八話 追放エルフと旅する禍福
熱く、それでいて暖かい風が頬を撫でた。
懐かしい。
そう感じてしまったのは、どうしてなんだろう。
「エレカ様――!」
胸を締め付ける不思議な声に振り返れば、なんてことはない姿が視界に飛び込んでくる。
低い背に、淡い栗色の髪。
「ティル? どうしたの、そんなに慌てて」
森の木々はこんなにも穏やかに揺れているのに。
何か約束を忘れていただろうか。けれど今日は――
……あれ、今日っていつ?
「エレカ様、どうしたんですか?」
「ん? どうもしないよ? それよりティルこそ、どうしてこんなところに……」
こんなところ?
ティルが――エルフが森にいることの何がおかしいんだろう?
頭が痛い。
肌が焼けそうなほど、空気が熱い。
これは、いったい……?
「ねぇ、エレカ様。あたしね、あたし――」
泣きそうな、しかし抑えきれぬ喜びにも満ちた、不思議な面持ち。
ティルのこんな顔を一度でも見たことがあっただろうか?
同世代と括られる中では最も幼く、だからこそ誰からも愛され、誰をも愛した優しい少女。なのに今、眼前のティルは大人びていた。
大切なことを忘れている。
自然、気付かされた。何を忘れているのかまでは、思い出せないけれど。
「だからね、エレカ様! エレカ様は」
「目を覚ますんだ」
悲しそうな声だった。
寂しそうな目をしていた。
切実な彼女の言葉を遮ったのは、果たして。
「目を覚ますんだ」
「……お父様?」
振り返れば、やはり父がいた。
そもそも私にそんな言葉を向けるのなんて父以外には……いや、リクもいたか。じゃあどうして父だと思ったんだろう。
分からない。
ただ振り返ったそこに父がいた。それだけが事実だ。
「目を覚ますんだ」
「お父様? 私はこの通り、既に目を覚ま――」
「おい、目を覚ませ!」
あれ……?
何かがおかしい。
父の声は、こんなにも綺麗だっただろうか?
父の表情は、こんなにも豊かだっただろうか?
『くそっ! いい加減に目を覚ますんだ、もう一人のオールドーズっ!!』
× × ×
我に返る。
と同時、眼前に父とは違う姿を認めた。
「……ようやく目を覚ましたか、もう一人のオールドーズ」
憎々しげに吐き捨てるのは、見間違えるはずがないだろう、禍福だった。
「夢……?」
「見ただろうな、見ていただろうともさ!」
禍福が声を荒らげる。
意識の覚醒が進めば進むほど、先ほどまで見ていた景色の違和感を思い出せた。
ここは森じゃない。ヒュームの町の、主を失った空き家だ。
徐々に記憶も蘇ってくる。
昨日、川から戻った私たちは町の人々から再びの大歓迎を受けた。
備蓄も僅かであろう干した肉や魚、惜しげもなく水を使ったスープや煮物、果ては痛みの緩和のために長老に飲ませた酒を果汁で薄めたという即席の果実酒まで振る舞われる大宴会だ。
最初は固辞する構えを見せていた禍福が、ふと何かに気付いた様子で受け入れてしまってからはお祭り騒ぎだった。
私の記憶も、途中で途切れている。
エルフの森で酒を飲む機会は少ない。森長を筆頭に政を担う重鎮ならば神樹に捧げる酒の席に並ぶことはあるけど、十七の小娘が立ち入れる領域じゃなかった。
お陰で自分が酒に弱いことも知らなかったのだろう。
かろうじて覚えているのは、どうにかこうにか保っていた理性を、先んじて案内されていた空き家に入った途端に手放したことだけ。
そして私は今、布団に座り込んでいる。要は目覚め、上半身を起こしただけの状態。
勿論、自力で布団に横たわった記憶すらない。
…………何もかも、禍福の世話になったということか。
「……。……ごめん」
「詫びる暇があったら自分の姿を思い出せ」
自分の、姿。
何か至らぬところがあるだろうか、と半ば無意識のまま頭に手を伸ばしかけ、そこでようやく思い至った。
「ね、寝癖……!」
ここ最近、寝るといえば野宿だった。
それも人に見られる可能性など考えたくても考えられなかった、人里を探す道中での。
しかし、ここは違う。町の中だし、そもそも禍福とは一つ屋根の下。こんなみっともない姿を晒しながら夢まで見ていたとなれば、禍福が怒るのも無理はない。
慌てて手櫛で髪を梳かすが――。
「貴様、それは冗談のつもりか?」
禍福の眼差しは和らぐどころか一層鋭く、冷気を帯びる。
「み、みっともない姿を見せたことは謝るが……!」
「アホか。みっともないとか以前に、巡礼者が姿を晒してどうする」
「へ?」
そこまで言われて、ようやく。
本当に遅すぎるくらいだけど、それでも気付かないはずがなかった。
途端、顔が熱くなる。
そうだ、私は今、ヒュームの町にいるのだ。町の人々が悪意を持っているとは思わない。けれど善意で家の戸を開けないとも限らない。朝食の支度をしてくれたとか、起きてくるのが遅くて心配して来るとか。
