真鍋帝だ。
きっと浅田の両親は、学校を訴えに来たのだろう。学校は浅田がいじめられているのを黙認し、あまつさえ彼の自殺を秘匿した。
だが学校が隠していたという事実を、浅田の母親に教えたのが真鍋である。
一度からくりが分かってしまえば、二度目を見破るのは簡単だった。
思い出してみよう。僕と真鍋が浅田の家に行った時、彼の母親に言った台詞を。あの時彼は何と言っただろう。
彼はまず浅田の母親に『担任の先生だって、和彦くんがいじめにあっていたのも知っていたし、相談すれば誰かきっと力になってくれていたはずなのに』と言ったのだ。
今回は前回に比べてストレートだ。けどまあ、あんまり捻り過ぎて相手が理解できなかったら意味がないし、何よりあの時は浅田の母親はかなりまいっていた。判りやすいくらいでちょうどいいのかもしれない。
こうしてまず担任がいじめを黙認していたのを臭わせ、次に『だって僕らの授業を担当している先生たちは全員、何度も現場を目撃していましたから』と、全教科の先生を共犯に仕立てている。
これはつまり、学校側が浅田のいじめを知っていながら、何も対処していなかった事を暗喩している。
さらに念の入った事にこの台詞は、浅田がいつも、授業中にも関わらずいじめられていた事を示している。教師全員がいじめの現場を目撃できるなんて、朝礼の時かそれぞれの授業中くらいだ。
こうして真鍋の目論見どおり、浅田の両親は見事に動かされ、学校側を訴えに来校したわけだ。
それにしても、真鍋は面白いように自分の思い通りに他人を操っている。彼の口車と言うか、巧妙な話術には驚かされてばかりだ。やはり彼は、僕なんかでは到底及びも付かない天才だ。
緊急職員会議が終わったのか、午後からは普通に授業が行われた。と言っても、相変わらず教師の一人芝居だ。誰も聞いちゃいないし、教師だって聞かせる気なんかない。
BGMにもならない授業を右から左に聞き流しながら、僕はそっと真鍋の方を見た。
寝てた。
◆
浅田の両親が乗り込んだのが昨日。たった一日じゃ、学校は目に見えて変わりはしなかった。
しかし、二日経っても何ら変化が現れず、僕はこの時点で学校側は、浅田の両親の言い分を完全に否定したと睨んだ。
学校側がいじめなんてない、と主張するのは全国的によくある事だ。いくら遺書が残っているとは言え、それをおいそれと認めてしまうほど学校はお人よしではない。
認めてしまうと学校の評判が落ちるし、評判が落ちれば来年から受験人数が減ってしまう。つまり、経営に大きな痛手を負う事になる。
学校だって、骨組みは企業と同じなのだ。生徒の親から学費という資金を得られなければ、たちまち経営が破綻してしまう。
だから学校は非を認めない。
自分に非があればそれを認め、素直に謝罪しなさいと教えてきた学校は、恥知らずにも浅田の両親を追い返した。倫理や道徳よりも、金のためにこの事件は闇に葬られたのだ。
このままうやむやになると思われたが、事態はある日急変した。
何と、ネットの掲示板に浅田の自殺に関するスレッドが立ち、しかも彼の遺書の内容と思われるものが書き込まれたのだ。
スレッドのタイトルには、昨日の今日で早くも『6』とついている。明らかに祭になっている。
僕は自室のパソコンで元となった最初のスレッドを辿り、ようやく過去ログから件の内容を見つけた。
そこには、浅田がいつどこで誰に何をされたかというのが、日記形式で書き連ねられていた。
日記の日付は彼がいじめられるきっかけとなったトイレでの出来事から始まり、まだ記憶に新しいブリーフ一丁で授業を受けさせらたところで終わっている。
その数はざっと見ただけでも二百超。最初のいじめからおよそ二ヶ月だとしてほぼ毎日、一日最低五つは何かしらのいじめにあっている計算になる。
掲示板に書き込まれた日記を読みながら、僕はその微に入り細を穿つ内容に唸らざるを得なかった。よくもまあここまで書き込んだものだ。
