七十四話 再会
魔眼王が開いた『瞳』の奥には、祠に初めて踏み込んだ時と同じ闇が広がっていた。
それは実のところ、瞳ではないし闇でもないのだろう。
しかし正しく表現する方法を、私は持たなかった。
帝都へと続く道なのだから、そのまま道と呼べばいいのかもしれない。とはいえ私の知る道とは、前と後ろ、あるいは左や横があるものだった。
そこには、延々と闇ばかりが続く。
ルネたちが怯えてしまったから、珍しく私が全員を先導する形で前を歩いていた。
そうして誰も前にいないまま進んでいると、道と呼べるものがないことが嫌でも分かる。
迷わず足を運べているのは、ただ踏み外せばまずいと本能的に直感させる何かが『前』以外にはあったからだ。
「流石は魔眼王、空間が安定しているのじゃ」
「普通は違うのか? というより、他にもこんなことできる奴がいると?」
後方、グレイの声にカレンが返している。
私はといえば、話すだけの余裕がなかった。耳を軽く傾け、あとは足元に集中だ。
「限られた存在ではあるが、魔眼族にはこうして道を開く力を持つ者がいたのじゃ。アクタが使っていた深淵の義眼も、そういう魔眼族の協力を得て作られた偽の魔眼じゃ」
「なるほどな。あいつもこんな道を通って俺たちの前に出てきたわけだ。……そりゃあ、出た先の状況なんて分からないだろうな」
「それは儂らも同じなのじゃ。魔眼王が上手く繋いでくれているといいのじゃ……」
その不穏な言葉は、今だけは聞きたくなかった。
「……本当に、そうだといいな」
「ん? エレカ? どうかしたのか?」
「出口が見えてきたんだち。鬼が出るか蛇が出るか……もとい、どこに出るのやら~ち」
相変わらず肩にいるプラチは楽しげに話すが、私としては気が気じゃない。
向かう先、祠の中で見た明かりと似通った光がぼんやり灯っている。あそこが出口なのか。少なくともプラチはそう言った。
しかし、あまりに常識外れの現状である。
世界がその表情をガラリと変えてしまった今、かつての常識がどこまで通用するかは未知数だ。私が常識と信じていたものの少なくない部分が、既に覆されているかもしれない。
魔眼王が、神や到達者なら空くらい飛べるのが常識だと、帝都上空に道を繋げてやいないか。
そういう細かいところを話す余裕もなく、話せる空気でもなく、流されるままに今へと至ってしまった。良くない。これは良くない。気を引き締め直す必要がある。
「プラチは空なんて飛べないよな?」
まずは軽く冗談を交わすところから。
飛べるはずないんだち。
そう可愛らしく答えてくれる未来を待っていたのに。
「鳥のようには飛べないちが、まぁ飛べるち。万が一の時は頼るんだち」
梯子を外された気分だ。
世界の常識とは、斯くも脆く儚いものだったのか。
覚悟を決める。私が足を止めれば……否、迷わせるだけでルネたちも迷い、踏み外してはいけないあちら側に踏み込んでしまうかもしれない。
光は、もう目前だった。
万が一の時は、そうだな、前向きに捉えよう。プラチを頼って、ふわりと着地すればいい。
そうしているうちに私の左足が光のすぐ手前を踏んで、そして。
――。
右足が、確かに地面を踏み締めた。
硬い。土や草ではない。
そして平らだ。岩でもないらしい。
視界を包み込み、そのまま覆い尽くしてしまった光が晴れていく。
闇に慣れてしまった目が、ようやく現実の明るさに慣れてきたのだ。
耳も同じく。
静けさの向こうに、カツカツと響く規則的な音。足音か。靴を履いた足が硬い床を踏み鳴らす音だ。
感じると、鮮明になる。
そこは広間だった。
床や壁には切り出された岩が縦横きっちり敷き詰められ、境目を足先でなぞってみても引っ掛かりがない。相当に優れた技工と、それを実現させる財力か権力。
権力。
あぁ、そういうことか。
足音が止まる。床から視線を持ち上げると、ちょうど目が合った。知らない顔だ。だけど何者かは、おおよそ見当が付く。
「……ッ!? なっ、何者だ! 貴様ら、どこから入った!?」
驚きと怒り。
複雑なそれらを表情に溶かし込んだ男は、どこか見覚えのある服を着ていた。
記憶とは少し違ったために確信は持てなかったが、正しく帝都に辿り着けたのだと考えれば、答えは自ずから導き出される。
「ん、どうした……と、これは面倒なことになったな」
