五十二話 そして、再び
世界というやつは、どこまでも裏切ってくれる。
巨岩群を出てしばし歩いた……ではなく竜馬の背に跨がり走った頃、私たちは林に入り込んだ。
林といっても、緑はない。枯れた林だ。
両手で輪を作れば握り込めそうなほどに頼りない木々が、私の手首よりも細い枯れ枝を風に揺らしている。これでどうして倒れないのだろう。よほど深く根が張っているのか、さして雨風がなかったのか。
しかし、あれだけの大雨が降った直後だ。
なんとも不思議なものである。
不思議といえば、ずっと左手に見えている稜線もそうだった。
南下する私たちから見て左、つまりは東側。
あれがイスネアの東にあるという竜寧山脈なのだろうか。方角的には間違いない。
ただ、奇妙だった。
それを口にしたのは昼食のために足を止めた時のことだ。
「なぁ禍福、あれはいったい……」
なんと聞けばいいのか、ふと考え込んだ隙に禍福が呆れ声を返してくる。
「竜寧山脈だが? 教えなかったか?」
「あぁいや、それは覚えてる。ただ、どのくらい距離があるのかと思ってな」
「距離? どのくらいだと?」
禍福は怪訝そうな声とともに、難しい顔を作った。
例えるなら、エルフの森は世界のどの辺りにあるのかと聞かれた私のような顔。勿論、そんなことを聞かれた記憶はない。だけど想像はできた。
「考えたこともなかった」
想像は的中した。
「ただまぁ、一週間や二週間って距離じゃない」
「竜馬の足で?」
「いや……、こいつらだとどうなるんだ?」
「禍福に分からないことが私に分かるか」
笑ってみて、随分と久しぶりに笑った感じがした。昨日も一昨日も、それなりには笑った覚えがあるんだが。
そして同時に、無視できない罪悪感がよぎる。
森が大変な時に笑っているなんて、と。
一方で、言い訳がましく開き直る心の声も否定はできなかった。
思い詰め、感情的になれば森が救えるというなら、既に森は救われている。私だけじゃない。父も、リクも、ティルでさえも森のために悲愴なまでの思いを抱いてきたに違いない。
だから冷静にいられるよう……今までの旅と同じように振る舞うと決めていた。
「人の足で二週間以上かかる距離を、二ツ目烏は一晩で往復するどころか狩りまでするのか」
「魔獣だからな。肉体は頑強で、スタミナもある」
禍福はなんでもない風に言ってくれる。
メイディーイルを目指し、アーロンの町から北上している時にも東に山が見えた。
しかし今、私たちの右手を……西を見て山などあるか? あの時に見えた山は、つまり今なお東の果てに見える竜寧山脈というわけだ。
二ツ目烏の存在を教えられたのも、その頃だった。
どれだけの距離を一晩のうちに飛ぶんだ、二ツ目烏たちは。
不思議の一言で片付けてしまっていいものか。いや、分からないんだから不思議と首を傾げる以上のことなんて何もできるはずもないんだけど、考えずにもいられなかった。
根底には、分からないということへの恐怖がある。
今、何が起きているのか。
森で、世界で、私の知らない、けれど私に関わってくるどこかで。
「エレカ」
不意に呼ばれ、はっと顔を上げる。
禍福が私の顔を覗き込んできていた。足元には、何故かルネもいる。
「そろそろ出るぞ。……病み上がりだから、調子が悪いなら休憩を増やすが」
「いや、構わない」
言ってから、どこか不満そうな視線を見つける。
「大丈夫だ。私も、同じ過ちを繰り返したくはない」
緋色は帝都へ向かった。
