六話 全てを知る者たち
川は町に沿って流れている。
というより、川の流れに沿って町が作られていた。
人間の……いいや、生き物の営みに水は欠かせない。たとえどんなに濁ろうとも、捨てては生きていけないのだ。
エルフにとっての森も同じ。
そう言いたいけど、実際のところはどうか。
エルフだって水がなければ死ぬ。けれど、もし森がなかったら?
生きていくことは、できてしまうかもしれない。それは誇りを捨てると同義だ。森と誇り、エルフが捨ててはならぬもの。……だが、命を捨ててでも守るべきものなのか?
分からない。
考えるだけで、考えようとするだけで頭が痛くなる。
こんなんじゃダメだ。私が森を出たのは、その森を救うためだ。追放されたからといって、森を捨てる言い訳は考えたくなんかない。
雑念を振り払おうと顔を上げ、視線を見つける。
「エルフの悩む顔を見るなど、思いもしなかったな」
瞳に嘲笑うような輝きが宿って見えたのは勘違いではあるまい。
だが、今は文句を言っている場合でもないだろう。
「やはり気付いていたか」
「貴様こそ、俺の顔が見えているんだろう?」
声は綺麗なのに、その笑い声は不愉快だった。
「オールドーズといったか。聞きたいことがある」
「その前に、まず答えろ。その外套はどこで手に入れた?」
当然の問いだ。
巡礼者が決まって纏うものなら、その入手経路も限られる。同胞から奪った服を着て歩く異種族など、敵以外の何者でもない。
少なくとも敵意はないと、それだけは伝えなければ。
「森を出る時、同胞から受け取った。エルフの森にもヒュームが足を運ぶことはある。そのヒュームがどこから手に入れたのかは知らないが、私たちの森の者がヒュームを手にかけることはない」
オールドーズが疑り深ければどうしようもなかったが、幸いエルフの知識はあるらしい。
「だろうな。オールドーズにも腐敗はある。巡礼者の身分を嫌い、先立つものと引き換えに捨てる者もいるだろうさ」
鼻を鳴らし、不満げだ。
仲間内に不正が蔓延り、それを正せぬどころかあって当然と受け入れるしかないとなれば腹も立とう。
「教えてほしい。オールドーズとはなんだ、巡礼者とはなんだ?」
だからこそ、聞かずにはいられなかった。
あれほどまでに町の人々から信頼を受けた巡礼者、オールドーズでさえも完璧ではない。ヒュームはヒュームというべきか。それとも眼前の女のように、ヒュームとは違う何かなのか。
「貴様、名は?」
「待て、今聞いているのは――」
「我が名はオールドーズ。全てを知る者たちの使徒である。これしきも知らぬエルフの小娘が、どうして森を出て巡礼者の真似事などしている」
反射的に開きかけた口を理性で閉じ、睨みの視線だけを返す。
「言っておくが、敵意はないぞ。伝説のエルフが操ったという妖精剣の使い手ならまだしも、精々が治癒魔法だろう? あるいは無知なる人々を騙し、扇動するつもりなら話は違うが、そのための知識もないときた。警戒には値しない」
明け透けな侮辱の言葉にも、返す言葉はない。
「……エレカだ。ただのエレカ。これで満足か」
「姓は持たんのか?」
「今は、もう」
「森長か、それに近い立場の娘が森を追い出されたか。エルフの森もよほど苦境らしいな」
「……。……追放はされた。だが、森を救うためだ。図らずも巡礼者を騙ってしまったのは詫びる。その上で、もう一度訊ねたい。巡礼者とは、オールドーズとはなんだ」
人々から信頼され、更には全てを知るなどと言ってのける。
それほどの存在ならば――。
全くの偶然だが、偶然でもなんでも使えるなら使っていくしかない。
「エルフは、教会すら知らんのか」
