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54話 新しき舞台に口上を

 白い炎が愉快に踊る。

 激しくて優しいそれは、まさにエレカ様だった。

 エレカ様はいつもカッコいい。

 ううん。

 笑った時は可愛い。

 でも大抵、エレカ様は控えめに笑う。いつも一歩引いて、自分は違うと言い聞かせるみたいに。

 だから引っ張り出して、一緒になんて駆けっこしたりお昼寝したり、可愛く笑っている姿を見るのが好きだった。

 だけど静かで厳しいエレカ様も、やっぱりカッコよくて好きだ。

 それなのに大人たちは、これっぽっちも気付きそうにない。

 どうしてなんだろう。

 大人たちは大声を上げながら走り回っている。川で汲んできた水で消火しようとする人もいた。どう見ても桶の水で収まる火の手じゃない。

 というか、あれはエレカ様の炎だ。

 エレカ様が森のためにならないことをした試しがあったか?

 ない。

 絶対にない。

 だから焦ることなんかないのに、大人たちは慌てふためいて駆けずり回る。

 最期には自分たちで燃やしたくせに。

「……え?」

 あれ?

 じゃあ、この森はなんだろう。

 見えない目で見た、エレカ様の姿を忘れることはないだろう。

 なら今、目の前に広がる森は一体なに? どうして目が見えてるの?

 夢か。

 それしかない。

 気付くと、それまで気付けなかった違和感にも目が向く。

 森の一角を包んで燃え盛る炎に歩み出て、消火のために駆け寄ってくる者たちを払い除ける姿があった。あれは森長だ。でも若い。あんなに若い森長は見たことがなかった。

 見たことがない?

 夢なのに、夢だからか、不思議な感じがした。

 首を傾げていると、後ろから凛と響く声が聞こえる。

「エレカ様……じゃあ、ない?」

 カッコいい声だった。

 静かで、厳しく、いつでも森のことを考えている。

 だけど笑ったら可愛いんだろうな、と声だけで確信できた。振り返り、確信したそれが真実だったと知る。

 エレカ様そっくりだった。

 違うかな。

 エレカ様がそっくりだったのか。

 違うのは、髪の色だけ。

 エレカ様が隠しているつもりで隠せていない、髪の色への不満。

 銀色の髪はカッコいいと思うんだけど、もしかしたら森長から聞かされていたのかもしれない。

 金色の髪をしたエレカ様。

 そう呼ぶのがぴったりな大人の女の人。

 近付いてきたところを見ると、背も少し高いかな。でもエレカ様はまだ若い。もう少し伸びる。胸だって膨らむだろう。だから負けてない。

『何をしている、エレイン』

 森長が、記憶より少し若い声で女の人を呼んだ。

 エレイン。

 聞いたことがある。エレカ様のお母さんの名前だ。やっぱりそうだった。あんな美人なら森長が二人目の奥さんを作らないのも分かる。あと、あんなにそっくりなら溺愛もするだろう。

