八十五話 予期せぬ再会
アカラト湖は、一言でいえば、沼だった。
畔から見下ろしただけで、聞いていた話と違うことは明白。岩盤になっているという湖底は見えず、代わりに黒く濁った水面が見える。いったい水深はどれほどのものか。
どうするかと顔を見合わせる私たちに呆れたわけではないのだろうが、驚くべき機敏さで動いたのは意外にもアクタだった。
「自分が見てきましょう」
そう言うが早いか、斜面を滑り降りていくアクタ。
相当な急勾配で、更には人工的に均されたと思しき土とも岩ともつかぬ硬質の岸壁だ。
だが、しかし。
忘れかけていたが、アクタには翼があった。
羽ばたきはせずとも、ただ大きく広げるだけで空気を捉えて勢いを殺せる。水面までの高さは目測で二十メートル以上になるだろうか。そこまでの斜面は当然、より長いものになる。
私やカレンであれば、ぐんぐんと加速して前のめりに転んでしまいそうな滑降。
それを難なくやってのけたアクタは、だからこそ予想外の事態にも
「おやっ? おやおやッ!?」
などと、間抜けな声を上げる暇さえあった。
何をやっているんだ、と呆れていいものかどうか。それとも礼でもすべきか悩んでいるかに見えたカレンの横顔に、けれどすぐさま焦りの色が浮かんだ。
「おい、飛べないのかっ!」
「この翼は飛ぶためのものじゃないんです!」
叫びながらも、アクタは勢いよく翼をはためかせた。空を飛ぶ鳥のそれを遥かに凌駕する風音が鳴るも、ただ風音が鳴るばかり。
アクタの身体が宙に浮くことはなく、却ってずぶずぶと足元から沈んでいく。
その頃になって、ようやく私も事態を理解した。
泥沼だ。黒く濁った水は、湖底を隠していたのではなく、それ自体が水底だったのだ。ただし水の底というだけで、湖の底ではない。
水深は、浅かろう。
然りとて、泥の嵩はどれほどになる?
水と違って重い泥だからこそ、足を置いてすぐに沈むことはない。だがすぐには沈まないだけで、足を持ち上げようと藻掻けば藻掻くほどに沈んでしまう。
自然の摂理に対し、それでもやはり、あれが私やカレンではなくアクタでよかったと心から思った。
何も薄情なわけではない。
「これは、埒が明きませんね!」
呆れたように叫ぶと、アクタはその目を見開いた。……はずだ。十メートル以上の高みから見下ろす私に、アクタの表情を窺い知ることは叶わない。
とはいえ、その右目に自然の摂理さえも歪ませる超常の力が宿ることは知っている。
だから次の瞬間、アクタの姿が不意に消えても驚きはなかった。
虚空に刻まれた亀裂がアクタを呑み込んだかと思えば、僅かな間を置いて湖の畔に亀裂が生まれる。
「よもや、こんなところで義眼を使う羽目になるとは」
音もなく傍らに現れたアクタが呻くように呟いた。
普段から飄々……というか気楽そうな彼女だが、やはり有限の、それも身を削る類いの力を浪費させられれば思うところもあるか。
だったら力に驕らず慎重に動けばいいのに、とも思う反面、その危険を顧みない即断即決の行動力には助けられた。
なにせ、
「話が違いすぎる。こんな足場じゃ戦争どころか子供の喧嘩もできないぞ」
苛立たしげに吐き捨てるカレンの言葉が全てだ。
水位が下がり、岩盤の湖底が露出している。そう聞いていたからこその判断だった。しかし現実は見下ろした通り。
「水位は、確かに下がっているのかもしれないが」
「というより、汲み上げる水量しか見てなかったんだろうさ。濾過装置は高度な魔法道具だ。泥程度は物ともせず水を吸い上げてきたはずだが、お陰で泥や土砂の堆積に気付かなかった」
「そんなことがあるのか?」
まだ水を汲み上げているから問題ないなどと言うのは、火事が起きた後に煙が見えなくなったから火は消えたと言うのと同じ。あまりに杜撰な話じゃないか。
ため息を押し殺す私の顔は、よほど怪訝そうにしていたのだろう。
「あったんだろう、現に」
カレンも諦める声音で呟いた。
「問題はこれからどうするかだ。それこそ子供の喧嘩じゃないんだ、やっぱり別の場所でやりましょうなんて申し出たところで聞く耳は持たれないからな」
「そう言われても、それじゃあ湖を迂回してメイディーイル側に陣取るか?」
陣取るなどと大袈裟に言ったが、こちらはプラチを含めた五人と、竜馬が四頭だけである。
地中に埋め込まれたパイプラインの管理用出入り口を頼りに湖までやってきた道中を考えれば、その岸を横目にぐるりと回り込むくらいは造作もない。
が、問題はそこじゃないだろう。
「……けど、イスネアの惨状を再現するわけにはいかない」
そもそも枯れた湖を戦場に選んだのは、そこで戦えば余波を最小限に抑え込めるからだ。
山ほどではないにせよ、泥が堆積してなお数十メートルの深さがある湖は、その深さが逆に高い壁となって魔力の波濤を防いでくれる。岸辺で戦ったのでは、湖を選んだ理由が完全に失われると言っていい。
「しかし元はと言えばヒュームの責任では? 水は生命の源。その管理も満足に行えなかった種族のために何を憂いているのです?」
「儂も同意見じゃ。それに種族がどうのという話を脇にやっても、結局アカラト湖を指定し待ち構えると宣言してしまったのじゃ。ここを去れば、お主は尻尾を巻いて逃げたのと何も変わらないのじゃ」
だけど、と反駁しそうになる口を必死の思いで縫い留める。
敵も世界も、私の我儘を聞き入れてはくれない。当然だろう。今まで我儘が許されていたのは……不承不承にでも諦め、呆れ、頷いてくれていたのは、カレンにせよグレイにせよ、あるいはアクタや緋色も味方だったからだ。
嫌だ嫌だと不条理に叫んで、森は生き長らえたか?
