六十七話 我関せずと、それは嘲う
緋色が口を開いたのは、かなりの時間が過ぎた頃のことだ。
「確かに、わたくしは帝都にもメイディーイルにも行ってはいません」
沈黙を貫くかに思えた彼女が話そうとしてくれた理由がなんだったのかは定かじゃない。
殴って口を割らせるかとカレンが真顔で言い出し、それでは満足に喋れなくなると言い出したグレイは剣の刃でちらりと陽の光を反射させ、もっと穏便な方法があると二人を窘めたはずのプラチの声には言葉とは裏腹の不穏な響きがあった。
そのどれかが効いたのか、あるいは一々狼狽えてしまった私に同情してくれたのか、それとも――。
なんでもそうだ。
よく躾けられた獣は主人の感情を察することに長ける。
ずっと大人しくしていた竜馬たち、中でもフシュカがそわそわと落ち着きをなくしてきたのを見て、何か感じるところがあったのかもしれない。
「わたくしが向かった先はラナッタ支部です。禍福なら――」
「その名は捨てた」
「……カレンなら分かるでしょう?」
「あぁ」
ぞんざいに頷くと、カレンは私の方を見て言葉を付け加えた。
「ここから北東にあるオールドーズの……いや、一応教会と言っておくべきか? とにかく、その支部だ。そこはもう帝国の領地じゃない。他の国の領地ってわけでもないが、竜寧山脈と程よい距離感の立地だ。主には帝国領との中継地になっている」
「中継地?」
なんの、とは口にするまでもなかった。
分からないままに想像はできたし、仮にできなくてもすぐに答えは返される。
「竜寧山脈それ自体を天然の要塞とした向こう側に、教会の本拠地があると聞く。俺も実態は知らない。だが、竜寧山脈の北の端を抜けるようにして運び出された物資は、ラナッタ支部を経由して世界全土に送られる。要するに――」
「枢機卿の意思が最も早く伝えられる場所、それがラナッタ支部です。わたくしはそこで魔王の復活と、シュトラウス家の裏切りを知らされました」
確か帝都は北だと言っていたはずだ。
対してラナッタ支部とやらは、ここから北東。
方角だけで距離まで導くのは不可能だが、容易く行き来できるとは思えない。そもそもイスネアが独立を果たせたこと自体、帝都から見れば辺境だったからだ。その支部も大なり小なり距離があるのだろう。
「どれだけ前の話だ?」
グレイとプラチ。
二人がどこまで知られている存在なのかは分からないが、緋色に嘘の情報を伝え、それを私たちに教えさせることで騙そうなんて真似はしないはずだ。あまりに回りくどいし、不確定要素も多すぎる。
だから緋色の聞かされた情報は真実だと考えていい。
ただ一方で、緋色とて騙された人間のうちの一人という可能性も……いや、よそう。疑い始めたらキリがない。
「正確なところは……。ですが、特命がもたらされた時には既に陥落していたと」
「魔王の手に落ちたとする場所に、何も知らせず向かわせようとしたわけだ」
緋色や、その時はまだ一緒にいたカレンが信頼されているのか、枢機卿なる上層部が非情なだけか。
「シュトラウス家といえど、貯蔵には限りがあります。帝都や周辺に暮らす人々の助けは必要で、そのためにはメイディーイルや他の生産地との交易は欠かせません。外の人間だからといって手に掛けることはないでしょう」
帝都は、帝国は今、どうなっている。
言われれば理解はできた。どんなに悲しくとも腹は減る。食べなければ動けない。魔王がどうだかは知らないが、公爵とて人間ならば同じだ。
とはいえ、そんなのは理屈でしかない。
「もしシュトラウスが……カレンの父親が既に殺され、実権も何もかも魔王が握っていたら?」
「そも魔王の復活というのが疑うべき話なのじゃ」
問うた声に返されたのは別人のそれ。
「グレイ、今は――」
「儂の話も聞くのじゃ。そもそも魔王はオールドーズの……否、ルージュの敵。そんなことはルージュ自身が誰より知っているはずじゃ。なにせ今までで最も覇者に近付いた時代を、魔王のせいで取り零したのだから。画竜点睛を欠くとはこのことじゃ」
「だから意味の分からないことを言うな!」
魔王は勇者によって倒された。
その勇者は女神に、ルージュの名でも呼ばれるらしいオールドーズに味方していたはず。だとしたら打ち倒した側の人間、じゃなくて神じゃないのか、オールドーズは。
「わざと話がややこしくするなち! どうあれオールドーズにとって、魔王は敵。それも最大の敵だち。もし本当に復活したなら何がなんでも対抗策を考えるしかないし、もし復活していないなら誰も騙せないような荒唐無稽な嘘をつく必要がないんだち」
つまりは真実だと?
