残響は静寂の中で
午後五時四十二分。
僕の世界からは、確かに音から壊れた。
東京都・風音駅前ロータリー。
通勤通学でにぎわう夕刻、白木裕也は、ひとり人波の中にいた。
季節は初夏。蒸し暑さをまとう空気の中、彼はイヤフォンをつけるでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ静かに歩いていた。
高校二年。帰宅途中。
友達はいない。帰る家もあってないようなもの。
どこへ向かっているのかも、正直もうどうでもよかった。
ただ――世界が音で満ちていることだけが、彼には耐えがたかった。
けれど、その日だけは違った。
最初に起きたのは、音の“ズレ”だった。
電光掲示板がノイズを走らせ、駅の構内アナウンスが歪む。
スマートフォンの通知音が一斉にループし、信号音が速度を変えて不規則に点滅した。
裕也は思わず足を止めた。
そして次の瞬間――
「ッ……!」
地面が、ではない。空気そのものが震えた。
聞こえないほどの重低音が、地の底から突き上げてくるように広がった。
人々が耳を押さえ、次々と膝をつく。鼓膜に触れずとも、脳が悲鳴を上げる音だった。
そして現れた。
黒い影。
人のような、音波のような。
境界の定まらない存在が、駅構内の換気ダクトから滲み出るように現れた。
それは“災異”だった。
現代における正体不明の災害生命体。
物理法則を超えた力を持ち、政府によって隠蔽されてきた脅威。
だがそれを知る者は、いまこの場所にはいない。
「……なんで……俺だけ、立ってる……?」
裕也のまわりだけ、空気が静かだった。
周囲の音が、すべてフィルターをかけられたように遠のいている。
彼は知らなかった。
この瞬間、彼の中に眠る“音の因子”が、共鳴していることを。
脳裏に“音”が走った。
聞いたこともない旋律、誰かの歌声、無数の“記憶”が一斉に押し寄せてくる。
それは、音楽ではない。魂の“反響”だった。
災異が動いた。
音にならない“声”を発し、空気を刃にして飛ばしてくる。
だが——
身体が、勝手に動いた。
思考より先に、正解を選び取るように。
最適な軌道を描き、反射的に跳び、避ける。
「な、んだ.....この動き……」
地面を蹴る。災異の咆哮を感じる。だが、恐怖より先に“理解”が先行した。
音を、感じ取っていた。
災異の攻撃音が、空間にどんな波を立てているか。
それがどう跳ね返り、干渉し合い、消えていくのか。
——そして、書き換えることができる。
「……音が……聞こえる。いや、“響いてる”」
彼の周囲に、“見えない円環”が発生する。
それは鼓動と呼吸が生む自然のリズム、空気の震え、地面の軋み。
すべてが裕也の意志に応じて、変調し、反響する。
「……《音律干渉》」
そう口にした瞬間、彼の掌から不可視の“干渉音波”が放たれた。
災異の身体に当たり、構造が崩れる。
黒い波形が乱れ、ひとつ、またひとつ、崩れていく。
災異が、叫ぶ。
だが、その“声”すらも——裕也の中で“反響する自我”に吸収されていった。
「……お前の音は、もう響かない」
最後の一撃を放つ。
それは音の衝突による“無音の刃”。
災異は悲鳴のような残響を残し、音とともに空気に溶けて消えた。
……静寂。
通行人の一部は意識を取り戻し、残る者たちは救急車に引き取られた。
だがこの事件は、翌日には「構内の機器トラブルによる軽度爆発」として処理される。
誰も、真実を知らない。
——ただ一人を除いて。
「……なんなんだよ……これ」
響いていたのは、過去の旋律。
それはただの能力なんかじゃない。
何かが、俺に残した音だった。