背後から竜馬に続いて出てきたカレンが他人事のように呟く。
目の前では、軍服らしきものを着込んだ男が目を丸くしながらも大声で叫んだ。
「侵入者だ! 侵入者がいるぞ!」
その言葉は当然、私たちに向けられたものではない。
では、誰に向けたものなのか。
そこまで考えてようやく、男は見えているのに、男の周囲が見えないことに気が付いた。壁だ。男の周囲に壁がある……というより、ちょうど広間の壁が途切れたところに男が立っている。
私たちが出てきたこちら側が室内で、向こう側は廊下。
見えない廊下の奥が俄に騒がしくなるのを感じつつ、頭の中で巡るのは奇妙な考えだった。
恐らくだが、この場を突破するのは容易い。しかし突破することが正解なのか。目の前の敵を倒し、今この瞬間だけの身の安全を守ることが本当に――。
我ながら笑ってしまう。
当然のように目の前の人物を敵と定め、力で解決する選択肢を第一に考えていたのだ。
「……エレカ?」
肩からの不安げな声に首を振って返す。
と、反対側に気配を感じた。カレンだ。喧騒に紛れ込むかのように足音を殺し、すぐ傍の私にだけ聞こえる声量で口を開く。
「ここは皇宮、帝室の住まう宮殿だ。見たところ近衛とは別の部隊が警備していたようだが、帝室を蔑ろにして帝国を味方には付けられない。それは父上も承知のことだろう。万が一を考えれば――」
「分かってる。荒事はなしだ。グレイにも伝えてくれ」
囁き合う私たちに、警備兵は何を思っただろうか。
しかし、事情をよく知るカレンに任せるわけにもいかない理由がある。カレンの姿は、ヒュームにとって毒だろう。私もエルフと、彼らにしてみれば未知にも等しい存在なのだろうが、差し迫った脅威として感じてきたであろう獣化症に比べたらマシだ。
なんにしたところで、向こうからも事情を知る立場の人物を引きずり出さなければ始まらない。
と、不意に耳元で声がした。消え入るように微かな声。
「それならエレカ、私に耳と口を貸すち。策……というほどでもないちが、相手が曲がりなりにも魔王を名乗るなら無視はできないはずなんだち」
耳と口?
囁かれた言葉に首を傾げそうになるが、視線の先では警備兵が一挙手一投足を見落とすまいと目を凝らしている。向こうが動いてこないのは、私たちが動いていないからだ。こちらが不用意に動けば、向こうにも動かざるを得ない状況を与えてしまうことになる。
言われた半分……、耳だけを貸していると、プラチは得意げな声で続けた。
「今から言う私の言葉をなぞるんだち。奴らがどこまで魔王を信奉しているかは知らんちが、魔王の耳にまで届いても大丈夫なよう教えるち」
言葉をなぞる。
それで耳だけでなく、口も貸せと言ったのか。
何を言わせるつもりか知らないが、どうあれ力に任せた解決でないなら断る理由もない。
「私は――」
耳元ですらすらと紡がれる言葉は、不思議なほどすんなりと耳の奥に染み込んでいく。
一通り聞き終え、空で繰り返すのもなんら苦ではなかった。
今か今かと緊張感を高めつつある警備兵に向け、そうして私が口を開く。
「私はエレカ・プラチナム・アーレンハート。魔王の招きに応じ、馳せ参じた。貴様らが何者か、あるいはここがどのような地か興味はない」
言葉は、どこまでも露骨なものだった。
己には地位がある。配下ではなく客人の類いであり、彼らが魔王の配下なのだとしたら、私たちへの狼藉は看過できないものになるだろう。
言葉がどこまで響くかは未知数だ。
私にできるのは、小娘のそれでしかない声に精一杯の威厳を塗りたくり、虚勢でもなんでも偉そうにふんぞり返ってみせることだけ。
「して、貴様らはそこで何をしている? 私は来た。早く魔王に伝えたらどうか」
警備兵の間に動揺が広がる。
出入り口を挟んで対峙する彼らを見据え、置くように言葉を紡ぎ続けた。
「それとも何か? 貴様らは私を待たせ、あまつさえ敵意を示すことの意味を知った上で、このような睨み合いを続けるつもりか?」
ふん、とプラチがカレンにするように鼻を鳴らしてみせる。
伊達にもう一人の私じゃない。
染み込んでくる声を言葉に変換する作業は何一つ難しくなくて、私の声もすらすらと流れるように零れていく。
「そうだな……、あと五分。あと五分だけ待ってやろう。それでも睨み合いを続けるつもりなら、仕方ないが自ら魔王を探しに行くとする。手段を選ぶ気はない。ゆえに走れ」
