57話 終焉の幕開け
白い炎を幻視する。
据わった目に、確かな声音を重ねたエレカは、一歩また一歩と大地を踏み締めるように歩み出した。
その背にルネが、フシュカが、リューオが付き従う。
おかしい。
間違っている。
叫ぼうとした衝動が困惑に塗り潰された。
魔神?
それがどうした。
あぁ、言ったとも。魔神は膨大なマナを溜め込んでいる。今までの干魃を忘れたかのように降り出した雨が魔神の仕業かもしれないと。
己の口を、過去に遡って縫い付けてやりたい。
馬鹿げている。
マナ欲しさに魔神を相手取る?
だとすれば百人でも千人でも一万人でも、罪のない人間を手に掛ける方がよほどマシだ。まだしも成功の可能性はある。
だが、そんなことさえ些末に過ぎなかった。
俺は間違えたのか?
何もかもを、自分は人より知っていると思い込んで。
俺の知識など、オールドーズの入れ知恵でしかないのに。
「くそがッ」
死にかけの老体を見下ろす。
俺が、俺がこの手で喉を潰した。それで何ができた。何もできなかった。手当てをしなければ死ぬ。そんな暇があるか?
揺るぎない足取りで遠ざかっていくエレカを見やって、あまりに多くの、数え切れない過ちに思いを馳せる。
そんな暇が、どこにある?
救うと決めた。最初は救えなかった――、救えなかったのに救われたと礼を言ってくる者たちの代わりだった。
だが、今は。
ルネが一歩、大きく歩み出る。
それを知っていたかのように、エレカの姿をした女が歩幅を広げた。
一瞬だ。
ほんの一瞬で歩みは疾走へと変わる。俺が全力で跳んでようやく届くかという距離を一歩で踏み越え、瞬く間に彼我の差を離していった。
向こうには、俺を置き去りにする意図などないのだろうが。
最早、眼中にない。
あれに見えているのは前だけだ。
そこに何が待っている?
ふざけるな。
ふざけるんじゃない。
叫ぶ。
外套を捨ててきてよかった。脱ぐ手間すら、今は惜しい。
足が大地を踏み締める。足だけじゃない、全身を躍動させて背中を追う。
この後どうなるかなんて知らない。
あるいはルネも、こんな思いで主人を追い掛けたのだろうか。
俺はどこまで馬鹿なんだ。
エレカがエルフで間抜けだからと、竜馬たちが妙に懐くことに疑問を抱かなかった。あいつらはエレカを主人と仰いだのではない。エレカの中にいる、あの女に恭順したのだ。
魔剣では、なかったのか。
剣を鞘に収め、それでもなお喋り続けた女を見た。
なのに俺は。
「あぁァ――ッ」
咆哮。
まるで獣だ。
否、まさしく獣か。
抜き放ってはならぬ、禁忌の剣。そういうことかよ。あれはエレカの中に、何かを押し留めていたのか。
森まで戻っている時間はない。
最悪だ。
悔いる暇すらないのが慰めになるか。
足がもつれる。転びそうになって、ほとんど転びながら、片手だけで全身を跳ね上げる。足から着地し、また走り続けた。今ほど獣の肉体に感謝することもないだろう。
笑いそうになる。
笑えるわけがない。
今だけ本物の獣と化して、この大地を四足で駆け抜けたかった。
憎悪と渇望に震える声で吠える。あまりにも甲高い人間の、女のそれ。悲しくなってくる。俺は今まで、何をしていた。できたはずの何もかもを、してこなかったように思えてくる。
そんなことはない。
理性と本能が口を揃えるも、だったらどうしてと駄々っ子じみた思いが脳裏を埋め尽くす。
どこまで走ればいいんだ。
どうすればエレカに追い付けるんだ。
そもそも、エレカはもう――。
己の吠え声が思考を塗り潰した。
まともじゃない。
自覚はあった。
胸に渦巻く衝動と恐怖の、その呼び名から目を背ける。
走れど走れど、距離は縮まるどころか広がり続けるだろう。果てるまで走り続けてなお、何一つ叶わないかもしれない。
だが、それがどうした。
走り続ける以外に何ができる?
