05 ルカ (光)
フィーネがアクランド伯爵家に来てから3ヶ月が経ち、フィーネとキャルムが貴族学園へ入学するまであと1週間となった。
ノーラはフィーネが貴族学園へ入学した少し後に領地アクランドへ帰る予定で、最近は領地帰還準備のためにいつも以上に仕事に追われている。
忙しいノーラと、短期間の急ごしらえで貴族の作法や常識を学んでいるフィーネの間に交流はない。父を含む家族3人で食事は取っているが、父とフィーネは二人だけにしか分からない共通の昔話を話していることが多く、会話のテンポが遅いノーラの性質も相まって自然とノーラが蚊帳の外になってしまう。
食事の前後などに「今日は良い天気でしたね」等、共感しやすそうで簡単な話題を心がけてノーラからフィーネへ声をかけてみるのだが、「あっ、えっ、そ、そうですね」と恐る恐るというような反応を返されてしまうのは相変わらず。
3ヶ月経った今もノーラとフィーネは打ち解けるまでには至っていなかった。
この3ヶ月、フィーネは貴族としての礼儀作法の習得や勉強に一生懸命真面目に取り組んでいて、望ましい成果を上げていると教師陣や使用人から報告を受けている。入学前に勉強の成果を確認して欲しいと教師から頼まれたノーラは、はじめてフィーネとノーラ姉妹二人きりのお茶会を開くことにした。
庭の雪は溶けてなくなり、最近は、日中なら外でも過ごせるくらいには暖かい。せっかくだからとマーガレットが満開の中庭でお茶会をしたのだが、序盤でお天気雨に降られて中止になってしまった。それが、今日の午前のこと。
普通に室内でお茶会をしていれば良かったと、ノーラは悔やむ。
室内でのお茶会だったならば、雨に打たれ濡れるノーラとフィーネを見た父が、フィーネだけを心配する姿を見ることも、まるでノーラはそこに存在してないかのように父から無視されることも、なかった……。
お天気雨で濡れた服を着替え髪を乾かした後、午後からはキャルムと婚約者としてのお茶会があった。
フィーネと同じくキャルムも来週貴族学園へ入学する。学園の夏季休暇をどう過ごすかまだ決まっていないキャルムと、次の社交シーズンまで領地へ帰るノーラ。そんな2人が次に会うのは、もしかしたら9ヶ月後になってしまうかもしれない。
だというのに、キャルムとのお茶会では任せている仕事を学園通学中にどう処理するか、そんな話しかできなかった。婚約者同士の会話というより、職場の同僚との会話と言われた方がしっくりくるだろう。
お茶会の終盤、ノーラは入学祝いとしてアクランド伯爵家の家紋入り万年筆をキャルムへ渡した。
ドキドキと自分の鼓動を感じながら『学園生活や読書や乗馬とか、キャルム様のことなら何でも、思ったことをこの万年筆で手紙に書いてくれたら嬉しいです』と伝えることができた。
アクランドグリーンの件をお互い知らないふりをしているせいで気まずい間柄とはいえ、こんなこと以前なら何も気にせずに言葉にできていたというのに。
キャルムは『ありがとう』と笑って返事をしてくれたが、相変わらず、目は笑っていない笑顔だった……。
お茶会が終わりキャルムは帰り、夕食の後、寝るまでの数時間もノーラは仕事をしていた。自室で書類を確認していると、ルカが声をかけてきた。
「雨に降られてしまったフィーネ様とのお茶会ですが、もう一度予定を組みましょうか?」
「ううん、必要ない。少しの時間だったけど、服装も、着席も、挨拶も何も問題なかったもの。テーブルマナーは毎日の食事で知っているし。……お姉様は努力家ね。正直、3ヶ月でここまでできると思ってなかったわ」
ルカへそう答えながら、ノーラは父とフィーネと3人で食事を取っている時のことを思い出す。「もうナイフとフォークの使い方は完璧じゃないか!フィーはよく頑張ってるね」と無邪気に褒め讃える父へ、フィーネは「パパとママのおかげだよ。いつも二人の食べ方を見てたから」と微笑みながら返事をしていた。
フィーネが”いつも”と言えるほどに、これまで父は別邸で食事をしていた事実に気づく。
思えば、ノーラが父と食事を共にするようになったのは、フィーネがアクランド伯爵家へ来てから。
以前は母と二人きりで、母が亡くなってからは一人きりで食事をすることが多かった。つまり、ノーラが父がいない食事をしていたのと同じだけ、フィーネと父は食事を共にしていたということ。
