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九十一話 語られぬ神話

 世界に、静寂が訪れた。

 己こそが覇者であると叫んだグレイ。

 何かが起きると――否、下手に動けば何かが崩れてしまうのではないかと、我知らず呼吸さえ躊躇しかけた。

 しかし、何も起きない。

 いきなり世界が崩れ落ちたり、あるいは光や闇に包まれたりすることもなかった。

 ただただ静寂ばかりが横たわる。

 吸っては吐く息どころか、鼓動する胸の音まで辺りに漏れ聞こえているような気にさせられた。

 いっそ最初の瞬間、グレイが叫んだその時に詰め寄ったらよかったのか。何をやっているんだと。そう問い詰めていたら、何かが変わっていたのだろうか。

 過ぎ去った時が遡ることはない。

 動くに動けなくなって、最早呆然とグレイを見つめているだけだった。

 だからカレンが一歩を踏み出しても、瞬時には違和感に気が付けなかった。

「グレイ……、貴様! 一体どういうつもりで――」

 遅れて膨れ上がる違和感。

 ようやくその正体に気付いて、反射的に駆け出す。

 伸ばした手の先に感じる、濃密な魔力。

 それでもかろうじて、なんとか間一髪のところで届いた。カレンの右肩を掴み、力任せに引き寄せる。

「えっ?」

 間の抜けた声を零したカレンの眼前。

 あと僅か数センチというところを、直後、光が貫いた。

 口上に応える気配もなかった世界に、それは何を思ったのだろう。微かに笑っているようにも見えたグレイ。その心臓にも光は降り注いだ。

 細く引き絞られた光が地面にまで達するも、グレイは顔色一つ変えず佇んでいる。

「何が……いやッ!」

 カレンが切迫した声を上げる。

 そして身を反転させたかと思うと、勢いそのまま私の腹に腕をぶつけてきた。

「うげっ」

 情けない声が漏れる。

 だが、お陰で助かった。前髪を光が焼く。カレンの肩口も掠めた。押し殺された悲鳴を耳元に聞く。

 痛みを堪え、カレンは走った。

 遠ざかっていくグレイは幾重もの光に貫かれながら、痛痒を感じさせない微笑を保っている。

 奇妙な光景だ。

 グレイの身体に……いや、姿に突き刺さった光は、まるで池に落ちる雨粒のようだった。波紋を広げ、けれども、それ以外には何も残さない。

 幾度となく貫かれたはずのグレイは、光が消えた時には再び元の姿を取り戻す。

 妖精王の槍に両断されてなお蘇った『姿』は、どこまでも健在だった。

「カレン! もういい、大丈夫だ!」

 我に返って、背中から支えてくれていた腕を叩く。

 カレンは立ち止まるというより、半ば転がり込む格好になりながら足を止めた。

 すぐに傷口を見る。幸い、傷は浅かった。自覚があるのか、傷口に伸ばそうとした私の手を掴んで止める。

「後でいい」

 ほんの数瞬、考えを巡らせた。答えは変わらない。

「いや、今しかない」

 光はグレイを狙って降り注いでいる。私もカレンも巻き込まれただけ。

 だったら、あの光はなんだ?

