七十六話 魔王の娘、その名も
皇宮は帝都を見下ろす高台にあった。
何も帝室が馬鹿や煙の類いというわけではなく、そもそも高台側で帝都が始まり、農耕の時代に平らで広い土地を求めて低地に街が作られていったのだとか。
歴史を紐解けば更に小難しい話が幾らでも出てくるようだが、兎にも角にも、皇宮の外寄りの廊下を歩いていて帝都の街並みを見下ろせるのは、そういった事情があってのことらしい。
「今は別邸にてお過ごしいただいているが、あくまで帝室の方々の御住まいであることを忘れないでもらいたい」
それはキョロキョロと辺りを見回しながら歩く私への小言だろうか。
……と思ったが、どうやら違ったようだ。
好奇心丸出しだったであろう私とは対照的な、警戒と軽蔑を隠しもせずあちこち目を光らせている人物がいた。グレイだ。
「ヒューム個人に警戒すべき戦闘能力はないと分かっていても、ここはあくまで最大勢力たる帝国の本拠なのじゃ。事情がどうあれ、お主がこちらに敵意を見せる以上、こちらも警戒を怠るわけにはいかんのじゃ」
「敵意を見せているつもりはないが」
「曲がりなりにも神の一人、実力はともかく格では魔王に肩を並べる存在だ。それに対して大上段に構える以上、不敬と見られても文句は言えんだろう」
宰相と呼ばれた男も、娘に冷たく言われたら感じるところがあるのか。
「……留意する」
苦々しい声音で返すと、それきり小言も言わなくなってしまった。お陰で空気が悪い。
「私は別に構わないけどな。偉いからと、力があるからと、相手に敬意を強要するのは愚か者のすることだ。今の私から要求するのは、ルネたちの安全と快適だけだよ」
思わぬ形で帝都に来て、そろそろ数時間が経とうとしている。
魔王の都合が合わなかったわけではなく、上手いこと人払いする調整に時間を要したのだ。
その策の一つであり、私としても郷に入っては郷に従えではないが、帝国の中枢に来たからには帝国流に振る舞わなければいけない一例として、竜馬の扱いがあった。
ルネとリューオとフシュカ。
メイディーイル以来ともに旅をしてきた三頭の竜馬は今、帝都に居を構える軍に預けている。いくらなんでも皇宮内を竜馬が歩き回るのは問題があって、これを許せば軍や他の帝国人からも信頼を損なう結果になると言われ、泣く泣く呑んだ要求だった。
とはいえ、竜馬にも餌や運動は必要だ。
私たちと一緒にいては満足に動き回れないし、そこは扱いにも慣れている専門の兵士に任せた方がいいだろう。……もっとも、他の竜馬より自由を知ってしまっているのだと、そこは口を酸っぱくして言っておいたが。
「権威より友や仲間だな、私は。それがエルフ流でもある」
森長は王ではない。
支配者ではなく代表者であり、民に向かってふんぞり返るのではなく、むしろ率先して汗水流すべき立場にある。
「だからといって敬意がなかったわけでもないだろう? 公爵家の、それも当主に平然と口を利く小娘は帝国にいない。倣えとは言わんが、立場が変われば見える景色も変わることは覚えておくべきだ」
「勿論だとも。だから頑張ってふんぞり返ってるんだろ?」
「それがエレカの良いところでもあるちが、お前がふんぞり返ってみせるべき人物の前で、それを言ったら元も子もないち。そこにいる男はカレンの親じゃなくて、帝国の裏切り者なんだち」
「カレンじゃなくて、アーレンハートな」
「私はまっだ認めってないちー」
妙にリズミカルに言うプラチに、グレイが何やらニヤニヤと視線を投げていた。なんなんだろう。カレンは不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。一体なんなんだ。
なんとか見える横顔には、形容し難い複雑な表情がある。
「カレン?」
「無駄話はもういいだろう」
怒っている、わけではなさそうだけど。
拗ねている……ところなんて見たことないし、全く何が何やらだ。
「さて、そろそろ無駄話は終わりにしていただきたい」
ピリリとした声とともに足を止めたオイゲンは、眼前に待ち構える扉を視線で示す。
