五十三話 約束されたバッドエンド
黒と灰の世界。
それが私の生まれた森だと言われて、どうして頷けるだろう?
匂いがしない。
勿論、風に乗って鼻を撫でるものはある。
しかし、それは森の匂いではなかった。
森では草木の匂いに混じり獣の臭いが感じられる。川の匂いやそこで行きて死ぬ生き物の臭い、言うまでもなく私たちエルフも生きているからには大なり小なり臭うだろう。
だから眼前に広がる黒と灰の世界は、森なんかじゃない。
朽ちた世界。
そう、まるで終焉を迎えたかのような。
だけど奇妙なことに、そこには既視感があった。
その身に大量の水分を蓄えているのだから当然だが、生木は燃えにくい。にもかかわらず、見える範囲に無事な木はなかった。全ての木が燃え尽きている。
大地も焦げ、あるいは焼け落ちた木々の灰に覆われ、ここだけ夜が落ちてきたみたいだ。
緑が失われた、焦げ臭い森。
「……?」
違う。
違和感が生まれた。
そうだ、あの雨は森にも降り注いだのだろうか。
灰燼と化した森だけど、焦げ臭さはほとんどない。それなのに鮮烈な、むせ返るほどの煙と熱を思い出せる。
なんだ、これ。
分からない。
頭がぐちゃぐちゃする。
焦点が定まらない。視界が暗くなったり、そうかと思えば明るくなったり。嫌だ。目を瞑って、眠りに落ちたい。
何かが胃の底から這い上がってくる。
吐き気?
違う、これは――。
「エレカ。……エレカ!」
腕を掴まれる。
はっと我に返って、見下ろした私の左手は力強く剣の柄を握り締めていた。逆手に、およそ抜き放てない変な角度で力を込めた左手の指先は、あまりに力んでいたせいか白くなっている。
「大丈夫……じゃないんだろうが、気を確かに持て」
遠くで禍福が言う。
否、今まさに腕を掴んでいる禍福が遠くにいるわけがない。すぐそこ、ほんの数十センチも離れていないところにいる。
だというのに、随分と遠かった。
我に返った、あるはずのない記憶の奥底から浮かび上がった私を待っていたのは、吐き気を催す合唱。
呻き声に似た唸り声。
ウゥだかヴォゥだか、アァだかオァだか。
地獄、そう地獄だ。
それがなんなのかは分からない。思い出せない。私の知らない何か。
なのに、知っている。
地獄の底から這い上がってくるかのような、そんな唸り声たち。
それが森から聞こえた。聞こえ、続けていた。
頭が痛い。
胃の底からせり上がってきた胃酸が喉を飛び越えて脳まで達し、何もかもを溶かし尽くさんとしていた。
柄から左手を離し、禍福の手を払う。
前を見た。
リクは依然、立ち続けている。地面に突き立てた剣を支えに。身は痩せ細り、生きとし生ける全てのものの肉体を巡るはずのマナも感じられない。死んだのだ。それでも倒れようとしない。記憶の中にあるリクとは一致しなくて、思わず笑いそうになった。
弔ってやりたい。
けど、まだ無理だ。
唸り声は森の中から聞こえてきていた。何かがいる。森の中に。燃え尽きたはずの森の中に。
どうして?