 そっくりじゃなくても、森長はエレカ様のことが大好きだったはずだけど。

『この炎、見て分からないのですか』

『これは私の、森長の問題だ。お前たちは下がりなさい』

『いいえ。これは森の問題です。私たち皆が背負うべき罪です』

『罪だと?』

 すぐそこで交わされる言葉は、どこか遠くから響いてくる。

 景色も、いつの間にか霧に包まれたように少し曖昧になっていた。

 若い森長が怖い顔をしたけど、よく見えなくなっていたお陰で咄嗟に目を背けずに済んだ。

『まったく、儂を置いて出ていくとは何事なのじゃ』

 なんの前触れもなく、いきなり誰かが声を上げた。

 目を背けず、ずっと見ていたのに、いつそこに現れたのか分からない。

 森長に似た顔の老人。声もお爺ちゃんだ。

 だけど、おかしい。

『なんの用だ……!』

 森長が怒っている。

 どんな大人でもビクッと肩が跳ねちゃうくらい迫力満点なのが森長の怒鳴り声なのに、お爺ちゃんの姿をした誰かは顔色一つ変えなかった。

『そんな邪険にされると心外なのじゃ』

『これは貴様の仕業ではないのかッ!』

『儂のじゃと? 儂は役目を果たしているのじゃ。他に何を――』

『役目だとッ!? ならば、なんだ、これは! どうして森が燃えているッ!』

 こんなにも声を荒らげる森長は初めて見た。

 お爺ちゃんは不思議そうに首を傾げ、やっぱり不思議そうな声で言う。

『分からんのかじゃ? んん? 分からんのじゃ?』

『くそっ。今は貴様のおふざけに付き合っている場合ではないんだ!』

『お主から聞いてきたくせに、自分勝手なのじゃ』

『その顔で、その姿で、そんなわけの分からぬことを言うな!』

『ふむ? お主はジゼルを嫌っていたはずなのじゃが……まぁいいのじゃ』

 二人が言い合っている間も森は燃え続ける。

 白い炎は高く高く、長生きのエルフよりも長く生きてきた大樹たちと背比べをするみたいに空へと伸びていた。

 ごうごうと、めらめらと。

 今にも三人……森長とエレカ様のお母さん、それと謎のお爺ちゃんが立っている場所まで呑み込みそうな勢いもある。

『言い合っている場合では、ないのではありませんか』

 二人の間に割って入ったのは、エレカ様のお母さんだった。

 エレインさん。

 凛とした佇まいはエレカ様を思い出させて、少しどころじゃなく懐かしい。ちょっと涙が出そう。

『魔神よ、あなたにはこれがなんなのか分かるのですね』

『それはヒトが勝手に付けた呼び名じゃ。……さておき、そうじゃ。むしろ、お主らに分からんことの方が不思議なのじゃ』

『時間がありません。あれは、いったい?』

 あれ。

 エレインさんが眺めた先には、激しく燃え盛る炎の柱。

 あまりに高く伸びる白い炎、それは天まで届く階段にも見えた。

『あれはアーレンハートの意思なのじゃ』

『何を――』

『何を言っている! 私たちの意思だとッ!? 私たちが自ら森を焼くなど、あるはずがないだろう!』

 若い森長が叫んだ。

 そんなことがあるんだと、今のあたしは知っている。

 だけど、そうか。

 森長も若い頃は、そんなことを夢にも思わなかったのか。

 少しホッとした。もし最初から燃やすつもりだったならエレカ様が浮かばれない。あんなに森長のことを信じていたのに、最初から裏切られていたんじゃあんまりだ。

 だから、少しだけホッとした。

 許しはしないけど。できないけれど。

『何を言っているのじゃ』

 激昂する森長と立ち尽くすエレインさんを見ても、お爺ちゃんは曖昧に笑ったような表情を崩さなかった。

『お主はまだアーレンハートの名を背負ったつもりでいるのじゃ?』

『……何を言うつもりだ』

『お主は、お主らはアーレンハートの名を返したのじゃ。血と森、分かたれた二つを重ね、お主らは願ったはずじゃ。祈ったはずじゃ。裏切りの王への反逆を。そのための力を、今、あれは蓄えているだけなのじゃ』

 名を、返す……?

 お爺ちゃんの言葉は謎めいていて、何を言っているのかよく分からない。

 エレカ様は、だってまだ、エレカ・アーレンハートだ。

 あたしたちの森の名前を背負って、森長の次の森長になるはずだった。全ては森とともに焼き尽くされて、そのエレカ様もカレンだかなんだかっていう人と一緒に行ってしまったけど。

 本当はリクさんの役目だったのに。

 森長たち大人が森を燃やそうとなんてしたから、リクさんは森を守るために戦うしかなくなった。

 若い森長は愕然としている。

 その顔を今の、……少し前の、まだ生きていた森長に見せてやりたい。

『これが、ならば』

『アーレンハートの意思じゃ』

『だが、森を燃やしてなんになる。森は私たちの、エルフの住処だ』

『もう不要なのじゃ?』

 お爺ちゃんの、曖昧に笑った顔。

 それが誰かに似ている気がして、すぐにピンときた。

 森長だ。

 森に火を放った、その時の森長によく似ている。

『お主らは誇りを守るために、誇りを踏みにじった裏切りの王を殺すのだろうじゃ? 反逆に足る力を欲し、森と血を捧げたのじゃ? この森は最早、足枷でしかないのじゃ。アーレンハートが望むはただ一つ、森でもなければ誇りでもなく、憎き裏切り者への反逆のみなのじゃ』

