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おでんの玉子

作者: 木村紫

 また寒くなってきたな、と心の中でつぶやきながら、駅から自宅まで10分ほどの距離を歩く。


 ビルの間に挟まれたわずかな道のりには冷たい夜風が待ち構えていて、まるで手練れのキャッチセールスのように隙をついて人の懐へ入り込んでは、微かに残った温もりまでも奪おうとする。


 電車の中でたまたま乗り合わせただけの一期一会にどれほどの意味があるか知らないが、見ず知らずの人々に囲まれて暖かかったひと時が懐かしくなるくらいには、今日の風は容赦がない。


 ダウンジャケットの内側にあるわずかな体温まで見つかったらおしまいだ。そんな風に思いながらも急ぐ気になれず、固い体が今にもぱりんと割れそうなのに、意地になって一層ゆっくり歩いていると、横断歩道の先にあるコンビニの灯りが見えているのになかなか近づかなくてやたらとムラムラする。


 そうしてやっと辿り着いたコンビニの自動ドアを抜けると、呑気なチャイム音といらっしゃいませ、の声と共に空気が一気に暖かくなる。


 さっきまでの尖った感覚はたちまち溶け出し、代わりに閉じ込めていた強い空腹感がぐっと頭をもたげてくる。


 入り口近くのレジ前には、揚げ物や肉まんの入ったガラスケースに並んで、銀色の四角いおでん鍋が親しみやすい香りと共にたっぷりの湯気をたたえて待っていた。


 近寄って2,3秒覗き込んだ後、スローモーションのようにトングを掴む。


 トングをおたまに持ち替えつゆを掬って直接飲みたい、という軽い欲望を否しつつ

側にある小さめのカップにもゆっくりと手を伸ばす。


 トングを持ってカップまで手に取ってしまったら最後、必ずおでんを買わなければならない。ミッションは既に始まっていて、もう後戻りはできないのだ。


 こんな風にいきなりおでんに手を出すことは滅多にないが、伊達に年をとってきた訳じゃない。小さなカップに納める具材は、既にあらかた決まっている。


 大根に白滝と牛すじ串を1本、少し迷ってもう1本。


 全ての具材が軽く浸るくらいまでカップを熱いつゆで満たし、小さな辛子の袋を2つ取ってレジへ移動しようとしたとき、さっきから微かに聞こえていた心の声が俄かに大きくなるのを感じた。


(あれを選ばないの?)


 そうだ。結局選ばなかった。


「結局」なんて言いながら、自分の中で選ぶ可能性が低いこともわかっていた。


 ずっと気になっていて、美味しい事も知っていて、今までに何度となく食べたこともある。こうしてカップをつゆで満たしている今だって気になっているのに、それでも玉子を選ぶ事ができない。


 からしをつけてもいいし、つけなくてもいい。丸い形のまま頬張ってもいいし、注意深く半分に割り、しっかりと固まった黄身の部分が溶け込んだつゆを飲んでもいい。


 彼女との楽しかった思い出なら、白滝で舌をやけどした経験よりもずっと多い。


 数あるおでんの具の中で決して嫌いなわけではなく、むしろ好きな方であるにも関わらず、彼女を選ぶのには覚悟がいる。


 だって玉子を選んでしまったら、牛すじを2本も食べる悪だくみや、帰って更に夕食をつまむといった気軽な選択肢をすべて諦めなければならない。


 欲望に駆られて衝動的に立ち寄った19時前のコンビニで選ぶおでんの具材として、彼女の存在は重いのだ。


 会計を済ませてそそくさと店を出る。せっかく暖まっていた指先が早速冷え始める。


 玉子は傷ついているだろうか。


 そうであるなら、彼女はきっと知らない。


 最後まで迷ったことも悩んだことも、今だって変わらず好きでいることも。


たまこ、と愛しい名前を小さな声でそっと呼んでみる。


 夜空を見上げると、白い息の間からのぞく満月がまるで湯気をまとった玉子のように、優しげな光を放って静かに揺れていた。

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