足を止め、跪き、祈れば女神が救ってくれるとでもいうのか?
終焉へと向かう干魃の時代に、奇跡の一つも起こさなかった前時代の遺物が?
噛み殺したはずの笑いが口の端を歪ませる。
笑い声は、零れなかった。
足だけじゃない、全身が悲鳴を上げている。
呼吸が追い付かずに肺は潰れそうになり、鉛と化した足をそれでも牽引しようと振り続けた腕が棒になりそうだ。
絶望に、視界が塞ぐ。
諦めなかったんじゃない。
ただ諦めきれなかっただけだ。
祈ることも、諦めることもできないまま、出涸らしじみた惰性で行き着いたそこに待っていた景色に。
しかし遂に、足が止まる。
「……は?」
どういうことだ。
意味が分からない。
我知らず零していた笑い声に、あまりの現実感のなさを思い知る。
星明かりが照らす夜の大地に穿たれた、無数の穴。
小柄な俺でなくとも、人間の二人や三人は呑み込んでしまいそうな巨大な穴。
こんな光景はイスネアからエルフの森へ向かう道中どころか、長く旅をしてきた中でさえ一度たりとも見たことがない。
どこかで道を間違えたか。
いいや、道なんてなかった。どれだけ走ったかも覚えていない。進む方角を少し間違えただけで、何キロも何十キロも進めば全く違う場所に行き着いてしまう。
「……そんな馬鹿な話があるか?」
鈍器で頭をぶん殴られたかのように、鈍い痛みが襲ってくる。
疲労という疲労が一気に溢れ出た。俺は幻覚でも見ているのか。己の正気を疑う方が、まだしも現実を疑うよりはまともに思えた。
「だと、しても」
それが足を止める理由になるか?
驚いた。
信じられない光景を見た。
それだけのことだ。
また一歩を踏み出す。前へと、進み出す。
走るだけの体力は残っていなかった。だがまぁ幸か不幸か、意味の分からない巨大な穴がそこかしこに空いている。走って落ちれば、死ぬことはないにしても抜け出すために時間がかかるだろう。
急がば回れ、か。
逸る気持ちを抑え込んで、どうにか言い聞かせた。
重い足で、確かな一歩を刻んでいく。
いつか、また。
叶わぬ願いを、天に委ねる気分には未だなれない。
祈らず、諦めず、然りとて諦めもせず。
物語に伝え聞く勇者のようだ。
勇者は女神に愛され、魔王を討ち果たしたが。
あるいは、俺にも女神が微笑んでくれたのだろうか?
笑ってしまう。
「…………フシゥ」
不承不承、呻くように鳴いたそいつの名を、わけもなく思い出す。
ルネ。
いくら夜目が利くとはいえ、竜馬たちを見分けるには足りない。そもそも昼間であっても、エレカがいない中で三頭を見分けられたかは疑問だ。
だが今、無数の穴の中でも一際大きな穴を背負って佇む竜馬を見て、他の二頭の名は浮かばなかった。
「貴様は何をしている」
問うまでもないだろう。
問うたところで、答えを返されたところで、意思の疎通など不可能だ。
だから俺は、何度目かの自分の愚かしさを自覚する。
「貴様は特に懐いていたからな」
最初の時からそうだった。
偶然か必然か、エレカが歩み寄って手を伸ばした竜馬。
それからずっと背に乗せ、獣にとっては命にも等しい足を犠牲にしてまで、自分にとって故郷でもなんでもない森へと連れていこうとしたルネ。
こいつはエレカに懐いていた。
たとえエレカではない何かに恭順しようと、それが永遠とは限らない。
「連れていってくれ」
「ふす」
俺はエレカじゃない。
何を言っているのかはさっぱりだ。
しかし背……というより尻を向け、二対の足を畳んで待つ姿に誤解する余地はなかった。
背に跨る。
と、すぐさまルネは駆け出した。大穴の斜面を下る。大穴の底には、僅かな水。
水……?