 そこには怒りも悲しみもない。

 覚悟さえもなく、ただ決まりきった答えだけがある。

『森長は! ジゼルは! 我が父は! ……それを、その末路を、知って』

『お主とて、知らぬはずなかろうなのじゃ』

『私は……私は。違う、そんなつもりは――』

『あなた』

 顔をくしゃくしゃにして。

 最期の、あの冷たい顔からは想像もできないくらいに悲しみ、怒り、取り乱した森長の肩を、そっとエレインさんが触れた。

 優しく、それでいて凛とした面持ちには、見慣れてしまった覚悟が覗く。

『これは私たちの罪です』

『きひひ。お主は賢しいのじゃ』

『手を貸しなさい、魔神。それが契約です』

『魔神じゃないのじゃ。しかしまぁ、契約なら仕方ないのじゃ』

 森長が目を見開く。

 エレインさんを見て、言葉を失ったようだった。

『エレカのこと、頼みますよ』

『なにを……何をするつもりだッ』

『分かっているのでしょう? 誰かがやらねば。罪を背負い、償わなければ。私は母です、あの子の。他の誰に背負わせるものですか』

 魔神と呼ばれた、お爺ちゃんの姿をした何者かが高らかに笑う。

『人喰いの神が遂に神をも喰らうか。良い日じゃな』

『いいえ、喰らわせませんよ』

 エレインさんが炎を見上げた。

 遠く遠く、届かぬ高みへ手を伸ばすかのような白い炎。

『切り離すだけです。あの子に似合わない復讐心を、だから、私たちの手に取り戻すのです』

『苦手なのじゃ』

『では、アーレンハートに喰われますか?』

『人喰いの神が喰われては立つ瀬なかろう。仕方あるまい。……のじゃ』

 大切な何かを。

 だけど適当に、ぞんざいに、なんでもないかのように捨て去る顔で。

 魔神は、いきなり自分の左胸に、自分の手を突き刺した。

『ジゼルの子よ』

『……なんだ』

『守るのじゃ、ジゼルの宝を』

 深く深く、心臓の奥底まで刺し貫いた手は、やがて何かを掴んで引き戻された。

 剣。

 鋼の色をした、飾りも何もない、素朴な長剣。

『生憎、儂の得意分野は喰らうことなのじゃ』

『許しません』

『話は最後まで聞くのじゃ』

 魔神の声から、どんどん力が失われていく。

 剣の重みで腕が垂れ下がり、引きずられて倒れそうになる全身を、どうにか剣で支えている有様だった。

『これは我が身。我が力、そのもの』

 目は虚ろに。

『燃えた森は、戻らん。この剣で、全てを喰らえ』

 口もあまり回らなくなり。

『さぁ、口上を……』

 魔神は、動きを止めた。

 動かなくなった肉体とは打って変わって、まるで脈動するかのように爛々と輝く鋼色の剣。

 その柄を優しく撫で、そして掴んだ。

 エレインさんが、炎を見据えて短く呟く。

『我が名はエレイン・アーレンハート。神でもなく、王でもなく、勇者でもない。ただ、不肖の母として』

 魔神の肉体が崩れ落ちた。

 さらり、さらり。

 灰と化しては消えていくそこに、剣と同じ色の鞘が残された。

『これで満足ですか、魔神』

 手にした剣が答えることはない。

 だけど白い炎を反射して、僅かにキラリと光って見えた。

『エレカ。あなたには――』

 露を払うかのように、さっと剣が振るわれた瞬間。

 白い炎も燃えた森も全て、一瞬にして消え失せた。

 漆黒に等しい、ほとんど光のないどこか。

 音は遠く、木々や枝葉の揺れる音は聞こえない。

 どこだろう。

 目を凝らそうとして、思い出した。

「そうだ、目が……」

 忘れていた痛みが蘇る。

 手を、足を、耳を、全身を焼く紅い炎の熱を蘇らせる。

 痛い。

 怖い。

 嫌だ。

 だけど。

 エレカ様は絶対に帰ってくる。

 だから、その時まで……。

「あれ?」

 でも、エレカ様は帰ってきた。

 森長が燃やし、リクさんが守ろうとした、あたしたちの森に。

 じゃあ、あたしは、これから……。

 頭が痛い。

 何かを思い出そうとすればするほど、痛みと熱さが頭を埋め尽くす。

 逃げようと手を伸ばし、見えない目でなんでもいいから何かを見つけようとして、暗闇に浮かぶ白っぽい、黒っぽい、曖昧な影を見た気がした。

「きひひ。よかったのじゃ」

 灰色の影が笑っている。

 あたしは、それどころじゃない。痛い。熱い。もう、嫌だ。

「お主は生きておるようじゃ」

「……だ、もう」

「それは困るのじゃ。儂にはジゼルとの契約があるのじゃ」

 影は勝手に喋る。

 あたしの言うことを無視するなら、話し掛けてこなければいいのに。

