Prologue マーガレット (私を忘れないで)
ぽつり・・・
・・・ティーカップの中にできた波紋に気づいたノーラ・アクランドは、のんびりと天を仰いだ。
見上げた空はよく晴れた青天。にも関わらず、頬や額にはぽつぽつと雫の感触。
ノーラが『お天気雨だ』と考えると同時、降り始めの小雨は手に持つティーカップをひっくり返したかのような豪雨へ変わってしまった。
突然の激しいお天気雨に、ここ王都では晴れた空の下だとしても雨が降るのだと、故郷である領地との違いに思いを馳せる。
ノーラの生家アクランド伯爵家に限らず我が王国の貴族の多くは、春の終わりから年末までを領地で過ごし、年末から春先までの社交シーズンの寒い時期を王都のタウンハウスで過ごす。
冬の終わり、少し暖かくなって来てもうすぐ春が始まりそうな今、ノーラは王都のタウンハウスにいる。
ノーラが1年の殆どを過ごす領地アクランドは滅多に雨が降らない半乾燥地帯で、領民の飲料水や生活用水のため作物に水を与えるためにと、領主であるアクランド伯爵が雨乞いをして無理やり雨を降らせているほどに雨が少ない辺鄙な田舎。
対して、ここ王都は雨がよく降る地域なのだが、それは”王弟の呪い”のせいだと言われている。王弟には、”外出する度に雨が降る呪いがかけられている”という噂があるのだ。
雲もないのに突然雨が降り出したのは、もしかしたら王弟が外出したからで、この雨を辿って行ったら王弟の頭の上まで続いているのかもしれない。そう考えると、顔も知らない王弟に親しみを感じてしまうから不思議だ。
ノーラは今、タウンハウスの中庭で異母姉と二人きりのお茶会をしていた。
最近は日中なら屋外でも過ごせるくらい暖かくなり、中庭のマリーゴールドは満開を迎えている。せっかくだから中庭でお茶会をしようと、1歳上の異母姉フィーネへ声をかけたのはノーラだ。
3ヶ月前まで平民として市井で暮らしていたフィーネは、来週から貴族学園に入学する。フィーネが学園入学のためにこの3か月で習得した礼儀作法を、ノーラへ披露することがこのお茶会の目的。
そのため、お茶会の出席者は姉妹二人きりで、客人を招待していなかったのは、突然の雨を思えば不幸中の幸いだった。
フィーネの礼儀作法の確認のためとはいえ、忙しい日々を過ごすノーラがゆっくりとお茶を飲める時間は少ない。そのせいか、突然の雨に対してもノーラの腰は重かった。
周囲に控えていた使用人達が慌て出し、濡れたら困るものから片付けていることは分かっている。
それでもノーラは椅子から立ち上がることもせず、雨に打たれて上下に揺れるマリーゴールドの花びらをぼーっと見つめ、乾いた領地や王弟の呪いなど取り留めもない思考の渦に飲まれていた。
雨を厭わず深く息を吸い、マリーゴールドの柑橘のような芳醇な香りと、濡れた土から発する雨の匂いが混ざり合った独特な香りを堪能する。正直に言ってしまえば、目が回るほど忙しい日々に疲れ切っていて立ち上がる気力がなかった。
何事にも動じないと言えば聞こえがいいが、人よりも少々鈍く反応が遅い自覚はある。使用人たちはおそらくいつものことと思っているのだろう、ノーラに声をかけることなく自分の仕事をしている。
頭の中では忙しなく考え事をしている方だと思うのだが、その反動か、なぜか行動はのんびりしてしまう。発する言葉もゆったりと間延びしてしまうノーラは、周囲から大人しい令嬢だと見られている。
そんなノーラに勝るとも劣らず控えめな異母姉フィーネは、ただでさえ貴族の作法に慣れないというのに、突然の雨という不測の事態にどうして良いか分からないようだ。ノーラの行動を真似し、激しい雨の中で同じように椅子に座り込み、不安そうに青い瞳を揺らしていた。
「何をぼんやりしてるんだ!」
そんな二人に向けて声を荒げたのは、このタウンハウスの主人、姉妹二人の父親である現アクランド伯爵当主。
ジャケットを脱ぎながら、そのジャケットと同じ紺色の髪が乱れるのも厭わず屋敷の方向からこちらへ向かって走ってくる。15歳のノーラがこれまで一度も見たことがないような必死な形相で走る父。いつも柔和な雰囲気で微笑んでいる父が見せる、初めての厳しい顔付き。
……お父様はこんな貌もできるのね。
父の叱咤から遅れること数秒。その大声へ応えるようにノーラは椅子から立ち上がり、こちらへ向かって走ってくる父の方へ、一歩足を踏み出した。
娘の自分を心配して父は駆け寄って来るのだと、そんな考えで自然とノーラの身体は動いた。
走ってくる父を受け止めるかのように、ノーラは手を広げ、かけ、た。
……えっ?
