七十二話 湖底の待ち人
すり鉢状の湖底。
もとい、今では谷底となったそこに。
古ぼけてはいながらも、立派な佇まいを今に残す建造物があった。
ただ、かつての姿を知ることは叶わない。
かなりの傾斜になっているお陰で屋根まで見下ろせた建造物は、幅も奥行きも十メートルほど。
明らかに人の手で建てられたものだが、それでもなお人工物であった痕跡を隠すかのように、屋根から足元までびっしりと苔で覆われていたのだ。
無論、苔にそんな意図はないだろう。
竜馬に跨っていては恐怖で身が竦んでしまったであろう急斜面を慎重に下りながら、気を抜けば足を取られそうになる苔たちを見下ろす。
立ち込めた湿気が肌に纏わり付くようだった。
一度は枯れたと思しき水脈から、これほどの水を吸い上げるか。
「祠に浸水してないか不安になるとはな」
干魃とはなんだったのか。
メイディーイルからもイスネアからも近いとは言い難い土地だが、存在を知っていたなら水源としての再利用を考えたはずだ。忘れ去られていたのかもしれない。
だとしたら、今度はアクタが合流地点に指定した理由が謎になる。
まぁどちらにせよ、答えはすぐそこだ。まさか祠から足が生え、そのまま走って逃げるなんてこともなかろう。
「一歩踏み込んだ途端に亡霊が、なんて可能性はないのじゃ?」
「そんなことあるわけないだろう」
珍しく真剣な声音のグレイだったが、カレンは知ってか知らでかぞんざいに切って捨てる。
ていうか、亡霊の心配をするのもどうなんだ。
祠とは言うものの実際には記念碑に近いらしいし、そもそも亡霊って……。
いや、だけど魔物だのなんだのが当たり前に闊歩するようになってきた世界に、今までの常識が通用すると思う方が間違っているのか。
「おいエレカ、アホの言うこと真に受けるんじゃない」
前方からの呆れ声で、はっと我に返る。
アホ呼ばわりの是非はさておき、頭の上には空があって足の下には地面がある。常識とはそういうものだ。ごく一部が歪んで別物になってしまっても、ほとんど全ての常識はそのまま残っている。
心配しすぎて空と地の区別も付かなくなる方が問題だ。
「けど、気は配っておくべきだち」
「プラチまで言うか」
「エレカは気付かないんだち? さっきからじめじめと陰湿な気配が漂ってるち」
「そりゃあ、これだけの苔だ。湿気くらい立ち込めるだろうさ」
「湿気?」
と、怪訝そうな声を挟んできたのはカレンだった。
「俺はむしろ、こんなに苔が生えている割には乾いていると、そう思っていたところなんだが」
じわりと嫌な汗が滲む。
それはカレンも同じだったようで、見合わせた顔には緊張の色があった。
「亡霊はともかく、警戒はすべきらしいな」
「あぁ。ここからは私が前に立つよ」
祠はぽっかりと口を開けている。
しかし、そこに待つのは闇だ。苔が覆い尽くす外観から見て取れた通り、天窓どころか普通の窓すらない。たとえ昼でも、太陽の光が届きそうにはなかった。
夜目が利くカレンとて、完全な闇には太刀打ちできないだろう。
単なる夜目とは全く別物らしい私の目にも、そこには闇しか見えない。
とはいえ、私の肩にはプラチがいる。単純計算、視界は二倍。ティルの姿をしたグレイの背中に隠れるのも嫌だし、私が先頭に立つのが一番だ。
「……と、そうだ。お前たちは外で待っていてくれ」
当たり前のように付いてくるつもりだったらしいルネたちに声を投げ、その場に留まらせる。
狭い祠の中で、竜馬の四足歩行は不利だ。出口も限られている。中で何かあったら逃げ遅れる可能性があるし、あまり言いたくはないが、後ろに三頭ぞろぞろと歩かれていたら邪魔になるかもしれない。
ふしゅん……と寂しそうに鳴くルネに視線だけで念を押し、また前を見やる。
闇は依然、闇のまま。
けれど近付き、よくよく目を凝らすと、闇にも色が見えてくる。
どこまでも煮詰めたかのような、限りなく黒に近い緑。苔で覆われた壁の色か。
一歩踏み込んでみたら、やはりそうだ。正面に壁がある。手を伸ばせば届きそう。微かな空気の流れを左右に感じる。
「分かれ道だ。どうする?」
「左ち」
「理由は?」
訊ねる声の主はカレンだった。
「エレカは右利きち」
「なるほどな」
後ろから得心の声を返してくる。
私も少しずつ分かってきた。何が、と自問しても今一判然としないが、何かが分かるようになってきた。
ともあれプラチの指示通り、左に足を向ける。
ただ、こうなると次の曲がり角は右側の確率が高い。祠は、空から見下ろすことができたなら、だいたい四角形だったはずだ。入ってすぐに左折し、そのまま角に行き当たれば、残る道は右になる。行き止まりは知らない。
プラチもそれには気付いていて、器用に首の後ろを通って右肩に移動する。
そうこうしているうち、右手に見えていた苔の壁が消えた。
通路。
違うな。壁に行き当たったわけでもない。
「どうした?」
背後から、またカレンの声。
「右手に空間。ただ、正面にも壁はない」
