四十八話 望郷
走れ、走れ。
ただ前へ、一歩でも先へ。
唸る鼓動が伝播するかのように、ルネの走りは大地を蹴るほど速くなる。
空回り寸前の疾走。
空気が邪魔に感じるのは初めてだった。
空気を引き裂き、不可逆の時間を突き破り、届かないはずの過去にさえ喰らい付かんばかりの獰猛な足取り。
ハッ、ハッ……と小刻みの息が風に流されていくのを聞いた。
ほんの僅かでも風の抵抗を減らそうと、黒い体毛の一部と化す気持ちでしがみついたルネの背中。それは今までにないほど熱を帯び、一心不乱の疾走がどれほどに無謀な挑戦か教えてくれている。
けれど、止まってと合図はできなかった。
代わりに、走ってと抱き縋ったままの首元に念じる。
強靭とはいえ限界がないはずもない足を酷使し、颶風を体現するかのごとく走り続けるルネの背中で。
ルネの一部になろうと、少しでも溶け込もうとする中、不思議とルネの方が私の一部となり、私に溶け込んでくる錯覚を抱いていた。
止まれと命じても、きっとルネは止まらない。
走るなと叫べば、叫ぶほどに速度を上げて走るだろう。
私の心が今、私の思いとは裏腹に森へと馳せてしまうのと同じだ。
私の心を感じ取ってしまったルネは、私自身がどんなに命じようとも聞く耳を持たない。
ただ前へ。
一歩でも先へ。
一秒たりとも遅れることなく、帰るべき森へと。
脳裏には、幾つもの声が響き続けていた。
禍福の、緋色の、アーロンの長老や獣と化したオットーの、旅の中で知り合った人々の声。
ただ名を呼ぶだけの声から、記憶にあるいつかの言葉、あるいは意味などない声の塊。
それら声の坩堝が過ぎ去ると、また別の声が響いてくる。
エレカよ、我が娘よ、と厳しくも悲しげな声で私を呼んだのは父だった。
笑ってなくちゃ、笑ってたら可愛いんだから、と失礼ながらも嬉しいことを言ってくれたのはティル。
それから姦しく言い合う娘たちや、次から次へとヒュームの道具の話をするリク。
森に残してきた、全ての者たちの声が脳裏に蘇る。
しかし、その思い出を断ち切る声が、また響き渡った。
議長や議員たちの声だ。
ただ補給のために寄るだけだった。
魔物のことなんて、どうでもいいと言えば嘘になるけど、森の危機に比べれば他人事だった。魔神というものに抱いた、憎悪にも似た忌避感は未だ鮮明に覚えていても、見えない恐怖よりも差し迫った危機の方が怖いに決まっている。
私も所詮、身勝手な一匹のヒトなのか。
ヒュームの危機とエルフの危機、どちらかが心配かといえば迷う余地なんてどこにもなかった。
魔物のことは、確かに心配ではある。
でも、と付け加えざるを得なかった。なんにせよ、最終的には森へと帰る。そのためには寄り道をする時間も惜しかったけど、寄り道してでも竜馬の足を借りる方が早いと言われれば、やはり悩む理由なんかなくて。
それで寄っただけなのに。
禍福には驚かされたし、小言を言いたいくらいには罠に掛けられた気もする。
だけど結局、なんだかんだ上手くまとめてしまうのだろうとも思いながら。
なのに、……なのに。
どうして魔物と補給の話をするだけだった、ただの寄り道に過ぎないイスネアで、エルフの森の話を聞かされたのだろう。
森には危機が迫っていた。
もう長いこと、新しい命が生まれていなかったのだ。
授かった命が生まれないままに失われていくのを目の当たりにして、気を病んでしまう者もいた。必然、森は暗くなる。今にして思えば、実りもいくらか減っていただろうか?
思い出せない。
私は森長の娘であり、その重責を引き継ぐ身でありながら、どうして何も知らずにいたんだろう。何も知ろうとしないまま、のうのうと過ごしていられたんだろう。
議長の言葉は、振り払おうとも耳の奥にこびり付いて離れなかった。
苦境にあるイスネアの、救いを求める手を切り捨てたエルフ。
そんなことがあるか?
