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02 ヒヤシンス (悲しみを超えた愛)



父の執務室を出て自室へ戻ろうと歩き出したノーラは、廊下の半ばで立ち止まった。


窓の方へ顔を向け、しばらくの間、窓の外、雪が降る庭をぼんやりと見つめる。

傍目にはただぼーっと庭を眺めているように見えるだろうが、違う。昔、この庭で見た光景を心の中に思い浮かべ、未熟だった過去の行いについて、取り返しのつかない後悔に苛まれていた。


それは忘れもしない。ノーラが7歳の、冬の寒い日の朝のこと。


母から貰ったヒヤシンスの球根とガラスの器で水耕栽培をしていたノーラは、ヒヤシンスの球根に小さな緑色の芽が出ていることに気づいた。

いつもなら部屋で自習をしている時間帯。どうしても芽が出たヒヤシンスを母に見せたいと、珍しく侍女に我儘を通し、ノーラはガラスの器を手に持ち部屋を出た。

ガラスの中の水面が暴れるように揺れる。水と球根がこぼれないようにとゆっくりとした足取りでタウンハウスの廊下を歩き母を探すと、母は庭にいると家令に教えられた。


空調の魔道具のおかげでタウンハウスの屋敷内は全館ほのかに暖かい。でも、季節は真冬。庭には何の花も咲いていないどころか一面の雪景色だ。雪しかない寒い庭で、母は朝から何をしているのだろうかと疑問に思いながらも、ノーラは庭へ向かった。


屋敷から庭へ出たノーラは、寒さに震えながら雪に残っている母の足跡を辿る。ガラスから水がこぼれないように、ざくり、ざくりと、一歩一歩、母の足跡の上を踏みしめて歩いた先は、はらはらと牡丹雪が舞う真っ白な庭の片隅。そこで母は、母の従者と抱きしめ合っていた。


抱きしめ合う母と母の従者を目に入れたノーラの手からガラスの器がこぼれ落ちた。落ちた先は足元の雪の上。音もなく、ヒヤシンスとガラスの器が割れることもなかった。


立ち尽くすノーラに気づいていない母と従者。抱きしめあう二人はしばらくして身体を離し、今度は笑顔で見つめ合い、ノーラと揃いの母の金髪を従者が愛おしそうに撫でている。

落とした時にノーラの靴下にかかったガラス内の水が、じわじわと濡れ広がる不快感と痛いほどの冷たさが、この光景が夢ではなく現実なのだと教えてくる。


ノーラは雪の上に散乱したヒヤシンスの球根とガラスの器を拾い、母に気づかれないようにと静かに踵を返した。

行きはワクワクと跳ねるような気持ちで重ねて歩いた母の足跡を、帰りは母に見つからないようにと慎重に重ねて歩く。


部屋へ戻り濡れた靴下を履き替えながら、7歳のノーラは母について考える。


父とノーラがいる屋敷で、こっそりと従者と不貞をしている母。優しくて暖かくていい匂いがして大好きだと思っていた母が急に遠くに感じる。

普段の母はどのような気持ちで父やノーラと過ごしているのだろうか。このまま母のことを好きでいていいのか、父に伝えるべきか、誰にどう相談したらいいのか、分からない。

心の支えが取り払われたかのように気持ちが沈み、言葉にできないモヤモヤとした想いの塊が喉まで上がってきたかのように喉が詰まる。


母から生まれた自分はアクランド伯爵である父と本当に血が繋がっているのかと不安になってくると、ふと、1年前、6歳の時に王城へ行き魔力を見てもらったことを思い出した。


我が国の王族は、個人の魔力から帯びている属性や魔力量などの情報が読み取れる固有の能力を持っている、らしい。直系王族だけの能力のために詳細は明かされていないが、複数人の魔力を見比べれば血の繋がりが分かることは明かされている。

