2.川の音
夕陽が沈んだ後も、空はその小さな橋の上で葵としばらく話をしていた。といっても、大した会話ではなかった。川の流れが静かに響き、時折、遠くでカエルの声が聞こえる。葵はほとんど喋らず、ただ水面を見つめていたけど、空にはそれが不思議と心地よかった。
「この町、ずっと住んでるの?」
葵が突然口を開いた。空は少し驚いて、彼女を見た。
「うん、生まれた時から。まあ、退屈なとこだけどさ。慣れちゃうと悪くないよ」
「......そっか」
葵はそう呟いて、また視線を川に戻した。彼女の横顔には、夕闇がゆっくりと影を落としていた。空は何か言おうか迷ったけど、結局黙って彼女の隣に立っていた。言葉がなくても、ただそこにいるだけで、何か通じ合ってる気がした。
次の日から、空は学校で葵を意識するようになった。彼女は相変わらず教室の隅で静かにしていて、誰とも話さない。でも、休み時間に窓の外を見ている彼女の姿が、妙に目に焼き付いて離れなかった。健太には「気になるなら声かけりゃいいじゃん」と笑われたけど、そんな簡単なものじゃない気がした。
ある日、放課後に雨が降ってきた。教室に残っていた空は、傘を忘れたことに気づいてため息をついた。窓の外を見ると、校門の前で立ち尽くす葵の姿があった。彼女も傘を持っていないようだった。空は少し迷った後、鞄から予備の折り畳み傘を取り出した。親に無理やり持たされたものだけど、初めて役に立つと思った。
「宮崎さん」
校門で声をかけた時、葵はびっくりしたように振り返った。髪が少し濡れていて、前髪が額に張り付いている。
「これ、使えば?俺、家近いから走って帰るよ」空が傘を差し出すと、葵は一瞬戸惑ったような顔をした。それから、小さく首を振る。
「いいよ。一緒に入ればいいじゃん」その言葉に、空の方が驚いた。彼女の提案は自然で、でもどこか大胆に感じた。
「え、でも狭いよ?」「平気。濡れるよりマシ」
葵はそう言って、空の手から傘をサッと取った。そして、自分で傘を開いて、彼の隣に立つ。確かに狭かった。肩が触れ合う距離で、空は急に緊張してしまった。葵は平然とした顔で歩き出し、空も慌ててその後を追った。
雨の中、傘の下で二人は黙って歩いた。傘に当たる雨音が、妙に大きく聞こえる。葵の歩くペースはゆっくりで、空はそれに合わせながら、彼女のことをチラリと見た。濡れた髪から水滴が落ちて、制服の襟を濡らしている。
「宮崎さんってさ、都会にいたんだよね。何でこっち来たの?」
我慢できずに聞いてしまった。葵の手が一瞬止まり、傘が微かに揺れた。
「.....親の都合」
彼女の声は小さくて、雨音にかき消されそうだった。空はそれ以上聞くべきじゃないと思ったけど、好奇心が抑えきれなかった。
「都会の方が楽しそうじゃん。こんな田舎、つまんないでしょ」
「そんなことないよ」
葵が初めてはっきりした口調で返した。空は驚いて彼女を見た。彼女の目は真っ直ぐ前を向いていて、そこに何か強い光があった。
「静かで、いいよ。都会は...うるさすぎた」その言葉に、空は何かを感じた。彼女の声には、寂しさと安堵が混じっているようだった。
でも、それ以上深く聞く勇気は出なかった。
二人は葵の家の近くまで来たところで別れた。
彼女は古い一軒家の前で立ち止まり、傘を空に返した。
「ありがと。また明日ね」「うん、また」
葵が小さく手を振って、家に入っていくのを見届けて、空は走って帰った。雨に濡れた体が冷たかったけど、心は妙に温かかった。
あの傘の下で感じた彼女の存在が、頭から離れなかった。
次の日、学校で葵を見かけた時、彼女はいつもより少しだけ柔らかい表情をしていた気がした。
空はそれを見て、自然と笑みがこぼれた。彼女を包む何か。それはこの町の静けさかもしれないし、もしかしたら自分自身かもしれない。
そんなことを考えながら、空は新しい夏の日を迎えた。