 肝心のグレイは意に介す素振りも見せない。一方で、降り注ぐ光に驚いた様子もなかった。

 嫌な汗が背筋を伝う。

 何か言いたげなカレンを態度で黙らせ、大急ぎで治癒の魔法を発動。浅かった傷はすぐに癒えるも、胸に巣食う焦燥感は増すばかりだった。

 頭が、痛い。

 あまりに濃密なマナ。

 無数の光が降り注ぎ続け、一本の太い柱かのようになっていく。

 いきなり覇者だと宣言したグレイ。

 にもかかわらず世界は呼応らしき動きを見せず、代わりに降り注いだ光がグレイを貫き続ける。それを意に介さぬグレイと、それでもなお止むどころか数と勢いを増す光。

 ようやくカレンも思い出したのだろう。

「まさか……ッ!?」

 カレンらしからぬ悲鳴じみた声だった。

 しかし私には笑えない。私も同じだ。何もかもが唐突で、想像の埒外にあって、けれども我が身はここに置かれている。

 どうすればいい。

 ……なんて考えていられる時間も過ぎ去った。

 不意にキラリと煌めくものが見え、思わずカレンを突き飛ばす。

「ぐっ……」

 腕に激痛。

 痛みから目を背け治癒魔法をかけながら、カレンの様子を見る。地面に倒れていた。

 変な汗が吹き出す。

 すぐに私が突き飛ばしたせいだと気付くも、笑っている余裕はない。カレンが曲芸じみた動きで飛び起きた。直後、元いた場所に光が刺さる。私も何も見ずに後ろに跳んだ。また前髪を持っていかれる。

「くそっ」

 無意識に左腰、鞘へと伸ばしていた手が空を切った。

 剣がない。

 当然だ。あれは妖精王もろとも大樹に呑み込まれたのだから。仕方なく鞘を抜き取って構える。……追撃はなかった。

 ただ見やった先、大樹の方に光の矛先が向いている。

 突き刺さった光が左右に拡散するように広がっていくも、大樹が倒れることはない。光が通り過ぎれば何事もなく屹立していた。

 横目でカレンを一瞥。目が合った。

「剣を――」

「今からやるところだッ」

 妖精王相手に作った脆い剣じゃ足りない。

 グレイが作った、あの剣に匹敵する剣でなければ。

 他方、光は無意味を悟ったのだろうか。グレイからも大樹からも離れ、何もない一点に集約され始める。違うな、これは。むしろ本番が始まるらしい。

 カレンに目配せし、私自身は手にしたままだった鞘に意識を注ぐ。

 この中に刃が収まるのだ。

 鞘を左手に持ち替え、右手で存在しない柄を握ってみる。

 思い描くのは、そこに生まれる剣。治癒も、一閃も、何より枝や蔦を生み出す魔法と同じ。それがどういう存在なのか、どう生まれ、どう在るのか。念入りに描いて、編んでいく。

「エレカ!」

 カレンが叫んだ。なら、見なくていい。

 柄を、今度こそ握り締める。

 鞘は揺らさない。揺れ動けば、刃が歪む。

 と、世界が暗くなった。

 もう夜になったか。頭の片隅で馬鹿げたことを考え、答えに辿り着いた。降り注いでいた光が遂に消えたのだ。

 目を閉じる。

 ほんの一瞬だけ、私と剣以外の全てが世界から消えた。

「人喰い鬼が覇者を名乗るなど、横紙破りもいいところです」

 凛と響く声が私たちの世界に割って入る。

 瞼を持ち上げれば、必然、その姿は視界に映った。

 美貌。

 鮮烈な紅の髪をたなびかせ、妙齢の女が歩を進める。向かう先にいるのはグレイ。

 しかし瞳が、不意に横を見た。

「私はオール・ルージュ・オールドーズ。この手に世界を取り戻す者です」

 それは口上だったのだろうか?