そして日記以降の書き込みは、匿名掲示板ならではのアグレッシブなものばかり。他人事なので、喧々囂々と好き放題でまさに無法地帯だ。
今現在立っているスレッドも、リロードするたびに書き込みが増え、炎上の勢いはとどまる事を知らない。この勢いから察するに、浅田の事件はこの掲示板だけでなく、他の有名な掲示板でも同様に祭になっている事だろう。
そうなると、いかにインターネットという水面下の騒動でも無視できない。もしかしたらマスコミが動きだすかもしれない。
これは面白くなってきたぞと、僕はそのスレッドをブックマークした。
◆
次の日、どうやら僕のクラスにはパソコンを持っている人が少ないのか、それともパソコンなんてアダルトサイトを閲覧するか、アダルトゲーム専用機となっている人しかいないのか、ネット掲示板での浅田の騒ぎはまったく話題になっていなかった。
これには僕も肩透かしを食らったが、自分から喧伝するのも何かと都合が悪いので静観する事にした。
昼休みになり、昼食を食べ終わった僕は、買ったばかりのデジカメを持って校舎裏までやってきた。
校舎裏には体育用具倉庫や焼却炉の他に、雑木林に続く道がある。林の中に入れば、都会では見られない野性の鳥がたくさんいて、バードウォッチングには最適の場所なのだが――。
運の悪い事に、体育用具倉庫の影で不良たちが食後の一服をしていた。一服とは、もちろん喫煙の事だ。
雑木林に行くにはどうしても体育用具倉庫の前を通らなければならず、通ればどうしても彼らに見つかってしまう。見つかったら最後、喫煙していた事を先生に告げ口されるのを恐れた彼らに、何をされるか分かったものじゃない。
仕方なく僕はバードウォッチングの代わりに他の写真を数枚撮ると、足音を立てないようにその場を離れた。
校舎裏の手前まで戻ると、いきなり真鍋と鉢合わせしてしまった。
彼はこんな所を誰か歩いているとは思わなかったのか、「おおっ」と小さく驚く。
「なんだ、きみか。びっくりしたじゃないか」
「それはこっちの台詞だよ」
「こんな所、滅多に人が通らないからな。ん? きみ、それは何だ?」
真鍋は僕が手に持っているデジカメに気づき、興味津々な顔をする。
「ああ、これはデジカメだよ」
僕がデジカメを真鍋に渡すと、
「これが……ほう、噂の……。初めて見た。ずいぶん薄くて軽いんだな。カメラというのは、もっと重くてゴツくてレンズが長いものだったのだが。ふむ、これも科学の進歩というやつか」
昭和からタイムスリップしたような事を言いながら、しげしげとデジカメを見回す。どうやら彼はかなりローテクのようだ。カメラというものは一眼レフで、フィルムを使うタイプのしか知らなかったのだろう。
「で、何を撮ってたんだ? 女子の着替えか?」
「……ここは男子校だよ」
自分で言ってて寂しくなる。三年間しかない高校生活で男子しか居ないなんて、何の拷問だよ。とは言え、共学に入って三年間一度も彼女ができなければ、それはそれで寂しく悲しいものだ。いっそ男子校だから、という言い訳ができるだけマシなのかもしれない。
「この先に雑木林があるだろ? あそこで鳥でも撮ろうと思ってたんだけど、先客が居てさ……」
「先客?」
「うちのクラスの不良たちだよ」
そう言って僕は、雑木林の手前にある体育用具倉庫を指差す。
「あそこで彼らがタバコを吸っててさ、見つかっていちゃもんつけられるのが嫌だから、引き返してきたんだ」
「なるほど、それは賢明だ」
「ところで、真鍋くんは何しに来たの?」
「ああ、体育用具倉庫のマットで昼寝をしようと思ったんだが、今日は日が悪かったな」
「あんな所で昼寝? あんなカビ臭い所で寝るより、素直に保健室のベッドを借りた方が良くない?」
すると真鍋は「それはそうなんだが」と、少し困ったような顔をする。
「昨日仮病でベッドを借りたところだしなあ。今日もまた行くと、本当に病気じゃないかとあらぬ疑いをかけられて面倒になる」