可能性は二つある。
唸り声の主が森を燃やしたか、そうでなければ燃えた後で森に入り込んだか。
どちらにせよ、私の為すべきは一つだ。
森に踏み入るのは容易かった。枝や根を避ける必要も、草を掻き分ける必要もない。追放された私が踏み入ろうとしたのに、誰何の一つも飛んでこない。
あぁ、死んだのか。
悲しみも怒りも通り越して、無味乾燥な思いが胸中に浮かんだ。
森は死んでしまった。
だが――。
歯を食い縛る。
それでもここは私たちの、エルフの森だ。
ならず者が踏み荒らしていい場所ではない。
剣の柄を、今度は意識的に撫でる。気分は落ち着かない。禍福と緋色が言うには、これは魔剣。あるいは魔王の遺志を宿しているのかもしれない、禁忌の剣。
人類と相対し、最後には勇者によって討たれた巨悪、それが魔王である。
ならば怒りや憎しみ、悲しみに駆られてしまえば、その遺志が味方してくれるかもと思ったんだけど。
そんな都合の良い話はないらしい。
足音が聞こえてくる。
隠すこともない、無遠慮な足音。
二つ、三つ、四つ……どんどん増える。数え切れない。数で圧倒し、追い払おうとでもいうのか。私を……本来の森の主を前に、縄張り争いでもするつもりか。
だとすれば、片腹痛い。
身を縮こまらせて隠れ潜むならいざ知らず、我が物顔で闊歩するならば容赦はしなくていいだろう。
「……?」
「エレカ?」
禍福の声で、自分が足を止めていたことを知った。
それと同時、ようやく本心にも気付く。
そうか、悲しいのか、私は。
「ははっ……」
目の端から涙が零れ落ちる。だというのに、口角は上がったままだ。
森は燃え尽きた。
見れば分かる。現実が受け入れられないわけじゃない。原因も何も、どうだっていい。森が死んだ。私の、私たちの故郷が失われた。
なのに私は、どうしてこんなにも冷静に森だった黒と灰の世界を見ている?
慟哭もしないで、リクを弔おうだなんて考えていられる?
おかしかった。
涙が溢れるほどに笑って、そして認める。
悲しんだ、私は。
森が死んだことに涙できなかったことが、泣いたくらいじゃ足りないほどに悲しい。
空虚だ。
黒と灰の世界に、茜色が差し込む。
傾きだした陽の光が森を照らし、木々とは違う影を長く伸ばした。
十や二十ではない。
四十、五十、あるいは百に達するだろうか。前だけじゃない。横にもいる。足音は全て、私たちの方に向かっていた。
「ヴァァ……」
汚い声で、それは鳴く。
濁り、淀んだ瞳。潰れたような手足に鼻。醜い短躯。
掴んだままだった剣を抜かずにいられたのは、ただ抜けなかったからだ。我ながら笑ってしまう。そういえば、咄嗟に抜けないようにと外套の切れ端で結んだんだった。そんなことも忘れ、剣の柄を握り締めていたのか。
馬鹿馬鹿しい。
柄を握る拳に一際強く力を込めた、その時だった。
「止まれ、エレカ」
声は、後ろから投げられた。
禍福だった。
「止めてくれるな」
「止まれ」
「だがッ――」
「止まれ。ただ立ち止まれ。動きを止めろ」
感情を乗せない声。
落ち着けとも、やめろとも言わず、ただ止まれとばかり繰り返す声に、だからなんとか踏み止まれた。落ち着けと言われても落ち着けるわけがなく、やめろと言われても何をやめればいいか分からなかっただろう。
私は今、何をしようとしていた?
剣を抜いて、それでどうするつもりだった?
前を、横を、見える全てを見渡す。
燃え尽きた森のどこに隠れていたのか。そこには醜い、けれど獣とも言えない異形たちが大挙していた。
二本の手と、二本の足。
どちらかといえば縦長の胴体と、その上にある頭部。
そこだけ切り取ればエルフと……、人間と同じだった。目も二つ、鼻と口は一つずつ。それも同じ。
しかし、それ以外の全ては違っていた。
肌はカビが生えたように黒ずんだ緑をしていて、人間でいう白目は腐ったかのように黄ばんでいる。黒目もどんよりと沈み、斜めに差し込んだ陽の光をこれっぽっちも反射しない。
腹はでっぷりと突き出て、そのくせ手足は短いから異様なほどアンバランスだ。
半開きの口からはアァだのオォだの、言葉になっていない唸り声を零すばかり。
トロール。
いや、トロルだったか?