今、ノーラが父と時間を共にするのは食事の時だけだが、フィーネは食事以外も父と一緒に過ごしている。
フィーネがアクランド伯爵家へ来てからのこの3ヶ月、父とフィーネは玄関ホールに地続きになっている応接間で朝食後のひと時を過ごすのが二人の日課。
玄関から丸見えの応接間にずっと置いてあるフィーネの織り機。玄関ホール横の廊下を通ると、置かれたままになっているフィーネの織り機が目に入る。
織り掛けの織物はだんだんと大きくなっていく。その織物の大きさと同じだけ、フィーネと父は一緒に過ごしているのだ。
見るたびに大きくなっていく織物に対し、ノーラの手元にあるのは、本来は父が処理するべき書類たち。ノーラと父の繋がりはこの書類だけ。
寝不足が続き疲労が溜まった夜にフィーネの織物を見かけた時、めちゃくちゃに切り刻んでしまいたいと、そんな衝動にかられたことがある。もちろん実際に切り刻む事などしなかったが、ノーラは自分の中の衝動と心の醜さに落ち込み、その晩はベッドに入っても寝付くことができなかった……。
考え込み黙ってしまったノーラの話の続きを、ルカは待ってくれている。お天気雨で中止になってしまったフィーネとのお茶会をもう一度するかについて返事をしている最中だった。
「あとは、慣れない人を怖がってしまうことだけだけ、かしら。人見知りはお姉様の個性だからそのままでも良いと、私は思う。でも貴族として生きるなら、怯えは隠さないと生きづらいのよね……」
「ノーラお嬢様は優しいですね。……私がオーダム侯爵家に引き取られたばかりの時、侯爵は怯える私に感情を出すなと怒鳴り出来るまで鞭で打ってきましたよ」
オーダム侯爵とはルカの実父のこと。
「それはオーダム侯爵がおかしいの。私が優しいんじゃないわ」
ルカは現オーダム侯爵の愛人の子供で、オーダム侯爵家の庶子なのだ。
オーダム侯爵の愛人だったルカの母親はルカを出産した際に亡くなり、ルカは産まれてすぐに王都の孤児院へ捨てられた。ルカが10歳の時、正妻に子供が生まれないことに痺れを切らしたオーダム侯爵が孤児院へ現れ、問答無用でルカを連れ去り、ルカはオーダム家の嫡子となり、ルカからルークスへ名前を変えられた。
冷酷なオーダム侯爵がルークスを愛することはない。義母となったオーダム侯爵夫人からは憎まれ、使用人達は義母に忖度し冷たい。そんな周囲に一人も味方がいない中での当主教育は、体罰を含む厳しいものだったそうだ。
口答えなど許されない、何か間違えれば鞭打ちされる、魔法の授業では攻撃魔法の的にされ、剣術の稽古では一方的に打ち付けられ、全身に痣や生傷が絶えない。試験の結果が悪かったからと真冬に一晩中屋敷の外に立たされたこともある。
ルカは将来オーダム侯爵となった時に父と義母へ報復しようと密かに決意し、オーダム侯爵に従順になったように見せかけ、逃げ出さずに耐え忍び、復讐のために知識を蓄える。そんな日々だったと聞いた。
だが、オーダム侯爵を継ぐためにと勝手に用意された悲惨で理不尽な道は、突然、その梯子を外された。
ルカが15歳の冬、オーダム侯爵家へ引き取られてから5年経ちルークス・オーダムとして貴族学園へ入学するまであと1年。そんなタイミングで、オーダム侯爵夫人が男子を出産したのだ。
オーダム侯爵夫人から距離を置かれていたために妊娠していたことすら知らなかったルカは、何の前触れもなくオーダム侯爵から異母弟が生まれたと言われた。その翌日、ルカは養子縁組を解消され、引き取られた時、いや、生まれたばかりの時と同様に、身一つで10歳まで育った孤児院へ捨てられた。
ルカの血が滲むような5年間の努力が無となったその日の王都の天気は土砂降りの雨。どんよりと薄暗く、殴りつけるような激しい雨の中、ルカは馬車から孤児院の門の前へと投げ出された。
ノーラは、ルカと出会った雨の日を思い出す。
馬車から放り出され、雨で濡れている地面に膝を付き打ちひしがれていた、そんなルカの頭上に傘を差し出したのは、当時10歳のノーラだったのだ。
ルカが10歳まで育った孤児院はアクランド伯爵家が支援し管理している孤児院の一つで、ノーラは当主教育として孤児院を訪問していた。以前より孤児院の院長から、とある男爵家の庶子だと分かっている孤児を使用人として迎え入れて欲しいと頼まれていたノーラは、その日、実際にその庶子ミリーの人柄を見て雇い入れるか判断しようと孤児院を訪れていた。
