1.波乱の舞踏会
『レベッカ、婚約者として必ず君の名前を呼ぶから。絶対に舞踏会に来て。いいね?』
そう優しく囁いた銀髪の男性は、大きな包み箱を渡してきた。中には彼の紫色の瞳によく似たアメジストをいくつも散りばめた美しい薄紫のドレスが入っている。これを着れば、周囲からは一目で彼のパートナーだとわかるだろう。
『でも……』
『僕はレベッカしか選ばない。やっと君を僕の恋人だって公表できるんだ。だから……』
紫の瞳を揺らして、懇願するように彼はレベッカを見つめてくる。その視線に圧されたレベッカは頬が熱くなってつい、頷いてしまったのだ。
『わかりました。……行きます』
『じゃあ、僕と結婚してくれる?』
順番が逆になったプロポーズに、レベッカは頬を赤らめたまま口元を緩ませる。
『はい、喜んで』
『……っ、嬉しいよ』
とろけるように微笑んだ彼は、そっとレベッカの顎に手を添えて顔を上向かせた。
『サイラス様……』
呼びかけた声を遮るように、唇が重なる。
『好きだよ、レベッカ』
囁かれた声音は実に甘やかだ。絵に描いたような恋人同士のひとときである。そんな時間を過ごしたのは、つい数日前のことだった。
***
「きゃああああ……っ!」
絹を引き裂くようなそんな叫びが響いたのは、絢爛豪華な舞踏会の真っ只中だった。『必ず来て』と言われたあの舞踏会である。
(何が起きたの……!?)
会場の隅でグラスを持ってたたずんでいたレベッカはぎょっとして目を瞠った。
彼女はどこからどう見ても淑やかな貴族令嬢のたたずまいである。薄紫のドレスは胸元から裾に向かってだんだんと色を濃く染め上げてある。影の中にいると漆黒に見えるほど濃い紫の髪とも、結い上げられた髪にさしたアメジストの飾りともよく似合っている。アーモンド形の瞳はぱっちりとした二重でルビーのような赤い瞳が印象的である。華やかで美しい彼女だが、なぜか周りには人がおらず、それどころかパートナーの姿もない。
だがそんなことよりも今の彼女には、悲鳴のほうが重要だった。会場内に響いた女性の声に騒然とする中、レべッカはすばやく会場に視線を巡らせる。
(あっちかな? ケガした人がいたら早く対処しないと……!)
手に持っていたグラスをテーブルに置いて、レベッカはサッと走りだした。ドレスを着ている淑女にはあるまじき素早い走りである。
「王太子殿下がお倒れに……!?」
「王族つきの医師はどこにいる!」
「薬師はいないか!」
騒動の中心に近づくにつれ、人だかりで進みづらくなる。同時に周囲からそんな声が聞こえた。
(うそ……!)
さぁっと顔が青ざめて途端に胸が詰まったが、レベッカは気持ちに反してすぅっと息を大きく吸いこんだ。
「薬師です! 通してください! 王城つき魔女、薬師のレベッカ・アンカーソンです!」
叫びながら進むと、人垣が割れて道が開けた。その先には、護衛騎士と一人の令嬢、そして倒れ伏した銀髪の男性がいる。
(本当に、彼が)
銀髪の彼が王太子殿下であることに間違いない。倒れた姿を確認したレベッカの心臓が跳ねる。
「薬師ですって!? 医師はいないの!?」
血相を変えて叫んだのは、王太子に寄り添っている令嬢だった。その令嬢が誰なのかはレベッカにはわからない。だが、今は緊急を要するから彼女に構ってなどいられない。
「ワイズ様……医師はすぐに来られると思います。それまでは私が診させていただきます!」
護衛騎士が頷いたのにほっとして、ぱっと駆け寄ったレベッカはドレスが汚れるのも構わず床に跪く。
「殿下、失礼します」
短く断って、王太子の手をとった。レベッカの顔も青ざめているが、彼の顔色はもっとひどい。毒でも飲まされたかのように冷や汗を浮かべて、呼吸が荒かった。触れた手は汗のせいなのかひんやりと冷たい。とはいえ脈は早いものの飛んだりするような異常はなさそうである。
「騎士様、殿下はお怪我を?」
「いえ、歓談中に急にお倒れになられて……」
「そうなんですね。……熱はなし、肌に斑点もなし……」
汗に濡れた前髪をそっとかきわけて、皮膚の異常がないかを調べる。一般的に暗殺などに使われる毒の反応はない。
(これなら、命を脅かすような毒ではなさそう……? 毒じゃないなら病……? でも病気なんてないはずなのに……!)