正確には覚えていない。勇者と魔王の伝説より更に前、エルフに羽があった頃の伝説の物語。そこに登場する亜人に、そんな名前を持つ種類がいたはず。
ヒュームには技術で劣り、魔法の腕でエルフに敵うはずもなく、かつて魔王に与したという亜人たち……オークやゴブリンには膂力で劣る。
優ることといえば、ただ、底なしの生命力だけ。
腕を斬られても痛みに気付かず、頭を斬られても数時間は胴体だけで動き続ける。そんな化け物。
濁り、腐った目では辺りが見えないのだろう。
トロルたちは大して視線を遮るものもない朽ちた森の中、手探りで私たちに近寄ってくる。自分たちの声が邪魔をして、音でも探れないに違いない。嗅覚はどうか。旅続きで、そこは自信がない。
だけど幸か不幸か、鼻を動かす素振りもなかった。
幸運なのは臭いで気取られなかったことで、不幸なのは目も耳も鼻も利かないのに私たちの位置を正確に読み取っているらしいことだ。
包囲はどんどん狭まる。
禍福は止まれと言ったが、剣を抜かずに対処するのもいけないのだろうか。足もきっと速くはない。近寄らせなければ私の魔法でもどうにかなる。
反対に、近寄らせてしまったらどうなるか。
手足どころか頭まで失っても動き続けるという伝説が事実なら、数で押し切られるのも時間の問題だ。
判断は、早ければ早いに越したことはない。
「……エレカ」
禍福が重々しく口を開いた。
「あぁ」
剣を抜く。
一掃する。
メイディーイルを襲った魔物に比べれば、生命力はともかく膂力や速度では到底及ばないだろう。百だろうが二百だろうが、剣を抜けば勝てない道理はない。
だから、そう、禍福も頷いてくれると思った。
剣を抜けばいい。
森は死んだ。
旅の意味は、最早なくなった。
ここで……生まれた森で、死んでいくはずだった故郷で、朽ち果てても構うまい。
柄を撫でる。
お前と心中してやろう。
「エレカ、こいつらは……」
だが、禍福は躊躇った。
口にしかけた言葉が半ばで途切れ、声の残滓が糸を引く。
もういいだろう。
振り返る。
「禍福、ここまで一緒に来てくれてありがとう」
楽しかった。
そんなことを言えば怒られてしまうかもしれない。森を救うための旅だった。目的は果たせなかった。なのに笑って、楽しかったと言えばリクは怒るだろう。ティルだって、怒ったって怖くないけど、精一杯に怒るはずだ。
だけど、楽しかった。
叶うことなら、もう一度。
森を延命させ、また違う手立てを探すために、もう一度旅をしたかった。
私と、禍福で。
ルネも、リューオも、フシュカも連れて。
緋色ともまた会いたい。帝都から戻ったら、メイディーイル辺りで会えないだろうか。そうしたら再会を喜んで、また旅をする。
みんなで、もう一度。
叶わない。
「なぁ、禍福――」
その瞬間、私は何を言おうとしたんだろう?
確かに心に浮かんだはずの想いは、次の瞬間、指の間をすり抜けていった。
「エレカ様……?」
私を呼ぶ声が、聞こえたから。
「その声、エレカ様ですよね? エレカ様? エレカ様ッ!」
弾む声。
ぱたぱたと駆け寄ってくる足音。
覚えている。
忘れるはずがない。
「ティ……、ル?」
再び振り返り、森の奥へと向けた視界に。
しかし、映った姿は記憶のそれとかけ離れていた。
髪は焦げ、焼け落ちたのか頭皮が覗き、目も白濁して、およそ見えているようには思えない。怪しい足取り。森で生きるはずのエルフが、木の根に躓き転びそうになっている。
裸足だった。
血と土で黒々と汚れ、爪もほとんど剥がれてしまっている。
破れかけの服はかろうじて布切れが残すのみで、役目を果たせていない
なのに彼女は、記憶とはどうやっても重ならないティルは、歪になってしまった顔に笑みを浮かべてみせた。
「エレカ様!」
「ティル、なの……?」
「え? そうですよ?」
えへへ、と彼女は笑った。
「目は見えなくなっちゃいましたけど。……だから、エレカ様の顔はもう、見えないんですけど。でも、声は聞こえます。覚えています。エレカ様ですよね?」
どうして、何が、なんで……。
思いは言葉を結んでくれない。
わけが分からなかった。これが現実なのか? 大切な何かが噛み合っていない。気持ちの悪さが吐き気となって、また胃からせり上がってくる。これで何度目だろう。頭が痛い。ぐらぐらする。
グゥとかヴゥとか、トロルたちがうるさい。
そうだ、トロルだ。
「ティルは……、ティルは無事だったの? 森の外で、すぐそこで、リクが――」
「リクさん、ですか?」
黒と灰の世界には似合わない、あまりに不自然な明るい声音。
まるで彼女だけが日常の暮らしから飛び出てきたみたいに、何もかもが食い違っている。噛み合わない。なんだ、この気持ち悪さ。
「リクさんは頑張ってくれたんです」
「頑張っ……? それは、そうなんだろうけど」
「でも、誰も聞いてくれなかったんです」
「誰も……?」
待って。
何を言っているの、ティル。
意味が分からなかった。分かりたくなかった、知りたくなかった。
だから、言わないでほしかった。
「みんな死んじゃったんです。誇りのためにって」
何を……。
何を、言って……?
