2.王太子殿下の記憶
舞踏会か中止になった数日後、王太子が記憶喪失になったという噂は早くも国中に回っていた。というのも、もともと先日の舞踏会は王太子サイラスの婚約者を選ぶために開かれ、国中の適齢期の貴族令嬢が集められていたせいだ。当然その家族も出席していた。
会場で騒ぎを聞きつけた者たちはこぞって領地に速報を送り、あるいは帰宅して事件を話した。結果としてあっという間に事件が広まったのだった。
だがサイラスが記憶をなくしたとはいっても、全てを忘れてしまったわけではない。正確には、想い人を含めた何人かの女性にまつわる記憶だけをなくしたらしいのだ。
「一体どういうことだろうか、ワイズ伯」
ソファに腰かけて声をあげたのは、サイラスである。彼が今いるのは、王城の敷地内でも王族つきの専属医師であるワイズ伯のために建てられた小さな屋敷の中だ。
サイラスが訪れている部屋は本来、応接室のはずだが研究室として使っているらしい。応接テーブルとソファの他にもごたごたとした家具がたくさん並んでいる。
いかにも偏屈な研究者という雰囲気で、仮眠用と思しきベッドやデスク、壁を埋め尽くすほどの棚があり、古めかしい本や瓶詰の標本のようなものも多々並んでいる。デスクの上には検討中の試薬なのか、書類や薬草の瓶が散乱していた。ちなみにこの隣の部屋も調合のための薬草が並ぶ部屋なので、医師というより薬草バカの家のようである。
その雑然とした部屋の応接用ソファにサイラスとワイズ伯は向かい合わせで座っている。護衛騎士のユリシーズはサイラスの後ろに立っているが、ずっと黙って警護しているだけだ。
薄茶の髪を後ろでまとめて結んでいる初老のワイズ伯は、モノクルをかけなおして「ふむ」と首を傾げた。
「殿下は、病気という意味ではどこにも異常がない。ですがのう……うかがった内容をまとめたところ、殿下の記憶は女性にまつわることのみ、失われているようですな」
「僕は忘れていることなんて……ないと、思っていたんだけれどね」
歯切れの悪い物言いなのは、思い出せないことがあるのをもう自分でもわかっているからだろう。実際、王太子としての執務にかかわることや近頃のできごとはきちんと覚えているらしい。だが、舞踏会開催の流れなどについて思い出そうとすると頭痛がするし、意中の女性を含め複数人の女性に関する記憶が乏しいのだという。
サイラス自身が忘れているので、誰を覚えていて、誰を忘れているのかもわかっていない状況だ。名前も性格も思い出せる女性もいれば、知り合っていたかどうすら思い出せない人もいる。
「……僕は本当に、『婚約者にしたい女性がいる』なんて周りに言ってたんだろうか」
「わしもこの耳で聞きましたからな、確かですわい」
意味ありげに、ワイズ伯はにんまりと笑う。
「ワイズ伯にまで話していたのか」
心底いやそうな顔をしたサイラスは、大きなため息を吐いた。
「ええ、ええ。ですから、陛下に各領地から令嬢を集めるには及ばない、と随分説得してらっしゃいましたねえ」
「……覚えていない」
「そのようですな」
短くワイズ伯が言えば、サイラスはふう、と息を吐いてソファに背を預けた。
「まったく、なんだって過去の僕は意中の女性がいるなんて言ったんだ。おかげで面倒なことになった」
「ははあ、『わたくしが殿下の恋人です』なんて、嘘をついて近づくご令嬢でも現れましたかな?」
くねくねをしなを作ったワイズ伯が裏声でふざける。するとげんなりした様子のサイラスが目を伏せた。
「知っているくせにわざわざ聞かないで欲しい」
「おや、あてずっぽうでしたがねえ」
「僕はどうやら、その『意中の女性』とやらとの関係を、誰にも言っていなかったらしいね。だから、誰が名乗り出てもそれが本当かどうかわからない」
「なるほど?」
ワイズ伯がとぼけて相槌を打つと、半眼になったサイラスがやれやれと首を振る。恋人だけを忘れていたのなら、サイラスが思い出せない女性だけを探せばよかったのだろう。だが、下手に複数人を忘れているせいで、誰が恋人なのか本当にわからない。