眼前の光景と、記憶の中の景色とが近付いていく。
エレカと並んで歩き、エレカを追って走った景色を一つ一つ、記憶から拾い上げていく作業。
その間にも、ルネは走った。
穴の底を通り過ぎ、斜面を駆け上がる。
地面は濡れていた。
這い上がるように穴を抜け出し、またしても異様な大地にガツンと頭を殴られる。
溝、とでも言おうか。
それは、……そうか。
穴から這い出した何かが、ずるずると巨大なものを引きずっていったかのような。
そんな大きな溝が大地に刻まれている。
記憶と現実が、カチリとハマった気がした。
イスネアを飛び出していったエレカの背を追いかけ、ここにはいない二頭の竜馬と駆け抜けた大地の、その先。
ルネが足を折り、足止めを強いられたエレカが二ツ目烏どもに襲われていた、あそこには巨大な岩が幾つも突き出していた。
あれを全て引き抜いたら、どんな光景になるだろう。
顔を上げる。
鮮烈な白い炎が、遠くの空に煌めいた。
ルネが吠える。
あそこだ。
あそこにエレカがいる。
干上がった川底を思わせる、湿った溝の道。
その左右には巨岩を引き抜いたかのような大穴が夥しいほどに穿たれているも、エレカたちが二ツ目烏に襲われていた場所にとて、これだけの数の岩はなかったはずだ。
現実とは思えない光景に、却って冷静さを取り戻しつつある自分を見つける。
向かう先。
夜闇を斬り裂く炎の煌めきが連鎖する。
ヴォン、ヴォンと遠く離れた音が聞こえ、次いで振動する空気が頬を叩いた。ルネは怯むどころか加速する。
直後、ウォォンと腹の底まで揺さぶる咆哮が聞こえてきた。
ルネが忙しなく耳を動かし、身を低くする。そうと気付いた時には、半ば条件反射で俺もがっしりとルネにしがみついていた。
空に向いた後頭部の、微かに上を爆風が通り過ぎる。
後ろ髪を引っ張る猛烈な風に身を起こしたくなるが、まだだ。
過ぎ去っていった爆風が、今度は押して返す波となって背中に襲い来る。尻がふわりと浮くほどだ。さしものルネも走りながら踏ん張るなんて芸当はできず、ほんの数瞬だが犬掻きするかのように前足を彷徨わせた。
両の前足が再び大地を捉え、体重移動が安定する。
そんなルネの背で手綱を離し、足だけで身体を支えながら風に抗って上体を起こした。
現実離れした攻防の、その全貌を遂に視界に収める。
巨体だった。
メイディーイルを襲撃した魔物など比ではない。
ただでさえ高台に位置するイスネアの、数メートルに及ぶ防壁の更に上。
半透明の肉体を持つそれは、腕のように伸ばした左の触手で防壁を掴み、長く長く伸ばした右の触手で白い炎を追い掛ける。触手の先には、不揃いの巨岩が三つ。
一見しただけでは緩慢にも思える動きで、三つの岩が炎に迫った。
だが、この距離、あの体躯だ。緩慢であるはずがない。あるいはルネの全力疾走にも匹敵するであろう速度で迫り来る巨岩に、白い炎は動きを止めた。
「……ッ」
息を呑む。
想像した未来は、訪れなかった。
岩が弾け、巨体が飛沫を上げる。
と、次の瞬間には視界が大きく傾いていた。ルネがいきなり進路を変えたのだ。
ぐぅと喉から空気が絞り出されるのを感じながら、放してしまっていた手綱に手を伸ばす。届かない。五指は空を切り、全身が空中に投げ出された。
すぐさま左手で大地を掴む。
頭だけでも守るために右手を掲げたその時には、既に耳のすぐ脇を巨岩の破片……そうは言っても直径で数十センチはあろう岩が横切っていた。