15歳のミリーははち切れんばかりの笑顔で底抜けに明るく、10歳のノーラにとっては素敵なお姉さんで、貴族とは違う満面の笑顔を気に入り、その日のうちにアクランド伯爵家のタウンハウスへ連れて帰ることが決まった。
用事を済ましたノーラが帰宅のために馬車へ乗り込む直前、突然、孤児院の門前に馬車が止まった。その馬車の馭者は近くにいた孤児院の職員に手紙を託すと、逃げるように孤児院を去っていった。門前には、馬車から追い出された一人の少年。
ミリーと同年代に見える少年は、雨に濡れた地面に膝を付き呆然と固まっている。その黒い瞳に覇気はない。
綺麗に切り揃えられた黒髪、高級な服や靴、美しい容姿、貴族家の使用人用だと思われる馬車から追い出されていたことから、これまで貴族として育っていたのに孤児院へ捨てられたのだと察する。
ノーラはさしていた傘を少年の頭上に差し出し「お兄さんのお名前は?」と聞いた。
生気が感じられない黒い瞳が震え、ボソリと呟く。
「ルークス・オーダム…………いや、ルカ……ルカ・レモン、です」
名乗りの途中で顔を上げ、ノーラを見つめるルカ。レモンというのはこの孤児院のことで、レモン孤児院出身の孤児は”レモン”と名乗る。ミリーも当然ミリー・レモンという名前だ。
「私はノーラ・アクランドです」
「ノーラ様はエイダ夫人に良く似ておりますね」
そう言ってルカは立ち上がってノーラから傘を受け取り、ノーラが雨に濡れないようにと傘を掲げてくれた。傘を渡す瞬間、ルカとノーラの手と手が触れ合う。ルカの手はまるで氷に触ってしまったかのように冷たかった。
ノーラが「ルカさんはお母様を知ってるの?」と言いかけたその時、ノーラの後ろにいたミリーが声を上げた。
「ルカ!?え!?えぇ?って、虫けらを見るみたいに私を見るその目つき、本当にルカだ!貴族になって幸せになったと思ってたのに……まぁ、そういうこともあるか。ルカ、おかえり!背伸びたね!」
土砂降りの雨に削ぐわない、カラッと明るいミリーの声が響く。
「ノーラお嬢様、ルカはここで育った私の孤児仲間なんです!ルカは顔だけじゃなくて頭も良くて、運動もできて、みんなのまとめ役で、真面目で、神経質で、厳しくて、融通が効かなくて、冷たくて、狡猾で、すっっっっっごく口うるさいんです。……でも、私は今日からアクランド伯爵家で働けるんです!ルカが戻ってくる前に孤児院を出れて、ほんと、良かったぁ」
どんよりと暗い雰囲気を吹き飛ばすようにピンク色の髪を揺らしおどけるミリーに、ノーラだけでなく周囲の皆が自然と笑顔になるが、ルカだけはじろりとミリーを睨んでいる。
ミリーのおかげで和んだ空気の中、孤児院の院長がルカについてノーラへ説明してくれた。
ルカはミリーと同い年の15歳で、10歳までこの孤児院で育ち、5年前に突然父親のオーダム侯爵が迎えに来てオーダム侯爵家へ引き取られたのだが、先ほど馭者が置いていった手紙には、『正しい血統の後継が生まれたために孤児院へ戻す』と記されていたようだ。
孤児は孤児院を出される16歳までに就職先を見つけ独立しないといけない。ミリーと同い年のルカがレモン孤児院で過ごせる期間は残り1年もない上、これから就職先を見つけるのは大変だろう。
市井には稀に貴族の血が流れた平民がいるが、優れた容姿で起きる揉め事、貴族に目をつけられる可能性、保有魔力量が多いことなどを敬遠され、彼らの就職や結婚はとても難しい。
貴族の分家、代々続く家業のある家、裕福な商家などに生まれたのならば問題はないが、後ろ盾のない貴族の庶子や没落した元貴族などはまともに働くことができず、娼婦やならず者など裏社会の人間になってしまうことが社会問題となっている。
ノーラの母は、慈善事業として、貴族の血が流れているのに貴族籍を持たない者を率先して使用人として雇い入れている。
「ルカさん、本日はミリーをアクランド伯爵家で雇うためにこちらへ参りました。もし良ければ、ルカさんも当家で働きませんか?無理強いはしませんので、断っても大丈夫ですよ」
ノーラの提案に対しルカは大きな目を更に大きく見開き、瞬きも忘れてしばし立ち尽くしてしまった。
ルカの返事を急かすことなく、しばし返事を待つノーラ。
ゆっくり、ゆっくりとルカの瞳に光が差していくのがわかる。整った顔のせいで、まるで人形に魂が宿り人間になっていくようだと、ノーラは思った。
