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四十九話 異形の狩人

 屹立した巨岩が刻む、黒々とした影。

 雲が去った空の端には太陽が輝き、沈みきる寸前の茜とも藍ともつかぬ光で大地を染め上げる。

 その強烈なまでの色のコントラストは、目から入り込んで脳を直接叩くようだった。

 視界はぼやけ、あんなにも巨大な岩の輪郭さえ朧げに揺れる。指先の感覚も遠く、鮮明なのは自分の口から吐き出された息の異様な熱さだけ。

 ふとした瞬間、世界が闇に閉ざされる。

 直後にまた夕焼けに染まる巨岩が見え、瞼の上下が触れ合っただけと知れた。

 意識は朦朧としている。

 隣を歩くルネもそうだった。私を待つでもなく、残された気力と体力を振り絞って一歩を踏み出す。なのに私と歩く速度が変わらない。

 よくここまで着いてきてくれた。

 もう何度、そう言って撫でてやりそうになったか分からない。

 ダメだ。それはできない。そんなことをすればルネは勿論、私までも事切れてしまいそうだった。

 あとどれだけ歩けばいい?

 考えるほどに世界は暗くなっていく。太陽が沈むより早く、私のすぐ後ろを、その足が止まるのを今か今かと待っている何者かに囚われてしまう気がした。

 だけど、もう少し。

 あの巨岩を越えれば、そこには森が開けている。

 一歩、一歩。

 重すぎるそれは、平素の半歩にも満たなかったかもしれない。

 それでも積み上げ続けた一歩の先に、巨岩が聳え立つ。

 今にも沈みそうな太陽にほとんど真横から照らされ、大地に闇を描き出した巨岩。

 その影に足を踏み入れ、そして向こう側を見やった――けれども。

 森は、そこにはなかった。

 岩、岩、岩……。

 巨岩ほどではないにせよ、私が丸くなったより大きいであろう岩がゴロゴロと転がり、不思議な模様を作り上げていた。

 喉が詰まる。

 声は出ない。

 頭が真っ白になって、自分が何分、何十分、何時間そうして突っ立っていたのか分からなくなったほどだった。

 夕日が、遂に地平線へと消え失せる。

 世界は一際鮮やかな藍色に包まれ、直後、深い深い闇へと姿を変えた。

 踏み出そうとした足が震え、地面にちょんと触れた爪先が躊躇う。

 膝が笑っていた。

 立っているのも億劫になって、巨岩に手を伸ばしてしまう。それは柔らかかった。指を動かし、爪を立てれば、浅く削り取れる。苔だ。腹が鳴る。頭に割れそうなほどの痛みが響き、足から腰、胴、肩へと震えが走った。寒い。なのに熱い。