肩にいるプラチの顔色を窺うことはできない。
だが声音は、心の奥底までよく届いた。
「魔王にしても同じことだち。食料や日々の消耗品を持ち込む行商人は欠かせないち。人心のためには民を蔑ろにすることもできないち。しかしオールドーズの手先だけは、絶対に懐に入れさせるわけがないんだち」
「もっと簡潔に話してくれ」
「絶対的な敵同士であることは互いの共通認識。であれば、そこに自分の息がかかった者を送り込む意味は明白だち。死ね。そう言っているだけち」
「待ってくださいッ! 枢機卿の方々がそんな――ぅぐっ」
半ばまで叫んだ緋色が膝を折る。
腹には裏拳が突き刺さり、手首から肘、肩へと視線を上げていけば、当然のごとくカレンの顔が視界に映った。平然とした、感情を覗かせない眼差し。
「いきなり叫ぶな」
「いくらなんでもやりすぎだ!」
「お前はいつ愚か者に戻ったんだ、エレカ」
一転、瞳にはありありと感情が滲む。
不出来な子供を見る、親とは別の大人たちのそれ。
「信じ難いが、受け入れてしまえば話は単純だ。最強の神と最強の王がいがみ合っている。それも一方はオールドーズそのもの。オール・ルージュだったか? 事は一刻を争うぞ。俺たちが付くべきは、魔王の陣営。そうだったはずだな?」
「あ、あぁ……」
地面に手を突きながらも上目で見据えてくる緋色に、聞かせていい話かは分からない。
「だがプラチの言葉には否を言いたい。緋色への信頼は絶大だ。緋色の教会への忠誠心も、また絶対。だとすれば受け取れる意味も変わってくる」
帝都は魔王の手に落ちた。
魔王とオールドーズの敵対は避けられない。
そんな帝都に、絶大な信頼を寄せる緋色を送り込もうとした意味、理由。
いや待て。違う。忘れてはいけない存在がもう一つあった。
「シュトラウス家か」
裏切り者でも、国の有力者でもない。
ただ父としての、娘としてのシュトラウス。
「あの特命は俺たち三人に向けられたものだった。だが結局、帝都へと向かったのは緋色一人。その道中、ラナッタ支部で伝えられたのが魔王復活と帝都陥落の報だ。先んじて知っていたことを、どうして後になって伝える?」
カレンの声に乗せられて思考も加速する。
帝都への道中で支部に寄ることになったのは偶然が招いた結果だ。イスネアに用事がなければ、支部に寄ることもなく帝都に向かっていただろう。私にとっては有り得ない可能性でも、外から見たらどうだったか。
偶然に立ち寄った支部と、別行動を始めた私たち。
特命に――、私たちが帝都に赴くことで何かを引き起こそうとしていたなら、その算盤を弾いた人間からすれば計算が狂った形になる。
「対魔王の、対シュトラウスの手札として俺を切ろうとした。それが失敗したから、次は」
そこで言葉を切ったカレンは、ようやく片膝を立てたばかりの緋色の顎に自身の膝を当てる。
「冗談でないことは分かるな? 答えるか、砕かれるかだ」