「信じてました。エレカ様は帰ってくるって。あたしもリクさんも、他にもそうだって思ってる人は沢山いたんです。なのに森長は、偉い人たちは、エレカ様はもう帰ってこないなんて言って!」
何も分からない。耳を塞ぎたい。
ティルは目が見えていない。耳を塞いで、目を閉じて、何もかもをなかったことにしても気付きはしないだろう。
けれど、そんなことできるはずがなかった。
「だから待ってたんです。みんなで待とうって決めたんです。……リクさんは、森を守るために剣を持って出ていっちゃいましたけど。でも、そのうち帰ってきますよ。みんなだって、ほら、エレカ様の帰りを待ってたんですから」
あぁ、と零れた声は唸り声たちに混じって消える。
壊れてしまったのかと、冷めた頭が静かに受け止めようとした。
ティルは目が見えていない。
否。
何もかも最早、見えてはいないのだ。
「あたしたちはエルフなんです。なのに森を燃やすなんて、絶対おかしいんです。だから――」
「もういいだろう」
ピクリとティルの耳が動いた。
ヒュームとは違う、細長く尖った耳。
「誰、ですか?」
「俺か? 俺はカレンだ。カレン・シュトラウス」
そう言ったのは、禍福だった。
禍福。
災禍と祝福の巡礼者。
「悪いが、エレカは連れていく。今日はそのために来たに過ぎない」
何を言っているんだろう。
ティルと同じくらい、禍福の言っている意味が分からなかった。
「エレカから許嫁がいると聞いた。だから、詫びに来た。そいつには今しがた、森の前で会ったがな」
許嫁。リクのことか。
あれ、でも名前を教えたかな。言ったかもしれない。リクのことは、許嫁というより歳の近い友人くらいにしか思っていなかった。わざわざ許嫁と呼ぶことの方が珍しかった。
けど、許嫁がどうしたんだろう。
ぐちゃぐちゃになった頭で考える傍ら、目は切り離されたように冷静に辺りを見回していた。トロルたちの動きが鈍い。私たちに近寄り、けれど回り込んで包囲しようともしないで、ただ遠巻きに見ている。
「森長の娘だかなんだか知らないが、どうせ貴様らは追放したんだ。文句は言うまい?」
禍福が何か言っている。
と、ティルが私を見た。いや見えてはいないはずだ。しかし視線は、私に向けられている。
……マナか。
目が見えなくても、現実が失われても、まだマナを追う力は残っていると。
「行くぞ、エレカ」
「待て、かふ……カレン?」
「なんだ?」
「あぁいや、その、そんな名前だったのか」
禍福は鼻を鳴らした。
もしかして咄嗟に出した偽名なのかも、とは思ったけど、どうやら違ったらしい。本名か。カレン。姓はシュトラウスと言っていたか? 何か引っ掛かる。どうだっていい。ただ忘れないよう、胸に仕舞う。
禍福のことも、ティルのことも、……当然、森で見てきた全ても。
しかし禍福は、私の心中を見透かすように吐き捨てた。
「忘れろ。もう捨てる名だ」
「忘れられるか。いい名前じゃないか、カレン」
「そっちじゃない。家名の方だ」
家名。シュトラウス。
それがどうした。いや待て、もう捨てる? どうして。禍福になったから、とか?
