たった1度の喧嘩
由布子さんが帰る日の夜。現在の時刻は19時。担当編集者の一ノ瀬さんは、21時に原稿を取りにくるらしい
「うー……あー……あー‼︎」
私はこの何かにもがき苦しむ声を何度か聞いたことがある
この声は、小説の続きがあまりに思いつかない時にあげる由布子さんの声だ
頭をわしゃわしゃと掻く由布子さん。残り3〜5行という場所まで書き終わっているのだが、どうしても最後のシーンが思いつかずにもう1時間近くも頭を抱えていた
「どうしたら……恋愛経験の無さが仇になってるよぉ……」
と、悩む由布子さんの部屋の扉からノック音が聞こえた
「ど、どうぞ!」
「失礼しまーす。コーヒー飲みますか?」
「あ……い、頂きます」
湊が渡したコーヒーを飲む由布子さん
「原稿の進み具合はどうですか?」
「……あと3行程度なんですけど、全然思いつかなくてずっと足踏みしてる状態です」
「そうですか……」
「……あ。ちょっといいですか?」
由布子さんは何か閃いた様子
「どうしました?」
「あの……悩んでる部分がですね。主人公とヒロインが仲直りをするってシーンなんですけど、その時にヒロインが主人公に向けて言うセリフが思いつかなくて……李華さんと喧嘩した時とかに何か言われたことはあったりしませんか?」
実際にあったシーンの言葉を参考にしようということだろう
ただ、それは少し難しい話である。なぜなら……
「うーん……喧嘩ですか……喧嘩したことあったかな?」
そう。喧嘩した記憶がないからだ
正確に言えば、喧嘩したことがないことはない。一度だけ軽ーい喧嘩をしたことがある
ただ、それは高校3年の冬頃で、もう10年以上前の話だ
しかも本当にその日のうちに仲直りしたので、覚えていないと思う
実際私も、頑張って脳内の記憶ストレージを漁りに漁って思い出したもの。しかも喧嘩の原因も、仲直りに至った要因も全て抜け落ちている
ほんと……なんで喧嘩したんだっけ?
「湊さん。優しいし、怒るイメージは確かにないかも」
「優しくなんかないよ。それに昔はほんとにヤンチャだったし、それで李華にも面倒をかけてた」
確かに高校生の頃の湊はヤンチャだった。ただ他の子とは違う意味で。
けど……今は丸くなりすぎだ
高校生の湊に、今の湊を見せたら「こんなの俺じゃない」って間違いなく言うだろう
「なんだか意外です」
「そう?」
「はい。今からは想像出来ません」
「……あ。ちょっと待って」
湊は目を瞑り、腕を組んで空を見るように上を向いた
「……あった。一回だけ喧嘩したこと」
「ほ、本当ですか⁉︎」
湊が喧嘩したことを思い出したようだ
私と違って生きている分、記憶のストレージを使ってる分は多いはずだが、よく思い出したものだ
「うん。詳しい時期はちょっと忘れちゃったけど、高校生の頃に一回ね。確か動物園デートした時だったよ」
湊の思い出した記憶と、私の思い出した記憶は同じもので間違いなかった
「喧嘩の原因って?」
「……俺、動物嫌いなんだけどさ。李華がどうしても行きたいって言うから行ったんだよ」
「はい」
「李華は俺が動物が苦手なことを知らなくてさ。で、動物園デート中の俺の顔色がすごい悪かったらしくて。最初は体調不良を心配されたんだけど、俺が我慢してたって明かしたらすごい勢いで怒られたんだ」
私も徐々にその場面の記憶が蘇っていく。懐かしいと感じる反面、湊がまだ私との思い出の記憶していることに複雑な心境を抱いた
「なんで怒られたんですか?」
「「動物が苦手って知ってたら、動物園に行こうなんて言わなかった。なんで言わなかったの?」って言われたから、「李華が行きたがってたから黙ってた」って言い返したらさ……「湊が楽しくないところに来たくなんてなかった‼︎」ってさ」
そうだ……それで大勢の人前で大声で怒鳴っちゃったんだよね
あの後すっごい恥ずかしかったのを覚えている
「あらあら李華さんってば、そんな可愛いこと言ってたんですか?」
「やめて……思い出しただけで恥ずかしいんだから……」
