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六十四話 滅亡の国

 高台には瓦礫の山ができていた。

 それだけで水の魔神……否、旧き神がどれほどの暴威を誇ったか想像できる。同時に、私の肉体を操っていたプラチはその旧き神を圧倒したのだ。俄には信じられない。

 しかし今、猛威を振るったプラチの力は制限されている。

 私が私であるための代償。

 走るのをやめ、一歩ずつゆったりと大地を踏み締めるルネの背中で全神経を周囲に尖らせながら、破壊された門からイスネアの内部へと踏み入る。

 また別の神や王が出てきては、真っ向からの太刀打ちなどできない。

 不意遭遇には逃げの一手だというグレイの判断に従い、私たちはそれぞれの竜馬に跨ったままだ。

 足音を殺して歩く竜馬の背で、聞こえてくるのは奇妙な風の音ばかり。

 家屋は崩れ、あるいは飛び散った瓦礫で穴を穿たれ、そうした隙間が奇妙な音を奏でるのだ。時折、家屋の一部だった残骸が落ち、砕ける音が遠く響く。

 そして、それ以上の音はなかった。

 あまりに静か。

 遠巻きに喧騒が聞こえないだけなら、まだ息を潜めて地下かどこかに隠れているのだろうとも思えた。

 だが、こうまでも静けさが漂っていると、他の可能性を疑うしかなくなる。

「……誰もいない、のか?」

 答える声はなかった。

 カレンがリューオの背で居心地悪そうに姿勢を直している。グレイは我関せずと背筋を伸ばし、プラチは揺れる肩でバランスを取るので精一杯らしかった。

 一体、どうすべきなのか。

 逡巡し、ルネに足を止めるよう指示すべきか考えかけた時、不意にそのルネが耳をピクリと動かした。咄嗟に足に力を入れる。ルネが立ち止まり、他の二頭もそれに倣った。

 耳を澄ます。

 微かに音がした。瓦礫が落ちるほど大きな音ではない。視線を下げ、ルネを見やる。その眼差しは、一直線にある建物を見据えていた。直後、カタン……とその民家と思しき建物から音が聞こえてくる。

「降りよう。何か……いや、生存者かもしれない」

 何かいるかもしれない。

 そう口にしかけた言葉を、呑み込む意味があったかは怪しいところだ。答えを知っているらしいグレイとプラチは勿論、カレンでさえも信じてはいないだろう。

 なにせ、私自身がその声の空虚な響きを聞き取れてしまったのだから。

 ともあれルネの背から降り、自分の足で民家に近付く。カタカタ、タタタタタ……と小刻みな音。最早、見るまでもないか。

 歯を食い縛りながら民家の、崩れてやけに大きくなっている戸口から中を覗いた。

 ネズミが……小さな灰色のネズミが数匹、据え付けられたテーブルの上を這い回る。テーブルには黄ばんだシミ。目を凝らせば、その足元に割れたグラスが見える。そこから溢れた、なんなのかもよく分からないシミにもネズミが集っていた。

 スープか何かを飲んでいたのだろうか。

 魔神の襲来を知って、着の身着のまま逃げ出した。それで出しっぱなしになった食料にネズミが集る。不思議な話ではない。

 ただ、だとしたら。

「……これは」

 我知らず口を開いておきながら、続く言葉が見つからない。

 建物の内部、壁という壁にまだ新しい傷が見て取れる。ネズミではなく、もっと大きな獣が爪研ぎでもしたかのような長細い傷跡。それが縦横無尽に走り、異様な模様を描き出していた。

 魔神が魔物の群れでも率いていたなら、こんな無惨な姿にもなるだろうか。

 しかしグレイの話によると、魔神とはヒュームが付けた一方的な呼び名。かつての魔王とはなんの関わりもなく、むしろ魔王と肩を並べる、敵同士とも呼ぶべき存在だった。

 水の肉体を纏っていたという旧き神が配下を引き連れていたとも聞いていないし、……いや、よそう。そうだったとしたら、建物の中にばかり傷が付いているのはおかしい。そもそも爪研ぎをしてどうなる。

「獣化症、か」

 カレンがぽつりと漏らす。

「だが妙だな。これだけ暴れ回っておきながら、血痕が全くない」

「避難した後だったんじゃないのか?」

「いや、獣化症の末期患者なら爪が剥げて、歯が折れても破壊衝動を止められない。これだけ暴れ回ったなら辺り一面、自分の血で汚してるはずだ」

 傷付いた者も、傷付けた者もいないまま、ただ傷跡だけが残されている。

 不自然を通り越して不気味と呼ぶべき状況だ。

 探れば答えが見つかるのか? その答えは己の頭で、目や耳や鼻で見つけるべきものか?