どれだけの情報を読み取られてしまうか分からない上、最高権力者で敬うべき直系王族に対し『魔力を見て欲しい』などと頼むことはたやすいことではない。依頼する貴族は少ないし、余程の理由がない限り王族側から断られてしまう。


教師からそう習っていたにも関わらず、ノーラは親子3人で前国王の弟殿下の元へ伺い魔力を見てもらった意味を深く考えていなかった自分に呆れる。母の不貞を知った父がノーラの出自を疑ったからだと今さら気付いた。

その後もアクランド伯爵になるための教育が続けられていることから、ノーラは無事、父の子供だと証明されたのだろう。


いつも微笑んでいる穏やかな父も、母の裏切りを知っていた。父はどんなに驚いただろう、どんなに傷ついただろう、どんなに悲しんだのだろう……。父が受けた衝撃と心の傷は、きっと、今のノーラのよりずっと重いはず。


ノーラが母と従者の逢瀬を見てしまったことを、母は気付いていなかった、はずだ。ノーラの気持ちだけが置き去りにされ、周囲は何事もなかったようにその後もいつも通りだった。


母の不貞を見た7歳のノーラは、母は家族を裏切っていて、父はかわいそうな被害者なのだと思い込んでしまう。その日以降、ノーラは母の目をまっすぐ見れなくなり、当主教育の息抜きに行われていた母娘のお茶や買い物も自習をしたいからと断るようになり、密かに母を避けるようになった。


そして、ノーラが母に心を閉ざし避け続けたまま、母は、ノーラが13歳の時に亡くなってしまった……。


-----


「……ノーラ様」


ノーラは従者のルカから肩を軽く叩かれた。


客観的には窓から庭を眺めて呆けているだけに見えただろう。ノーラは母への後悔に浸るのを辞めて振り向くと、いつもは整った顔立ちに似合うキリッとした眉をしているルカが、困ったように下がり眉になっていた。よく父がノーラへ見せる表情に似ている。


父の執務室でフィーネを引き取ることについて話をしていた際も、ルカはノーラのすぐ後ろに立ち一緒にいてくれた。


「全館空調とはいえ廊下は冷えます。部屋に戻りましょう」


「ごめんなさい。やらなきゃいけない事があるのに、長い間ぼーっとしてしまってたわね。……まずはお姉様の部屋の手配をしないと」


ルカに促され、ノーラは降り積もった雪で白い庭をチラリともう一度見返し、部屋へ戻るために歩き出す。


母が亡くなった後、伯爵家の帳簿を見たことで父の愛人親子の存在に気づいた。その時ノーラは、父は母に浮気されていたのだから仕方ないと、そう考え自分を納得させていた。今日、ノーラの1歳上のフィーネが伯爵家に来たことで因果関係が逆だったのだと知ってしまった。


”母が愛人を作ったから父も愛人を作った”のはノーラの思い込み。真実は、先に不義理をしていたのは父の方だったのだ……。


母はまだ学生で婚約者の段階から裏切られ、その上、自分との婚約を解消し不貞相手と婚約し直そうとしているような相手との結婚を国から強要され、結婚前から公認の愛人を認めさせられた。しかも結婚後に愛人が自分より先に子供を産み、夫の仕事ぶりは頼りない。


優しい母のこと。母が父と結婚したのも、ノーラを産んだことで弱ってしまった身体で父の仕事を補助していたのも、すべては雨乞いが必要なアクランドの領民のためだろう。

一度でも雨乞いができなければどれだけの人に悪影響が出るのかと考え、様々な理不尽を飲み込んでいたに違いない。


そんな母が自分の従者と愛を育んでいたとして何が悪いのだろうか。父から話を聞いた今は、せめて母の最期に愛し愛される人がそばにいてよかったと心から思う。


……私はなぜ、お母様の事情も知らないまま直接話を聞くこともせず、悪と決めつけてしまったのだろう。ごめんなさいと言いたくても、お母様はもういない。


ヒヤシンスの球根とガラスの器を貰った時の『何色の花が咲くのか楽しみね』と言ってくれた穏やかな声、屈んで頭を撫でてくれた暖かい手の感触、優しくて甘い良い香り、ノーラを見つめて目を細めた柔らかな母の笑顔を思い浮かべる。