確かに交流はなかったが、ヒューム全体で見れば少なからず行商に頼ってきた。その大半が替えの利く嗜好品や、いかにもリクが好みそうな玩具の類いだったとしても、それによって楽しんだり喜んだりした者がいた事実は覆せない。
もしヒュームが困っていたなら。
たとえ私たちエルフが困っていても、無下にしていい理由はない。
エルフとは誇りの民だ。
自分だけ無事ならそれでいいと、飢えに喘ぐ者を見捨てて何が誇りか。
そんなこと、お父様がするはずない。
お父様は……父は、森長は、誰よりも誇り高いエルフだった。森を愛し、己の命と引き換えに森が救えるなら、誇りが守れるなら、ほんの一瞬たりとも逡巡することはなかっただろう。
私だって、そうする覚悟くらいは持っていた。
だから追放を言い渡されても、森を救う手立てを探した。マナが移ろうのは当たり前の現象に過ぎない。森で起きたマナの減少も一時のものであり、どうにか苦境を乗り切れれば次の世代が花開く。
無邪気に信じていた常識は、果たして本当に裏切られてしまったのか。
オールドーズが、禍福が言うように時代は滅びようとしていて、エルフもヒュームも、その築き上げた文明ごと失われてしまうのか。
そんな馬鹿なことがあって堪るか。
叫びたい気持ちを必死で堪えた。
だけど、無駄だった。
ルネが喉の奥で唸り、限界かに思えた速度を更に上げる。
硬く乾いた大地を蹴る足は、とうに限界に達しているんじゃないのか。分かっていても、それでもやはり、止まれとは言えなかった。
薄情と思うかな。
ねぇ、ルネ。
こんなにも応えてくれるお前より、しかし私は……。
ぐっと奥歯を噛み締める。
それこそ、裏切りだ。
今はルネより森を優先しないわけにいかない。だから代わりに、森に着いたら美味しいご飯を食べさせてあげよう。エルフの森は何もかもが豊かだった。
野菜や果物、茸が好むような暗がりもある。
川も流れ込んできていて魚が捕れるし、積極的な狩りはしなかったけど獣の肉も食べようと思えば食べられた。いくら粗食といっても、ご馳走が嫌いなわけじゃあるまい。
こんな時代だから好きなだけとは言えなくても、頑張りに見合うご馳走は用意しよう。
私の頼みといえば、聞いてくれる者もいるはずだから。
そうだ。
だから帰るんだ。
顔を上げる。
と、何かが額に当たった。
冷たく、柔らかいそれ。
なんだろうかと視線を持ち上げ、すぐに後悔する羽目になった。
目の前に何かが見えて、咄嗟に目を閉じるも遅きに失する。冷たいものが瞼の間から染み込んでくる。雨だ。それも小降りじゃない。
ほんの数滴の雨粒を皮切りに、一気に勢いを増していく雨。
一分――、一秒を六十数えるより早く土砂降りとなった雨粒たちが大地を濡らす。この辺りでも、もう何度も降ったのだろう。
乾いていたはずの大地でも全てを飲み込むには至らず、やがて砂は泥と化した。
泥濘んだ足場を、けれど構うことなくルネは駆け抜ける。
舞い上げられた泥が足を汚し、降りしきる雨が外套に染み込んで、瞬く間に全身ずぶ濡れになってしまった。
ルネの毛も当然濡れて、ただでさえ黒い毛が黒々と光沢を放つ。
しかし短毛だったお陰か、重そうな感じはなかった。むしろ重いのは私の方だった。
外套がずしりと肩や背に伸し掛かってくる。
調合薬を仕舞い込んだ鞄も水を吸い、それ以上に跳ねた泥が纏わり付いて重りになっていることだろう。
悩んだのは、ほんの数瞬だった。
「ルネっ!」
疾走するルネはふしゅともすんとも答えなかった。
だけど伝わっただろうと、両足でお腹を挟むように力を込める。次いで両手を離して、上体を持ち上げた。風と雨をまともに受け、背中が反り返りそうになる。どうにか耐え、濡れたせいで引っ掛かる外套の袖から腕を引き抜いた。
寒さと冷たさのせいだろう、知らず知らず震えていた指で留具も外し、外套を脱ぎ捨てる。
余計、寒くなった。
だけど軽くもなった。
またルネにしがみ付く。水を吸った短毛は、それでも暖かかった。首筋を、邪魔にならない程度にそっと撫でる。
「ありがと」
舌を噛まないためには、それだけ言うのが精一杯だった。
だから続きは、心の中で唱えてみる。
きっと今のルネなら、それだけで感じ取ってくれるだろう。
疾走するルネの背にいるせいで、ただの雨は暴風雨と化していた。
打ち付ける雨と風が身を凍て付かせ、あらゆる感覚を奪い去る。
ルネの毛の中に潜り込ませている指の感覚はまだ無事だけど、頭はとうに回らなくなっていた。
曇天の向こうに、太陽は輝いているだろうか?
