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五十六話 忘れ得ぬ衝動を胸に抱いて

 一閃。

 鋭く尖ったマナの刃が水平に薙ぎ払われ、炎に包まれた木々を斬り払う。

 白い炎。

 郷愁に似た思いが胸を焦がす。

 なんだろう。

 なんなんだろう、これは。

「力を……! マナを貸しなさいッ!」

『きひひっ。甘ちゃんなのじゃ。奪え、喰らえ。それが力なのじゃ』

「なっ……契約は!?」

『無理言うななのじゃ。儂はそも力を貸し与える存在ではないのじゃ』

「だったら――」

 金の髪をたなびかせる、エルフの女性。

 お母様……?

 それなら、どうして。

 お母様が剣を、鈍色の長剣を鞘に収める。

 次の瞬間、放たれた一撃を目で追えたのは奇跡だった。

 自身の胴回りよりも太い幹を一太刀のもとに両断し、巨木を薙ぎ倒す。一本だけじゃない。抜き放たれた長剣の切っ先から迸るマナの刃が幾本もの巨木を一度に殺す。

 お母様が……、エルフが、森の木々を。

 白い炎が唸る。

 螺旋を描くように燃え上がるそれは、憎悪に震えた。

 憎しみが、怒りが、屈辱的なまでの悔しさが木々を呑み込む。

 しかし、それ以上は広がらなかった。広がれなかった。

 薙ぎ倒された木々が白い炎に巻かれるも、それは炎が勢いを増したからではなく、木々が既に炎に包まれていた森へと倒れ込んだからだ。

 まだ無事な木々は、いずれ火の手に呑まれる。

 そうして広がった炎がまた新たな木々を呑み込む以上、他に手段はない。

 言われれば、分かる。

 ただ、頷けるかといえば答えは否だ。

 母の目を見据える。

 そこにあるのは、あぁ、そうか。

 夫婦は似るというからな。

 恐ろしいほどの、悍ましいまでの覚悟。

 悲壮感さえ漂わせぬ、厳然たる佇まい。

「我らの父母、私たちの子供、アーレンハートよ」

『名乗るのじゃ、口上を叫ぶのじゃ! さすれば世界は――』

「ただ、眠りなさい」

 切っ先を向けられる。

 あの、鈍色の長剣。

 睨んだとて止まりはしない。

 一閃が炎を斬り裂く。直後に回り込んで伸びた炎が蔦を掴んだ。葉を灰とし、根を焦がそうと伸びるも、それより早く蔦が増殖した。無数の蔦が、巨木の幹ほどもある枝が、天を覆い尽くす葉が、白い炎を閉じ込めていく。

 逃げ延び、未だ燃えたがる炎は長剣に斬り捨てられた。

 喉が喘ぐ。

 憎悪を、渇望を、矜持の限りに咆哮する。

 閉じていく世界に、ふと、光が見えた。

 暖かい金色。

 瞳は優しく煌めいていて、だからこそ拒絶以外の道はなかった。

 白い炎が爆発する。

 白が金を呑み込んで、零された呟きを掻き消した。

 お母様の口が何かを言祝いだ。

 聞こえない。

 聞きたくない。

 そして世界は闇へと――……。



   × × ×



「……はッ」

 飛び起きる。

 大量の汗と堪え難い喉の乾きを覚え、喘ぐように息をする。

「はっ、はぁ、はぁ……」

「エレカっ!?」

 カレンが駆け寄ってくる。

 外套を脱ぎ捨て、獣毛を隠さなくなった彼女。

 その柔らかい指先が伸びてきて、そっと頬を撫でた。手は顎から首筋へと下がっていき、汗を拭い去ってくれる。

 指が離れていく名残惜しさを噛み締めるより早く、差し出された水を貪るように飲んだ。貴重な水だ。だけど構う余裕もなく、拭ってもらったばかりの顎や首筋を濡らしてしまう。

