そして何者でもない二人はキスをする
ファンタジー 乙女向け
礼拝堂で少女が一人、声を押し殺して泣いていた。
彼女はエルディラ。神託によって見出された、この国にたった一人しかいない聖女である。国を救うために神から異能を授けられている。幼い頃から異能を正しく使うため、清廉たれと修行を積んできた。その成果たる大儀式が明日から行われることになっており、また儀式が無事完了した暁には、公爵子息に嫁ぐことになっている。
彼女の中に、儀式に対する不安はない。これまでの修行の成果を出せばいいだけなのだ。意図的に妨害をする者がいなければ当然のように成功するだろう。問題は当面の役目を終えた後に嫁ぐことになっている男のことだった。
この国では基本的に重婚は認められない。また、聖女は純潔を喪えば異能を喪うことになると考えられているため、彼女は白い結婚になることを定められているし、夫は次期当主ではない。だというのに、あの男は彼女との婚約が決まってからというもの、彼女を孤児と見下す、華やかな装いをしないと詰る、端女の真似を許さないと怒る、その挙句に結婚が成立する前から愛人を作り、婚姻後に与えられる予定の屋敷の一番良い部屋を愛人に与え、彼女は日当たりも悪い小部屋に住めばいいと宣った。その横暴さを知ってか知らずか、周囲の人間は男を諫める様子もない。
神託に従って幼い頃から努力してきた褒美に与えられるものがそのような苦行というのは(褒美がほしくて頑張ってきたわけではないとはいえ)彼女の心を折るには十分だった。
「――泣いているのですか、エルディラ」
星の瞬きのように降り注いできた声に、彼女は顔を上げる。そこにいたのは、背に白翼を生やした美しい男。幼い彼女を聖女と見出し、以来彼女を見守り時には導いてきた守護天使だった。天界の掟があるとかで人間に直接触れあい手を貸すことはしない。しかし、彼女が悲しい時は傍で慰め、喜ばしいことは祝ってくれた。彼女の心をずっと守ってきてくれた相手だった。
そんな相手に彼女が聖女と天使であるという以上の深い愛を抱くのもある意味当然のことだっただろう。彼女が名前をつけず、誰にも隠している淡い思いを向ける相手がいたことも、彼女が絶望した一因だったかもしれない。
「…天使さま」
絶対に結ばれることのできない想い人を前にして、彼女はくしゃりと顔を歪める。
「…私は、まだ耐え続けなければならないのでしょうか。あの人たちが欲しいのは、私ではなく、私の異能だけだというのに」
「・・・」
「…申し訳ありません。私がいなければ、この国は亡びるのですから…仕方のないこと、なのですよね…」
彼女は乱暴に自分の涙を拭って、息を整えようとする。天使は静かに降り立って、彼女の前に膝をついた。
「エルディラ。あなたが望むのであれば、この国を見捨てても良いのですよ。神はそれを咎めたてはしません」
「…え」
痛ましそうな顔をして、天使の指が彼女の涙を拭う。初めての触れあいに彼女の心臓が小さく跳ねた。
「神が聖女を遣わすのは救うためですが、聖女一人を犠牲にして繁栄することを求めているわけではありません。あなたは、あなたの幸せを求めても良いのです」
「わたしの、幸せ」
天使は眉尻を下げて彼女に微笑む。
「あなたの望みは、何ですか?エルディラ」
問いかけられ、彼女の胸の中に様々な思いが駆け巡った。不安と期待。怒りと悲しみ。諦観。口には出せない、奥底の願い。
それでも結局、彼女が口にしたのは、切実でありながらこの国の人間たちに踏みにじられてきた願いだった。
「わたしは…私は、あの方には嫁ぎたくありません。この国にも留まりたくない」
国を救う聖女と謳われても、出自もよくわからぬ孤児である彼女はいつも軽んじられてきた。その最たるものが婚約者だっただけで、国や組織の上層部にいる人間に本当の意味で彼女を尊重する者はいない。だって、誰一人、彼女の希望を尋ねることもせず、決定事項として婚約も伝えられたのだ。彼女にとっては、どうせ純潔を守るのなら修道院に入って生涯独身を保つ方が幾分マシだったのに。
彼女の答えを聞いて、天使は彼女に手を差し出す。
「ならば、私があなたを連れ出しましょう。此処にあなたの幸福がないというのならば。…儀式を無事終えてからの方が良いでしょうか」
「いいえ!今すぐ私を連れ出してくださいませ。国を見捨てたと咎め立てられても構いません。天使さまが…あなたが、共にいてくれるのなら」
彼女がまだ涙の残る目で天使を見て、その手を取る。天使は優しくその躯を抱き寄せ、翼で包み込んだ。次の瞬間、二人の姿は跡形もなく消え、礼拝堂には沈黙だけが残った。
追手がかかるより前に二人は国境を越えていた。
国二つ越えたところで天使の翼は抜け落ち、聖女の異能は使えなくなった。あの国を滅ぼした咎に対する罰であるとわかった。
もはや天使ではなくなった男と、もはや聖女ではなくなった彼女は、自然とその距離を縮めていた。流れ着いた町で仕事を見つけ、二人で暮らし始めた。仲睦まじい若夫婦だと評判になった。結婚したわけではないのだと話すと、近所の人たちがささやかな結婚式を用意してくれた。
小さな礼拝堂で、揃いの白い衣装を着て向かい合い、二人は微笑みあう。
「愛しています、エルディラ。ずっと、ずっと昔から、そして、これからの未来も」
「私もです。世界の誰よりも一番、あなたを愛しています」
淡く紅に染まった頬で、彼女は彼の名前を宝物のように囁いた。誓いの言葉にはそれで十分だった。