怒ったことに後悔はしてないけど、人前で怒鳴ったことには後悔した
「……良い人ですね」
「でしょ?それでその後すぐに動物園を出てさ。近くのカフェに入って「嫌いな場所に連れてっちゃったお詫びに奢るから、好きな物頼んで」だって。黙ってた俺が完全に悪いのにね。遠慮したけど、「奢らせてくれないなら、別れる‼︎」って訳のわからない脅しをされたんだよね」
私の思いつく最大限の脅しはアレ以外思い浮かばなかった
「でも、湊さんには効いたんですよね?その脅しは」
「うん。効果絶大だった」
「……喧嘩したと言っても、やっぱり仲が良いとすぐに仲直りするものなんですね」
「どうだろ……李華の切り替えが異常に早いだけな気もするよ」
怒ってたけど、怒った理由は私のことを想ってのことだったから引きずらなかった
「……でね。カフェでご飯を食べてる時に李華が言い出したんだよ。「喧嘩って良いもんだね」って」
「喧嘩がいいこと……ですか?」
「おかしいよね。俺も「はぁ?どこが?」って返事しちゃったもん。でもさ……理由を聞いたらちょっと納得した自分がいてさ」
「なんて言ってたんですか?」
「「前より私達の絆が強くなった気がしたもん。お互いに不満をぶつけて、相手が嫌がってることを知って……お互いがお互いのことを更に知ることが出来たから!あっ、でも殴り合いの喧嘩とか罵り合いの場合は別だよ?それは悪い喧嘩!今回のこれは良い喧嘩‼︎」ってね」
湊は鮮明に思い出していた。私自身はこんなこと言ったっけってなってる
「確かにちょっと納得するような気がします」
「ねっ。李華のくせに良いこと言うからビックリしたよ」
アレ?湊さん?もしかして私のことをバカにしました?
「……参考になりそう?」
「はい!すっごく参考になりました!いま頭の中で文が出来てて、あと5分も使わずに残りが書けます!」
「そうですか。じゃあ邪魔にならないように、下に戻りますね」
「あ、ありがとうございました!」
深々と頭を下げる由布子さんを部屋に残し、湊は下に降りていった
「……仲良かったんだなぁ」
「嫉妬した?」
「わぁぁ⁉︎き、急に話しかけてこないで下さいよ⁉︎」
私は能力を使い、由布子さんに話しかけた
「ねえねえ嫉妬した?」
「……はい」
「そうなんだね!でもね、気にする必要ないよ!もう過去の話で、私はもう亡き者なんだから」
「……李華さんの話をする湊さんは、嬉しそうに話してました。今まで見たことないぐらいに……私なんかが入る余地あるんでしょうか……」
「それは頑張り次第!入れるかじゃなくて、入ってもらわないと!」
「が、頑張ります……」
「よく言った!じゃあ原稿の続き頑張ってねー」
能力の効果が切れると同時に、由布子さんとの会話は終わった
「頑張り次第……か」
そうポツリと呟き、由布子さんは作業へと戻った
♢ ♢ ♢
「シノ先生!今回執筆した巻がかなり好評ですよ!」
あれから2週間後に発売された由布子さんの作品。納品から発売までの期間を見るに、だいぶ頑張って引き伸ばしていたことがわかる
「そうですか。良かったです」
「特に最後の仲直りするシーンのセリフ!アレが良いと大好評です!」
「そ、そうですか……」
少し複雑な様子の由布子さん。まあ自身で考えたものじゃなくて、私の言葉だからね
自作でない分、少し複雑なのだろう
「恋愛経験のなかったシノ先生にあんなに良いセリフが思いつくとは……湊さんとそんな雰囲気になりました?」
「な、なってないですよ⁉︎」
「えー⁉︎あれだけ私がお膳立てしてあげたのに⁉︎……奥手なのは良いですが、あの人は顔立ちからして引く手数多ですよ?」
「……そうですよねぇ」
「シノ先生がいかないなら私が行っちゃいますよ?」
「ええっ⁉︎そ、それは困ります!」
「あははー。じゃあシノ先生。次の原稿もよろしくお願いしますね。あ、今回みたいにギリギリまで引き延ばさせるのはやめて下さいね?」
「ぜ、善処します……」
「ではではー」
ブチッと音と共に電話が切れた