ルネだけでなく禍福とリューオ、フシュカまで窮地に巻き込んでしまえば、今度は誰も助けてくれない。
「ならいいが……それで?」
「それで、って?」
「足元のそいつだ。お前を乗せる気満々だぞ」
なるほど、そういうことか。
ルネの鼻先をそっと撫で、母が子にそうするように、優しげな声を作ってみた。
「お前は、まだ足を労るんだ。焦ることはない。またすぐ頼ることになる」
伝わったかどうかは分からない。
分かるはずがなかった。どんなに心を通わせた気になっても私はエルフで、ルネは竜馬だ。
私がまだ生まれてすぐの頃――。
私にもいたはずの母が、同じように優しく囁いてくれたか分からないのと同じだ。確かめようがない。だからといって悲しいとも、寂しいとも思う必要はないだろう。
手招きでフシュカを呼び、リューオに跨る禍福を横目に、その背に跨った。
「お前も、焦るなよ」
「分かっているさ」
言い合い、言ってと言葉の代わりに首筋を撫でて伝える。
風に吹かれながら立つ枯れ木たちを脇目に、竜馬たちは足音もなく走りだした。
竜馬は三頭、しかし私と禍福は二人。
一つ減った頭数が一抹の寂しさを胸中に滲ませた。ほんの僅かな付き合いだったのに、あれだな、もしかしたら禍福との気の置けないやり取りが私にも親しみを抱かせたのかもしれない。
緋色――。
彼女とは旅の途中で出会い、旅の途中で別れることとなった。
出会いらしい出会いもなければ、別れらしい別れもなかったけれど。
彼女も今、どこかを旅しているのだろう。
『帝都へ』
特命だったか密命だったか、ともあれオールドーズ教会のお偉方、枢機卿とやらの命令に従って。
不思議の思いが去来する。
彼らは……枢機卿なる人物たちは何かを知っているのだろうか。例えば干魃の時代に降った度重なる雨にも、不思議と思う以上の答えを見出だせるのだろうか。
気になる。
その答えを求めた先が帝都なのだとすれば――。
いいや。
ほんの何日か前まで彼女が跨っていたフシュカの背で、小さく首を振る。
今はよそう。
考えるべきは森のこと。
ヒュームのことではなく、エルフの未来である。
荒野には遮るものが何もなくて景色もよく見える、……なんてことはない。
まぁ自分の足で歩いていたら違ったのかもしれないけれど、私たちは今、竜馬の背で揺られていた。
ほとんど地面を見るような前傾姿勢に、風を置き去りにするがごとき疾走。
馬というよりは猫に近い、全身をしならせて走る竜馬の背にいると顔を上げるのも一苦労だ。できないわけじゃないが、バランスが変に崩れて彼らも走りにくいだろう。
だから大地の色が変わったのに気付いたのは、その境目が眼下を過ぎ去った後のことだった。
流れる地面に、不意に緑が見えた。
最初は見間違いかと思ったが、そうじゃない。土や岩、枯れ木しかなかった大地に、這って伸びる草ばかりとはいえ緑が混じりだした。
密度は瞬く間に上がっていき、すぐに土より草が占める割合の方が大きくなる。やがて背の低い木も見え始めた。当然、枯れていなければ葉も青々……とは言い難かったものの、まぁ緑と黄色の間くらいの色合いには染まっている。
ほんの僅かな時間、ちらと走り続けるフシュカの背から見上げただけでそれだ。
森が近付いているのか。
胸の高鳴りに気付かない振りをするのは大変だった。
ぬか喜びは御免だ。覚悟を決めろ、と禍福が言っただろう。信じたくない、考えたくもない。だけど森に着いた時、高鳴っていた胸にどんな感情が生まれるのか、思い描かずにはいられなかった。
懐かしく、嬉しい気持ちだろうか?