なんだよ、昨日も行ってたのかよ。だから体育用具倉庫のマットか。たしかに学校の中でベッドの代わりになるものは、体育のマットくらいだろう。
しかし、いつも授業中はほとんど本を読むか机に突っ伏して寝ているくせに、さらに昼休みまで寝るとは眠り病か何かだろうか。いや、彼の事だ。きっと睡眠は学校でとる事にして、徹夜で勉強しているに違いない。
「仕方ない。マットは諦めて、今日は屋上で寝るとしよう。下手に絡まれると厄介だからな」
「そうした方がいいよ。あいつら、浅田くんが居なくなって、いじめる相手が居なくて欲求不満だからね。何されるか分かったもんじゃないよ」
「そうだな。知らずにこのまま行ってたら、どうなっていた事か。教えてくれてありがとう、助かったよ」
「お礼なんて別にいいよ。クラスメイトじゃない」
僕が笑顔でそう言うと、真鍋は不思議そうな顔をした。
しまった。真鍋のような天才が、僕みたいな凡人に友達みたいに思われると迷惑だろう。一瞬そう危惧したが、彼は
「いやあ、きみみたいな才人に懇意にされるとは、光栄の至りだね」
と、おかしな事を言った。
いったい僕のどこが才人なのだろう。成績は良くないし、運動だって人並み程度。友達はいないし、もちろん彼女だっていない。そんな僕を、真鍋は才人だと言う。やっぱり彼は変わっている。
ぽかんとしている僕に軽く手を振ると、真鍋は校舎裏を後にした。これから屋上で昼寝をすると言っていたが、今日みたいな真夏日によくやるものだ。きっと屋上は地面が焼けて、寝られたものじゃないだろうに。
それでもまあ、彼なら何とかしそうだ。別にこれといった理由はないが、何となくそう思った。
◆
まだ鎮火する気配も見えぬネット掲示板の祭に、さらに新たな燃料が投下された。
今度は浅田をいじめていた連中の個人情報と、写真がアップされたのだ。しかも最悪な事に、どいつもこいつもタバコを吸っている姿が激写されている。
ただでさえ炎上していたスレッドは、燎原烈火の如く燃え上がり、もはやインターネットという水面下の出来事では収まらないほどの騒ぎとなった。
そしてネットから飛び散った火の粉は、ついに現実世界にも火をつけた。
マスコミが食いついたのだ。
ある日登校すると、校門の前に人だかりができていた。
日本は現在大したニュースが無いのか、たかだか生徒が一人自殺したくらいのちっぽけな事件に、地方ローカルのケーブルテレビだけでなく、全国放送の大きな放送局まで出張ってきている。
手にはマイクやカメラを持ち、学校に入ろうとする生徒に片っ端からインタビューする姿は、動くものなら何でも飛びつく頭の悪い動物のようだ。
僕は日本ってつくづく平和だなあと思いながら、彼らの標的にならないように、なるべく目立たないようにして校門をくぐった。
教室に入ると、珍しく真鍋が一番乗りしていた。彼は眠そうにしながらも、何やら真剣に本を読んでいる。
僕は軽く朝の挨拶をしながら自分の席に鞄を置き、ついでに彼が読んでいる本の表紙を盗み見た。
何だかやけにアニメチックな表紙が印象的だったが、彼なりに何か身になるものを見つけたから読んでいるのだろう。
サリンジャーにさえ意味を見出せる彼の事は放っておいて、僕が鞄から取り出した教科書やノートを机にしまっていると、
「なあ、インターネットってどこで売っているんだ?」
素っ頓狂な事を訊いてきた。
「はあ……? ゴメン、意味がわからない」
「だから、インターネットとやらをするには、どうすればいいのかと訊いているんだ」
顔は寝ぼけているようだが、頭は正気みたいだ。どうやら彼は、ようやくデジタルの世界に興味を持ったようだ。だがデジカメを初めて見る彼にインターネットを説明するなんて、僕にはハードルが高すぎる。
「えっと……ネットをするだけなら、別にパソコンじゃなくても携帯でできるからね。真鍋くんは、ネットを何の目的で使うの?」