 影はそこに浮かんだまま、どこにも行こうとしなかった。

「お主はあの娘……エレカとかいったのじゃ? ジゼルの孫娘が大切に見えるのじゃ」

「……ッ! れか様は、エレカ様は、だって」

「あぁ、よい。話を聞くのじゃ。最後まで、なのじゃ」

 影が笑う。

 見えないのに、見える気がした。

 お爺ちゃんの、あの怒りも悲しみもないように見えるのに、楽しさだけは溢れるほどにありそうな笑顔。

 あれか。

 影の正体は。

「そのうち、お主の従者たちが一振りの剣を持ってくるのじゃ。それを大地に突き立てれば、儂はエレインとの約束を果たし、この地にあやつの力を縛り付けるのじゃ」

 剣。

 エレイン。

 力。

 そんなこと、どうでもいい。

「だが、その剣を神樹に突き立てたなら――」

 影が笑う。

 きひひ、と不気味に、愉快そうに。

「儂はお主と契約しよう。脆弱なるヒトの子よ。お主にも願いはあろう? 祈りがあろう? 契約を交わすなら、儂は力の全てを尽くして、お主の願いと祈りを聞き届けよう」

 願い。

 祈り。

 その者を、エレカ様の二人の親は魔神と呼んだ。

 もし、本当に、神様なのだとしたら。

「エレカ様は、笑ったら可愛いんだよ」

 目を開く。

 強く、強く、残された力を使い果たすつもりで。

 目の前に、あの子たちが集まってきていた。

 見えないけれど、見える。

 その中の一人が、禍々しくも憎むに憎めない、不思議なマナの塊を手にしているようだった。

「エレカ様には、ずっと笑っていてほしい」

『それがお主の願いなのじゃ?』

 影は見えない。

 だけど声は聞こえたから、どこから見ていても見えるよう、しっかりと頷く。

「エレカ様の、可愛い笑顔を守って」

『お主の願い、聞き届けたのじゃ。我が名は……の前に、まずは剣を神樹に突き立ててほしいのじゃ。儂の力、まだ全然戻ってないのじゃ』

 魔神が笑う。

 緊張感も何もない、その気の抜ける笑い方が今は有り難かった。

 痛みも、熱さも、全てが遠のいていく。

 終わりの時間が近付いているのだと、気付かないわけにはいかなかった。

 だから。

「きひひ。お主らは愚かなのじゃ」

 なんでもいい。

 どうでもいい。

 ただ楽しそうに笑っている声が聞こえるだけでよかった。

 遠のく痛みと熱さ、そして多分、命までも。それが恐怖も一緒に連れていってくれる気がするように、無理やりにでも笑ってみた。

「幾億年の祈りでさえも、たった一時の願いで覆す。だから飽きぬのじゃ」

「あな、たは……」

「森のため、誇りのため、同胞のために。森を燃やし、誇りを捨て、同胞を手にかけ。だからこそ愛おしいのじゃ」

「……あたし?」

「我が名はグレイ・グレー・グール。人喰い鬼の名を戴く、旧き神が一人である」

 影は。

 もう、影ではなくなっていた。

「お主の願い、この身とともに確かに受け取ったのじゃ」

「……いよ、どうでも」

 そう。

 どうだっていい。

 なんだっていい。

 けれど全てが消える、その前に。

「必ず、だから」

「ふむ?」

「……でもいい。なんだって、いい。えれかさまが、あたしたちの、たからものが、……らって、……れる、なら」

 手が軽い。

 身体も軽い。

 痛みも、何もなくなって。

 真っ暗だった世界に光が溢れて、真っ白になった。



   × × ×



 森を救うと、エレカは信じていたであろう調合薬。

 ルネとリューオがメイディーイルからずっと運んできたそれを置き去りにして、俺たちは森を後にした。多少なりともマナを含んでいるなら足しにはなるだろう。

 それと、もう一つ。

「あの魔剣、手放してよかったのか?」

「……構わない。それで神樹が、森が救われるなら」

 覚悟ではなく、その残滓によって紡がれた声に返す言葉などあるはずがなかった。

 変異エルフ。

 伝説において魔王に与した亜人の一種、トロルによく似た異形たち。

 奴らの生きる目的は、たったの二つ。

 一つはエルフという種族を次の時代にまで繋ぐこと。

 もう一つは神樹を……エルフの森の中核を担うという、古の大樹を守ることだ。

 それ以外の目的を、奴らは持たない。

 子を守り育てるのが自分の務めと張り切る若い親たちですら、日々の欲求は幾らでもある。何もしなくても腹は減るし、夜になれば眠くなるだろう。あれがしたい、これが欲しい、それどころか自分の子供に腹を立てることだってないわけがない。

