五十一話 決意新たに
三日三晩。
それは私が高熱に苛まれた時間であり、浅慮のために失った時間でもある。
三日目の太陽が沈み、禍福が駆け付けてくれた晩から数えて四回目の夜が訪れる頃になって、四肢の関節に残っていたジリジリと焼くような痛みがようやく消えた。
目が覚めて、しばし。
腕を回しながら表情を変えたことに、目敏く気付いた者がいた。
「ふすんっ」
一も二もなく寄ってきたルネが腹のぐりぐりと鼻先を押し付けてくる。くすぐったい。
ていうか、少し痛い。力を入れすぎ。
押し退けようと手を出すが、戯れているとはいえ竜馬相手だ。
びくともしないで困っていると、その後頭部をぺしんと叩く手が見えた。
「落ち着け。貴様も病み上がりだろう」
「ふしゅっ!」
「分からんな、貴様の言葉など。……それより、調子は戻ったみたいだな」
ルネの抗議を冷たく一蹴した禍福だけど、前より打ち解けたように思える。
まぁ元々、険悪だったわけじゃない。
獣にせよ人にせよ、相手が警戒するからこそ自分も警戒せざるを得なくなるものだ。助けられたことを理解したルネが警戒心を解けば、禍福の方も自分なりの距離感を取り戻せる。
そんな一人と一頭の姿に抱いた穏やかな感情に、チクリと鋭い罪悪感が水を差した。
「その顔はどっちだ?」
三日三晩、ほとんど付きっきりで看病してくれた禍福だ。
ほんの微かに視線を下げただけなのに、見過ごしてはくれないらしい。
「こうしている間にも、森で同胞が苦しんでいるかもしれない。そう思うと……」
「また後先考えずに駆け出したくなるか?」
ふん、と鼻を鳴らされる。
私が飛び出した後、イスネアで何があったかは既に聞かされていた。
ローゼン義賊団に横流しされているであろう教会の物資を、更に横流しする形でイスネアへの援助とすること。
その空手形と引き換えに、先んじてルネたちの食料を得たこと。
そして緋色が、物資の中継地点である支部に向かうと同時、枢機卿からの特命のため帝都へと向かったこと。
しかし議会で聞いたはずの森の話は、何も話してはくれなかった。
理由は嫌でも分かる。
私が感情的に……そう、後先考えずに駆け出し、挙げ句の果てにルネを巻き込んで二ツ目烏の餌食になりかけた原因だからだ。
ルネの足の傷を癒やした、最初の晩。
限界に達し、熱と悪夢にうなされながら、それでもなお喚いていた記憶が朧げながら脳裏にある。
今でも胸中に渦巻く衝動は否定できない。
ただ一方で、冷水を浴びせられたように冷めた思考もあった。
言葉にできない、してはいけない直感。
どんなに目を背けようと、それを感じざるを得ない。皮肉にも、お陰で冷静さを取り戻せた。
「運が良かったとは、言いたくない」
声は我知らず、ぽつりと零れた。
「だけど幸運だったのは確かだ。あの湖だか川だか知らないが、あそこを飛び越えようとしてルネが足を折らなければ、禍福が追い付けないずっと先で二ツ目烏に襲われただろう。五体満足のルネがいても、私が足手纏いだ。夜明けまでは持たなかったに違いない」
それでも運が良かったと言いたくはなかった。
ルネが味わった痛みは消えない。私のために、私のせいで、どれほどの痛みを、苦しみを味わっただろう。
元来の生命力の差が出たのか、私よりは早く立ち直ったルネだけど、昨日はまだ足を労る様子を見せていた。
だというのに、私が元気になったと見るや、駆け寄ってきて頭をぐりぐりと擦りつけてくる忠犬っぷりだ。これは猫じゃない。まさしく犬だ。今も禍福と戯れ合いながら、尻尾をぶんぶんと振っている。
その信頼を、これ以上裏切るわけにはいかない。
「私はエルフだ。たったの十七年でも、森長の娘として、次代の森長として森に暮らしてきた。その森が危機に瀕していると知って、冷静でいられるはずがない。間違いだと分かっていても、私はきっと、また間違える」
笑われるかと思った。
まだそんなことを言っているのかと、禍福らしい呆れた声とともに。
だけど違った。
禍福はじっと私を見据え返し、続く言葉を待っている。