「おまけに、僕が言っていた『意中の相手』とやらが恋人なのか、それとも僕の片思いなのかすらわからないんだ。『殿下の子を授かりました』なんて言ってくる令嬢が出てくるかもしれないと思うと、めまいがするよ」
「お心当たりがおありで?」
「まさか」
「おやおやまあまあ。女嫌いの殿下がますます女嫌いになりそうですなあ」
鼻で笑う勢いでサイラスは言うのに対し、さもありなんとワイズ伯は苦笑した。
王太子サイラスが、今までずっと婚約者がいないどころか女性関係に潔癖なのは有名な話だ。昔、まだサイラスが少年だった頃に婚約者候補を選ぶためのお茶会を開いたとき、令嬢同士がつかみ合いの醜い喧嘩をしたうえ、サイラスは薬を盛られて酷い目に遭った。そこからは儀礼祭典における必要最低限の場以外では、貴族令嬢との接触すら拒んでいたのだ。二十五になった今までずっと、である。
それが先日の舞踏会で、婚約者を指名することになったのだから、国中の令嬢が色めきだったことは間違いない。しかも、忘れてしまった恋人を婚約者に指名するつもりだったという噂がすでに回りきっている今、それを利用しようとする貴族がたった数日だけでも数えきれないほどにいる。ありもしない肉体関係を捏造する輩が現れてもおかしくはないだろう。
もともと女性嫌いだったサイラスが、げんなりと深いため息を吐いても仕方ない状況である。
「本当に僕は好きな女性がいたのか……? 婚約を避けるための嘘ではなく……?」
「まったく疑り深いですなあ。はっきり『彼女以外とは結婚しない』と殿下は言っておられましたぞ」
とどめをさされてサイラスはまたもため息を吐く。だがサイラスの様子など気にも留めずにワイズ伯は続ける。
「それにですなあ……」
ちらりとワイズ伯は視線をユリシーズに向けた。
「待った」
その視線を遮るように、サイラスは掌をワイズ伯に向けて制止する。
「ユリシーズが僕の……その『恋人』について知っているのはわかっている。だけど、僕はそれが誰なのかを知るつもりはないよ」
「おやおや」
片眉を上げてワイズ伯がユリシーズの顔を見れば、それまで黙っていたユリシーズは苦笑して頷いただけで応えた。ユリシーズとサイラスの間で話は通っているらしい。
「そもそも僕は信じていないけれど……ユリシーズには、名乗り出た令嬢がニセモノかどうかだけ確認してもらえればそれでいい」
「やれやれ、ユリシーズのことも信じないとは。我が王太子殿下は頑なでかないませんわい」
大袈裟に嘆いて見せて、ワイズ伯は渋い顔で顎を撫でる。
「殿下の記憶はどうやったら取り戻せるんでしょうな? 偽物の恋人たちがこれ以上増えないためにも、殿下の恋人が早く思い出せるといいんですがのう」
からからと笑ったワイズ伯に対し、サイラスは首を振った。
「いるかどうかもわからない僕の恋人のことはいいよ」
「まったく」
呆れたようにこぼしたが、次の瞬間にワイズ伯は眉間に皺を寄せて真面目な顔になった。
「……問題は、どうして殿下が記憶を失われたか、ですな?」
それまでげんなりとしていたサイラスの顔が引き締まって、ぴりっとした空気を醸し出した。後ろで話を聞いているだけのユリシーズも緊張の面持ちである。
「ああ。僕の記憶が失われているのは、薬などが関係しているかもしれない、ということだったね?」
「そうですな。記憶や感情を捻じ曲げるまじないのかかった薬が使われた可能性が高いと思われますな。そのことについては詳しい者に話を聞きましょう」
ワイズ伯の言葉に、サイラスがわずかに眉間に皺を寄せた。
「レベッカ」
ワイズ伯が隣の部屋に声をかける。すると、カタン、と音を立て、いくばくかの時間をおいてからレベッカが隣の部屋から現れた。彼女は応接室隣の薬剤室で薬の調合をしていたのだ。
突然現れたレベッカの姿に、サイラスが険のこもった目線を向ける。