 汗が滲む。

 目に入って、鈍い痛みを迸らせた。

 掻こうとして巨岩から手を離した途端、全身のバランスが崩れて膝から崩れ落ちる。ルネが鼻先を伸ばし、支えようとしてくれたけど、その反応もあまりに遅かった。

 岩の足元に座り込むと、湿った地面の冷気が足や尻を通して全身に巡っていくのを感じる。

 涙は、いつの間にか溢れ出していた。

 それでも声は出ない。

 いっそ大声で、何もかもを振り払いながら泣き叫べたら楽だったのだろうか。

 岩に手を伸ばす。

 苔越しに岩肌を掴んで、再び立ち上がろうとした時だ

 声が聞こえた。

 どこかで聞いた覚えのある、奇妙な鳴き声。

 グァーゴ、グァーゴ……。

 しばらくの間、それは遠くから聞こえてくるだけだった。

 しかし時が過ぎ、目が夜闇に慣れてきた頃になると、それらも動き出す。まるで今が自分たちの時間で、あの明るい日差しは当分戻ってこないことを確かめたかのようだった。

 グァーゴと頭の直上で何かが鳴く。

 見上げても、何も見つからない。

 否。

 グォガァ、グァガォと少し変わった鳴き声が聞こえ、出処を目で追おうとして気付かされる。

 何かがキラリと光った。

 一つや二つではない。

 五つ、六つ、七つ……それ以上だ。

 そのうちの一つと、目が合った。

 瞬間だ。

 風の音が変わる。

 異変を察した時には遅く、なんとか身をよじるので精一杯だった。

 風とともに降り注いだ何かが肩口を引き裂き、通り過ぎる。反転。風は上空へと突き抜けていく。

 違う、これは風じゃない。

 朦朧とした意識が目覚めるには十分すぎた。どくどくと熱いものを肩に感じる。左肩。右じゃないだけマシだった。

 と、真横で物音。

「フゥシュルルルルゥ……」

 起き上がったルネが鋭い息を吐いている。熱い息だ。さほど利かない夜目でも、虚勢なのは見て取れた。

 それでも上空の鳴き声の主たちは追撃を緩める。

 膠着状態は何分続いただろう。

 先に動いたのは、上空の者たちだった。キラリと光る。あれは目か。上空を飛びながら、真下を観察するための単眼。

 思い出す。

 魔獣、二ツ目烏。

 一体の烏が口火を切った。ほとんど垂直に近い角度で急降下してくる。どんなに速くとも、出だしが見えていれば避けるのは容易い。痛まない右手を地面に突き、前に転がる。

 案の定、烏は角度を変えられずに地面に衝突、する寸前で大きく曲がって上空へ戻っていった。

 だが、その一体だけじゃない。

 何体もの二ツ目烏が上空で私たちを見、品定めしている。

 次はどこから? 何体で来る?

「……ッ」

 複雑に絡み合う風切り音。

 咄嗟に岩に身を寄せ、背中を狙ってきた一体からは逃れる。

 しかし同時、横合いから迫っていた烏を見つけられなかった。鋭い嘴が見える。狙いは目か。ほとんどの生き物に共通する弱点。瞼を閉じたところで守れはしない。

 だから見た。

 片目くれてやる隙に、せめて反撃できればと。

 視線の先で、二ツ目烏は急に角度を変えた。どうにか進路を逸らして、私の顔の数センチ横を風切り音とともに通り過ぎる。その後になって、ルネが私の目の前に躍り出た。

 あの烏は、ルネを避けたのか。

 たとえ私の目を抉り、脳みそまで達し絶命させたとしても、肉を貪る前にルネの爪に捉えられてしまう。

 メイディーイルで魔物と対峙した時のような、守るものを守れればそれでいい戦いではない。

 二ツ目烏にとって、これは生きるための戦いだ。狩りだ。命と引き換えの攻撃なんてしないし、できない。

 これは勝機か?

 いいや、違う。

 上空には何体の二ツ目烏がいるだろう。既に十は超えていそうだ。なのに一斉に襲いかかってくる真似はしない。魔獣といえど馬鹿ではないのだ。我が身を危険に晒さずにお零れを貰えるなら、それに越したことはない。

 早く行けよ、お前が行けよ、と言い合うかのようにグァガ、グォグァと鳴いている。

 お陰で命を繋げてはいるけど、長続きはしないだろう。

 ほら、来た。

 お零れを待てず、自分が仕留めるのだと息巻く活きの良い二ツ目烏だ。

 巨岩が林立する荒野には、逃げ場はあっても隠れる場所はない。一体や二体なら、まだどうにか避けられるが……。

 私が避け、ルネが跳び上がった。

 二ツ目烏の嘴も、ルネの爪も、互いに獲物を捕らえられずに距離を取る。

 ハ、ハ、ハ……と小刻みの息をルネが零す。限界などとっくに超えていた。ない力を振り絞って、文字通り決死の思いだ。

 どうせ死ぬにしても、ただで死んではやりたくない。

 それは最早、誇りですらない、単なる意地。

 右手で、引き裂かれた左肩に触れる。激痛が走った。それでも撫で、傷の具合を確かめながら血でべったりと貼り付いてしまった髪を剥がす。

 治癒の魔法は、今度こそ効果を見せた。

 骨にまで響く痛みが癒え、残滓がじんじんと肩を揺さぶる。

 まただ。少しはゆっくりさせてほしい。

 次は三体、合計で六つの目となった烏が急降下を始める。音で聞き分けられるようになっていた。一体をルネに任せ、もう二体の軌道上から逃げる……つもりだったが。

 違った。

 三体ともがルネを狙っている。

 気付いた時には遅く、ルネが逃げ場を失った。反射的に手を伸ばす。届かない。

「だったら――ッ!」

 伸びろ、結べ……ッ。

 思考回路を焼き切る勢いで弾けた詠唱が、声になるより早く魔法の蔦を現出させた。一本から二本へ、二本から三本へ。伸びるほどに枝分かれする蔦が二ツ目烏を捕らえ、逃げようと藻掻く羽を潰し、震える足をへし折った。