頭を振る。
フシュカが走りにくそうにしていた。周りを見たり、フシュカの動きに体重移動を合わせなかったりしたからだろう。
ごめん、の言葉の代わりに首筋を撫でようとして、進む先に違和感。
顔を上げる。
フシュカが足取りを乱した。バランスを崩したわけじゃない。
並走していたルネが急に速度を落としたのだ。
足の傷が治りきっていなかったか。咄嗟にフシュカに停止を命じ……ようとした時、ようやく今しがた抱いた違和感の正体を知った。
川だ。
向かう正面、ほとんど土色が見えず、もう一面の緑と化した草原を切り裂く流れが横たわっていた。
それでようやく、ルネが速度を落とした理由を悟る。
あの足の傷を負った時のことを思い出し、反射的に怯んでしまったのだろう。
先んじて異変を察していたフシュカとリューオが足取りを緩め、人間でいうところの歩くと走るの間くらいの速度で走りながら、ルネの様子を窺っている。ルネは吠えた。必死だ。私を見て、フシュフシュと何かを訴えている。
その気持ちは、痛いほど汲み取れた。
禍福を見る。
試すような眼差しを既に向けてきていた。
リューオが足を止める。一歩、二歩ほど遅れてフシュカも止まった。ルネだけが進む。否、進もうとして立ち止まり、振り返って急かすように吠えた。
「ルネ」
「ふすッ!」
「ルネ!」
叱りつけたくはなかったけど、強く言わなければ勝手に走り出しそうな勢いだった。
ルネはまだ何か言いたそうにしながら、それでいて少し落ち込んでもいる様子。互いになんとなくで察することはできても、言葉が通じ合わないことがもどかしい。
そうは言っても、どうにかして意思を交わさなければいけない時もある。
それが今だ。
誤解は絶対に許されない。だけど誤解を恐れ、安全にばかり気を取られてもいけない。
フシュカの背から降り、ルネに歩み寄る。
一瞬、身を強張らせたルネだったが、すぐに何かされるわけではないと気付いてバツの悪そうな視線を見せた。耳が少し垂れたように見えるのは気のせいだろうか。
「前足、出して」
そんな言葉で伝わるとは思わなかった。
しかしルネは、正しく右の……あの川だか湖を飛び越えようとして怪我してしまった方の前足を出してくる。
「大丈夫?」
「ふすんっ」
「返事はいい。目を見て。いける?」
ルネは声なく視線を返してきた。
ふむ。
一方通行だけど、言葉は伝わっているらしい。それも意思を察するとかじゃなくて、ちゃんと意味を理解して。ここまで賢いのか、竜馬は。いつからだろう。最初からか? あまり気にしてこなかった自分を責めそうになる。
まぁ、今することじゃないな。
「一回乗せて?」
大人しく伏せたルネの背に跨がり、肩の辺りを軽く叩いて立ち上がらせる。
「少し走って。禍福にも見えるように」
「ふす!」
ルネは走り出した。それまで溜まっていた鬱憤を吐き出すかのように勢いよく。
全然、これっぽっちも、少し走るなんてもんじゃない。本当に私の言葉が理解できているのか? 勘違いだったんじゃ……と思うよりも、あまりに私たちと似ている感じがして変な笑いが零れた。
今まで、無意識に失礼なこと口走ったりしてないよね?
程なくルネが足を止める。命じるまでもなく、川の方向ではなく草原の上を緩く円を描くように走っていた。やはり私の求めるものを理解してはいる。
それから二人、禍福を見た。
禍福は私とルネの顔を交互に見返し、はぁと隠しもしない呆れのため息を零した。
「まぁ、大丈夫だろうさ」
言うやいなや、ルネは吠えた。
「ふんすす!」
竜馬でも舌を噛むなんてことあるのか。
いや、犬猫でも聞いた覚えがないぞ。だけどルネは、舌っ足らずに吠えて嬉しそうにしている。
「それじゃあ、行こうか」
「ふんすっ」
少しだけ、元来た道を戻った。
助走だ。
川幅はどれくらいだろう?