 紅に染め上げられた唇が動いて何事か付け加えたが、声を聞き取ることは叶わなかった。

 そうと知ってか知らでか、視線はまた正面に向けられる。

「グールよ、私と戦いますか?」

「嫌だと言ったら戦わずに済ませてくれるのじゃ?」

「えぇ、当然です。世界も、あんな勝手な言葉を紡がれては戸惑ってしまうでしょう」

「話が見えないのじゃ。この時代の覇者は儂なのじゃ。既に決まったことじゃ」

 言うまでもなく傷一つない姿で、グレイがけらけらと笑う。

 女――、オールドーズは苛立たしげに顔を歪ませながら、相反する穏やかな声を返した。

「いつまで勝手なことを言っているつもりですか?」

「強がっても滑稽なだけじゃ。お主とて、放置すれば儂が覇者になると分かって重い腰を上げたのじゃ。……んん? でも確か尻は軽かったのじゃ?」

「あなたの挑発に乗るのは気が引けませんが、いいでしょう。そこまで戦いを望むのであれば、世界に産み落とされた神として応じざるを得ません」

 ふざけた会話。

 だがオールドーズの表情は真剣そのものだった。グレイのそれとは対照的に。

「逃げて、逃げて、逃げ続けた旧き神よ。ただの鬼だったあなたが盗み取ったその力、世界へと返していただきます」

 言って、掲げられた右手。

 そこに長剣が現れ、掴み取る。

「戦争を始めるのじゃ?」

「えぇ。……それとも、先ほどの口上では足りないと?」

 グレイが笑う。にんまりと。

「いつの時代も変わらぬものですね。浅ましく地位を得た者ほど、その地位と形式に拘泥する」

「儂が神たり得ぬと?」

「えぇ」

 オールドーズが優しく、……見かけの上では確かに優しく、柔和に微笑んでみせた。

「私の名はオール・ルージュ・オールドーズ。最古の神にして、最後の神です。あなたに引導を渡しましょう」

 まるで私たちなど眼中にないと。

 あるいは、当然なのかもしれないが。

 ただ、あの言葉に偽りはなかったのか。

 目の前だけを見ていたオールドーズとは違い、グレイはその時、相手ではなく私を見た。次いでカレンを。つまりは、私たちを。

「友よ、お主は借り物でも紛い物でもなかった」

 呟かれた声。言葉。

 次の瞬間には敵を見据え、その者は笑った。

「世界よ、思い出せ。世界樹を蝕んだ、その者の名を」

「はっ?」

 オールドーズが目を丸くする。

 それさえも笑い飛ばすがごとく、口上は叫ばれた。

「我はニーズヘッグ! 終焉を生き抜いた、神話の竜であるッ!」

「……? 何を、馬鹿げたことを…………」

 呆れ声を零すオールドーズの声が萎む。

 グレイが――、ティルの姿が、消えたのだ。

 直後、軋む音が聞こえてくる。音がした方に目をやれば、聳え立つ大樹が見えた。

「冗談……では、ないのですね」

 その声は僅かに震えていた。

 同じく大樹を見ていたらしいオールドーズが振り返り、私たちを見据える。

「力を貸しなさい」

「そんな道理がどこにある!」

 カレンが即座に吠えた。

 しかしオールドーズはそれ以上の会話を望まなかった。望んではいられなかった、と言うべきか。

 大樹が、解けた。

 無数の枝からなる幹に螺旋が描かれ、夥しい数の鱗が浮かぶ。

「……カレン」

「なんだ」

「一応聞くが、あんな奴が出てくる伝説なんてあったか?」

 とぐろを巻いていた、蛇のごときそれ。

 全長は、いったい何メートルに及ぶのだろう。十や二十では到底足りない。巨躯と評するのも馬鹿げた桁外れの蛇が、上空からオールドーズめがけて降ってくる。

 大地が割れ、砕けた。

 立っていられないほどの衝撃が全身を襲う。咄嗟に手を付いて転ぶのだけは避けたが、それ以上は何もできなかった。

「あれが、竜なのか」

 今にも笑い出しそうなカレンの声。

 なるほど、釣られて私も笑ってしまいそうだった。

 やっぱり全然似ていない。思い出し、ルネやプラチの無事を祈る。祈ることしか、最早できない。

「そんな力、世界が認めると思いますかッ!」

 あの一撃をどうやって避けたのか。

 いつの間にか竜の背を駆け上っていたオールドーズが叫び、その剣を突き立てる。

 吹き出したのは、鮮血ではなく腕だった。

 蛇のような長い胴体の、……だからどこが肩なのだろう? どうあれ、明らかにおかしな部位だった。人間でいえば背か腰か。そんな場所から突き出した腕がオールドーズを追いかける。