「この先が執務室。今はここに……ここと繋がった空間に、魔王たちがいる」
「義眼の力ち?」
「恐らく、なのじゃ。主の忘れ形見、その身を削ってでも守るはずじゃ」
「話は終わったか?」
彼には理解の及ばない話だっただろうに、オイゲンは気にする素振りを覗かせずに言った。プラチとグレイは無言を答えとする。
「であれば、あとはあなた方の話だ。私は関与しない」
そう言って扉を開け、自身は廊下側に立ったまま私たちを見据える。
その視線に応え、開け放たれた扉から執務室に一歩踏み込んだ。
――と、そこに待っていたのは。
「お久しぶりです、皆様。予定外もありましたが、こうして再びお会いできること喜ばしく思います」
漆黒の翼と髪を持つ魔物の女、アクタと。
「待たせて悪かったのだ。待っておったぞ。汝、新しき神プラチナムよ」
そして、小さな女の子だった。
アクタの傍ら、一目見た瞬間には椅子に腰掛けているのかと思ったが、そうではない。己の足で立っていながら、その頭はアクタの胸に達するかどうかといった高さ。
ティルの姿をしたグレイよりもなお小さな少女が、私のことを見上げて呼んだ。
新しき神、と。
「お父様に味方したとかいうグレーも一緒のようだな。最期まで戦わなかった不義理には思うところもあるのだが、まぁよい。よいのだ。妾は寛大なのだからな。こうして時代を超えて魔王に協力しようというのだし、過去のことは水に流そうではないか」
続けてグレイにも声を飛ばすが、やはり普通の女の子にしか見えない。
細い首筋を覗かせる赤茶けた髪も、くりくりとした黒く大きな瞳も、魔王の名から想像する異質なものを抱かせはしなかった。
「そこの娘は、シュトラウスの娘は交換条件に過ぎなかったのだが、こうして二人もの神を招き入れるに至ったのだから僥倖なのだ。目的のために戦力はあって困るものでなし、よろしく頼むぞ」
軽やかな、どこか悪戯の秘密会議でも開くかのような声音は姿によく合っていて。
だからこそ、どうしようもなく間違っている気がしてしまうのだろう。
「我々は味方同士ではないかもしれぬ。シュトラウスとて、帝室とて同じこと。しかし目的は変わらぬであろう」
無邪気なまでの黒い瞳が、無邪気なままに笑っていた。
「オール・ルージュ・オールドーズを、お父様の仇を殺すのだ。この世に、欠片たりとも残してはおかぬ。その時まで、諸君、どうか手を取り合おうではないか」
幼い姿には到底似合わぬ台詞を、覚悟さえも感じさせない声音で微笑とともに紡ぐ。
しかし、そこに覚悟がないわけがない。
否。
あるいは憎悪と呼ぶべき、根深く力強い感情がないはずがなかった。
「その前に、お主は名乗るべきなのじゃ?」
「おん? 名乗りだと? 妾に今更そんなものが必要だというのか」
「儂らは魔王のもとに招かれたのじゃ。だが、魔王は死んだはずじゃ。ゆえに問うているに過ぎないのじゃ」
「なるほど、なるほどな。つまりこういうわけか」
グレイと彼女、二人の少女が睨み合う。
「妾に魔王の資格なしと、そう言いたいわけだな?」
「名乗れと言っただけなのじゃ」
「然り、然り。なれば口上の一つも上げてやるのだ。この妾が、口上を!」
今にも高笑いしそうな勢いのあちらに対し、こちらのグレイはどうしたのやら。
不愉快というより、不機嫌。苛立ちにも似た感情をありありと瞳に浮かべている。幼い姿も、底抜けの態度も似た者同士の相手に、一体なにを思っているのか。
「妾こそお父様の、魔王の娘にして跡継ぎ。その名もマオなのだ! 魔王と呼ばれてはややこしいゆえ、二代目とでもマオとでも好きに呼ぶといい! ハッハッハ!」
遂に高笑いした自称魔王、あるいは二代目魔王ことマオ。
それに誰より早く声を返したのは、グレイではなくカレンだった。
「失礼、二代目」
「ん? 汝はシュトラウスの娘か。なんだ、なんなのだ?」
「シュトラウスの娘であることを知られるのは何かとまずいので。俺のことはアーレンハートと」
「うむ。してアーレンハート、……アーレンハート? まぁよいのだ。して、なんなのだ?」
「あなたには名があるのですね」
急に何を言い出すんだ?