最期には自死にも等しい道を歩んだといっても、その道しか与えてくれなかったのは誰だ。
私が我儘を突き通せば、何かが変わったのか?
あの時、カレンの制止を振り切って激情のままに剣を振り回していたら?
「戦争……、これが戦争か。勝たなければ負けで、負けたら全てを失い、奪われる。だから勝つために、それ以外の全てを諦めるしかないと」
「元来、自然とはそういうものだち。木々や草木でさえも生きるか殺すかの生存競争を繰り広げて今に至るち。そこに加わらずに済んでいたのは単なる幸運で、それを当たり前と思うのは傲慢なんだち」
普段は私に味方してくれるプラチも、今回ばかりは口を尖らせた。
まぁそんなプラチやカレンに甘やかされるまま我儘放題してきた自覚はある。事は既に起きていて、成り行きに身を任せればいいという話でもないが、動き出してしまった流れに逆らうことはできない。
それだけの実力が、私にはないのだ。
「なら、せめて大言壮語は慎むとするよ。理性をなくせば、イスネアを消した魔神の二の舞だ」
グレイは言った、口上とは世界に示すものだと。
己の存在を知らしめ、それに応じたマナを引き出すこと。
妖精王を殺し、プラチや森の先人たちが抱いた復讐を果たすのも大切だ。首魁たるオールドーズを打ち倒すことも悲願だろう。だが未だ、私にはそれを成すだけの力はない。
精々私は、ただの一介のエルフとして、プラチから力を預かる半身の神として名乗りを上げるに留めよう。
でなければ過ぎたる力に振り回され、離れて布陣するはずの兵士たちを巻き込んでしまう。
「湖を迂回する。他に手がないなら、そうするしかない」
選択肢も何もなく、決断する余地すらないままに選ばされた答え。
けれど私が選んだ答えには違いなくて、だからそこには責任の重さが付き纏う。
再びルネの背に跨る傍ら、否応なしに考えさせられるのは敵のこと。メイディーイル軍とは名ばかりの、オールドーズの手勢。特に妖精王はまず間違いなく出てくるだろう、というのがグレイの見立てだったが、あくまで予想に過ぎないのだ。
あるいは本当にメイディーイル軍が……帝都奪還を掲げるヒュームの兵が出てくるかもしれない。
そもそも妖精王が単独で戦わなければいけない道理もないだろう。私たちがマオと手を組み、今こうしてアクタと行動をともにしているように、教会ともメイディーイルとも違う第三陣営を取り込んでいる可能性は十分にあった。
そこまでは考慮できないにしても、教会には私も知る戦力がある。
巡礼者だ。
それも特別の名で呼ばれる者たち。
私が知る禍福と剣閃はもう巡礼者ではないが、まだ一人、明確に敵対してしまった人物がいる。
彼女が目の前に立ちふさがった時、私は戦えるか?
出会った頃ならいざ知らず、プラチから力を継承した今、恐らく真正面からでは勝負にもならない。対等に戦った末に均衡が崩れるならば、まだ良心も言い訳ができるだろう。
だが言い訳の余地などないまま、手に掛けることになれば?