緋色の目に、初めて恐怖が浮かんだように見えた。
後悔と、疑念と、それから……。指折り数えられそうなくらい短い間の付き合いでしかなかった私でも、その瞳の感情を読み取ることは容易かった。
「貴様は何故イスネアに戻ってきた」
言葉と同時、膝が引かれる。
気持ちが変わった、なんてはずがない。
顎に触れた状態から力で押すより、勢いを付けて蹴り上げる方がよほど速度が出るし、威力も増す。そういうことだろう。
「か……禍福と」
淀んだ瞬間、軽やかな声が聞こえた。
「最後まで聞く必要があるのじゃ?」
緋色はグレイの正体を知らない。
だが、剣の腕を見ている。携えていなかったはずの剣を手にしていたことも、把握していないわけがない。加えて、喋るネズミだ。
そんな顔が緋色にできるとは思わなかった。それくらい緋色らしくない表情で、彼女は声を絞り出す。
「禍福と合流するように、と。追って……その後の指令は、追って伝えるから一度ラナッタに戻るようにとも。それで、それで……――」
続く言葉など、ないのだろう。
指令は追って伝える。そこに続く言葉があるだろうか?
しかし、緋色にはありもしない言葉を紡ごうと足掻く以外、道がなかったのかもしれない。
「用済みなのじゃ?」
「あぁ」
「貴様らでやるち。私が汚れるとエレカが汚れるんだち」
「心配するな、これしきのこと――」
「待て、待て待て待てッ!」
あまりにも滑らかに始まり、自然に続いていくから口を挟むのが遅れてしまった。
「話しただろう! 緋色は! 言われた通り!」
「だから用済みなのじゃ?」
「そういうことじゃないだろうっ!?」
「そういうことなんだち」
おかしい。
絶対におかしい。
何かが間違っている。
……何が?
あれ、おかしいのは私なのか?
「な、なぁ、カレン」
「俺は反対だ。敵の手駒、それもお気に入りの手駒だ。この錫杖、便利ではあるが使いこなせる人間は少ない。ここで始末できれば少しは敵の戦力が削れるだろう。いや、そもそも奪ってしまえば済む話か」
「だからって、一緒に旅をしてきたのに」
のに……。
言葉が続かない。
分かっている。
あぁ、そうだとも。
情けなんて捨てるべきだ。グレイを見る。今だけは感謝したかった。笑うティルの顔を見るだけで、拳を握れる。他のどんな感情も、押し殺せる。
「交渉をしよう」
「無駄だ」
「私は緋色に話してるんだ」
緋色を見下ろす。
汗か涙か、いつの間にか濡れた顔で彼女は見上げていた。
その瞳に揺らぐ感情を、遂に私は見失う。
「私たち、協力はできないか? また旅をしよう。物騒な仲間は増えたが、なに、笑いながら楽しく会話もできる。だから――」
「どうして」
差し込まれた声は震えていた。
カレンの逡巡が目の端に映り、すぐさま視線で制する。喋っていい。そんなの、一々許可しなくちゃいけないことじゃないはずだ。
何がどうなっているんだ、本当に。
同じことを、向こうも思っているのだろうか?