頭が混乱していて、点と点が上手く線を結んでくれない。違和感ばかりが脳裏で膨らんでいく。
「もう外套も捨てる。そして、この身だ。名乗れた名じゃない」
「だったら――」
「だから、お前の名をくれ。エレカ。お前の、その受け継いできた名を」
禍福は……カレンは、ぶっきら棒にそう言った。
目はどこを見ているのか。少なくとも私の方は見ていない。リューオだろうか。ルネもフシュカもそうだけど、森に着いてからずっと静かだ。これだけのトロルを前にして、鳴き声一つ漏らしていない。
だから様子でも窺ったのかと思ったけど、禍福の視線は明後日の方向を向いていた。
そっちには夕日もない。
「エレカ様?」
ティルが何か言っている。
「そうなんですか?」
何を言っているんだろう。
分からない。
だけど、そうか。リクが死んだ。森長も、重鎮たちも、森に生きたエルフたちはティルと、そして私を除いてみんな死んでしまった。
世界中を旅して回れば、どこかに他のエルフたちが暮らす森があるだろう。
しかし、そこは私たちの森じゃない。
私たちの名は途絶え、世界から失われる。
それは寂しいな、少しだけ。
もうみんなと話せないことに比べたら、なんてことはない寂しさだけど。
「アーレンハートだ」
笑ってみる。
笑えただろうか。
「それが私の、私たちの森の名だ。私はエレカ・アーレンハート。この森を継ぐはずだった、最後の森長」
己の家の名を捨てるというなら、代わりに名乗ってくれて構わない。
ティルはもう長くないだろう。たとえマナが見えても、この森に食べるものなんか残されてはいない。トロルたちが襲わないのは不思議だけど、遠からず飢えて死ぬ。
私とて、大差ない。
剣を抜く。
魔剣だかなんだか知らないが、構うものか。この森を、リクとティルが守ろうとした森を、わけの分からない化け物どもにくれてやるくらいなら。
「行くぞ、エレカ」
「あぁ、行ってくれ」
晴れやかな心地だった。
日が沈んでいく。
それが勿体ない。もっと晴れた、雲一つない青空がよかった。
「何を言っている、お前も行くんだ」
「お前こそ何を……ん?」
違和感があった。
しかしまぁ、いいか。
「エレカ様、また行くんですか?」
ティルが笑う。
お陰で思い出せた。
あぁそうか、ここで剣を抜くわけにはいかないな。ティルを斬りたくはない。だから、そうだな、今だけは禍福に話を合わせよう。
「またすぐに帰ってくるよ。リクを……いや、よそう。行ってくる」
「行ってらっしゃい、エレカ様!」
ティルは笑って、何も知らない底抜けの笑みを一杯に浮かべて、それから言った。
「あとカレンさん? リクさんは強いんですからね。エレカ様が知らないだけで、すっごく強いんですから。剣の達人なんですから。勝てるなんて思わないことですね!」
意地悪そうな、まぁそうは言っても緋色ほど悪そうではない、つまりは悪戯っ子そのものの笑みをカレンに向ける。
禍福は、それを真正面から受け止めた。
「侮るな。必ず幸せにするさ」
まるで親に挨拶するような口ぶりだ。
元々許嫁が決まっていた私には無縁だったけど、そんな風なことを言って相手方の親に頭を下げるのは定番だった。
何かが少しでも違っていたら、私にもそんな相手ができたのだろうか。
まぁ、考えなくていい。
禍福がアーレンハートの名を継いでくれるなら、私としても未練はない。アーレンハートの森は燃え、エルフが潰えても、名は残る。名だけ残しても、意味なんかないんだろうけど。
それでも、気休めにはなってくれる。
「行くぞ、エレカ」
「あぁ、分かった」
頷いて、ティルに背を向ける。
ティルは笑っているだろうか、どうしているだろうか。
振り返らなかった。
振り返ってティルを見たら、あんな変わり果てた姿でも面影を残す笑みを見てしまえば、声を思い出してしまえば、決意が鈍る気がしたから。
ティルのぱたぱたとした、あの軽やかで楽しげな足音は聞こえない。
代わりに、不愉快なトロルたちの足音は付かず離れず後を追い掛けてくる。
森を出た。
足音が止まる。
私と、カレンと、竜馬たちの足音だけが一分か二分ほど続いた。
それもまた止まる。
「どうした」
カレンが立ち止まり、私を見た。
剣の柄を撫でる。
「ここでお別れだ。ルネも禍福に、……カレンに付いていきなさい」
ルネは鳴かなかった。
ただ真っ直ぐに私を見上げ、そして禍福を見やる。
禍福は、ルネのことなど一瞥もしないで私をじっと見据えていた。
「やめろ」
「無理な話だ」
「言ったはずだ。剣を抜いても意味はない。お前が斬り捨てようとしているのは――」
「意味ならあるッ」
叫んでしまった。
そんなつもりはなかったのに。
己の声が呼び水となって、涙が溢れ出てくる。悲しさよりも、寂しさよりも、強く強く悔しさが滲んだ。どうすればよかった。何をどうしたら違っていたんだ。おかしいだろう、こんなこと。
私たちが……この森が、いったい何をしたっていうんだ。
「私には、エルフには、その森長には、守らなければいけないものがある」
「誇りか」
「そうだ、それ以外に何がある」
民が失われた。
森も、未来も失われた。
その上、誇りまで捨てろというのか。あんな化け物どもをのさばらせて。
「戻って殺すつもりか」
「決まっている」
「そうか」
禍福は呟いた。
私を見据える。
「それが、貴様らの守るべき民だとしてもか?」
……?
