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六十一話 三人と三頭と、それから

(演出上の理由で60話と順番が前後しています)

 夢を見ていた。

 夢だと分かっていたのに、木漏れ日のもとで微睡むような心地に甘えてしまった。

 そこには話に聞くだけだった祖父がいて、顔を覚えているはずのないお母様がいた。

 お父様も、リクも、ティルも。

 だけど不思議なことに、他の姿はなかった。

 みんなに会いたかった。偽物でもいい。幻想が生み出した紛い物で構わない。

 もう一度だけ話し、笑い合いたかった。

 それこそ夢、叶わぬ夢だ。

 高望みはしない。

 私の記憶からは生み出せるはずのない、お母様の微笑。

 幻想だろうか。

 奇跡だろうか。

 顔も声も覚えていないのに、その微笑む顔はいかにもお母様らしく、紡がれた声と言葉は森の暖かみを思い出させた。

「私たちは恨んでいた、憎んでいた」

 優しげな表情と声音から、吐き出されるのは呪詛のそれ。

「襲い来る運命を。そうと知りながら、過酷な運命を背負わせた旧き王を」

 運命とはなんだろう。

 時代の終焉?

 トロルと化す未来?

 答えは遠く、手を伸ばしても届きそうにはなかった。

「けれど、気付いてしまった」

 お母様は変わらぬ微笑を湛えている。

 とこか遠くへと向けられた眼差しの先に、きっと答えがあるのだろう。

「私たちも同じだった。あなたに……エレカに過酷な運命を背負わせてしまった。この恨みは、この憎しみは、私たちのものなのに」

 知ったことじゃない。

 笑い飛ばしたところで聞こえないであろうことは、なんとなくだけど理解していた。

 夢には、夢のルールがある。

 どんなに荒唐無稽でも、あるいは荒唐無稽だからこその決まりが。

「縛り付けるべきではなかった。エレカは何にも縛られず、自由に生きていい。誰にでも許された、自分だけの運命を生きる自由を――」

 だから、これは独り言。

 誰にも届かない、私だけが聞き届ける無意味な宣言。

「そんな自由、誰にもないよ」

 私はお父様とお母様の娘。

 アーレンハートの森に生まれた、次期森長を運命付けられた一人のエルフ。

 だけど、そんなことさえ関係ない。

 誰だって生まれに所以はある。

 良かれ悪しかれ、誰にでも自分を縛り付ける運命はあるのだ。

 嬉しいことがあれば悲しいこともあり、喜ぶ時があれば怒る時もある。その全てが自分だけのものだなんて、どうして言えるだろう。

 ティルが笑っていれば、それだけで私も楽しくなれた。

 私だけじゃない。

 きっと誰しも、自分以外の誰かに縛られながら、自分以外の誰かを縛りながら生きている。

 正直に言ってしまえば、時には重荷に感じることもあった。

 ていうか、今がそうだ。

 リクは立ったまま死んでいた。ティルは見ることさえ躊躇われる姿に成り果てた。森は死んだ。祝福されるべき次代のエルフたちは、忌むべきトロルとして生まれてきた。

 重いよ、重すぎる。

 私が魔神を殺して、その血肉を捧げるだけではきっと足りない。

 否、何をどう足掻いたところで、私の思い描いてきた未来は手に入らない。

 だけど。

 だから。

「恨みも憎しみも、私にはいらない」

 遠くを見る、今は亡き人々に並ぶ。

 そこにティルがいることに抱いてしまった悲しみは、そっと胸の奥に仕舞い込んだ。

「私はエレカ・アーレンハート。私たちの森の、最後の森長にして――」

 そして胸に刻み込むは、ちっぽけな決意の証。