 問うまでもなかった。

「どういうことだ、グレイ。知っているんだろう?」

 話の矛先を変えたのはカレンだ。

 じろりと睨むようなその眼差しを、グレイは正面から受け止める。無論……と言ってはカレンに悪いが、怯む素振りは毛ほどもなかった。

「自分で考えることが大事なのじゃ」

「時間は有限だ、特に今は――」

「有限だからこそ機を見て使う、それが時間というものだち」

 静かに詰め寄る気配を見せたカレンを、今度はプラチが横から制す。

 いやまぁ横というか、私の肩の上からか。

 プラチはどうも私にも声を向けているらしく、カレンにだけ向けるのとは少し違う声音で紡ぐ。

「この先、私たちにも分からぬことは出てくるち。新しき神たる私……エレカは力でこそ旧き神より優位に立てるが、知識の面では劣る。その旧き神でさえ、時代を越えるごとに力とともに情報を取り零していくらしいのだち」

「そういえば、プラチはどこから前の時代の情報を得たんだ?」

 新しき神という呼び名。

 私たちが生きる今の時代に生まれたというプラチは前の時代を知らないはず。にもかかわらず、既に過去のものとなっている前の時代の終焉を語る。

「世界はマナによって巡るんだち。神とは即ち世界よりマナを与えられた身の上。マナを通じて、世界に積み重ねられた情報を知識として蓄えるち」

「必然的に、マナを失えば情報も失うのじゃ。今のプラチは特殊事例だが、時代を越えるために多くのマナを費やせば、上手いこと次の時代で目覚められても情報の欠落は避けられないのじゃ」

 ここでもマナ、か。

「話を戻せば、私やグレイにも知らぬことはあるち。知っていたはずが、失われた情報もあるはずち。だから前の時代に関わること、覇者を巡る戦いに関わること。その全てを答えることはできないんだち」

 プラチが言葉を結ぶ。

 薄々感じていたことだけど、プラチやグレイの口から語られる『神』と、幼き日から漠然と思い描いたりオールドーズが謳ったりしてきた『神』の間には小さくない違いがあるらしかった。

 上手く言い表せないが、神とは絶対なる存在ではなく、飛び抜けた力を持つだけの強者かのように聞こえてくる。

 ゆえに全知全能は、神でさえも持ち得ない。

「時間は有限にして、ゆえに貴重。なればこそ、使い方を考えるち。自分の頭で未知を想像し、先手は打てずとも後手に回らず済むよう今から訓練しておくべきなんだち」

 意識がふと記憶を遡る。

 考えもしなかった、森の最期。

 私にとっては未知であり、想像しようとも不可能だった。

 しかし現に起きてしまえば、どうすることもできない。泣き叫んでも過去には戻れず、だとすれば起きてしまった現実を覆すことも叶わない。

 それでも時は進むし、私だって足を止めてはいられなかった。

 考えること。

 何を意味するのか、あまりに遠大で漠然としているから明確には捉えられない。

「理性を失った神の影響に獣化症を持ち出したのはグレイだったか?」

「ふむん?」

 我知らず零していた声に、グレイが不思議な声で応じる。

「あぁ。そういうようなものだとグレイが認めた」

「それでカレン……到達者は、その影響を受けないと」

「既に獣化症だったから、なんて単純な話ではないだろうな。あるいは、なんらかの理由で影響を受けない者を一緒くたに到達者と呼んでいるだけか」

 必要なのは情報の整理だ。

 唐突だった言葉にグレイは首を傾げるだけだったが、カレンは即座に応じてくれる。

 私が眠っていた、というよりプラチに身体を預けていた時に起きた出来事と、カレンがグレイから聞かされた真実。時間が限られていた上、更に又聞きだったために取り零した情報は多いだろうが、間違っていることがあるならグレイやプラチから訂正が入るはずだ。

「つまり獣化症か、それに近い症状が逃げ遅れたイスネアの住人を襲ったんだろう」

「そもそも逃げられた者がいるのか怪しいち」

「オッチはどうだったんだ? 魔神……いや、あの水の神を目の当たりにしていたはずだが」

「分からんのじゃ」

「分からないことは後回しでいいだろう」

 散らかりかけた話を整理する。

 理性を失った神の影響下で、人間が半ば強制的に獣化症を発症した。信じ難く、また受け入れ難い話でもあるが、疑い出してはキリがない。

「ひとまず獣化症だとして、血痕がないのは奇妙なんだな?」

「もっと言えば、ざっと見た限りだが獣毛も落ちてない。犬猫が走り回るだけで部屋中が毛だらけになるんだ。獣化症の末期患者が暴れ回った後なら火を見るより明らかだろう」

「しかし血や毛は消え、傷跡だけが残ったと」

「そうなるな」

 カレンが不可解そうに頷く。

 獣化症患者が引っ掻いたと思しき傷跡はあるが、それだけだ。血も毛も残されてはいない。仮に神が死に、影響から脱して元通りの姿になったとしても、溢れた血が消え去るわけではないだろう。