「ありがとうございます。ぜひ私もアクランド伯爵家で働かせて下さい」
ルカは左腕を胸にあて、まるで教本の挿絵のような綺麗なお辞儀を披露してくれた。
ルカの返事を聞いた「うぅぇえぇえぇえぇぇ」というミリーの声にならない声が面白くてノーラが笑うと、ルカも微笑んでいた。
ノーラはミリーと共にルカをアクランド伯爵家へ連れて帰り、ミリーは見習いメイドに、高位貴族家の当主教育を受けていたルカは通常孤児が配属される馬丁や下男ではなく従者見習いとなる。そこから1年程でルカはノーラ専属の従者となった。
ノーラの家族は不貞を見てしまってから避けている母と、あまり家にいない父の2人だけ。親しい人が少ないノーラにとって何時も後ろに控えている歳の近い従者のルカは、当主教育を受けた先輩であり、教師であり、兄であり……憧れる人になってしまったのは必然だったのだろうか。
13歳で母が亡くなってからは、母がいなくなった大きな穴を埋めるために必死なノーラにとって、当主教育を受けていたルカの助力は非常に大きいものだった。母の恋人だった従者は母の仕事を補佐していたなかでも主要な人物だったのだが、母の死によって憔悴し退職してしまったのだ。
最初はルカに助けられて嬉しいと喜んでいただけだった。それがいつの間にか、かっこいいと胸が高鳴り、何かあるたびにルカの黒髪を探してしまい、頼りになる大きな背中に縋りたいと思ってしまうようになっていた。
でも、そのたびに、雪の降る白い庭で母と母の従者が抱き合っていた姿がノーラの脳裏に浮かぶ。そして、自分にはキャルムという婚約者がいるのだと、ルカへの憧れを無理やり封じ込めて自分を律してきた。
ノーラの双肩にはアクランド領民の生活がかかっている。ルカは使用人で、ノーラが守るべき民の一人。ノーラが頼っても許されるのは父とキャルムだけ。
ルカに頼りすぎるのは良くないと追い詰められたノーラは独断でキャルムに仕事を託し、その結果、祖父が家族よりも大事にしていたアクランドグリーンのブランド価値を落とし、キャルムとの間に不協和音が生じるようになってしまった……。
ダリモア辺境伯家に慰謝料を払いキャルムと婚約を解消し、オーダム侯爵家に交渉してルカをオーダム侯爵家の籍へ戻してもらい、ルカをノーラの婚約者にすることは、理論上、できる。かかる費用や社交界の評判など諸々無視すればではあるが、不可能ではない。
でも、それはルカもノーラのことを特別に思っていてくれていることが大前提。
ルカの気持ちも確認せずにそんなことをしたら、真面目に従者という職務を全うしているルカからしたら、孤児院から10歳のルカを無理やり攫い貴族にしたオーダム侯爵と同じだと思われてしまうだろう。確実に嫌われ軽蔑される。
半年前、ダリモア辺境伯家が廉価な緑の糸を発売したことに気づいた時、違約金を払ってでもキャルムと婚約を解消してもおかしくなかった。でも、そうしなかったのは、キャルムと婚約解消したい動機が内心ルカへ憧れているから以外に説明できない気がしたからかもしれない……。
キャルムという婚約者がいるのに従者のルカに憧れているだなんて不誠実なことをしているなど認められないと、不貞をし父を裏切っていた母と自分は違うのだと、そう自分を戒めていた。
それなのに3ヶ月前、真実は父が先に母を裏切っていたのだとノーラは知ってしまった。
「……ーラ様、ノーラお嬢様」
気づけば、ルカがノーラの顔を覗き込んでいる。ノーラの顔のすごい近くにルカの笑顔。ドキッと胸が高鳴り、考え込んでいたノーラを現実に引き戻す。
ノーラは考え出すとついつい時間を忘れ思考の世界に浸ってしてしまうのだが、現実世界へ戻してくれるのはいつもルカなのだ。
今は夕食後に自室で書類の確認をしつつ、午前中に中止となったフィーネとのお茶会についてルカと話をしていたところ。
「ごめんなさい。やらなきゃいけない事があるのに、長い間ぼーっとしていたわね。……この書類の続きをしないと。ここ、ピスタチオの収穫量が過去5年分なのに日照時間は過去3年分しかなくて。日照時間も過去5年分確認したいの」
「図書室で記録を集めて参りますね」
2年前に母が亡くなった後、ノーラ専属の侍女たちは文官も兼ねている者に変えてしまった。そのため、侍女が別室で書類を作成しているなどで、ノーラとルカが部屋に二人きりになってしまうことが増えた。