距離があって上手く測れない。だけどまぁ、五メートルはなさそうだった。三メートルかそこら。
ルネは走った。
勢いよく、まるで私を乗せていることを忘れたかのように。
でも、そんなことはない。
淀みのない助走から、ほんの僅かに身を沈ませる。
横から縦へ、馬であれば強烈な圧力がかかって尻や腰、背骨まで痛くなりそうな方向転換だったけど、ルネのそれは流線型を思わせる滑らかな跳躍だった。
きらきらと水面が輝いている。
そう思った時には、既に緑の上を走っていた。
「ルネ」
「フシュッ」
嬉しそうに吠えて走るルネに、これを言うのは少し心苦しかった。
だけど、そう、言わなければ。
「待って。禍福がまだだから。リューオとフシュカも待たなくちゃ」
まるで聞かん坊だ。
ルネはしばし、私の声など聞こえないかのように走り続けた。
身体を起こすのも一苦労なその背中で、どうにか背後を振り返る。追ってくる二頭と一人が見えた。距離はあまり縮まらない。ルネはそれほどの速度を出していた。
「いや待って、本当に待っ――」
言葉が、不意に消えた。
頭が真っ白になる。
笑いながらも落ち着かせようと、ルネの首筋を撫でていた指の感覚だけが遅れて頭を動かした。
脈打つ、それ。
柔軟だけど分厚い皮膚に、短くも太い獣毛。
すぐそこの鼓動が指に届くはずもなく、だからこの脈動は、自分自身のものなのだろう。
息を止めていたのは、果たして何秒だったか。
何分、何時間、あるいは何年。
自分の手足が石と化していく錯覚さえ抱いた頃、遂に理解してしまう。
森、だった。
広がる緑の先に、黒と灰の世界がある。
それが、まさか……。
猛烈な吐き気が胃から喉へとせり上がってくる。昼に食べたものを吐き出さずにいられたのは、我知らず代わりの声を喉が絞り出したからだった。
「……リク?」
背後から聞こえていた、竜馬特有の静かな足音。
それが止まる。
そして何かが地面を踏んで、歩いてくる音が聞こえた。誰かが肩を叩く。誰か。誰だろう、と考えた次の瞬間には、眼前の光景に再び意識を奪われていた。
黒と灰の世界と化した、これが森?
まるで焼け落ちたような……否、まさしく焼け落ち、燃え尽きた森。
私たちの、私の、……。
信じられなかった。
だけど、信じないわけにはいなかった。
黒と灰の世界を背負って、それは佇んでいる。
見慣れた顔だった。
優しく、どこか頼りなく、私よりも年上のくせにティルと一緒になって無邪気に笑っているのが似合うような、そんな人。
リクだった。
二本の足で立ちながら、大地に突き立てた剣に手を置き、見開いた目には似合わない気迫を滲ませ。
彼は、死んでいた。
肉は枯れ、肌は乾き、眼窩の中には輝きを失った眼球が据わる。
何年、何十年と日差しや風に晒され、朽ち果てることもできず風化してしまったかのようだった。
しかし、そんなはずがない。
だって私が旅に出て、まだ一年さえも……。
視界が歪む。
涙を、けれど流したくはなかった。
随分と大きく見える彼の服は、赤黒く彩られている。それが単なる模様ではないと今更気付いて、向けるべきは涙ではないと知った。
「リク……」
戦ったのか、あなたは。
剣を握ったところなんて一度も見たことはなかったけれど、あなたもエルフだ。森に生まれ、誇りを胸に生きる私の同胞。
なればこそ、守るために戦ったのだろう。
燃え尽きた森を、それでも守るために。
知らず、左腰に帯びた剣の柄を撫でてしまう。私も戦えたら、どんなによかっただろうか。
「エレカ」
首を振る。
声は出せそうになかった。
今口を開けば、禍福には聞かれたくない、獣じみた唸り声しか吐き出せなかっただろう。
剣は、手に取らない。
少なくとも、まだ、今は。
燃え尽きた森から、それはずっと聞こえていた。
ウゥ、と。
グゥ、ヴゥ、アァ、オゥ……。
人のものではない、唸り声。
剣を取るなと禍福は言った。
覚悟を決めろと、そう言った。
視界が歪む。
涙なんて、流している暇がどこにあろう。