 これで何度目だ。

 毎晩、同じ夢を見る。

 あれから。

 思い出したくもない、悍ましい光景に出会ってしまってから。

 ティルの笑顔が脳裏をよぎる。

 吐き気が喉元まで迫り上がってくるも、吐き出すものなんか胃に入っちゃいない。飲んだばかりの水が唾と絡んで喉に引っ掛かり、それで終わりだった。

 カレンは何も言わず、私の全身を抱き寄せる。

 暖かかった。

 なのに、冷たい。

 見上げた空は、夜だというのに明るく星々が輝いている。

 気が付けば視線がルネを探していた。

 気を抜けば、今にも立ち上がって走り出してしまいそうだ。

 あの夢はなんだ。

 考えてはいけないと理性が叫ぶ。

 けれど、思い出せと本能は呻いた。

 立ち上がろうとする私を、カレンの両腕が押し留める。それに気付いて足から力を抜いた。手を地面から浮かせ、大丈夫だと声にならぬ声を漏らしながらカレンの背を撫でる。

「大丈夫なんかじゃない」

「痛いよ、カレン」

「だが」

「大丈夫だ、大丈夫」

 自分でも何が大丈夫なのかなんて分からない。

 しかし今にも泣き出しそうなカレンに、他に何を言えばいいのかも分からなかった。

 空を見上げる。

 黒い夜空に、星々は力なく瞬いていた。

 辺りは夜闇に包まれ、枯れ木を揺らす風の音が時の流れを思い出させる。

「……?」

 カレンの肩を叩く。

 離すものかと余計に力が込められた腕に、そっと手を寄せた。

「音がする」

「……音?」

 カレンには聞こえなかったのか。

 もう一度、耳を澄ませる。微かな物音。視線を走らせると、足を畳んで休憩中だったルネが立ち上がろうとしている。フシュカもそれに続いた。リューオはカレンを見やり、私を見据える。

「何か来る」

「何かって……や、待て。くそ」

 カレンが苛立たしげに吐き捨てる。

 ようやく私を解放してくれた。手を握ったり閉じたりしてみると、体力の衰えを感じる。だが、一人で立つには十分だ。

 伸ばされた手を借りて立ち上がり、すぐに離す。

 無意識に伸ばした右手は、左腰で空を切った。魔剣。マナの塊。

 これから訪れるという、マナが失われる断絶の時代。

 その暗黒期を、せめて神樹だけでも乗り越えるためには膨大なマナが必要だ。カレンが言うには、既にエルフでなくなったトロルたちは、ただマナをかき集めるためだけに一生を費やすらしい。何代も何代も、ただ神樹を生かすためだけに。

 獣が魔獣となるのと同じ。

 エルフもまた、終焉の時代に抗うべく姿を変じる。

 新たな時代の幕開けに、生き延びた神樹が新たな蕾を芽吹かせるために。

 私の記憶なのか単なる悪夢なのかも定かでない夢を思うと、あの剣が本当に魔剣だったのかも怪しいところだ。

 しかし、どうあれ森に……神樹に捧げる以上の使い道もないだろう。

 私一人が生き延びたところで、マナが失われた暗黒期を乗り越えられるわけじゃない。

 夜闇の向こうから聞こえてくる、何者かの足音。

 その主に、長剣があれば立ち向かえたかもしれない。だが、立ち向かって何になる? 生き延びて何になる?