「恨みでも憎しみでもなく、ただ同胞の願いを叶えるために戦う者だ」



   × × ×



 夢から覚めた。

 暖かく懐かしい何かが指の間をすり抜けるように遠ざかっていくのを感じ、一方で硬く冷たい何かが全身に重く伸し掛かってくる。

 それが目覚めというものだ。

 苦笑する。

 頭が痛い。頭だけじゃないか。全身が悲鳴を上げている。

 けれど二度寝している場合じゃない。

 重い瞼を気合で押し開けながら、脳裏では今がいつかを無意識に考え始める。

 今がいつなのか。

 辺りは明るい。なのに空には星々が輝いている。

 不思議な感覚に手を伸ばしかけ、そこではたと気が付いた。明るい、とは少し違う。

 光は乏しい。

 けれど、闇もまた乏しかった。

 世界は暗いままに、輪郭や距離感は明瞭としている。

 夜目が利くというのは、本当はこのことを言うのだろうか。カレンが見る夜は、いつもこんな姿をしていたのだろうか。

 そう思うと、我知らず手を伸ばしていた。

 掴みたい、届かせたい。

 必死に伸ばした指の先に、その時ふと鼻先が近付く。

「ふすん」

「……ルネ?」

 首を傾げる。

 と、後頭部に柔らかいものを感じた。

 寝そべっている……? でも、どうして。

「んっ……エレカ? エレカっ? 起きたのか!?」

 真上から降ってきた声に、胸の中いっぱいに広がるのは懐かしさだ。

 なんだか十年か、それ以上ぶりに聞いた気がする。一方で、ほんの少し前にもこんなことがあった気もした。

 苦笑しながら首をぐっと伸ばし、頭を上……というか後ろに向ける。覗き込んでくるカレンの顔がそこにあった。泣きながら笑っている顔。どうしてだろう。不思議だった。何も分からないのに、何故だかすとんと腑に落ちる思いがした。

 どうやら私は、カレンの膝で眠っていたらしい。

 どうして?

 分からない。分からないけど、まぁいいか。

 夜空に伸ばしていた手を地面に向け、ぐっと力を込める。すぐにカレンが手を貸そうとしてくれたけど、その必要はなかった。寝起きとは思えないほどすんなりと力が入る。身体も軽い。

 こんなに調子が良いのは久しぶりだ。

 いや、夜目のことを考えると久しぶりどころか生まれて一番の絶好調だろう。

 いったい何があったのか。しっかり寝たから……というには、夜空の下でカレンの膝枕は無理がある。確かに布越しでもカレンの獣毛はもっふりしていて心地が良いが、雨はともかく風が凌げる屋内で布団にくるまった方がよく眠れるはずだ。

 となると、寝る前か。

 そもそも私はどうしてこんなところで寝ているのやら。思い出そうとしても頭に霧がかかったような感じがして何も浮かばない。

 と、不意にズキンと鋭くも重い痛みが頭を走った。

 首を振る。やはり絶好調は何かの勘違いだ。起き上がりながらカレンの顔を見やり、再び不思議な表情を見つける。

 何かあったのは確実らしい。

 そういえば、ルネも私のことを見守ってくれていたようだった。今しがた鼻先を伸ばしてきたのだ、すぐそこにいるのは間違いない。

 寝起きのせいか方向感覚が不確かなまま立ち上がって左右を見やり、それから振り返った先、カレンの斜め後ろにその姿を見つけた。ちょうど私やカレンと三角形を描く位置にいたせいで、先ほどは視界に入らなかったらしい。

「なんだ、そんなところに……」

 忘れていたわけじゃないんだよ、と頭でも撫でようと伸ばしかけた手が、何もない虚空で止まる。

「……?」

 ルネの頭に、何かがあった。

 否、何かが、いる。

 白いもふもふ。……もふもふ?

