14 カミラ → カメリア (自由な人 → 罪を犯す女)
継承魔法が失敗したことは、おそらく、父とノーラしか気づいていない。
もうどうしようもないけれど、せめて、キャルムやその従者や病院関係者などのこの場にいる他家の者たちにアクランド伯爵家存続の危機を知られたくない。ノーラがそう考えても、やはりと言うべきか、愚かな父はそこまで思い至ることはなかった。
「カミラ、カミラは……。ゴホッ」
フィーネの母、カミラの名を何度も繰り返したあと、先ほどよりも黒い血を吐いた父。もう起き上がっていることすら辛いのだろう、枕へ頭を下ろしベッドへ横たわった。
継承魔法を発動する前よりもまぶたが落ち窪み、瞳の青色は濁り、唇は蒼白になっている。誰の目から見ても、もう、今際の際だと分かる。
父の口元に付いた血を拭おうとハンカチを当てがったフィーネの手を、父は乱暴に撥ね退けた。
どこにそんな力が残っていたのだろうか。先ほどノーラの手を振り払った時とは比べものにならないくらいの激しさ。拒否されたフィーネは、急な父の変貌に戸惑いを隠せない。
「パパ?どうし……」
「パパなどと呼ぶな!……継承魔法は失敗した。つまり、お前と私は血が繋がってないんだ。お前は、お前は、私の子供ではない!父親は誰だ!?カミラは、カミラは誰と通じてたんだ!!!」
口から黒い血を飛ばし、かすれた声で天井へ向かって叫ぶ父。正しく断末魔の叫びと言えよう。
父の言葉を聞いたルカの、ノーラの肩を抑えていた手の力が抜け落ちた。
ノーラははその場に膝をつき、ヘナヘナと地べたへ腰を下ろしてしまう。一瞬、こんな所に座り込むなどキャルムや使用人達からどう見られるかと頭をよぎったが、もう我が家には外聞を考える必要などないと気づく。
……お父様はカミラに裏切られていたことにしか触れない。そんなこと、雨乞いができなくなってしまったことに比べたら、瑣末なことではないか。くだらない。
父は本当にどうしようもないのだと、貴族当主になってはいけない人だったのだと、ノーラは今更理解する。こんな人の愛を求めていた過去の自分は、なんて滑稽だったろうかと情けない気持ちすらある。
ノーラは光が届かない落とし穴へ嵌ってしまったような、底なし沼に沈んでしまったような、大きな滝壺に落ちてしまったような、深い絶望で自分を見失ってしまう。いつものノーラは這い上がれないほどに高く遠いところにいる気がする。立ち上がる気力すら湧かない。
ベッドから少し離れた床へ脱力して座り込んだまま、まるで他人事のように父とフィーネの二人を眺めるノーラ。
不思議とその心は凪いでいた。今はもうどん底にいる。ここよりさらに下などない。そう思えば笑みさえ出てきそうだ。
「私は知らない。私は悪くない。だって、私は本当に知らなかったもの……悪くない。こんな腕輪欲しくなかった。パパが勝手に付けただけじゃない!」
父の悲痛な叫びを受けたフィーネは首をすくめ、震えながら後ずさった。かかとでドレスの裾を踏んでしまったフィーネは後ろに手をつき、地べたに座り込む。
フィーネは立ち上がることはなく、そのままキョロキョロと部屋を見回したあと、キャルムの方を見つめた。だが、キャルムは困惑の表情でフィーネを見返すだけで、少し離れた場所から動かない。ノーラが助けを求めた時と同じ。貴族子息として正しく、他家のお家騒動から距離を取っている。
フィーネは次に、ノーラを見た。いや、ノーラではない。ノーラの後ろに立つルカを見たのだ。
幼子が母親へ縋るような、そんな瞳でルカを見上げている。
……あぁ、嫌だ。これ以上の下はないと思ってた。
ルカはノーラの横を通り過ぎ、フィーネへと手を差し伸べる。同じく床にへたり込んでいるノーラのことは放置していたのにだ。
ルカの手を取り立ち上がったフィーネを心底案じているルカ。親密な二人のその様子は、昨日今日の関係ではないと感じ取れる。
「出会った頃のカミラは素朴で、無垢で、純粋で、怖がりで……私だけが頼りだと怯えていたのに。私以外と通じていたなんて……ゴホッ」
父は最後の力を振り絞りぶつぶつと恨み節をつぶやいている。もう、誰も父の吐いた血を拭うものはいない。
「フィーはカミラと他の男の子供だったなんて……カミラが待っているから、死ぬのも怖くなかった、のに……今の私には、誰も、誰も……いない」
孤独の中死ぬことになってしまった父。もう目を開けていることすらできないようだ。その命が小さくしぼんでいくのが分かる。
「……ノーラはどこだ。わたしの、こども……ノーラ?」
ノーラが生まれてから15年。ずっとずっと欲しかった父からの関心だ。
なのに、ノーラの口から父の声に応える言葉は出てこない。
ここで返事をしなかったら、もしかしたら将来後悔するかもしれない。でも、どうしても、今のノーラは父の呼びかけに応えることができなかった。
こうして、父は亡くなった。
愛し愛される人と手を繋ぎ、ノーラを抱きしめながら笑顔で亡くなっていった母の最期と比べると、寂しすぎる終わりだった。
そして、父の死の翌朝、フィーネとルカは二人揃ってアクランドの屋敷から姿を消していた。