「私にも立場はあった。それでヒュームの暮らしや習慣は学んできたが……、教会など一度も聞いたことがない。巡礼者やオールドーズも同じだ」
「……? そんなはずはないと思うが……」
然しものオールドーズも困惑を見せる。
それほどまでに驚くべき事実というわけだ。
しかし沈黙は十秒と続かなかった。オールドーズが目を見開き、そして心なしか頭痛を覚えたような表情を覗かせる。
「まさかとは思うが、貴様、ヒュームには数十、数百もの国家を築いてきた歴史があると知らんのか?」
「数百? それは知らなかった。いや、だが国家というものは知っている。エルフにとっての森と同じだろう?」
今度こそ、オールドーズの表情が読み取れた。
その愕然とした面持ちは、恐らく追放を言い渡された時の私と瓜二つなのだろう。
「ヒュームの国家間には、エルフの森ほどの同胞意識はない。時には戦争をする。同胞を殺し、奪い、そのことに勝鬨さえ上げる」
「それくらいは知っている。だが、それはヒュームの習性だろう?」
「……貴様は、ヒュームとエルフが等しく人間と呼ばれる意味が分からんのか」
遂には天を見上げ、オールドーズはため息を零す。
「誇りという名の傲慢、平和という名の怠惰、正義という名の独り善がり。なるほど、エルフは変わらぬ」
「何が言いたい」
私個人に対してならともかく、エルフへの侮辱を許すわけにはいかない。
最悪、禁忌を引き抜くことをも辞さないつもりだったが。
「貴様らエルフも、我々ヒュームも、根本的には大差ないということだ。ヒュームは寿命が短いために生き急ぎ、エルフは寿命が長いために多くを座視する。それだけの違いよ」
憐憫さえ帯びない諦観の響きに、怒りは矛先を失う。
「先の質問に答えよう。オールドーズとは、国家に跨いで存在する組織だ。この世界の全てを知り、伝える役目を担っている。……俗な言い方をすれば、宗教だな。時に疎まれるが、欲を出さない限り為政者には好まれる。持ちつ持たれつ、互いに便利だからな」
腐敗を嫌う口振りだったオールドーズだが、その声に沈んだ色はない。
「オールドーズ教会には多くの者が所属し、中でも巡礼する者、そのまま巡礼者と呼ばれる俺たちは己自身の名を捨て、ただ教会の使徒として世界を旅する。巡礼の旅だ。個ではなく、全の中の一。ゆえに我らは揃いの外套を纏い、外からは見分けられぬようにしている」
言っておくが、性別も分からないから気を付けろよ。
オールドーズは――否、オールドーズ教会の巡礼者である女は、そう言葉を締め括った。
「……つまり、巡礼者は皆、ヒュームなのか?」
分かっていたことだが、巡礼者の中にエルフはいないと?
だとしたら私がエルフだとバレるのは、かなりまずい。
「俺は例外中の例外だ。巡礼者であっても、大抵は外套の中を覗くことはできない。ただまぁ、貴様は言動が怪しすぎるから長く話せば見抜かれるだろうがな」
彼女の言葉は私の疑問に答えたものだが、にもかかわらず、疑問を増やす結果に終わった。
あっけらかんと笑う女は、いったい何者なのか?
「お前も、それじゃあヒュームなのか?」
「これを見るのも初めてか。まぁ、そうだろうな」
「これ……? いや待て、そうだ。そういえば、あの子はなんだったんだ。他の者には見えていなかったみたいだけど、お前にも見えていたんだろう? あの子の体内のマナは尋常じゃなく――」
「焦るな、慌てるな、エルフならば悠然と構えてみせろ」
女は歌うように言って、それから小さく笑ってみせた。
「オールドーズは全てを知る。ゆえに全てを伝えよう。たとえ、それが世界の終焉であっても」
世界の終焉?
この女は、いったい何を――。
「あの子供も、俺も、辿れば世界の終焉に行き着く者よ」