 純白に星の輝きを溶かしたような、透き通った毛並み。くりりと丸い目はほんのり暗い紅をしていて、じっと私を見つめてくる。

 イタチネズミ、なのだろうか。

 あれだ、ルネが砂塵の中から捕まえてきた、あの大きなネズミに似ている。顔というか表情には愛嬌があって、そのせいですぐには思い出せなかった。

 しかし似ていると気付いてなお、それそのものだとは思えない。

 こんなにも色が綺麗だし、何より……。

「トゲトゲ?」

 そう、棘だ。

 もふもふした毛並みでありながら、そのイタチネズミには棘が生えていた。私の手の指ほどもある円錐状の棘を無数に背負っている姿は、口に咥えたらいかに竜馬といえど痛いなんてもんじゃ済まなそうだ。

「……トゲネズミ?」

「そんな生き物はいない」

 トゲネズミが喋った。

 と思ったが、今の声は聞き覚えがある。少し視線をずらすと、カレンが呆れ顔を浮かべていた。

「まぁ、そう呼ぶ以外に仕方もないとは思うがな」

「トゲネズミ?」

「そもそもネズミじゃないっ!」

「えっ?」

「……! なんでもないっちゅ!」

 そうか、なんでもないのか。

 ……。

 …………などと、流そうと思ったが流せるわけがない。

「ネズミが喋った!」

 どこかで聞いたことがあるような、けれど記憶を辿っても思い出せない、可愛らしい声でネズミが喋る。……鳴く? どっちでもいいか。

 と、よくよく見ると少してっぷりしているらしい。

 ぺちょっと潰れるみたいにルネの頭に伸し掛かっていて、それをルネは半眼で見上げ……ようとするも、角度的にできないため不機嫌そうな表情になっていた。

「カレン! これはどういうことなんだ、カレン!」

 本人……ではなく本ネズミに聞くべきなのかもしれないが、ネズミとの対話など試みたことはないし、どうすればできるかと想像を巡らせたことも勿論ない。

 それで逃げるようにカレンに目を向け、しかし。

「儂から説明するのじゃ」

 儂。

 その言葉が何を意味するのか理解するよりも早く、咄嗟に声の出処を探ってしまう。

 隣だ、私のすぐ横。

 そして見つけた瞬間、涙が溢れそうになる。

「ティル……っ!」

 私の顔を覗き込むかのように、すぐそこに立っていた少女。

 ティル。

 でも、だけどティルは――。

「……あぁ、そうか」

 思い出す。

 自分がどこにいて、何を見て、何を知ったのか。

「魔神は、」

「だから儂から説明するのじゃ」

「そういうあなたは、誰?」

 ティルじゃない。

 私のそれによく似た、鈍色の髪。ティルとよく似た顔をした、別の誰か。

「我が名はグレイ・グレー・グール。……と名乗ったところで、お主には分からんのじゃ?」

「答えて。ティルに何をしたの」

「ティルは死んだのじゃ」

「だったら、お前は――」

「エレカ、話を聞け。そいつが何をしなくても、あの少女は……ティルは長くなかった」

 横合いから挟まれた声に睨んで返す。

 カレンだった。悲しそうな瞳。子供を見る眼差し。

「儂はティルと契約したのじゃ。お主を守ると。この姿は駄賃というと語弊があるが、まぁ必要経費なのじゃ。姿なくしては動き回れぬゆえな」

 飄々とした声音。

 けれど声も、視線の巡らせ方も、あるいは指先の些細な動きまでも、あまりにティルそのものだった。

「慰めになるかは分からんが、本物の肉体は森だった場所で眠っているのじゃ」

 これっぽっちも慰めになんかならない。

 そういうものだろう。

 長くを生きた老人にせよ、生まれてくることのなかった赤子にせよ、その最期に慰めなんかあるはずがない。どうしようもない悲しみを、寂しさを、どうにか誤魔化す言葉を探すだけだ。

 しかし今は。

 今だけは、慰めに浸りたくなかった。

 いつまでも覚えておこう。

 ティルだけじゃない。リクを、お父様を、森の全てを。それが生き残った私の役目だ。

「それで、魔神はどうなったの?」

 逃げられない悲しみを遠ざける問いだったが、グレイとやらは僅かに目を伏せたものの、何も言わずに答えてくれる。

「倒したのじゃ、儂とそこの獣人……じゃなくてカレンの二人で」

「倒した? 魔神を……?」

「そう驚くことではないのじゃ。かく言う儂も魔神なのじゃ。二人掛かりなら訳なかったのじゃ」

 ティルと同じ……いや、ティルの姿をした少女が魔神?