話の流れが見えないままマオの表情を見やるが、向こうも首を傾げていた。
「それがどうしたのだ? どうかしたのか?」
「俺も一時的とはいえ教会に身を置いていた。魔王は、ただ魔王と呼ばれていたもので」
「なるほど、なるほどな。確かにお父様は魔王であった。ただ魔王であったのだ。しかし、妾は二代目なのだ、魔王の一人娘なのだ。この意味が分かるか? 分かるかっ!?」
「はて」
はて。
あろうことか、そのたった一言で切り捨てたカレンに、マオは目を丸くする。いや元々かなりまん丸の目をしているんだけど、驚いたのか呆れたのか、ただでさえ大きな目を目一杯に見開いてみせた。
「公爵の娘だか到達者だか知らんが、とんだ痴れ者なのだ。とことん愚か者なのだ。無知で蒙昧で恥知らずなのだ。魔王の娘はマオを名乗るのが常識、これは有史以来の常識なのだ!」
そうなのか?
そもそも魔王に娘がいること自体知らなかった私には、グレイに目配せする以外の選択肢を持たなかった。
そして見やった先に現実を認め、早くも後悔する。
グレイは天を仰いでいた。
再び自称二代目のマオに視線を戻せば、傍らに立つアクタが額に手をやっているのも見えてしまう。嘘だろう?
「二代目」
「親愛を込めてマオと呼んでもいいのだ、新しき神よ」
「ならマオ、私のことはエレカと」
「うむ、うむ! してエレカ、汝は何が聞きたい? 何が聞きたいのだっ?」
「恥ずかしながら、私も前の時代を知らぬ身だ。世界に与えられた最低限の知識はあれど、知らないことも多い」
「うむ? そうなのか? そうだったのか?」
「そうだったのだ」
「そうだったのだな」
なんだ、この会話。
頭が痛くなってきた。
これ以上の現実を認めるのが怖くなってくる。
とはいえ、聞かずにおける話でもない。なにせ耳元で、プラチが囁いているのだから。
「貴様の話によれば――」
囁かれる声に従い、私は声を紡ぐのみである。
「マオの話によれば、マオの父の前にも魔王がいて、マオ以外にも魔王の娘がいたことになる。前の時代における魔王と勇者の戦いしか知らぬ私に、どうかその常識的な話を教えてもらいたい」
皮肉たっぷりのプラチの言葉を、四苦八苦しながら翻訳する。
努力の甲斐あってか機嫌を損ねることもなく、マオは高らかに笑いながら答えてくれた。
「書物にそう記してあったのだ!」
「……書物?」
「そう、そうなのだ! お父様が妾に与えてくれた、歴史上幾度となく繰り返されてきた魔王と勇者の戦いを記した書物に。その全てではないのだが、幾つかの魔王には娘がおってな。その魔王の娘は皆、マオと呼ばれていたのだ! あるいは、それに近い名でな!」
ゆえに、ゆえにこそ、とマオが宣言する。
「妾もマオを名乗るのが、魔王の娘としての作法であろう! 違うか? 違わんであろう!」