その岩の向こうで、ルネも別の破片を避けながら俺を見てくる。
間一髪だった。ルネが避けなければ……いや、避けたとて俺があそこで投げ出されていなければ、飛んできた岩をもろに受けて死ぬか、当たりどころが良くても片腕くらいは持っていかれていただろう。
しかし、そこに安堵はない。
俺とルネにとって絶体絶命の危機だったそれは、単なる余波に過ぎないのだ。
前を見、イスネアが栄えたはずの高台を仰ぐ。
半透明の巨体。
あれが……あれも、魔神なのか。
青とも緑とも、灰色ともつかない濁った液体。それが半透明の肉体を形作っている。どちらかといえば縦に伸び、体重を支えるために左手を使い、白い炎を追うために右腕を伸ばしている姿。
そこだけ見れば人型に見えなくもないが、魔神はすぐに形を変え、ほんの十秒とて同じ姿ではいない。
液体でできた肉体。
その手足である触手の先に、恐らくは大地に突き立っていた巨岩を据えている。
ただの液体では足りぬ破壊力を、あの巨岩で補うつもりらしい。
とはいえ存在し、そして動くだけで途方もないマナを浪費しているのは明白だった。
再三降った雨はあれの肉体だったのか、はたまた目覚めるために漏れ出ただけのマナが起こした奇跡か。
どうあれ、人間の手が届く領域ではない。
気を抜けば笑いそうになる。
己の正気を疑い、高熱を出してうなされながら見る夢か何かだと思った方がよほど気は楽だっただろう。
だが――。
駆け寄ってきたルネと横に並び、走りながら空を見上げる。
白い炎は、何を踏み締めるでもなく虚空に立っていた。
「信仰なき神、忘れ去られた旧き神。さながら亡者の有様よ」
大声を放ったわけではないのだろう。
ただ嘲笑っただけの声が、やけに鮮明に夜闇を震わせた。
液体の魔神が怒号する。第三の腕を形作り、虚空に佇む、己と比べればあまりにも小さい炎に伸ばした。一の腕と二の腕が左右から迫って、白い炎を包み込む。
液体の中で、炎は変わらず燃えていた。
それどころか星明かりを帯び、強く激しく煌めいている。
魔神の腕が爆発する。
大量の水飛沫が直後には白い蒸気と化し、降り注ぐことなく天へと消えた。
虚空で、それは笑う。
「貴様の名は知らん。知る価値もない」
それは、女の姿をしていた。
魔神に比べれば小さく、しかし俺よりは長い手足。
耳もヒュームよりは長く、その先は尖っている。
爛々と輝く瞳は、炎を宿したがごとく紅く。
「名乗れぬ神に、存在する価値は、意義は、必要はない」
エレカによく似た姿の、
エレカだったはずのそれは、
力強く、その手を引いた。
否。
引き絞る。
何もなかったはずの虚空に、見えない何かを確かに感じさせた。
「さぁ、私の贄となれ」
それは一瞬、輪郭を覗かせた。
槍か。
燃え盛る炎を長く細く、何より鋭く引き絞った不定形の槍。
女は、それを無造作に放った。
魔神の肉体、その液体が引き裂かれる。苦悶の叫びが空気を震わせ、形を保てなくなった触手が雨となってイスネアに降り注いだ。
どこが頭部かも、そもそも眼球やそれに相当する器官があったのかも定かではない。
だが、魔神は遂に、女を見上げる。
崩れ落ちていく魔神を見下ろし、聞き慣れたはずの声が、不快なほどの響きをもって夜闇に奏でた。
聞かずとも、分かってしまう。
人の手に負えぬ存在を、ああも容易く屠るのならば。
「我が名はエレカ・プラチナム・アーレンハート。反逆の狼煙を上げた、新しき神である」
それは、等しく魔神と呼ぶべき存在なのだろう。




