空白の区域
継環省・内部ブリーフィングルーム。
第九訓練班の5人が揃って座る中、教官・音野蓮が前方のホロスクリーンを操作していた。
「——昨日、都内近郊の“音響異常区”で、新しい災異反応が一瞬だけ観測された。
ただし正式な出動班ではなく、今回は**訓練班による“探索演習”**という扱いになる」
裕也が目を細める。
「……要するに“本番に限りなく近い模擬戦”ってことですよね?」
「察しがいいな。あくまで災異反応は微弱。実体化の可能性は低いが、逆にこの段階で現場を経験させるにはいい機会だ」
スクリーンには、区画コード【K-26】と記された廃工場の空撮映像が映し出されていた。
老朽化した鉄骨、崩れかけた壁、割れた窓。誰も寄りつかない音の死角地帯。
「この区域は“空白区域”とも呼ばれている。
音の伝達が異常に弱く、録音機器や感知装置の類も正確に機能しない」
「……音が死んでる?」
裕也のつぶやきに、教官は頷いた。
「だからこそお前らに行かせる。音を感じ取り、変化を見逃さない感覚。それがお前たちの訓練の仕上げになる」
◆
準備を整えた第九訓練班は、簡易戦闘服に身を包み、トラックに乗って現場へと移動する。
車内は少しだけ緊張感が漂っていた。
「……ま、怖かったら俺の後ろにいな」
蓮が軽口を叩き、裕也を小突く。
「いや、お前は正面で暴れるから信用ならん」
「はっ、じゃあ俺の背中から学んでくれよ“天才さん”」
冗談半分のやり取りに、朱音がやや小さく笑った。
「……こういう空気、大事だね。実戦じゃ、怖がったら終わりだから」
その言葉に、裕也は心の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
——かつての自分にはなかった“チーム”という感覚が、ようやく輪郭を持ち始めていた。
◆
現場に到着。
廃工場の入口には、封鎖されたはずの扉が半開きになっていた。
朱音が前に出て、そっと壁に手を当てる。
「……脈動、微弱だけどある。何かいる」
シンが視界を展開する。
「建物内に、明確な“形”は映らない。でも……空間が歪んでる」
裕也が踏み出す。
(この空気、音が沈んでる。
……いや、違う。“吸われて”る)
空気中に漂う音の粒子が、まるで何かに“食われて”いるように感じる。
「《音律干渉》」
小さな波を出して、空間の“輪郭”を確かめる。
——その瞬間、工場の奥に影が揺れた。
黒い靄のようなものが、一瞬だけ柱の裏に動く。
「いた……!」
裕也が駆け出す。
だが——教官の言葉が頭をよぎった。
(今は訓練。“一人で行くな”)
「朱音、右サイド誘導頼む。シン、進行方向の遮蔽お願い」
即席の指示。だが、ふたりは即応した。
朱音が左壁を叩き、“脈爆”で音の道を作る。
シンが視界に浮かぶノイズをフィルタリングし、進行方向に最適ルートを表示。
そのルートを、裕也が“無音のステップ”で走り抜ける。
工場の中心、空気が一番沈んでいる場所。
そこに“災異の片鱗”が現れていた。
——人のようで人ではない。
——影のようで影でもない。
災異——形を持たず、“音と姿”を模倣する特異体。
だが、完全体ではなく、不安定な残留反応にすぎない。
「……ここから消えろ」
裕也は反響の円を展開し、狙い澄ました干渉波を撃ち込む。
空間がねじれ、“クローン”は波の中に沈んでいった。
——訓練完了。
◆
帰路のトラックで、誰もが無言だった。
疲労というより、“戦場に立った”余韻が全員に残っていたのだ。
「……お疲れ」
朱音が、ふっと笑って言った。
「……裕也、意外とチーム戦もできるんだね」
「俺だって……成長する」
「そりゃあ、頼もしい限りだわ」
誰かの音に、自分の響きを重ねる。
それは、かつての孤独な裕也が最も苦手としたことだった。
だが今、少しずつ——少しずつ、その旋律が広がり始めていた。