首を傾げることしかできなかった。
禍福まで頭がおかしくなったのかと、一瞬思った。
一瞬だけで済んだのは、ただそれしか考える時間がなかったからだ。
「あれは貴様らエルフの未来だ」
「なにを……」
「あれは、貴様ら、エルフだ。そう言った」
は?
面白くもなんともない、冗談にもなっていない戯言だ。
「禍福、貴様――」
「良い目だな。恨みも憎しみも、全て孕んだ確かな目をしている。だから教えてやろう。あれが時代の終焉だ」
時代。
終焉。
また、それか。
「おかしいと思わなかったのか? 文明が途絶え、地形さえも変わるほどの時が流れてなお、エルフもヒュームも生きていた? それだったらどうして文明は、知識は受け継がれない? わざわざ遺物を漁って読み解かなくちゃいけない?」
禍福は笑う。
壊れたように、だけど確かな……そう、恨みも憎しみも孕んだ、決意に満ち溢れた眼差しとともに。
「二ツ目烏と同じことよ。我々人間も、魔獣と化すのだ。姿を失い、知性を失い、それでマナのない暗黒の時代を生き延びる。あれは、だからエルフの未来だ。いずれ蘇る、エルフの種よ」
脳が思考を手放そうとした。
だけど、それは許されなかった。
記憶がある。覚えている。あれは、そう、アーロンの町を出て何日もしない頃だった。
人が……人だったものが、獣の姿をしているのを見た。
今、まさに目の前に、獣毛を生やしたヒュームの顔が見えている。
「分かったか、なぁ、エレカ」
分かりたくなど、なかったよ。
吐き気がした。
否、吐き出した。
吐いて吐いて、喉の奥、胃の底、吐き出せる何もかもを吐き捨ててなお、臓腑に重く沈んだ気持ち悪さは消えてくれなかった。
禍福が……、カレンがいつか、どこかで言っている。
うなされながら見る悪夢のように、時間と場所の感覚はあやふやだった。
「本当は連れ出すつもりだった。まだ死ぬ前の森から、お前一人だけでも。……間に合わなかったがな」
詫びるような、諦めるような声音だった。
あぁ、だけど、確信できる。
私はきっと、何度だって帰ってきただろう。どんなに終焉を教えられても、森を救わんと旅をしては帰ってきたはずだ。
そしていつか、避けようもなく胃の中のものをぶちまけた。
思い出す。
それは私の旅が始まる二、三日前のこと。
エルフの森に、生まれてこなかった命があった。
だけど、違うのか。
お父様。
あなたは、殺したのか。
生まれてきた、エルフであってエルフでない命を。
そりゃ、私を近寄らせてくれないわけだ。
笑ってしまった。
それ以上に、泣いた。泣き続けた。
何回の昼と夜をそうして過ごしたのか、数えようとしても記憶は霞み掛かっていて思い出せない。
何日か、何十日か、何年か。
まぁ、何年はないな。どんなにルネたちが狩りに勤しんでも、そんなに長く食料は持たない。
だから何日間か、なのだろう。
禍福と名乗ることをやめたカレンは、ずっと私の傍にいた。笑い、慰め、時にルネたちを叱りながら、待っていてくれた。
私がまた、旅を始めるのを。