 欲求があるからこそ生き物であり、感情があるからこそ人間だ。

 だが変異エルフは、たった二つの目的のためだけに生きる。

 ただ生きているだけの存在を、生き物と呼んでいいのかは分からない。

「それに、あれを私が持っていたら困るんだろう?」

 笑っているつもりなのだろう。

 まるで笑えていないエレカになんと答えるべきか、考え始めたらいつまでも言葉を返せないことだけは知っていた。

「そうだな。抜けば災厄、抜かずとも重荷。だとしたら、マナの塊として置いておくのが最適か」

 マナとは万物の源である。

 雨も、風も、世界中の何もかもがマナによって生み出されるといわれていた。

 それがなければ俺たちヒュームも、エレカたちエルフも、他の獣や植物も生きてはいけない。

 時代を越える古の大樹も、マナがなくては同じ末路を辿る。

 そうはさせないために、変異エルフたちはマナを集めて神樹に捧げるのだ。

 奴らには視覚も聴覚もなく、ただマナを見る感覚器だけがある。

 そして空間にあるマナは移ろいやすく、そもそも集められるものでもないから、マナを多く含んだ物質を探し求めるという。

 俺も実際に見たことはなかったが、その話をするとエレカは迷いなく腰の剣を変異エルフに渡してしまった。奴らは戸惑う素振りさえ見せずに受け取り、他の個体も調合薬を手に森へと戻っていった。

 人間は襲わないようにできているのか、あるいは人体に蓄えられる程度のマナでは足りないのか。

 まぁ、後者だろうな。

 人間の身体で事足りるなら、そもそもトロルに酷似した姿に変異する必要がない。

 それなら一族心中という最悪の最期を迎えることもなかった。

 ふざけた話だ。

 エレカを追放した森のお偉方は、この末路を知っていたのだろう。

 たったの一人でも逃がしたのは良心の呵責からか、単に自分たちの血を後世に遺す可能性に賭けたのか。どちらにせよ、誇りのために森と同胞を殺す決断を下したことに変わりはない。

 ……だというのに。

 あのティルとかいう女と、森の前で朽ちていたリクとかいう男。

 あいつらは森とともに葬り去られるはずだった異形たちを、あろうことか生き残らせてしまった。あの二人だけじゃないのだろう。

 森の連中、女子供のみならず妊婦までも皆殺しにする手筈だったに違いない。そうしなければ意味がないからだ。

 全てを包み隠さず話していれば誇りのために心中したかもしれないが、エレカにそうしたように、何も告げずに始末しようとしたから反乱分子が生まれた。あれだけの数だ。いくら男女といえど、二人では足りない。

 森か、誇りか。

 信じて打ち明けるか、傷付けぬために覆い隠すか。

 どうだっていい。

 結果として、森も誇りも失ったエルフが一人、森を追放されたまま行く当てもなく彷徨うことになった。

 悲劇か。

 それとも喜劇か。

 笑えぬ、だが笑うしかない末路だ。

 この先どうすればいい。

 オールドーズの地位を使い、あるいは知識と権力に縋って生き延びる道を模索するか?

 無理だ。

 エルフにとっての父親や森の重鎮たちが、俺にとっての枢機卿たちだ。オールドーズを信じるわけにはいかない。俺一人なら使い捨ての駒を演じてやってもよかったが……。

 幸せにすると、啖呵を切ってしまった。

 相手が許し難い、愚かなエルフの小娘だとしても。

 どうあれ、エレカにこれ以上の悲劇を味わわせたくはない。

「禍福は……カレンは、全て知ってたんだろう?」

 ぐさりと胸の奥まで穿つ言葉に、あぁと短く返した言葉が声になっていたかは分からない。

「すまなかったな」

「なんでお前が謝る」

「私は随分と馬鹿なことを言っていただろう? 困らせたんじゃないかと、そう思ってな」

 エレカは力なく笑う。

 どうすればいいのか、また分からなくなった。

 それ以上の会話もないまま、どこへ行くでもなく来た道を戻る。

 リクは相変わらず立ったまま死んでいた。その傍らを通る時だけエレカは表情を歪ませた。悲しみというより、ひどく自分を責めているように見えた。竜馬たちは立ち尽くす死体に威嚇すべきか、エレカの傍に寄り添うべきか悩んでいるようだった。