フィーネがアクランド伯爵家へ来てから、いや、母が父の犠牲者だったと知ってからのノーラは、ルカへ憧れる気持ちをどう処理して良いのかわからない。それまでは母のように不貞したくないと思うことでルカへの気持ちを見ないふりができていたのに、母を傷つけていた後悔がノーラの心をぐちゃぐちゃにしてしまった。
誰にも相談できない、行き場のないこの気持ち。
ルカと二人きりになった時は、ルカへ図書室へ地図や文献などの資料を取りに行くようにお願いすることにする。ルカと距離を取り二人きりにならないようにする、ノーラにはそんな物理的な解決策しか見つけられなかった。
「日も暮れた時間なのにごめんなさい」
「ついでに他の資料も探して参りますのでお気になさらず。では、1時間ほどで戻ります」
相変わらずのお手本のような綺麗なお辞儀をし、ルカはノーラの部屋を出て行った。ノーラはルカの出て行ったドアをしばし見つめ、気持ちを切り替えて仕事に取り掛かった。
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まだ残業しているだろう文官に急ぎ確認したい箇所を見つけてしまった。
ルカはまだ図書室から戻っていないし、侍女には他の書類作成をしてもらっている。文官をノーラの部屋へ呼ぶよりもノーラ自身が事務室へ行くほうが早いし効率が良いだろうと判断したノーラは、書類を持ち事務室がある区画を目指し一人で自室を出た。
ノーラの向かう先、薄暗い夜の廊下にぼんやりと浮かび上がる白い影。
「お姉様?」
目を凝らしよく見ると、その白い影は白いネグリジェ姿のフィーネだった。ノーラから声を掛けられ、心底驚いているように青い目を見開いている。
「えっ?ノーラ様?」
まだノーラと打ち解けていない証なのか、今だに“ノーラ様”と呼ぶフィーネ。
「こんな時間に一人で、どうしたのですか?」
フィーネが侍女も付けずに一人きりで出歩いていることに言及したノーラだが、それはお互い様。フィーネから『お前が言うな』と思われていそうだ。
「パパにおやすみの挨拶をしにいくところ、です。……ノーラ様もですか?」
……お父様に「おやすみ」と言うのがまるで当たり前のことのように言うのね。私とお父様が「おやすみ」と言い合うような関係じゃないって、この3ヶ月でお姉様も分かったはずなのに。
廊下に等間隔で置いてある照明の魔道具の灯りが逆光となり、フィーネの顔には影が差しこんでいる。かろうじて口元の笑みだけが見えるのだが、まるでノーラを嘲笑っているように感じてしまった。
くしゃっと手に持っていた書類が歪む音で、ノーラはハッとする。無意識に書類を握りしめてしまったが、そのおかげで正気に戻れた。
「私は急ぎで事務室に行くところなんです」
「引き留めてしまってごめんなさいっ。遅くまでお疲れ様です。私はお先に失礼しますね。……ノーラ様、おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
ノーラは父の私室へと向かうフィーネを見送り、一人、皺の寄ってしまった書類を抱きしめて仄暗い廊下を歩き出した。
フィーネは、ノーラも父へ「おやすみ」と言いに行ったと思っていたではないか。それはつまり、ノーラへ父との仲の良さを見せつけているつもりなどフィーネにはないということ。
ノーラはこれまで寝る前に父の私室へ「おやすみ」と言いに行ったことなどもちろんない。でも、それは行ったことがないというだけで、父がノーラを拒否していたということではないのだ。
羨ましいと思うのならノーラだってフィーネのように父へ「おやすみ」と言いに行けばいい。それだけのこと。愛されてないと傷付き、フィーネへ嫉妬するのはお門違い。
傷付いた事を無かったことにするため、歩きながら必死に言い訳を考えるノーラ。
動揺していたノーラは、今歩いてる廊下が、フィーネの私室から父の私室へ行くには絶対に通らない場所だと気づけない。父の私室へ向かうと言ったフィーネが、その前に、侍女も付けずに一人でフィーネの私室以外のどこにいたのか、この時のノーラは気に留めることすらなかった。
この世界に蚊帳はあるのか?と悩みながら「蚊帳の外」という言葉を使ってみました。




