18.女難の幼少期
サイラスが記憶喪失になった当初、『殿下には恋人がいた』と聞かされて真っ先に感じたことといえば、次のようなことである。
(面倒なことになったな)
彼に残っている記憶では、親族以外の女性の存在は煩わしいものでしかなかった。だからこそ、婚約を考えた恋人がいると知らされても信じられなかったのだ。だが、幼馴染でもあるユリシーズが『恋人がいた』というのなら、それは真実なのだろう。
だとしたら、このサイラスが記憶のない状況で恋人が名乗り出れば、面倒なことになる。
(僕の記憶がないとなれば、本当の恋人が現れても、『嘘だ』となじって傷つける者が現れるだろう)
つまり『面倒』とは、覚えていない恋人が傷つけられる可能性を考えて、相手を守るのが難しいと思ったのだ。だから、舞踏会から一夜あけた翌日、サイラスは執務室で一つの命令をユリシーズに下した。
「お前はお前は『殿下の恋人は知らない』と表向きには言うんだ」
「なぜです? 殿下の恋人は……」
「待った」
話そうとしたユリシーズを制止して、サイラスは難しい表情になった。
「僕は恋人が誰なのかを知らないほうがいいだろう。知ったらきっと僕は、彼女を特別扱いしてしまう」
「当然のことでは?」
それのどこがいけないのか、という顔のユリシーズに対し、サイラスは眉尻を下げた。
「……昔、婚約者候補の令嬢が次々と大怪我をして辞退した事件があったろう。だから僕は今まで婚約者を作ってこなかった。僕が恋人を公表してこなかったのはそれが理由じゃないかな?」
「それは……」
「やっぱり彼女を守るためだったんだね?」
トントン、とデスクを指先で叩いて、サイラスは難しい顔になる。
「すぐにでもその『恋人』という女性と婚約したら問題は解決するんだろう。でも、それは得策だとは思えない。僕は恋をしていないからね。僕が彼女のことを恋しいと思えないのに王太子の婚約者だなんて重責のかかる身分に縛るのは、相手に失礼だろう」
「殿下……」
ただ記憶にない恋人が煩わしいのではない。自分の身分の重みをわかっているからこそ、それを強要するのは申し訳ない。そんな想いでサイラスは口にする。
「婚約もしないのに、僕が特別扱いすることで『彼女』を危険にさらす可能性もあると思う。たとえそれが恋人でなくともね。それなら僕は、最初から恋人が誰なのかなんて知らないほうがいい。それに、お前が知っていると外部に漏れれば、なんとかお前から恋人を聞き出して、害そうとするかもしれない」
「なるほど……」
幸いにして、すでに偽の恋人は次々と現れているが、本当の恋人は名乗り出ない。恋人を名乗り出た者が本物かどうかの判断だけ、ユリシーズにしてもらえばいいのだ。
「ですが本当に殿下の恋人が誰なのかを知らせなくてよろしいんですか? 陛下たちにも?」
問われたサイラスは小さく息を吐く。
「……本当はね、怖いんだ」
気づかわしげなユリシーズの顔を見れば、記憶をなくす前のサイラスが、どんなに恋人のことを大切にしていたのか、わからないではない。だからこそ不安だった。
たった一晩しか経過していないのに、偽の恋人たちはすでに複数人現れている。だというのに、本物の恋人は名乗りをあげていないのだ。
「婚約者の候補になるだけで命を狙われるんだよ? 僕の婚約者になんか、ならないほうがいい。名乗り出てくれないのなら、『彼女』ももしかしたら逃げたがっているのかもしれないし」
自嘲気味に言って、サイラスは笑う。
「殿下……」
(本当は、結婚なんて適齢期になったら政略に都合のいい令嬢と縁が結べればそれでよかったはずなんだけど……僕が『婚約したい』と思うほどに愛する女性ができたなんてね)
ずいぶんと乾いた考えだが、何もサイラスは昔からそんなふうに女性を敬遠していたわけではない。
***
サイラスが婚約者を作らないと決めたのは、わずか十二歳の頃、とあるお茶会がきっかけだった。婚約者候補との顔合わせがあると言われたそのお茶会で、まずは令嬢たちの様子を見ようとお茶会の様子を遠くから見ていたのだ。それだけはよく覚えている。
だがサイラスはそのあとの記憶が飛んでいる。
あとから聞いた話によると、令嬢同士がもめごとを起こしたので仲裁をしようと間に入ったところ、グレンダ・エマーソン侯爵令嬢が『自分の手作りのお菓子を食べろ』とわがままを言って、サイラスの口にお菓子をつっこんだのだという。