 ……謎だ。

「そろそろ考えは出尽くしたのじゃ?」

 機と見たのか、グレイが口を開く。

「ようやく答え合わせの時間か?」

「そうなるち」

 プラチもどうやら知っているらしく、平然と頷いて返した。

「これ以上は想像どころか妄想、論理の飛躍があっては考える意味がないち」

「だったら最初から……と言いたいが、まぁいい。さっさと話せ」

「貴様はその高圧的な態度をどうにかできないのか?」

 私の肩でプラチが吠える。

 目線の高さはそう変わらないはずだが、カレンはどこか見下す調子で鼻を鳴らした。

「待て待て、仲良くするのじゃ。というかエレカ、お主からも何か言うべきじゃ!」

「喧嘩するほど仲が良い?」

「ほら、本題だ」

「貴様には教えてやりたくないんだち」

 ちっちー、と煽っているのか愛嬌を振りまいているのか分からない声でプラチが言っている。肩に手を伸ばし、体重から大体の位置は分かっていた首根っこを掴んだ。プラチが空中でパタパタと手足……じゃないか、前足と後ろ足を必死に動かす。

「許せち」

「言い訳は?」

「これは本能なんだち」

 言い訳という言葉選びがまずかったか。

 これっぽっちも反省する気のない受け答えだったが、まぁ手足をバタつかせながらも白は切ろうとする姿に愛らしさを感じないではない。

「許そう」

「おいエレカ」

「さて本題に入るのじゃ」

 無駄話に興じている暇はない。

 グレイが話し出すのに合わせて、私もプラチを肩に戻してやる。カレンだけが不服そうにそっぽを向いた。

 こほん、とグレイが咳払いしてみせる。

 冗談めかして長老たちの真似をした時のティルと重なり、冷たい風が胸中を吹き抜けるようだった。

「時代によって呼ばれ方は違うのじゃ。それでも儂ら神がどの時代にもいて、より密接に民草と接する王もいることから、必然として同じ呼ばれ方をすることもあったのじゃ。中でも多く叫ばれた呼び名は、二つ」

 ティルの小さく柔らかいそれと瓜二つの指を、グレイが立ててみせた。

「共鳴、あるいは感化。力の根源たるマナによって世界と繋がる、神が誇る権能なのじゃ」

 あまりに単純で、それゆえに曖昧な言葉。

 だが、理解できないままに納得する。

 マナを世界中から集める――。

 意味するところはあまりに大きく複雑で、けれど今まで見てきた光景、聞いてきた話と合わせれば明瞭すぎた。

「それがマナの枯渇の原因だと?」

 グレイは口を開きかけたが、言葉を見つけられなかったのだろう。玉虫色の眼差しだけが返された。

「これは私から言うべきか」

 肩で、プラチが神妙に呟く。

「アーレンハートの全てと引き換えに生まれたのが私、エレカ・プラチナム・アーレンハート。しかし世界は、無から有を生み出せるようにはできていないのだち」

 当然のことだ。

 無から生み出せない有を作り出すには、だから当然、他から持ってこなければいけない。

「マナは流転する。世界はそういう風にできている。戦いによって放出されたマナが新たな時代を築き、世界に溢れたマナが神と王に集約されて戦いを支える」

 私の肩から紡がれる真実は、どこまでも形式的だった。

「それが世界のリズムなんだち」

 風に揺れた木々や枝葉が、風の隙間を縫って揺り戻す時の。

 さぁさぁと奏でられる心地の良い音と、理屈の上では分からないというのか。

「この街……否、国だったのじゃ?」

 グレイが喋る。

 笑うでも悲しむでもなく、ただ平然と、昇っていく太陽を見上げて『そろそろ昼だね』と呟くかのように。

「到達者がいなかったなら、ここの民は全滅なのじゃ。理性を失った神の暴走した権能は、人間からも理性を奪うものじゃ。文字通り獣と化した人間は衝動のままに逃げ惑い、それでも最期は決まっているのじゃ」

 感情を覗かせない、ティルのそれとは似ても似つかない眼差しが壁を見据える。

 傷があった。

 視線が移ろった先では、ネズミがテーブルの脚を噛んでいる。

「この世界は誰のものじゃ? 世界のものじゃ。血も、毛も、骨肉も、全ては世界のものじゃ。ここにいた者たちは皆、摂理に従いマナに還ったのじゃ。まぁ途中でプラチナムが邪魔をしたお陰で、マナをあまり持たぬネズミなんかの小動物は生き残ったようなのじゃ」

 もう昼だ。

 なのに風は、やけに冷たく私たちの隣を通り過ぎていく。

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