どくんどくんと鳴る自分自身の心臓の音がうるさい。パニックになりそうだったが、ぐっと奥歯を噛みしめてレベッカは王太子を見据える。
(ううん、そんなことより処置だわ)
心をおさえこみ、レベッカはぱっと顔をあげて護衛騎士を見た。
「騎士様、殿下のお身体を動かすのを手伝ってください」
「わかった」
傍に立ち尽くしていた令嬢を押しのけて、護衛騎士が銀髪の男性の身体に触れる。そうしてレベッカの指示通りに身体を横向きに動かしてから、クラバットを外して首元を緩めた。おかげでわずかに楽に呼吸が楽になったのか、どっどっと跳ねていた彼の脈が少しずつではあるが緩やかになっていく。
「どうなってるの!?」
「お静かに」
いらいらしたように令嬢が叫んだのを、護衛騎士が睨んで黙らせる。そんな声などレベッカには聞こえていなかった。ただただ、目の前で青い顔をして瞼を伏せている王太子の顔を見つめる。
(お願い、目を覚まして……!)
今すぐに心臓が止まる状況ではないのはわかっていた。それでも気が急いて、レベッカは祈りにも似た願いを心の中でくりかえし唱える。すると焦りで噴き出た汗が肌を冷やすのとは別に、身体の芯にぼうっと熱が灯った。その熱が指先に伝わって、じわりと熱が王太子に移ったような気がする。そのときである。
「ん……」
「……サイラス様!」
思わず名前を呼んだレベッカの手に、力がこもった。サイラス――その名は、この国の王太子の名前であり、同時にレベッカの恋人の名前でもある。つまり今目の前で倒れている彼こそが、ドレスを贈り、今夜レベッカの名前を呼ぶと言っていた恋人なのだ。
祈りの集中が途切れたレベッカの身体の奥では、先ほどの熱がぷつりと途切れて消えている。
「……ここ、は……」
額に浮かんだ汗が一筋こぼれ、涙のように瞼を滑る。うっすらと開かれた瞼から覗く鮮やかなアメジストのような紫色の瞳が、レベッカの姿を捉えた。
「サイラス様!」
再度の呼びかけに、サイラスの顔がわずかに曇る。
「僕は……倒れてしまったのか……? すまない。君が介抱してくれたのか」
身体を起こそうとしたサイラスの肩を支えようと、レベッカはとっさに腕を伸ばした。だが、その手が彼からやんわりと遮られる。
(え……?)
「殿下、大丈夫ですか。まだ横になられていたほうが」
代わりにサイラスを支えて起こしたのは護衛騎士だ。サイラスは護衛騎士の腕は拒まなかった。
「ユリシーズか。僕はなぜ横になっていたんだ?」
「突然お倒れになられたんです。レベッカ殿がいなければどうなっていたことか……」
「いえ、私は状況を確認しただけで」
「そうか。君は……」
ちらりとレベッカに向けた目線が、薄紫のドレスに注がれる。まるでサイラスの色そのもののようなドレスをまとった彼女を見て、うっすらと眉間に皺を寄せた。だが一瞬で王子様らしいよそゆきの笑顔になった。
「レベッカと言ったか。感謝する。あとで礼の品を届けさせよう」
口ぶりに反して目の奥が冷たい。まるで、初対面の令嬢を警戒するかのような目線だ。
(どういうこと……?)
「い、え……」
喉に声がからんで、レベッカはかすれたように返事をする。するとすぐにサイラスの目線は外され護衛騎士に戻された。その冷徹な態度に、護衛騎士のほうが顔を曇らせる。
「殿下、どうなされたんですか?」
「なにがだ? それより」
まだ青い顔だ。そんなに身体を動かさないほうがいいというのに、彼はすぐに立ち上がろうとしている。
「なぜ人がこんなに集まっている?」
「それはどういう……王城の、パーティーホールです。殿下、今夜は殿下の婚約者様を指名する日でしたでしょう。……今夜は中止にせざるを得ないと思いますが……」
「婚約者? 僕の? まさか」
弾かれたようにサイラスは声をあげて、瞬間に顔を歪めて頭を押さえる。
「……っ? 誰、がそんなことを……」
「もう心に決めているお方がいらっしゃると……」
「そんな者はいない」
はっきりと、サイラスは否定する。その言葉に、護衛騎士が顔色を変えた。
「まさか、ご記憶が……?」
この護衛騎士の一言で、周囲で見守っていた人々に同様が広がる。
(うそでしょう……?)
確かに恋人から舞踏会で名前を呼ばれた。だが、誰がこんなシチュエーションだと思っただろう。
この国の王太子サイラス・マクミランは、婚約者を指名する舞踏会のこの夜、記憶喪失になってしまった。こうして舞踏会は中止となったのである。