熱が入ったのか、プラチの声が大きくなる。
それを覆い隠すように私も声を張り上げ、最後の言葉を口にした。
「今より五分、それが貴様らに残された寿命だと心得るち!」
動揺と喧騒が支配していた廊下と室内に、しんと静寂が満ちる。
頭の中、もう耳には聞こえていないはずの声が木霊していた。
心得るち。
心得る、ち……。
顔から火が出そうになる。しまった。最後の最後で。
しかし取り乱すわけにもいかず、せめて聞き間違いか何かと思ってくれと祈る頭の奥に、その時新たな声が響いてきた。
「これは一体、なんの騒ぎか」
男の声。
若くはない、然りとて老いてもいないそれ。
その声が聞こえた直後、努めて意識の外に追いやろうとしていたカレンの動きを、それでも視界の端に捉えてしまう。
それだけで声の主が何者であるか分かってしまった。
「さ……宰相!」
まだ姿の見えぬ男に向かって、廊下の警備兵が叫ぶ。
彼らは口々に、辛うじて聞き取れるかどうかといった勢いで、今しがた起きたことを捲し立てていた。
吹き溢れたような喧騒の中、聞こえないはずの足音を目が捉える。
声から想像できた、若くもなければ老いてもいない、壮年の男だった。
「これはこれは、シュトラウス閣下ではありませんか」
口火を切ったのは、なんとカレンだ。
露悪的なまでの声にぎょっとするも、失態を演じたばかりで何をどうすればいいのか頭が回らない。回ったとて、止めるという判断には至らなかっただろうが。
「お前は……いや。何者だ、貴様は」
「いやはや宰相とは、随分と出世したものですね」
「話にならんな」
「それはこちらの台詞ではありませんか。我が主はこの通り、そちらの招きに応じてやってきたのです。だというのに宰相、あなたが何も知らぬとはどういうことでしょう」
「仔細、承知している」
噛み合わないまま話が進む。
咄嗟に紡いだにしては淀みないカレンの言葉と、それを受け止めているようで全く聞いてもいない男。あれが恐らく、オイゲン・シュトラウス。
この、なんでも娘と父であるらしい二人の間に、いったい何が共有されているのやら。
「しかし」
と、話の流れを断ち切ったのはオイゲンの方だった。
「どうやら手違いがあったようだ。魔王様は滅多なことでは我々の前に姿を見せず、配下の者も不手際が多くていけない。非礼があったなら詫びるが、そちらにしても事情を汲んでいただきたいものだ」
「結構。ならば宰相、その配下とやらに至急手配を」
「無論。ただし時間がかかる。その間、手狭で申し訳ないが一室用意するとしよう」
打てば響く。
終わってみれば、なんとも分かりやすい構図だった。
この二人、兵たちの前で一芝居打ったのか。互いの表情さえ見る間もなく状況を察し、嘘と方便でぴったり息を合わせてみせたらしい。
「だそうです。さぁ」
恭しく私の前で腰を低くするカレンに、だから悪戯したくなってしまった。
「仲が良いんだな」
私にも父がいた。
いた、と語らなければいけない不幸はあるが、思い返せば楽しいことも楽しくないこともあった。父と仲が良いと言われるのは、父に似てきたと言われるのと並ぶ、なんとも具合が悪い言葉なのだ。
耳元で囁いた私に、カレンは口をへの字に曲げて返す。
「互いの悪いところを知り尽くしているだけだ。体裁を整えることにかけて、あれほど優れた人間はいない」
「助かったよ」
「そもそもはお前のお陰だ」
そうやって言葉を交わせるのも限られた時間のことだ。
オイゲンこと宰相が直々に私たちを案内する……という状況を演じてくれるらしく、あまり待たせては何かと都合が悪い。
だから秘密の会話も、それで終わるはずだった。
身を離す寸前、カレンが意地悪に口を開かなければ。
「と、そうだ。可愛かったぞ、心得るち」
顔から火が出た。
言い返そうにもカレンは素知らぬ顔で歩き出す。
必然、私も突っ立ったままではいられない。重い足取りで父娘を追おうとすると、肩で気遣わしげな声が零された。
「大丈夫だち、ほんとに可愛かったち。似合ってたち」
誰も似合いたくなんかないよ。
そりゃ、肩に座れるサイズのプラチには似合うかもしれないけど。
威厳もへったくれも捨て去ってため息をつく。
やるべきはやった。
あとは野となれ山となれ、だ。