「まぁ、そもそも魔神という呼び名自体が間違っているって話は置いておくのじゃ」

「……話が見えない」

「だろうな」

 頷いたカレンに視線をやる。

 呆れ顔で、ため息まで零してみせた。

「教会が謳った終焉、その正体は神と王が起こす戦争らしい」

「戦争っ!?」

 思わず叫んでしまうも、言ってから頭の中に疑問符が溢れる。

「やっ待て、神? 王? なんだ、それは」

「知らん。だが俺たちの思っていた魔神とは神のことで、他にも同等の力を持つ王がいるとか」

「同等ではないのじゃ。王は神より力を持たぬのじゃ」

「どうだっていい。人間に太刀打ちできる存在じゃないってことだけは確かなんだろう?」

 鼻で笑う声音のカレンに、グレイは肩を竦めて返す。

 魔神やそれに匹敵する力を持つ存在が戦争を起こすほどに大勢いる。

 突拍子もない話だ。しかし不意に、まさかと脳裏をよぎるものがあった。

「なら、それじゃまさか魔王は」

「王の一人だったのじゃ。前の時代でヒュームやエルフに敵対した挙げ句に敗れたものだから、それにあやかって不都合な神を『魔神』と呼ぶようにしたと思えば不思議はないのじゃ」

 そう言われたところですぐに納得できる話ではない。

 とはいえ一方で、複数の魔神に対し、たった一人の女神の存在を謳った者たちに覚えはある。

「悪いがオールドーズは敵だ。こいつらは、俺の古巣とは相容れない」

 吐き捨てたカレンの言葉が先回りした答えとなる。

 オールドーズが謳った女神、勇者に恩寵を与えたという女神、それが人々の恐れた魔神と変わらぬ存在なのだとすれば。

 否。

「グレイといったか? お前も魔神なんだろう?」

「魔神ではなく神なのじゃ」

「そんなことはどうだっていい」

 奇しくもカレンの言葉をなぞりながら、脳裏に描くのは未知の勢力図。

 魔神と呼ばれた神。

 女神と呼ばれた神。

 魔王と呼ばれた王。

 それらが相争う未来、……それが終焉の時代であり、既に干魃に見舞われてきた今というわけか。

 信じ難い。

 だが、信じなければ何かが変わるのか? 森は死んだ。何もかもを連れ立って。

「神同士で殺し合い、王とも殺し合い、その果てに何があるんだ」

 そんなものの犠牲になったのか、私たちの森は。

「世界の全てじゃ」

「世界がなんだって――」

「全て、なのじゃ。前の時代、勇者は覇者となったのじゃ。その果てに何を得たのじゃ? 今の時代じゃ。ヒュームとエルフ……勇者に味方した種族の繁栄、敵対した種族の淘汰。それが戦争の果てに得られた世界の有り様なのじゃ」

 耳を疑う言葉だ。

 それこそ信じられない。戦争に勝てば種族の繁栄や淘汰までもが自由自在だと? 馬鹿げている。あまりに馬鹿馬鹿しい。

「私たちは、」

「全て、神と王の手の平の上なのじゃ」

 ふざけているのか。

 それがティルの姿をしていなければ、すぐにでも掴み掛かっていた。ティルの声で、ティルと同じように、けれど不可思議な言葉を喋る存在……これが神だと? こんな者たちが世界を巡って戦い始めると?