 森を出ると、追い掛けてきていた変異エルフたちが踵を返す。急に匂いを見失った犬のようだった。

 いずれヒュームも同じ道を辿る。

 天導病はなまじヒューム本来の形を残すせいで、どんなにマナを蓄えられても肉体が持たない。

 反対にマナがなくとも生きられる肉体を手に入れた……つまりはエルフにとっての変異エルフに当たるのが、獣化症の患者たちだ。

 伝説においてはトロルと同じく亜人と呼ばれる者たち、半人半獣のコボルト。よく似た姿だと、誰もが察してはいながらも誰一人として口にはしなかった。人間とは似て非なる、しかも醜い姿の化け物たちを自分と重ねたくはなかったのかもしれない。

 だから奴らは変異エルフで、彼らは獣化症の患者だ。

 他の呼び名を認めてしまえば大切な何かが壊れる。

 しかし――。

 生き延びて、それでどうなる?

 終焉という結末は覆らない。

 覆すだけの力も知恵も、知識さえもない。

 エルフは長命だが、こんな状態のエレカがどれだけ持つかは考えたくもなかった。

 俺とて天導病と獣化症……二つの相反する『変異』が相殺することで奇跡的に生き長らえているだけの身だろう。

 泥を啜る真似をして終焉の時代に抗いながら、どれだけの時間を過ごせるものか。

 そこまでして、何を得られるものか。

 嫌な未来を思い描いてしまう。

 それに抗う気力は、皮肉にも灰の世界と化したエレカの森が与えてくれた。

 一足早い滅びを選んだがために、誇りも森も失ってしまった愚か者ども。

 ああはなるまい。

 俺一人ならまだしも、エレカを巻き添えにしてやるものか。

 腹を括る。

 泥水だろうが、汚泥だろうが、血なまぐさい腐肉だろうが知ったことじゃない。

 どんな苦痛も、屈辱も、地獄でさえも受け入れる。

 思い出されるのは、一人の女の言葉だった。

「エレカ」

 名を呼ぶ。

 エレカ・アーレンハート。

 仰々しい名前はどこか似合わず、それでいて不思議なほどに馴染んでいた。

「お前の願いを聞かせてくれ」

 守れと言った。

 果たせと言った。

 終焉の時代へ連れていけと言った、あの言葉の主は分からず仕舞いだった。

 だが、知ったことじゃない。

「この俺が、カレン・アーレンハートがお前の願いを聞き届ける。必ず果たすと、約束する」

 どうしても似合わず、当然ながら馴染みもしない名前。

 それを名乗ることこそが誓いなのだと、誰にともなく胸を張る。

「私は、」

 空を見上げた。

 今にも雨が降り出しそうな曇天。

 昼か、夜かも分からぬ、曖昧な今。

「もう一度、旅をしたかった。カレンと」

 未来には可能性なんてない。

 筋を作って零れる涙が、失われた未来を俺にも描かせた。

「しよう。これから」

 エレカは何も言わなかった。

 ただ小さく、首を振る。

 無理なんだと、その未来はとうに失われたのだと。

 知ったことじゃないと、その手を引いた。

「行くぞ、竜馬ども」

 吐き捨てた声は、自分でも背筋が凍るほどの憎悪に満ちていた。

 捨てよう、そんなもの。

 無駄なものの何一つ、持っていくだけの余裕はない。

「貴様らの主人が仰せだ」

「ふしゅっ!」

 元気良く応じたルネ。

「ふする」

 仕方ないと言いたげなフシュカ。

「……?」

 なんで貴様に俺の言葉が通じないんだ、リューオ。

 しかし、お陰で少し肩の荷が下りた。エレカが少し、ほんの少しだけ笑みを零す。それさえも罪だとばかりに直後には憂いが覆い隠したが、どうだっていい。よくやったとリューオを褒めてやる。

「まぁ、それじゃあ、約束だ」

「あぁ。必ず果たす」

「いつかな。いつか、そんな日が訪れたらと願っていた」

 失われた未来を。

 あるはずだったいつかを。

 取り戻してやるんだと、根拠もなく言い張ってやる。

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