そうして今の私の姿を見て、彼らは何を思うだろう。
ここら一帯の干魃はマナが流転し、枯渇してしまったことが原因だ。実際には私たちもマナの枯渇に喘いでいるとはいえ、ヒュームからすれば自分たちよりマナの扱いに長けたエルフが何かしでかしたと勘繰るかもしれない。
そのエルフが巡礼者――彼らが信じ、敬う存在を騙っていたと知ったら。
「すまない……。助かった」
「勘違いするな。状況からして、俺も他人事では済まされない。自衛のうちだ」
鼻を鳴らす声に隠された気遣いの色を感じ取れないほど、私は愚かになりたくない。
「それより、なんだ、その髪は」
私に見透かされていることに、彼女も気付いたのだろう。
急角度に話を逸らされたが、それはそれで、私にとっては痛いところを突いていた。
「変か?」
「無自覚だったのか」
「いや……、そうではないが」
髪を撫で、何気なく握った房を肩越しに持ってくる。
空き家だった建物、埃臭く日差しも遠い奥まった部屋なれど、それは見て取れた。
鈍色の髪。
エルフの持つ髪は暖色が多く、そうでなくとも父と母の髪は綺麗な金色だった。たかだか髪の色で妻の不貞を疑うほど父は愚かではなかったし、疑われるほど母は無防備ではなかったという。
そもそも長い時を生きるエルフは、えてして暇を持て余す。森中の注目を集める森長とその家族が人の目を盗むなんて不可能だ。
だから私は、正真正銘、父と母の娘。
なのに。
「……笑うか」
「そんなもの通り越して呆れるな」
ヒュームにもエルフに鈍色の髪が珍しいことは知られているのか。
それとも、全てを知るなどと謳うオールドーズ教会の知識なのか。
「どうしてまぁ、そんな長い髪のまま旅に出ようと思った?」
「髪はエルフの、いや女の……ちょっと待て、今なんて言った?」
「はぁ? だから、旅をするには不向きだろうと言っているんだ、そんな長い髪は」
長い髪。
髪の、長さ。
「色じゃなくて?」
「あぁはいはい、分かった分かった。貴様らみたいな女はすーぐ髪を自慢したがるから困る。銀髪がなんだ、そんなもの目立って目立って邪魔なだけだろうに」
口を尖らせて言う禍福の髪は、ほとんどフードに隠れてしまっていて見えないが、彼女の顔を覆う獣毛と同じく栗色……とも言い難い薄茶色だった。陽の光を浴びれば綺麗に輝くだろうけれど、それは陽の光を浴びなければ特筆もできないという事実の裏返しだ。
「というか、長すぎて臭うぞ」
「おい待て、それは聞き捨てならん! い、いくら自分の髪に自信がないからといって、臭いまででっち上げることはないだろうっ!」
「あ、いや、すまん。……だが、事実を言ったまでだ」
あと声が大きい、今は外套も半分脱げてて声を隠せないんだぞ……などと言われた気がしたが、それどころではなかった。
「く……臭いか?」
「や、まぁ、そりゃ、旅してれば……な?」
「でもお前は臭くないぞ」
「俺は慣れてるからな。手入れの知識も、そのための道具も持っている」
「そんなの聞いてないっ!」
「その辺り確かめる前に貴様が寝入ったんだろうがっ!」
フー、フーと威嚇する獣みたいな息遣いの禍福だが、同時に鏡写しの私でもあるようだ。
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせてみるも、やっぱり無理。
「教えてくれ」
「やだ」
「私はどれだけ臭うんだ?」
「正直に言えば、貴様はすぐにでも家を飛び出していくだろう。それは困る」
「昨日は身の清め方を教えてくれたじゃないか!」
「垢も汗も一発で綺麗さっぱり拭い取れたら苦労しないんだよ!」
悲痛な叫びには旅人の苦労が窺える……が、それどころではない。
「私はどうすればいい」
「まず外套を着直せ、それでフードを――あぁいや、しばし待て」
「待てない。すぐに隠す」
「やめろ、一度知覚した以上、私には隠せんぞ」
そんな無体なことがあるか。
いくら禍福が同じ女とはいえ、なんなら獣毛を生やした……いや、そうか。
「なぁ禍福」
「待て、すぐに終わる。確か押し付けられた櫛をまだ売らずに――」
「お前、嗅覚まで獣に近付いているってことはないか?」
言ってはならぬことかもしれない。
分かっていても、言わずにはいられなかった。
私の背嚢とは比較にならぬ小ささの自身の荷物に手を伸ばしていた禍福が動きを止め、じろりと首だけで振り返る。
「そうだと言ったら、どうする」
「私は臭くない。お前の嗅覚が特別鋭いだけだ」
「それだけか」
「重要なことだ。女にとって、これ以上に重要なことはあまりない」
そうだ、昨日の宴会の時だって「あれ? この巡礼者、なんか臭くない?」なんて思われていたはずない。あるわけない。外套に隠されていたのは勿論だけど、ただ眼前の女の嗅覚が人一倍鋭いだけなのだ。
「今から手入れすれば間に合う。そうだ、なんでそんな簡単なことに気付かなかったんだ」