「広間に出たか? いや、だとしたら廊下が短すぎる」
カレンも祠の内部構造までは知らないか。
まぁ当然か、と首を振りかけた時、そのカレンがはっきりとした声で言った。
「衝立かもしれない」
「衝立?」
「この祠は確かな用途があったわけじゃない。人が出入りする建物なら入り口は通りやすくするんだろうが、ある意味ここは放置される前提で建てられたものだ」
それと衝立と、どう関係してくるのだろう。
カレンが言葉を組み立てている間に、私も思考を回した。少し想像が膨らむ。
「そういえば門がなかった。あれは壊れたんじゃなくて」
「元々なかったんだろう。残骸もなかった」
「けど、それだと中が野晒し同然なのじゃ。この地形は、吹き下ろす風が中まで雪崩れ込みそうじゃ」
「だから衝立……と表現するのは間違っているとは思うが、雨風を中まで入れないために壁を作ったのかもしれない。普通の建物なら邪魔でしかないが――」
「どうせ出入りしない入り口だから、無駄に遠回りする構造でも問題ないと」
「それでも大帝の偉業を称える祠だ。開かずの門というわけにもいかなかったんだろう」
どこまでも想像でしかない。
しかし、納得できる答えではある。
闇は、いつだって人を臆病にさせるものだ。一応は味方であるはずのアクタと約束した場所だというのに、そして構造の理由を知ったところで意味などないというのに、分からないというだけで、見えないというだけで色々考え込んでしまう。
自覚しながらも訊ねずにはいられなかった。
「プラチはどう思う?」
同意と安心を求めた言葉に、けれど返されたのは沈黙だった。
「……」
「プラチ?」
「…………。……エレカ」
「ん?」
「エレカには、この闇はどう見えているち?」
闇が、どう見えているか?
「そりゃまぁ、暗いな……と」
「グレイ」
「同じじゃ。やけに暗いのじゃ。それほどマナが乏しいのじゃ?」
「けど、あれだけの苔ち。まともな土地ではないはずなんだち」
「……ふむ」
どういうことだろう。
水脈を掘り出した、人工的な湖。それが使われなくなって、大切な人の偉業を称えるための祠が建てられた。
ということは、確かに湖は枯れたのだ。
干魃の時代……つまりここ何年かで枯れたわけじゃない。当然だろう。水が満ちたままだったら、祠なんて建てられない。
かつて水脈が枯れ、帝都はここから離れたところにある。
有り体に言って、用済みとなった土地だ。
偉業を称えたとは言うが、大帝はかなり別格の意味を持つ存在らしい。無用の長物になっても捨て置くわけにいかず、体裁を整えるために何かせざるを得なかったのが実情かもしれない。
そんな土地に、これほど立派に苔が生えるほどの水か。
人に使われなくなって水脈が息を吹き返した、と考えるのが自然だろう。
しかし、つい今しがたのことだ。
――こんなに苔が生えている割には乾いている。
カレンが、そう言ったのは。
そして脳裏によぎる、荒野に生まれた花畑。
「敵か? また妖精王が?」
闇に誘われた疑念が鎌首をもたげた、その直後だった。
ぶぅん、と虫の羽音に似た音が聞こえたかと思えば、瞬く間に音が連鎖していく。無数の羽虫が飛び立ったかのような。そんなことは起きていないのに、我知らず腕を抱いていた。
残響漂う祠の中に、あるいは羽音めいた音がそう思わせたのか、蛍に似た光が幾つも浮かび上がってくる。
ただ、蛍なんて可愛らしい大きさではない。
人の頭よりも大きな光の球が数十、あるいは数百と縦横規則的に並ぶ。
その全てが、そして開かれた。
「……ッ!?」
目玉だ、目玉、それら全てが。
背筋を駆け上がる戦慄。吐き気。本能的な恐怖。ぐちゃぐちゃの感情が、だからこそ左腰の鞘に手を伸ばさせた。
「待つのじゃ! これは敵じゃないのじゃっ!」
もし、右肩にプラチがいなければ。
無意識に伸ばそうとした右腕に、普段とは違う重みを感じなければ。
グレイの叫び声にも気付かず、一心不乱に剣を振り回していたかもしれない。
ぎょろりと無数の目玉が私たちを見据える祠の中に、ようやく聞き覚えのない声が響き渡った。
「あぁぁ、申し訳ありません……。試すような真似を、私がしてしまったばかりに…………」
甲高くも、禍々しい響き。
谷底を通り抜ける突風のように、何億何兆という虫が祠の中を飛び交えば、こんな響きをもたらすのだろうか。
感情ではなく本能を揺さぶる、その不愉快極まりない声は、祠の奥から聞こえてきた。
それを教えるかのごとく、光を放つ目玉たちが一斉に動く。
ひぃ、と情けない声を漏らした気がしたけど、もしかしたら喉で潰れて声にすらできなかったかもしれない。
「どうぞ……、こちらへ…………。話は、アクタより伺っております……」
味方、なのか。
分からない。
……分からなかった振りをすれば、現実も変わってくれるかと期待したのか。
どうあれ、目を逸らせない事実が一つあった。
この目玉たちは、ずっと私たちを見ていたのだ。
谷と化した湖に足を踏み入れた時から、きっと――。