「目的?」
「たとえば自分のホームページを持ちたいとか、ブログを始めたいとか。ただネットを閲覧するだけなら高いパソコンは必要ないからね」
「ちょっと待ってくれ。いきなり専門用語を並べ立てられても困る。とりあえず日本語で話してくれ」
「いや、これもう一般的な日本語だし……」
真鍋は「そうなのか?」と衝撃を受けた顔をする。
頭が痛くなってきた。この二十一世紀の世の中に、ここまでアナログな、しかも自分と同い年の人間がいるとは。
「今話題になっている掲示板を見てみたいのだが、インターネットでしか見れないそうなので困っていたんだ」
「ああ、例の」
「きみは見た事があるのか?」
「あるよ。話題になってるし、今日なんてマスコミがいっぱい来てたから、そのうちテレビのニュースでも取り上げられるんじゃないかな?」
「そういえば、きみはパソコンに詳しそうだったな。以前それ関係の雑誌を読んでいたのを思い出したよ」
「別にそれほど詳しくないよ。それに僕くらいのネット知識なら、専門雑誌をちょっと読めば誰でも手に入るし」
僕は鞄に忍ばせていたパソコン雑誌を取り出すと、ちょうど件の掲示板に関連した記事があるページを開いて彼に見せた。
「ほう、これがインターネットか」
「ん~まあ、これが全部じゃないけどね」
「この掲示板を見るには、やっぱりパソコンを買わないといけないのか?」
「そうでもないよ。ネットカフェに行けば見れるし、ネットを常用する気がないならそれで十分だと思うな」
すると彼は、また初めて耳にしたような顔をする。ネットカフェも知らないなんて、本当に現代人か? どこまで世事に疎いのだろう。だんだん心配になってきた。
「駅前に大きなパチンコ屋があるでしょ?」
「ああ、あるな」
「その向かいがネットカフェ。料金さえ払えばネットもできるし、漫画も読み放題だよ。行ってみたら?」
「いやしかし、俺はパソコンなんて触った事ないしなあ。きみ、良かったら一緒についてきてくれないか?」
パソコンに触ったこともない超がつく初心者に、ネットのやり方を教えるのは野生の熊に芸を仕込むより難しいだろう。
当然僕はそんな事はしたくないので、仕方なく持っていた雑誌を真鍋に渡し、
「この本にその掲示板のアドレスとかアクセス方法とか載ってるから、参考にすればいいよ。分からなかったら、ネットカフェの店員に聞きながらやればいいし」
それにこういうのは人に教わるより自分で苦労しながらやった方が身につくよ、と適当な事を言って、珍しく不安そうな真鍋との会話を強引に打ち切った。
真鍋の事はネットカフェの店員に丸投げし、僕が再び鞄の中身を机の中に突っ込んでいるとチャイムが鳴った。
当然、担任の教師はやってこなかった。
校門前にあれだけマスコミがやってきているのだ。きっと今日も緊急職員会議だろう。
午後になって、渦中の不良たちが登校してきた。
彼らはやはりネットには興味がないのか、誰一人自分が全世界に個人情報が流出した事に気がついていない。情報社会のこの時代に、何と呑気な事か。
だが教師たちはそれなりにデジタルに関心があるのか、すでに情報を掴んでいたようで、登校したての彼らはすぐさま御用となった。
◆
それからの流れは、まさに急転直下だった。
マスコミの動きに連鎖反応したのか、それとも世論に押されてようやく重い腰を上げたのか、とうとう学校に教育委員会の査問が入ったのだ。
校門の前にマスコミが待ち構える中、数台の高級車で颯爽と乗り込んだ教育委員会のお歴々は、あっという間にこの事件を沈静化してしまった。あまりのスピード解決に、もしや裏で何か取引があったのではと勘ぐってしまうほどだ。
ともかく、学校側はいじめが存在していた事、いじめを黙認していた事を認め、記者会見を開いて謝罪した。
それから校長と教頭は、今さらながら浅田の家を弔問し謝罪した。賠償なんかの難しい話はまだまだ時間がかかりそうだが、とりあえずこれで浅田の両親は報われた事になるのだろう。