そのヒヤシンスを枯らしてしまったのに、理由も言わず母を避けていたのに……何も言わず、ただノーラを見守ってくれていた母の内心を想像する。まだ未熟なノーラには当時の母の気持ちを想像することができない。

それでも、母がノーラを愛してくれていたことと、そんな母に寂しい思いをさせて悲しませていたことは分かる。


ノーラが成長しても母の事情を話してもらえなかったのは母がノーラを見限っていたからかもしれないと、恐ろしい考えも浮かぶが、愛人がいたとしてもアクランド伯爵領の領民のために父の仕事を手伝い続けていた優しい母ならばそんなことはないはずと思い直す。ここで母からノーラへの愛情まで疑うのは母に対して失礼だろう。


ノーラの浅はかな行動が母を傷つけていたと、どんなに後悔しても、母はもういない。母の話を聞くことも、抱きつくことも、暖かな手を握りしめて母の香りを嗅ぐことも、本当は大好きなのだと伝えることも、謝ることも、もうできない。母が亡くなった時以上の悔しさと悲しさがノーラを襲う。強く唇を噛みしめてしまうが、今のノーラには唇を噛みしめることしかできないのだと思い知らされる。


父から真実を聞いた今、降り積もった雪で白い庭の片隅で従者と笑い合っていた母を思い出しながら、ノーラは自室へ戻るために廊下を歩く。


「ノーラ様、今ここには私しかいません。何でも、このルカへ言ってくれて大丈夫ですよ」


ルカの言葉にノーラは足を止め、後ろからついてきていたルカへ振り向く。

フィーネという異母姉の突然の顔合わせと、その後の父との話し合いでノーラが気落ちしていると、きっとルカにそう思われたのだろう。ルカはノーラの後ろから真横へ並び歩き、ノーラを慰めようと声をかけてくれる。

ルカの優しさがノーラの胸に痛いほど響く。その優しい気持ちが嬉しい。でも……


「ううん。小鳥が気になっただけ」


でも、将来アクランド伯爵となるノーラにとって、ルカは守るべき民。頼って良い人ではない。アクランド伯爵になるノーラはこれくらいのことは自分で処理しないといけない。


「そう、ですか……」


真冬の庭に小鳥などいない。誤魔化されたのだとルカはわかっている。それでも、にこりと口角を上げルカへ笑いかけたノーラを見て、ルカは諦めてくれたようだ。

ノーラは『ありがとう』と、声には出さず心の中でルカへお礼を言った。


この時ノーラの頭の中は母への後悔ばかりが渦巻いていた。父のことは一切考えず、父に罪があったなどという発想には微塵も至らない。

母が従者と身体を寄せ合っていた所を見ただけで母と距離を置いたにも関わらず、学生時代から浮気をし母より先に愛人と子供を作っていた父のことは追求しないという矛盾。


正直に言ってしまえば、母が亡くなってしまい唯一の家族だと慕っていた父までも遠ざけることなど、この時のノーラにはできなかったのだ。本当は父が悪かったと心の底では分かっていたのに、意識してか、無意識でか、父の所業を考えないようにしていた。


あの日庭に落としてしまったヒヤシンス。母から球根を貰ったヒヤシンス。もう一度ガラスの器に入れ直し栽培を続けても芽が出たばかりのままで枯れてしまったヒヤシンス……。何事もなく、落とし枯らすことがなかったら、何色の花が咲いていたのだろう。


……今年はもう球根の時期を過ぎてしまったから、来年、ルカに球根を手配して貰って、あのガラスの器で育てよう。そして、何色の花が咲いたかお母様のお墓に報告しに行こう。


ノーラはそう決意し、前を向いて歩き出した。



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