お陰で声は、逡巡に囚われることなく、するりと胸から溢れてくれた。
「その時は、止めてくれ。……禍福。お前の言葉なら、どんなに受け入れ難くとも受け止めよう。約束する」
本当は約束なんていらなかった。
でも言葉にしなければ伝わらない気がしたのだ。言葉の奥底、胸中のどこか。私自身も上手く掴めないでいる漠然とした何かを、禍福なら受け取ってくれるだろう。
その禍福は笑おうとして、失敗していた。
顔や耳を覆う獣毛のせいで地肌は見えない。しかし揺れる瞳は獣毛にも隠せず、皮肉めいた笑みの中に感情を隠そうとしたことは丸見えだった。
「はぁ……。いや、まぁ、分かったよ」
頭を掻きながら、禍福は笑みを浮かべる。
優しげな、それでいて冷酷さを思わせる矛盾の微笑。
「覚悟を決めておけ。森で待つのは、同胞ではなく絶望だ。危機ではなく過去だ。それでも往くというなら、……お前が往くというなら、俺も往こう」
禍福はなおも穏やかに笑って、そして言った。
「ただ、そうだな。先に一つだけ忠告しておく」
ほんの一瞬、瞳に滲んだ仄暗い輝きだけが、彼女の生きた感情を映し出したように見えた。
「何があっても、剣だけは抜くな。魔剣だとか、そういう話じゃない。剣を抜けば、お前はいとも容易く斬り捨ててしまうだろう。紡ぎ続けてきた過去を、いつか芽吹く未来を」
その晩は、いつまでも寝付けなかった。
当たり前だ。
この三日間、どれだけ寝てきたか。
遠くの空でグァーゴ、グァーゴと二ツ目烏の鳴く声が聞こえる。確か一昨日は凝りずに襲いかかってきたが、そこで十数体がリューオとフシュカに食い散らかされて、今度こそ凝りたらしい。
昨日はそれでも近くまで飛んできていたのに、今日は遠巻きに見てくることもなかった。
お陰でルネたちも落ち着いている。リューオなんか、いつの間にそんなに仲良くなったのか、禍福と一緒に寝ている有様だ。
その禍福は、伏せの姿勢になったリューオの横っ腹に腰を預けている。
調合薬を詰め込んだ鞄は外され、脇に三頭分まとめて置いてあった。私と禍福は何も言っていないのに、フシュカが鞄の傍で番をするように寝ている。
残るルネは、言うまでもなく私のすぐそこにいた。
起きてはいるものの、眠そうな……というか既に半分寝ている目で見上げてくる。昼間、足を労りながらも走り回って、またイタチネズミを捕まえてきた悪戯っ子だ。
出発は明日の朝。
それまでに少しは眠らないとまずい。
眠くもないのに欠伸を零し、禍福の真似をしてルネの横っ腹に寄り掛かる。
ふすぅ、とルネが気の抜けた声を上げた。我知らず笑みが零れる。と、今度は本当の欠伸が漏れた。
視線をやる。
鞄の脇で、フシュカがこちらを見ていた。手招きする。フシュカは何か言いたげ。
「ふすっ」
その時、鳴いたのは一瞥もくれなかったルネだ。
それが何を意味したのか、定かではない。だけどフシュカは一度鞄を見て、足音を殺す歩みでこちらに寄ってきた。そして私の足の脇まで来て、猫みたいに丸くなる。
何度目だろう。
誰だ、彼らに竜や馬を見出した節穴の目の持ち主は。
数え切れぬほどに繰り返してきた思いを心中で笑い飛ばし、フシュカの頭を撫でる。と、背中の方で鼻を鳴らす音。ルネが鼻先を向けてきていた。甘えん坊の上、嫉妬深いらしい。そちらも撫でてやる。
満足げに鳴いて、程なく寝息を立て始めた。
足元で、フシュカも欠伸している。短毛の彼らは、だけど暖かかった。
巨岩の間を抜ける風が、奇妙な音を立てながら首筋を抜ける。
暖かい毛と冷たい風が眠気を誘った。
目を閉じる。
グァーゴ、グァーゴと遠くで鳴く二ツ目烏は、私たちが二人と三頭揃って寝ようとしていることなんて知る由もない。
頬だけで笑おうとして、欠伸に取って代わられた。
寝よう。
こんなにも穏やかな気持ちで眠れるのは、きっと今日で最後だから。
予感などという曖昧なものではない。
あの夜からこちら、私と話す中で見せた禍福の表情が、それを何より物語っていた。