絞り出す声音で、緋色は言った。
「どうして、外套を着ていないんですか。そのエルフは誰で、その肩のものは何者ですか。あなたは――」
震えた声が、そして定まる。
「あなたは、オールドーズの敵ですか」
据わった瞳。
いつか話していたな、そういえば。
「カレン」
「反対だと言っている」
「こんなの卑怯だ、違うか? 四人で寄って集って、奇襲紛いに動けなくした一人を」
「感情論はよせ。お前自身、信じてもいないだろうに」
握り締めた拳が震える。
私だけだ。
私だけが、覚悟を決めたつもりでいた。
他の者たちはとっくに決めていたのに、私だけが自分は覚悟を決められたんだと勘違いしていた。
「――ッ。許して、くれ」
正解なんて分からない。あるのかどうかも定かじゃない。
けれど、絶対にしてはいけない過ちだけは嫌というほど分かる。
私以外の手で、緋色に引導を渡してはいけない。
私がやるか、さもなくば見逃すかだ。
ここで逃げて、後で痛い目を見るならそれでいい。
だが逃げて、カレンでもグレイでもプラチでも、自分以外の背中に隠れて見ない振りをするのは間違っている。
「なぁ、カレン」
「お前は甘すぎる」
「だとしても、まだ、嬉しかったんだ」
笑ってしまう。
引き裂きたくなるほどの自嘲に埋め尽くされながら、それでも片隅に、ただ嬉しくて笑う自分を見つけないわけにはいかなかった。
「リクやお父様とは会えなかった。ティルとも、もう会えない。だけど緋色とは、また会えた。いてくれたらと思ったよ。そりゃ、メイディーイルでもなんでも、金が使えるっていう理由もあるけどさ」
純粋に嬉しかった。
再会というものの喜びを、初めて知った。
だから。
「二度目はなくていい。ただ、この一度だけは許してほしい」
この喜びを胸に仕舞いたいと言って、叱る者は森にいないだろう。
甘すぎるとカレンは言った。
そうだな、いなくなってしまった人々にまで、私は甘えようとしているのだから。
「緋色」
名を呼ぶ。
応じる声はなかった。
別れの言葉なんて紡げはしない。敵同士だ、どんなに偽ろうと。
ここで見逃したとて、恨まれる筋合いはあっても感謝される理由にはならない。当然のこと。
だけど。
言葉を探してしまった。
みっともなく、未練たらしく、そうしていれば永遠に時が進まないかのように。
何がいけなかったんだろう。
私か?
それとも運か?
あるいは、世界とはそういうものなのか?
「そういうわけだから、なぁ、」
自分が何を言おうとしているのか、それさえも分からないまま紡ぎかけた声が虚空を彷徨う。
「……ッ!?」
背筋を撫でる強烈な異物感。
痺れるような肌の痛みに理解が追い付かないまま脳裏に警鐘が鳴り響く。なんだ、これ。胃から食道までも裏返るような吐き気に誘われ、気が付けば背後を見据えていた。
と、ちょうどその時。
空間に、亀裂が生じる。
黒々とした、闇を垂らしたかのごとき亀裂。
それがすぅっと空間に刻まれ、そして。
白く細い棒が四本……いや五本、その亀裂から現れた。手だ。腕から肘へと続き、同時に膝や太ももや脛も見えてきて。
やがて。
「……おや?」
顔が見えた。
青白いのとも土気色とも違う、それでいて生気を感じさせない白い肌。
蒼と黒の瞳に、亀裂に溶け込む漆黒の髪。
「お取り込み中でしたか、これは失礼」
凛とした声を響かせながら、人によく似た姿の『彼女』が大地を踏む。
「え、浮かないんだち?」
素っ頓狂な声が、また一つ。
まぁ、分からないではないけれど。
白い肌に黒い髪を持つその者の背には、黒く艶のある翼が一対、生えていたのだ。
「足があるのに、何故わざわざ浮かぶ必要が?」
平然と答えてくる闖入者に、誰もが絶句する。
次から次へと。
せめて緋色を逃がした後に現れてくれれば、まだ感傷に耽っている暇もあったのに。
そんな贅沢は許さないと、世界に言われている気がした。
被害妄想だろうか?
でも慰めに、それくらい思わせてほしい。
「あぁどうぞ、話を続けてください。自分は終わるのを待っていますので」
どこまでも慇懃に言う有翼の彼女に、誰も何も言えない時間がもうしばらく続きそうだった。
あぁいや、違った。
「ふすー! ふすーっ!」
私たちの足元で、ルネだけが必死に威嚇している。
やめてよ。
私まで素っ頓狂に言いそうになって、空を見上げる。
太陽は、まだあんな高いところに。