のに、父は、ノーラを一瞥すらせずに、ノーラのすぐ真横を走り抜けてしまった。
ギギギと、音がしそうな程ぎこちなく振り返ったノーラの目には、脱いだジャケットをフィーネの頭に被せている父の姿。平静を失い焦る父の青い瞳に写っているのは、フィーネだけ……。
「パパ、ありがとう」
フィーネの甘えた声に父の怒りは冷め、いつもの穏やかな笑顔に戻る。
「カミラが風邪を拗らせて亡くなったことを忘れたのか?ほらっ、屋敷へ戻ろう。早く」
父の愛人でフィーネの母親のカミラは5年前に風邪を拗らせ肺炎で亡くなったと聞いた。奇しくも、ノーラの母も2年前に風邪を拗らせ肺炎で亡くなっている。
……私のお母様も風邪を拗らせて亡くなった、のに。
父とフィーネは二人寄り沿いながらノーラのすぐ横をすり抜け、小走りで屋敷へ戻る。お互いを支え合う父とフィーネの二人には、同じく雨に打たれているノーラのことなど見えていない。
「おとうさま……私も、います」
喉が詰まって思うように出ない声は、雨音にかき消された。
立ち去る二人の背中を見ながら立ちすくむノーラの全身を、大粒の雨が打ち付ける。
雨粒は太陽の光を反射しキラキラと輝き、その光と雨がノーラと周囲を遮断しているような、まるでこの世界にひとりぼっちのような、自分は透明になって誰からも見えなくなってしまったような、そんな孤独がノーラを襲う。痛いほどの冷たさは雨に濡れたせいか、寂しい心のせいか、分からない。
頬をつたう涙だけが焼けるように熱かった。
「ノーラ様、風邪を引いてしまいます」
一人で立ち尽くしていたノーラの頭上へ、傘を差し出してくれたのは従者のルカだ。
いつも完璧にセットされているルカの黒髪が激しい雨で崩れている。
そういえば、ルカを拾ったありし日も土砂降りの雨だった。あの時よりもルカの黒髪が輝いているように見えるのは、太陽が出ているお天気雨のせい、だけだろうか。
……次期伯爵がこんな些細なことで傷ついているところを見せるわけにはいかない。ノーラ、いつものように笑うの。笑え。笑いなさい。
ノーラはにっこりと口角を上げ笑顔を作り、顔を上げてルカを見上げた。
ルカのエスコートで屋敷へと戻ると、ノーラが屋内に入った時にはすでに、父とフィーネはそれぞれの自室へと去った後だった。今日中にやらないといけないことはたくさんあるし、午後には婚約者キャルムの来訪予定もある。
ノーラも濡れた髪を乾かし着替えるため、トボトボと自室へ戻った。
部屋に戻り乾いたタオルに包まれ暖かいお茶を飲み直したとしても、体の芯、胸の奥底は、いつまでたってもひんやりと冷えたままだった。