「…………」
じっとりと湿った視線を受けている気がするが、気にするものか。
「禍福、早く手入れの道具とやらをだな」
「……貴様、よくもまぁ旅なんかしているな」
「森を追放されたからな。だが、その森を救うためだ。後悔はない」
ただ、それとこれとは別問題。
呆れながらも自身の荷物から櫛を引っ張り出してきた禍福に、私は背を向ける。
「旅を始めて何日だ」
何週間や何ヶ月ではあるまいと暗に言われてしまった。
「分からない。ただ一ヶ月や二ヶ月でないことは確かだ。食料がまだ残っている」
「目的地は?」
「決めていない。というより、それも分からなかった。もっと早く人の住む土地に辿り着けると思っていた」
「無計画だな」
「いきなり追放されたんだ。リクに……許嫁に一揃いの道具を貰わなければ、この町まで辿り着けていたか分からない」
「許嫁、か」
「これでも森長の一人娘だったんだ。次期森長として、次の森長を産み育てなければなるまい」
「森長の……? そうか、それで追放か」
実の娘だからこそ、厳しく接する姿を見せなければ民に示しが付かない。
そういう側面はあったのだろう。
どこか優しげな禍福の声は、髪に触れる指先をほんの僅かに震わせていた。
「エレカよ。この先は、どこに行くつもりだ?」
「ここより栄えているところに行きたい。言いづらいが、ここでは望むものが手に入りそうになかった。……お前は知っているか? 肥料とかいう、木々を育てるための道具があると聞いたんだが」
「肥料? それで森を救うってか?」
「駄目で元々。座して森の死を待つなど、私にはできない」
ふと、思う。
こうして誰かに髪を梳かしてもらうのはいつ以来だろう。
私の母は、私が産まれて何年もしないうちに死んだ。だから当然、母にそうしてもらった記憶はない。乳母というか、男親では分からない世話を任された女の人たちにしてもらった記憶はある。
ただ、それきりか。
随分と久しぶりで、その時はなんの感慨もなく、むしろ早く自分でできるようになりたいと思っていたのに。
「なんだか、懐かしいな」
「何が?」
「こうして髪を梳かしてもらうことが、だ」
「姉でもいたのか」
「一人娘だと言っただろう。森長の娘となると、どうしても対等な存在は限られる」
それでも友人と呼べる相手は何人もいたし、特にティルは知ってか知らでか立場の差などお構いなしに接してくれた。
帰ったら、お礼を言おう。
そして思いっきり頭を撫で回して、お詫びに髪を梳かしてあげよう。
「なぁ、エレカよ」
「どうした、また改まった声を出して」
世界が――時代が滅ぶと、まだ謳うつもりだろうか。
「俺と旅をしないか」
「……旅? 巡礼の?」
「目的はなんでもいい」
投げやりな言葉とは裏腹、禍福の声は深い深い、咄嗟には見通せない感情に満ちていた。
「オールドーズとしては、巡礼者を騙るエルフを野放しにしておくわけにもいかない。俺としても、貴様をこのまま放り出すのは忍びない。貴様にしたところで、なんの手掛かりもなく放浪するよりは道案内がいた方が好都合だろう?」
取り繕うための言葉だと、意味もなく理解できた。
「そうだな、お前が……禍福が一緒にいてくれるなら、それは何より心強い」
禍福について、知らないことは多い。
むしろ知らないこと、分からないことだらけだ。
しかし、だとしても――。
「望まぬ旅、望まぬ苦境だが、ヒュームにもお前のような者がいると知れたのは嬉しいことだ」
エルフもヒュームも、ともに人間。
それでいて相容れぬ、別種の存在。
そんな風に思ったまま森で生き、死んでいったことを想像すると、ほんの少しだけ寂しくなる。
「私からも頼みたい。禍福の、巡礼の旅のついででいい。私を導いてくれ。私は、森を救いたいんだ」
頭を下げる。
それだけで森を救う手掛かりが得られるなら、禍福以外の誰であってもそうしただろう。
だけど、これほどまでに晴れやかな気持ちで頭を下げられたかは分からない。
「……あぁ。そろそろ本山に帰ってもいいと思っていた頃合いだ。寄り道はすることになるが、今代のヒュームで最も栄えた到達点の一つを見せてやるとしよう」
今代の、か。
まるで前代があり、次代があるかのような口振りは、時代が滅ぶと謳うオールドーズには譲れぬ一線か。
そうであっても、構うまい。
「助かる」
一言零し、寂しさを覚える。
なんだか他人行儀で嫌だな、これは。
「旅は道連れ、とヒュームは言うんだろう? 何が道連れなのか分からないが、なんにせよ命を預けるということだ。いつか禍福の……お前の、本当の名前を教えてほしいよ」
憎まれ口を叩くのは難しい。
禍福の真似をしようと思ったのに、その禍福がきょとんと目を丸くしていた。
「いつか、な。いつか気が向いたら、そうだな、教えてやるとしよう」