 待っているのは、虚無だ。

「ふゥしゅるルルゥ……」

 ルネが奇妙な声で威嚇する。

 それを聞き付けたのか、聞こえてきていた足音が止まった。

「くそっ、もう気付きやがったか」

 男の声。

 しゃらん、と鉄と鉄が擦れ合う微かな音。

 やる気か。

 臨戦態勢を取る男に対し、ルネは先制攻撃を選んだ。――が、飛びかかる寸前。

「まっ……! 待てッ!」

 カレンが叫んだ。

 ルネが聞くとも思わなかったが、機先を制され鼻白んだ感じだ。振り返り、私を見てくる。視線で、待てと訴えた。そっぽを向く。それだけだった。

「女ァ? やぁ、そん前に人間だと?」

 男が吠える。

「まさかオールドーズの巡礼者様じゃあ、ねえだろうな?」

「貴様は巡礼者が外套を脱いだところを見たことがあるか?」

「あぁ? あぁ、や、そうだったそうだった。女ってぇ分かる時点で、おかしな話じゃねえか」

 闇を挟んで、男とカレンが言葉を交わす。

 ルネは出方を窺っていた。それをフシュカとリューオが窺っている。

 戦況は、どこで動くか。

 なけなしの体術でもないよりはマシかと覚悟を決める。腹の底で何かが鳴いた。空腹の虫じゃなさそうだけど、噛み締めた渇望は空腹のそれによく似ていた気がする。

「それじゃあ、てめぇらは何者だ?」

「そういう貴様はオッチだろう? オットーは死んだぞ、獣化症にやられてな」

「あァ……!?」

「いや、悪い。貴様の弟はとっくに死んでたっけな。貴様の、弟子の方のオットーよ」

 オッチ。

 オットー。

 ぐちゃぐちゃに歪んだ記憶が点を浮かばせ、線を結ぶ。

「何者と聞いたな? 俺の名はカレンだ。カレン・シュトラウス。既に捨てた名だが、貴様にはそれで十分だろう?」

 獣化症で死んだ男。

 死を偽装し、行方を眩ませた男。

 オッチとオットー。それは元々、一人の男が名乗っていた名であり、男とその弟の名であり、オールドーズ教会に与した男たちの名でもある。

「シュトラウス? シュトラウスって言やぁ、確か跡継ぎが魔神に……くそっ、そういうことかよ! 禍福の旦那」

 男が――オッチが下卑た笑い声を上げる。

 止まっていた足音が再び聞こえた。音は近付いてくる。ルネが今にも飛びかかりそうな勢いで威嚇し、それに大袈裟に驚く影が闇の向こうに薄っすらと見えた。

 オッチが、遂に姿を現す。

 こちらから見えたということは、向こうにも見えたということだ。

「ははぁ。そりゃあシュトラウスも死んだって言うしかねえわな」

 白髪の老人。

 一見すると老木を思わせる細身だが、身のこなしと視線の動きが常人のそれではない。ルネが飛びかからなかったのは、単に飛びかかる隙がなかったからか。

 ボロ布を編んでまとめただけの、巡礼者の外套とは雲泥の差であるボロ外套で身を包み、オッチは枯れ枝が風に吹かれるかのように笑い声を上げた。

「禍福の旦那、こりゃあオレは殺されるわけか?」

「貴様の返答次第だ」

 いきなり物騒な問答だ。

 だが互いに、冗談を言っている気配はない。

「魔神狂いの貴様がこんなところで何をしている。この先には」

「この先には、そうさな、エルフの森しかねえな」

「それが分かっていて――」

「いや待て、待ってくんな。禍福の旦那は短気でいけねえ」

 魔神。

 エルフの森。

 胸の奥底で悪夢が蘇る。

 点が浮かんで、線を繋いで。

 そして……?

「オレぁ、逃げてきただけなんだ」

「逃げてきた? 貴様が? 何から……いや」

「決まってんだろう? 魔神だ、魔神からだ。いやぁ、ようやくこの目で見れたと思ったんだがなぁ、ありゃあ正真正銘の化物だな」

「黙れ」

「いやいや、オレぁ親切で言ってんだぜ? ありゃ手に負えねえ。あんたらオールドーズでもなぁ。つうわけで、魔物の巣窟だかなんだか知らねえが逃げるには」

 オッチの声が不意に途切れた。

 いつの間にか距離を詰めていたカレンが獣毛に覆われた五指でオッチの首を掴んでいる。喉から、ビュゥと息が漏れ聞こえた。

「黙れと言ったはずだ」

「ぐ、ぐぉ」

「聞こえなかったか?」

 オッチが黙る。

 それを見届け、指から僅かに力を抜いた瞬間。

 手を弾き、逃げ出そうとしたオッチの喉を今度こそカレンの手が鷲掴みにする。軋む音が聞こえた。白目を剥き、引き剥がそうと伸ばされた両手はカレンの手に届く前に脱力し、垂れ下がる。

 カレンは、片手で老人を捨てた。

 息はある。

 いつまで持つかは、興味もない。

「カレン」

「忘れろ」

「忘れられない」

 忘れられるものか。

「魔神と言った」

「あ? 魔神? それがどう――」

「魔神は、膨大なマナをその身に蓄えていると言ったな」

 マナの溜め池。

 それが魔神という存在なのだとすれば。

 何かが噛み合う。

 暗闇に覆われていた視界がぱっと開くように、世界が明るさを増していく。

「きさ……お前、何を言って……ッ!?」

「魔神だ。魔神。魔神を、」

 熱い。

 熱い。

 あまりに熱く、燃え滾る。

「エレカ……?」

「そうだとも」

 あぁ、そうだ。

 どうして忘れていたんだろう。

 それを生かしておいてはいけない。

 魔神は、この手で――

「鬨を上げよ。戦の、反逆の始まりだ」

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