「お主の憤り、あるいは虚しさ、それは分かるのじゃ」

「だったら……ッ!」

「だが、それが世界なのじゃ。一方的で、理不尽で、救いなど用意されてはいない。それが世界というものなのじゃ」

 ぐっと喉の奥で音が鳴る。

 次いで吹き上がるように湧き出てきたのは、空虚な笑い声だった。

 なるほど、確かに。そう言われてみればその通りだ。

 神だとか王だとか言われてもピンと来なかったが、そもそも魔神は天災にも例えられていた。一方的でなく、理不尽でもなく、救いを用意してくれる天災があるか?

「ただ先にも言ったが、儂らは既に一人は倒したのじゃ。全く太刀打ちできない相手ではないのじゃ」

 それがなんの慰めになるだろうか。

 いいや、違うな。

 ただただ悲観ばかりしていても始まらない。森の死も、世界の摂理も、受け入れようが受け入れまいがお構いなしに私たちを襲ってくる。逃げ道はない。立ち向かうしかない以上、前を向くしかないのだ。

 上を見る。

 そこには星々が輝いていた。

 やけに視界の通る夜だ。これも時代なのか。

 まぁ、どうだっていい。

「それで?」

 ちらと目を向ければ、相変わらずルネの頭にトゲネズミが鎮座している。

 ルネはやはり気になるらしく、ふすふすと鳴らす鼻先で精一杯追い掛けてみるが、届くはずもない。トゲネズミが得意げな面持ちでルネを見下ろしているように見えるのは……いくらなんでも気のせいだろう。

「このトゲネズミはなんなんだ?」

「だからトゲネズミなんて生き物はいない」

「喋るネズミも私は見たことがないな」

 どうにも口の動きと声が合っていないのだが、これはまさかマナに乗せて声を届けているのか?

「あー、おほん」

 横合いからこれ見よがしに咳払いを挟んできたのはグレイだ。

「儂が教えると言ったのじゃ。こやつはな――」

「嘘だな」

「まだ何も言ってないのじゃっ!?」

 大袈裟に驚いてみせるグレイだが、本当に気付いていないのだろうか。あるいは気付いた上で私を試すつもりか。

 どっちでもいい。

 どうあれ茶番に付き合う気がないのだから、まともに聞くだけ無駄だ。

「グレイだかグレーだか知らないが、お前は本当にティルに似ている」

 神とやらは、どこまでも常識外れらしい。

 未だにティルが悪ふざけをしているのではないかと思えてしまうくらい、何から何までティルそっくり……いや、ティルそのものだった。

 違うと分かるのは、ティルが最早長くないことを森の惨状とともに知っているからだ。そこだけが悲しい。でなければ、あるいは、と可能性に縋ることもできたのに。

「ティルは嘘が下手なんだ。すぐに目が泳ぐ。隠したいものを見られたくないから、仕草も何も大袈裟になる。お前は今、嘘をつこうとした。これからもだ、お前がティルの姿でいれば嘘をつけない。正直に教えてくれ」