すぐに護衛が引き離してくれて、何が入っているかもわからないお菓子は吐き出したらしい。だが、一部呑みこんでしまった影響だろう、彼はそのあと気を失い、お茶会の開始から目覚めるまでの記憶を失っていたのだ。
調べによると、彼女は惚れ薬を混入したお菓子をサイラスに食べさせていたらしい。しかもどこから入手したのか、魔女の秘薬の惚れ薬だ。当然、グレンダはしばらく謹慎することになった。少女がやったこととはいえ、王太子への行動は到底許されることではない。
それなのにグレンダ・エマーソンは、サイラスに拒絶されたのは他の令嬢のせいだと言って、婚約者候補の貴族令嬢たちを虐め始めた。お茶会から他の令嬢への嫌がらせの件の咎めを受けて、グレンダ・エマーソンは領地に戻らされることになったものの、短期間ですっかりサイラスは参っていた。
(僕が婚約者を決めようとすれば、もめごとが起きるのか)
よくよく調査をしてみれば、婚約者候補と言われた令嬢は、グレンダからに限らず嫌がらせを大なり小なり受けていたらしい。中には大怪我になる事件に発展したケースもいくつかあり、婚約者候補たちの多くは辞退してきたのだ。そんな理由から、サイラスはそのお茶会以後、女性とのかかわりを最小限にするようになったのだった。
だというのに、王太子の婚約者という身分は魅力的らしい。わずかなかかわりでも、令嬢たちは目の色を変えてサイラスにアピールをし、抜け駆けをする令嬢には他の令嬢から手ひどい嫌がらせが繰り広げられているようだった。当然、婚約者候補を選定することなどできようはずもない。
そんな日々に転機が訪れたのは、王城つきの魔女が亡くなり、代替わりした頃のことだ。
少年時のお茶会の事件時にワイズ伯に診察を受けた関係で、サイラスはたびたび彼の元に個人的な相談をしに行くことが増えていた。その日も、いつものようにワイズ伯の家を尋ねたところ、出迎えたのは彼ではない。
「王太子殿下……?」
ワイズ伯の家には住み込みのメイドはいないはずなのに、ドアを開けたのはグレーのローブを羽織った若い女性だった。レベッカである。
「……君は……王城つきの魔女かい?」
記憶を頼りに尋ねれば、彼女は驚いたように赤い目を瞠って、口をつぐんだ。
「違った?」
答えない彼女に首を傾げて再度聞くと、レベッカははっとしたように眉尻を下げてゆるゆると首を振り、頭を下げる。
「失礼しました。王城つきの魔女、レベッカで合ってます。先日より、ワイズ様の弟子としてこちらに来させていただいてます」
もの言いたげな視線を向けていたというのに、言葉を全て呑みこんで、レベッカは穏やかな笑顔をサイラスに向けてくれた。
(ああ……彼女もか)
最初に思ったのは、他の令嬢と同じく、自分を魅力的な婚約相手としか見ていないであろうということだった。
(これから媚びをうってくるのかな)
だが、この日は挨拶したあとお茶を出したくらいで彼女は全く声をかけてこなかった。そうしてその次も、そのさらに次に会ったときにも、予想に反して彼女がサイラスにアピールをしてくることはなかった。
(僕に興味がありそう、というのは勘違いだったのか)
自身の勘違いを恥じたのは、すぐのことである。
ワイズ伯の家を訪ねたときには必ず彼女がお茶を出してくれるが、それ以外では部屋に留まることもなくずっと隣の調合室で仕事をしているばかりだ。あるいは、一切顔を見せないことさえある。
「今日も彼女は隣の部屋に?」
「ああ、昨日教えた調合がうまくいかんとかで、熱心にやっておりますわい」
「そうなんだね」
開くことのない隣の部屋のドアをじっと見つめていると、ワイズ伯に笑われてしまった。この時も含め、ワイズ伯との会話は全て隣の部屋にきっと筒抜けだろうに、レベッカがその話をサイラスにしてきたことはほとんどない。彼女は常に身を引いた態度で、かつ穏やかな笑顔で接してくれていた。
(今日はあのお茶が飲めないのか)
その事実にほんの少しの寂しさを感じたのは、単純にレベッカの淹れるお茶が好きだからだとこのときのサイラスは思っていた。
その認識が変わったのは、レベッカと接するようになってから半年ほど経ってからだった。