この事件の余波は、僕のクラスにも変化を及ぼした。
まず、担任が辞職した。恐らく浅田の件で責任をとったかとらされたのだ。まあ自業自得とも言えるが、教師は組合が強いので再就職のアテにも困らないだろうから実質転任と大差ない。
だが教師の一人が居なくなったくらいで、この学校が変わるとは思えないし、案の定授業のスタイルはまったく変わっていない。
次に、浅田をいじめていた不良たちがいなくなった。
人を一人自殺に追いやった上に、住所氏名など個人情報がネットに晒されたのだ。しかも未成年者喫煙という現行犯写真のおまけつきで。
学校側は停学という甘い処分にしたが、この町に居づらくなった彼らはことごとく自主退学し、夜逃げ同然に引越した。まあ彼らの学力で他に行ける学校があるとは思えないが、それこそ自業自得なので僕の関する事ではない。
教室の後ろ半分がさっぱりし、何となく物足りないとは思うが、この静けさがいつまでもつかは定かではない。なにしろ、僕と真鍋以外は不良しか居ないクラスなのだ。
僕は今日は真面目に、教科書を開いて授業を聞いている。隣では、相変わらず真鍋が本を読んでいた。彼は今日もいつも通りだ。
退屈な授業が終わり、僕が帰り支度をしていると、唐突に真鍋が僕に声をかけた。
「なあきみ、今日はこれから予定があるかい?」
何だか前にも聞いた事があるような気がするのは、気のせいだろうか。
「いや、特にないけど……」
この返事も前にしたような……。既知感というやつだろうか。
「ちょっと話があるから、屋上まで来てくれないか」
真鍋に限って、まさか告白とかはないと思うが、彼のいつにない真剣な表情に、僕は断る理由が思いつかなかった。
屋上には誰もおらず、ちょっと込み入った話をするには絶好のロケーションだった。
真鍋はフェンスへと歩き、はるか足元を下校する生徒たちを、まるで蟻の行列を見るかの如く眺めている。
彼の影を長く伸ばす夕日を、僕が眩しそうに見ていると、
「ようやく分かったよ」
振り向きもせずに言った。
僕は何の事かさっぱり分からず、「は?」と間の抜けた返事をする。
彼は構わず続ける。
「俺はね、きみのような人間がどうしてこんなクズだらけの掃き溜めクラスに居るのか不思議に思ってた。けどようやく分かったんだ。どうしてきみが、このクラスに隔離されたかをね」
「どういう事だい?」
「きみは他人を観察し、秘密を握る才能に長けている。長け過ぎていると言ってもいい。しかもそればかりか、他人の秘密を悪用し、罠に嵌める事を楽しむタチの悪い癖がある。だからきみは要注意人物として、あのクラスに入れられたんだ」
極悪人みたいな言われようだ。けれどあまりに突拍子もなさ過ぎて、僕は心外だとか不本意だとか、怒るよりもまず噴き出してしまう。
しかし、すぐに僕の笑いは、真鍋の一言によってかき消された。
「浅田を自殺させたのは、きみだったんだね」
笑みが一瞬で凍りついた僕に向けて、真鍋は探偵のように続ける。
「彼が不良たちにいじめられるように仕向け、そしてまんまと自殺に追い込んだ。さらには怠慢な担任と一緒に、あのどうしようないクズどもを退学へと導いた。まったく、俺なんかが及びもしない手際の良さだよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。浅田くんが自殺するように誘導したのは、真鍋くんの方じゃないか。僕は知っているんだぞ。きみがあの時彼を説得するように見せかけて、遺書を残して首吊り自殺しろと教唆していたのを!」
「ああ、たしかにあの時、彼にちょっとだけ知恵を授けたのは俺だ。けど浅田が自殺する根本的な原因を作ったのは、きみじゃないか」
「え……?」
「思い出してみたまえ。不良たちは、まずきみに目をつけた。そしてあれこれちょっかいをかけていたが、ある日突然標的を浅田に変えた。それはどうしてだったかな?」