 カレンが受け入れ、ルネが居心地悪そうにし、グレイが隠そうとするそれ。

 トゲネズミ。

「そいつは何者なんだ? ただの獣じゃないことくらい、私にも分かるぞ」

 手を伸ばす。

 ルネが一瞬怯んだように鼻先を引っ込めたが、すぐにヒクヒクと動かしながら寄ってきた。必然、頭上にいるトゲネズミも私に近付く。

 そいつは私の方をじっと不安げに見上げ、それからきゅっと目を閉じた。

 頭を、そっと撫でてみる。

 ふわふわだ。なのに、つやっとしている。不思議な手触り。カレンの獣毛とはまた違う、ずっと撫でていられる心地良さがあった。

「神の権能と言って、神はただ戦いマナを放出するだけで周囲に桁外れの影響を及ぼすのじゃ」

「嘘じゃなさそうだな」

「その影響で特別な肉体を得て、人語を解するようになったオオネズミ……と説明するつもりだったのじゃ」

「そうか。前半は嘘で、後半は真実だな」

「本当に嘘か真か見分けられるらしいのじゃ。これは不便じゃ」

「いいから、教えろ」

「そやつはじゃ、エレカ」

 グレイが言葉を探す。

 瞬間、鈴の音が鳴るような甲高い声が持ち上がった。

「ぷっ!」

「ぷ?」

 視線を戻す。

 ルネの頭上で、トゲネズミが器用に立ち上がっていた。

 ぷるぷると震える後ろ足で全身を支え、どんなに持ち上げても腕になることはない前足が必死にバランスを取ろうと小刻みに動く。

 そして、小さな口が開かれた。

「――私は、ぷらちらち!」

「おい、こいつ噛んだぞ」

「大一番で噛んだのじゃ」

 トゲネズミが涙目になる。

 あれ、ネズミの目に涙を流す機能なんてあったっけ。思い出せない。そもそも興味もないから、思い出すとか以前に知らなかったと思うが。

「ま、まだこの口では喋り慣れないのだ」

 その割には妙にはっきりと喋っている気がするものの、実際に声を出すのとマナに乗せるのとで違うんだろうか。

「ええと、お前はさっき噛んだのか?」

「聞いてやるな」

「鬼なのじゃ」

 なんだか仲良いな、あの二人。

 それに何故かむっとしている自分を見つけ、困惑してしまう。まぁ、そうか。いくらティルの姿をしているとはいえ、魔神と恐れていたはずの存在と仲良くしていれば変な感じにもなるだろう。

「二人はともかく」

 トゲネズミの方に向き直る。

 そいつはそろそろ立っているのも辛そうで、徐々にだけど前傾姿勢に戻りつつあった。

「お前はプラチというのか?」

「……」

 黙り込むトゲネズミ。

 肯定でも否定でも、答えた瞬間にグレイを見ればその反応から見抜けるはずだ。

 じっと見つめる先で、そいつは再び口を開く。

「そ、そうだち。プラチだち……!」

 消え入りそうな声で呟かれた、その瞬間だった。

「うひっ! うひひひひっ!」

 耳をつんざくほどの笑い声が聞こえ、はっと我に返って見やれば、グレイが私の知らぬ表情で腹を抱えんばかりに笑い転げていた。

 カレンも必死に声を押し殺しながら、それでも堪えきれず笑いながら目の端に涙まで浮かべる。

「プライド、こやつプライドを捨てたのじゃ!」

「やりっ……やりやがった。ほんとにやるやつがあるかよ!」

 またも心の片隅でむっとする。

 その正体に、今度こそ気が付いた。疎外感か、これは。

 仲間外れ仲間のトゲネズミ……プラチを見やると、白かった頬に朱を差している。明らかにネズミではない。魔神……否、神の影響でもないとすると、なんなのだろう。

 と、見ていた先で、プラチが遂にバランスを崩した。

 咄嗟に手を伸ばして、その前足をそっと握る。プラチも思わずといった調子で私の手にしがみつき、けれど手の平に乗るサイズではなかったから手首の辺りまで必死に這い上がってきた。

 温かい手触りの奥深く。

 そこに違和感を覚え、ようやく思い出した。

 聞き覚えがあるわけだ。

「なぁ、プラチ」

「な、なんだ……ち?」

「私がまだ小さい頃、お前と私は会ったことがあるか?」

 その声を覚えている。

 聞き慣れたようでいて、聞き慣れない不思議な声。

「そっ……そうだと言ったら?」

「教えてほしい」

 片手では支えられず、両手を皿にしてようやく落ち着いた懐かしいそれに、静かに頭を下げた。

「森は死んだ。全て、失われた。けれど、お前がいる。教えてほしいんだ、私は何を忘れている? どうして覚えているはずのないお母様を覚えている?」

 夢を見た。

 なかったはずの、過去の夢。

「私はエレカ・アーレンハート。この名に誓って、失われた森の全てを背負いたいんだ」

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