私には……けれども、躊躇するなど許されない。
出陣に先立ち、プラチから受け継いだ力。あるいは、借り受けたとも言える。
未だ自分のものという実感に乏しく、それでいて力に付随する激情だけは忘れようにも忘れられない。否、逆なのだ。怒りがあり、憎しみがあり、だからこそエルフの森の先人たちはプラチナムという神に森の力を託した。
それがプラチで、私だ。
燃え尽きるその時まで森に巡っていた力は森亡き後に私へと集い、だが直後、プラチと分かたれたことで私との直接の繋がりは切れていた。
その力が、全てではないにせよ戻った今、当然のごとく先人たちが抱いた怒りも憎しみも、プラチの思いであると同時に私自身の思いかのように身に宿る。
緋色の、細く白い首。
あれを手折ることはきっと容易く、その容易さにこそ私は躊躇うだろう。
想像した瞬間、脳裏に浮かんだのは恐怖でも忌避感でもなく、憤りだった。
貴様は誰のために戦うのだと、私ではないはずの何者かが私の声で呻くかのように。
こんな気持ちを抱え込んだまま、そんな素振りは全く見せずにだちだち笑えていられたプラチの強さに圧倒されそうになる。……そう無理にでも苦笑して目を背けなければ、不確かな感情に押し潰されそうだった。
早く、早くと願ってしまう心中を自覚する。
剣を手に取り、迷いも何も捨て置いて駆け回れたら、どんなに気が楽か。
そして世界は、その願いを聞き届けたか。
いや、そんな荒唐無稽な話じゃなくて、単にそろそろ湖の反対岸が近付いてきたのだろう。
向かう岸辺に『何か』が見えてくるなり、誰からともなく警戒の度合いを一段強め、いち早く『何か』ではなく『誰か』だと見て取ったカレンがリューオに減速を命じつつ、その背から飛び降りた。
私たちもすぐさま続き、自分の足で歩きながら前方の影を見やる。
人影だ。
遠目には枝葉の乏しい立ち木にも見え、それだけで妖精王ではないと分かる。あの姿は遠目からでも見間違えることはないだろう。
であれば、いったい何者なのか。
共有しているはずの疑問を口にする者はいなかった。誰も答えを持たないことなど明白で、今は議論よりも警戒が必要な時だ。
奇襲にも対応できるよう、というより奇襲をさせないためにも周囲に気を配りながら、竜馬に跨っていた時とは比べ物にならない遅々たる歩みで人影に近付いていく。
一歩、また一歩と近付くほどに影は明瞭な形を取り、見えてくるものも増えてきた。
そして不意に、安堵が胸を撫でる。
目が合ったのだ。
私たちから見えているのだから、向こうからも当然見えている。その眼差しをようやく捉えられる距離まで来て、遂に危惧していた可能性が杞憂に終わったことを知った。
「……緋色じゃないな」
カレンが呟く。
同じことを考えていたのかと声を投げようとした時、言葉の続きが紡がれた。
「というより、あれは」
「知っているのですか?」
「警戒は、しておけ。きな臭くなってきた」
アクタからの問いに曖昧な答えを返し、歩速を上げるカレン。
その足取りに一瞬出遅れながら、言葉とは裏腹に警戒もそこそこに目を凝らしてしまった。
……男?
湖が沼と化したのを見て取り、伝言役だけ置いて立ち去ったのかと何気なく考える。すぐに否定する材料が見つかった。
帝都に来た伝令役を突き返してから、そう日数は経っていない。
宣戦布告をしたのだから最低限の猶予は与えたが、軍という巨大な組織をまとめて布陣し、また引き返すほどの時間はなかったはずだ。
それに……。
彼我の距離が縮まれば必然、霧が晴れるように見える景色も変わってくる。
あれは軍人の装いではない。
むしろ、……別の組織の、別の存在に見える。
「巡礼者?」
見慣れた外套だ。
しかし違和感がある。
なんだったかと目を凝らし続け、男の表情まで見えてきた頃、ようやく思い至った。
巡礼者の外套を着ていながら、あの男は顔を隠していない。フードを目深に被ったとて私やカレン相手に隠せたものではないが、そもそも被ってもいないのは奇妙な話だ。
まさか周りに人がいないからと気を抜いていたか?
そんな馬鹿な話もないだろう。
ここは戦場に指定された場所で、予想していた景色とは多分に趣きが異なるものの、いつ敵と遭遇してもおかしくないと考えるべきだ。
それなのに気を抜く? そんなのは伝言役にすらなれない。立て看板でも残す方がよほど建設的だろう。
だったら、あの男は立て看板以下の無能か?
あるいは、全く別の意図を持って立つ者か?
視線に込められた思惑すらも読み取れそうな距離にまで近付いて、カレンが足を止めた。一秒と遅れることなく、私たちもそれに倣う。
「妙なことになっているらしいな」
カレンが吐き捨てた。
男は、笑ってみせた。
「そうか? 俺様は聞いてた通りなんだがな、禍福の兄貴よ」
嘲るような、それでいて清々しい笑い声。
声を聞き、言葉を脳裏に転がし、ようやく思い出した。
私は、私たちは、その男を知っている。
「やはり見えていたか、貴様」
「そう怒らないでくれよ? 巡礼者を名乗る獣化症の女とエルフの女だ。それが緋色の錫杖持った巡礼者と連れ立ってるってのに、誰が馬鹿正直に見たもん話すかって話でな」
男は苦笑し、次いで笑みを消し去った。
「弱者は弱者らしく、見えない聞こえないって頭抱えるのが生きる術さ」
弱者だとか強者だとか。
そういえば、そんなことを言う男が一人いた。
「でもって、弱者には弱者なりの戦い方ってもんがある。強き者に従い、そのお零れを頂くことに躊躇ってるようじゃあ、いつまでも弱いままなんだ」
男は、そして剣を抜く。
「俺様はロック・オルサ。あんたの代わりに剣閃の名で呼ばれ、これからは勇者と呼ばれる男だ」