「それは……浅田が学校のトイレでウンコしてるのを不良たちが見つけたからだろ。幼稚な原因だけど、それがいじめの発端になるなんて、そう珍しくはないよ」
「けれど、浅田がトイレでウンコしているのを不良たちに教えたのはきみだろ? いじめの対象を、自分から浅田に変えるために」
僕は答えない。まるで真相を言い当てられた真犯人だ。
反論しないのを是と見たのか、真鍋は「それに」と付け加える。
「インターネットの掲示板に浅田の遺書と、不良たちの写真に個人情報を添えて公開したのもきみだ。ついでに言うと、浅田の席に菊の花を供えたのもね」
菊の花は、たしかに僕だ。だがそれは、僕がこのクラスで一番早く登校する事を知っているから推理できたに過ぎない。こんなのは、まだ悪ふざけの範疇じゃないか。
「俺は最初、いじめを認めない学校側に憤りを感じた浅田の両親がやったのかと思った。タイミング的にはそうとしか考えられなかったけど、それにしてはネットの掲示板なんてまだるっこしい。それこそ遺書を直接マスコミに送りつければ済むだけの話だ。それに、まだいくつか辻褄が合わないところがある。そこで俺は考えた。〝あのネットに上がった遺書は、本当に浅田の書いたものだったのか〟と。そこで俺はネットにあった遺書について調べたんだが、ネットの遺書には、今までに受けたいじめの内容や時間が事細かに記してあった。俺が訊き出した母親の証言とも、だいだい一致する。だがネットの遺書の内容は〝すべて授業中に受けたいじめしかなかった〟んだよ。あれだけ浅田をいじめていた連中が、授業中しか手を出さないなんてのは不自然だ。当然休み時間、昼休み、放課後、もしかしたら下校してからもいじめられていたのかもしれない。だから遺書の内容が、授業中のいじめに関するものだけというのは不自然だ。だがこう考えればどうだろう? あのネットにあった遺書は、浅田の書いた本物の遺書じゃなく、誰か別の人間が書いたものだった。そう考えれば、おのずと誰が書いたのか絞られる。浅田が授業中いじめられていたのをずっと観察できた人物――つまり浅田と同じクラスの人間だ。もちろん、教師はそれに当てはまらない。授業の教科が変われば教師も変わる。ずっと一人の生徒を長期間追えるわけがないからな」
彼は最後に「まあ浅田のおつむの程度を考えると、あそこまで詳細にいじめの内容を記憶できたとも考えにくかったしな」と酷い事を付け加えた。
「おいおい。同じクラスの人間ってだけで、僕を疑うのかい? それはちょっと強引すぎやしないか? 僕以外にも、授業中浅田がいじめられているのを見ていた奴は、いくらでもいるだろう」
「いや、そうでもない。あの教室で、俺ときみ以外はクズばかりだ。授業なんてそっちのけで、ゲームをしたり麻雀をしたり、みなそれぞれの遊びに夢中になっている。だいたいあの頃は、浅田がいじめられている光景なんて日常と変わりない。もう誰も気にとめてなんかいないよ」
「だったら僕だって違うさ。僕はいつも授業中は教科書を開いて、真面目にノートをとっていたんだから」
「いいや、きみだけなんだ。だってきみは授業中、教科書を開いて懸命にノートをとってはいたけれど、〝ずっと後ろを向いていたじゃないか〟。いつも後ろを向いて、教室の後ろで不良たちにいじめられている浅田を観察し、その内容をノートに記録していたんだ。だからあの遺書の内容も、授業中にされたいじめしかなかったんだ」
何か言おうとしたが、真鍋の言葉は僕が口を挟む隙を与えない。それ以前に、僕は何を言えばいいのかすらまだ決まっていない。
「次に写真もそうだ。あの時、校舎裏で俺と鉢合わせした時。ネットにあった写真は、まさにあの直前に撮ったものだ。そして喫煙している彼らを、こっそり隠し撮りしたものをネットに上げたんだ」
「く…………」
僕は唸るしかできなかった。もう反論も言い訳も、何も意味をなさない。