 蔦の下に逃げ込んでいたルネがすぐさま飛び出し、上空に向け大口を開ける。

「フシュァ! フシュルル……っ!」

 どうして口を開けて、そんなに息を絞ったような音が出るのか。

 分からない。

 だが二ツ目烏たちには、それが力を誇示する声だと分かったのだろう。羽ばたく音が鈍った。グアッ、グアッ、グアッと短い鳴き声が連続し、何体かが飛び去っていく。

 それでも未だ、少なくない数が上空を旋回していた。

 あと幾つの命を奪えば、奴らは私たちを獲物として見なくなるだろう。それまでに何度、私たちは死線を掻い潜らなければならないのだろう。

 気が遠くなりそうだった。

 意識は早くも、再び朦朧とし始めている。

 流れた血は魔法では戻らない。その魔法にも体力は使う。マナの消費は、予想以上だった。

 どうすればいい。

 どうすれば。

 どうす――

「フシュッ!」

 鳴き声。

「まずッ!?」

 叫んでいる暇なんてなかった。

 考えるより早く身体を動かすべきだった。

 二ツ目烏の攻撃は直線的なのだから。少しでも動けば致命傷は避けられたかもしれないのに。

 考えてしまった。

 今どこにいて。

 どうしてここにいて。

 私は、ルネは、敵は……。

 何もかもを考えようとしてしまった一瞬の遅れは、あまりに大きすぎた。

 目の前に二ツ目烏の両目が見える。

 嘴の後ろ。

 頭部の前と、人間でいえば顎の部分。

 二つの目玉がぎょろりと私を見据えているのが分かった。視線そのものが可視化されたかのように、一直線に私と繋がっている。

 間延びした一秒。

 風切り音が今になって聞こえてくる。

 二ツ目烏の嘴が鼻の上を掠り、そして消えた。

「……ッ!?」

 目の前に、黒い影が躍る。

 それは吠えた。

「フシュァ、シャァフ」

 ギャアアァァと大絶叫が響くも、次の瞬間、ぐちゃりと骨が砕け、肉が潰れる音に取って代わられた。

 頭上から光。

 ぱすん、と気の抜ける音が次いで降ってきて、上空にいた二ツ目烏たちが慌てふためくのを感じる。何体かは落ちてきた。

 それを黒い影――、フシュカは躊躇いなく踏み潰し、噛み千切っていく。

「ふするるっ!」

 落ちてきた間抜けどもを皆殺しにした後、フシュカは悠々と寄ってきた。その表情は、見るからにしたり顔。上空でずっと聞こえていた羽音も三々五々に遠ざかっていく。

 助かった。

 安心した途端、全身から力が抜ける。

 膝が折れ、転びそうになったところをルネが支えてくれた。だけど膝がガクガクと震え、立っている方が辛い有様だ。ルネも大変そうで、一本だけで半身を支える左前足は小刻みに震えていた。

「いいよ、もう」

 鼻先を撫で、身体の下からどかす。

 そうして地面にへたり込んでしまうと、今度はフシュカが鼻先を向けてきた。そっちも撫でる。遠くでふしゅふしゅ鳴く声。リューオがせがんでいる。

 それで顔を上げ、思わず涙が零れそうになってしまった。

 零れなかったのは幸いだ。

 代わりに汗だかなんだか分からないものが零れたけど、これは涙じゃない。

「禍福……」

 見上げた先、リューオの背に跨った禍福は、視線を返すと小さく笑った。

「大馬鹿者が」

 疲れた声音。

 だけどどこか、安堵も滲ませたそれ。

 じんわりと、胸の辺りが暖かくなる。視線を上げているのが辛かった。地面を見る。瞼が重い。

「おい。……おいっ?」

 禍福が何か言っている。

 けれど遠ざかっていく意識を、引き止めることは叶わなかった。

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