 竜の背に逃げ場などなく、彼女は早々に足を止めて剣を構えた。

 それを横から、二つの縦長の瞳が見ていた。

 顎門が開かれる。

 炎、ではない? 炎のように紅々と、それでいてどろどろと粘着質の何かを竜が吐き出す。

 オールドーズは空中に身を躍らせて回避した。が、当然のごとく赤いそれは止まらない。落ちてくる。私たちの方に。

 何か分からないが、まずいのは火を見るより明らかだ。

 カレンを探す暇もなく駆け出し、その直後には肌を焼く熱を感じる。やはり炎だったのか。最後の一歩、悪足掻きで宙に跳ぶも、まだまだ炎から逃げられなかった。

 必死で藻掻く。

 何かが足の裏に当たった。それを蹴飛ばす。颶風が顔面を叩いた。

 猛烈な風から顔を背け、何を蹴ったのか見ようと視線を落とし、そこにカレンを見る。まさかと思ったが、自分の足で走っていた。

 その背に、炎が迫る。

 考えるより早く、身体が動いた。

 炎だ。

 白い炎が赤い炎に衝突し、爆発と黒煙を生む。爆風に背中を押されたカレンが数歩も虚空を走って、顔から地面に落ちそうになった。地面から蔦を伸ばし、なんとか受け止める。

「うおっ!? ……エレカか?」

 戸惑う声。

 きょろきょろと左右を見回すカレンを眼下に見て、自分がどこにいるのか思い出す。

「……え?」

 空中だった。

 何故か気付いてから身体が落下し始める。

 情けなくも悲鳴を上げた。カレンが見上げる。受け止めようとしてくれたらしいが、カレン自身も蔦のベッドに寝ている有様だった。潰れてはいけない何かが潰れた、そんな声でカレンが呻く。

 私にも激痛が襲った。

 一体なんだったのか。無意識に考えかけ、思考を断ち切る。

「グレイはッ!?」

「奴と……、オールドーズとやり合ってる」

 私の下敷きになりながらカレンが教えてくれた。

 どこうとして、足場がスカスカの蔦だと思い出す。手も足も置き場がなく四苦八苦している間に、どうやら蔦が魔力切れを起こしたらしい。

 不意に支えがなくなり、私とカレンがまた落ちる。

「重いッ!」

 カレンが叫んだ。

 あんまりだ。

 叫ぶ余裕があるなら黙っていてほしかった。

 束の間の現実逃避は、地の底から震えてくるかのごとき咆哮に吹き飛ばされる。

「ハハハハハハ――ッ」

 笑い声、なのだろうか。

 それはもうティルのものではなく、どんな人間のものでもなく、獣のものですらなかった。

 どれほどの斬撃を身に受けたのだろう。

 おかしな腕の生え方をした巨大な蛇……いや、だからもう蛇とも呼べない、竜という呼び名を借りるしかない存在が大地を蹂躙していた。

 圧倒的な、徹底的な、壊滅的な、何より純粋な暴威。

 時に受け止め、避け切り、そして反撃までする存在もまた化け物であろう。

「なんだよ、これ……」

 神だ王だと、理解に苦しむことを散々言われてきた。

 理解できた気になっていた。

 だが、全く違ったらしい。私は、私たちは勘違いしていた。

「勝つとか、負けるとか、そういう話じゃないだろ」

 心が折れる、その音を聞いた気がする。気のせいだろうか? そうであったら、どんなにいいか。

「だが、倒すしかない」

 カレンが立ち上がる。

 優しく脇に追いやられていた私も、いつまでも座り込んではいられない。

「……でも、どうして?」

 妖精王は倒した。

 プラチから受け継いだ復讐は――

「違う、のか」

 あぁ、違う。

 巨竜が吼えた。

 女が雄叫びを上げている。

 腹の底で、虫が笑った。

「カレン」

「おう」

「もしもの時の、引導は頼んだ」

 引導とは、果たしてなんだったか。

 確かに意味があったはずの言葉だが、その意味を知らないことを今になって自覚する。

 グレイは言った。

 まだグレイだった頃に。

 世界よ、思い出せと。

 私はきっと何も知らない。知るはずがない。けれど、知っているはずだ。

「私は、エレカ・プラチナム・アーレンハート。お前が授けた名だ。全てを、私に返せ」

 私が、ただ一つの私だった頃。

 唯一の私を、もう一度。

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