箸
私には兄がいる。
ありがちな兄弟構成である。
2つ上の兄がいて、その下に私がいる。2人揃って幼稚園に入ったと思えば、あれよあれよと片割れが小学生になり。2人揃って小学生になった後には、立て続けに『子供のイベント』が訪れる。
上の子に下の子の面倒を見てもらうには少々心許ない年齢差ではないかとは思うが、上の子の後ろ姿を見て下の子が育つと思えば、存外合理的なのかもしれない。
さて。私は箸を持つのが苦手である。
幼い頃には手を握り拳のようにして箸を持っていた。具体的に何歳ごろまでそうだったかは記憶にない。ただ、確かなのは、私が箸の持ち方を変えたきっかけは一家団欒の夕食どきのことだったと記憶している。
その日も私は握り拳のようにして箸を握っていた。それを見て母が言うのだ。
「お兄ちゃんはお箸を持つのが上手なのに、あんたは間違った持ち方をしてるんやねぇ」
青天の霹靂である。確かに言われてみれば、私はどうにかこうにか、人差し指と中指を動かして箸を持っているが、指の添え方が違ったのだ。
「お兄ちゃんは幼稚園で先生に教えてもらったって言ってたけど」
母が続けて言う。その時の私はひどく恥を覚えた。
私は間違っているのだ。どうにかこうにか正しい持ち方に近づけようと奮闘し、ある時は正しい箸の持ち方を調べ、何の折に鉛筆を持つのと同じと言われれば見よう見まねに模倣してみたが、それでもやはり、「あんたは間違った持ち方をしてる」のであった。
それ以来、私は人前で食事をとるのが苦手になった。
ナイフとフォークで食べられる時は問題ない。スプーンも。手でちぎって食べられるパンなんて心の拠り所ですらある。
ただ、飲み会の席でも箸を使う店とわかるやいなや、私の気は沈んだ。
同じ飯を食べるこの人は、心のうちで私の間違いに気づいているに違いない。
ただ哀れみで何も言わずにいてくれているのだ。
その考えは今も私の脳みそにこびりついている。
雨が振った夜。ふと、箸のことを思い出した。
「間違った持ち方」の箸のことである。
私は濡れたタイル床を眺めながら、ぼんやりと、わたしたち兄弟の間に存在した事実に気がついた。
わたしたちは、親でない大人の手によって育てられた側面もあるのだ。
随分と歳をとった今、考えてみればそうである。
兄は箸の「正しい持ち方」を幼稚園の先生に教わったのだ。その先生が私のクラスを請け負ったかは今となってはわからないが、兎角、兄に正解を教えたのは親ではなく幼稚園の先生だった。
そうして幼稚園の先生の教えた正解が兄の物になった後。わたしたちの親は私に言った。
「お兄ちゃんはお箸を持つのが上手なのに、あんたは間違った持ち方をしてるんやねぇ」
親は間違いを指摘した。だけれど、正解を私に教えることはしなかった。
ようやっと、長年に渡って私の視界を覆っていたヴェールの一枚が、雨に溶かされた。
考えてみれば、子の箸の持ち方が気になるのであれば教えてやれば良いのだ。
実に単純なことである。そうやって教わることで子供は成長し、学ぶのだから。
だけれど、わたしたちの親はそうしなかった。だからわたしたち兄弟の間に箸の正誤という違いが横たわっている。
そんなに小さい時から、私たちは他人に育てられていたのか。
雨の降る夜は物思いに耽ってしまう。だけれど、それが過去からの解放になり得るのであれば、長い夜も悪くはない。