すべて、真鍋の言う通りなのだから。
「きみは浅田という餌を使って、クズ数人と担任をこの学校から見事に排除したんだ。それに気づいた時は身震いしたね。まさかこんなクソみたいな学校に、俺を出し抜く奴がいるなんて思いもしなかったよ。ある意味感動したと言ってもいい」
賞賛されたところで大して喜べなかった。そりゃあ真鍋のような天才に、一目置かれるのは悪い気はしない。
真鍋の推理どおり、僕は浅田を使って不良たちを罠に嵌めた。入学当初、ぼくをいじめた彼らを社会的に抹殺するために浅田の命を利用したのだ。
まさか見抜かれるとは思っていなかったが、さすが天才といったところか。やはり僕のような凡人に、彼のような本物の天才を出し抜く事はできなかった。
だがみすみす彼の思い通りになる気は毛頭ない。僕は精一杯の胆力を振り絞り、最後の賭けに出る。真鍋が僕に一目を置いているなら、なおさらこの賭けは僕に有利に傾くはずだ。
「それで、きみはどうしたいんだ? 僕を警察に突き出すのかい? けどそうするんだったら、僕にだって考えがあるよ」
我ながら小悪党だと思う。こういう時、本当の悪人なら潔く罪を受け入れるか、自ら命を絶つものだが、生憎僕はそうじゃない。みっともなく悪足掻きをするただの凡人だ。
けれど、僕のちゃちな脅しは無駄骨に終わった。真鍋は僕と同じように噴き出すと、
「おいおい、そう怖い顔するなよ。俺だってきみを敵に回すのはご免だ。それに、俺だって浅田を自殺に追い込んだり、彼の母親に学校を訴えるように誘導した。きみが捕まれば俺も同罪だ」
だがどちらも中途半端だったけどな、と真鍋は自嘲するように口の端を歪める。
「だがきみは俺よりもさらに上手くやった。初めて他人に敗北したと痛感したよ。けれど同時に嬉しかった。俺と同じ考えを持った奴が、他に居たんだからな。俺たちは言わば、同じ目的をやり遂げた同士だ。もし俺ときみが組めば、この腐った学校からクズどもを一掃できる。しかも合法的に、だ」
真鍋は手の平を返したように、あっさりと探偵側から犯人側に入ってきた。その節操のなさに呆れてしまうほどに。
だが『同士』か。どうやら彼も僕と同じ人種らしい。
つまり、真鍋も僕と同様、他人を自分の意のままに操って面白おかしく遊びたい、という欲求を持っているのだ。
自分でも狂っているとは思うが、実際にやって上手くいってしまうと、この遊びは麻薬や他のどんな快楽よりも魅力的だ。そして彼もまた、この魅力に憑り依かれた人間だったのだ。
ならば、彼と二人で組んだら、今までよりもっと面白い遊びができるだろう。そう考えるだけで、脳内麻薬がガロン単位で出てくる。
「それは……面白そうだね……」
病的な笑みをする僕に向けて、
「だろ? 幸いこの学校には、まだいくらでもクズがいる。そいつらを使って、もっと面白い事をバンバンやろうぜ。俺は心理操作が得意だが、情報戦はからっきしだからな。きみが居れば、心強いことこの上ない」
真鍋は悪魔のような笑みとともに、右手を差し出した。
僕も右手を出し、彼の手を握る。悪魔との契約だ。
「よし、今日から俺ときみはコンビだ。そういえば、きみ、名前は?」
「知らなかったのかよ……。阿久津祐介。コンビなら、相方の名前ぐらいちゃんと覚えてくれよ?」
「悪い悪い。改めて自己紹介しよう。俺は真鍋帝――ん?」
自己紹介を中断し、真鍋は少し考える仕草をした後、にやりと笑った。何かまた良からぬ事を思いついた顔に、僕は少し嫌な予感がした。
「阿久津の『あく』と、真鍋の『まな』で『あくまな』か……。よし、今日から俺たちは『悪魔なコンビ』略してアクマナだ」
「うわ……だっさ…………」
渋面する僕の手を、真鍋は痛いほど握り返した。きっと酷評に対する仕返しに違いない。
僕も負けじと力いっぱい握った。
がっちりと握手をした僕らは、この瞬間から悪魔なコンビとなった。
さあ、次は二人でどんな遊びをしよう。