あるいは既に沈み込み、月と星々を輝かせているのだろうか?
まともに働かなくなった思考が答えを結ぶことはない。
ただ、ただ、何度目かの周回を経て同じところに舞い戻ってくる。
森はまだか。
イスネアから南に行けば森だと聞いていた。
しかし、距離を教わってはいなかった。そもそも真南に進めば、それだけでいいのか。太陽も隠れてしまった今、方角を知る術はない。生粋の旅人なら他の術を知っているのかもしれないが、私にはなかった。
禍福――、と心中に唱える。
水面に落ちた葉が小さな波紋を広げるかのように、その名はじわり、じわりと心の隅々にまで広がっていった。
会いたいと、自ら置いてきたことを棚に上げ思ってしまう。
助言なんてなくていい。馬鹿だろ、と笑ってくれて構わない。意地悪なことを言って、惑わすのでもいい。
ただそこにいて、一人じゃないんだと教えてほしかった。
ルネは疾走を続ける。
私と一心同体になった彼は、置いてきた同胞を思うだろうか。もう二人いた旅のともを覚えているだろうか。
全ては大地の泥濘同様、まともな形を失い泥と化した思考に溶けていく。
そこには最早、エルフも竜馬もなかった。
ただ森へと駆ける、黒の颶風。
降りしきる雨が前と後ろの区別をなくし、立ち込めた黒雲は空と大地とを曖昧にする。
額に落ちた雨粒が目に入らないように瞼を閉じ、再び開けた時、何時間か過ぎ去ったのだと言われても信じたかもしれない。
一秒と一時間の違いは消失した。
走るルネの背で揺られ、確かに前へと進んでいるはずなのに、どこかでくるりと一八〇度入れ替わり、後ろだった方へと戻っている気さえしてしまう。あるいは時そのものを遡り、かつての暖かく穏やかな、明るい森へと帰ろうとしているようでもあった。
一人と一頭の息遣いも遠く感じる。
いつの間にか雨に溺れ、寒さに凍え、生きていた頃の名残で走り続けるだけの死体となっているのではないか。
そんなことまで真剣に考え始めた頃、不意の揺れが意識を表層に引き上げた。
揺れ続けるルネの背で、しかし予想外の揺れ。
思わず顔を上げ、進む先を見通そうとして違和感があった。雨と暗がりで前なんかよく見えない。それでもルネの足取りがおかしく、私の全身にも妙な重さがあることには気付けた。
「……?」
これは、いったい……?
すぐには理解できなかった。
だが直後、相変わらず降り続けている雨が急に音を変えたことで、その正体を知る。
水面だ。
地面だと思っていたほんの数メートル先に、黒々とした水面が広がっている。降り注ぐ雨は己が生んだ波紋を砕き、バシャバシャと小さな水柱を頻りに上げた。
そして何より。
違和感の原因も、今更ながらに悟った。
下り坂だ。
ここは川だったか湖だったか、ともあれかつて水に溢れていた土地なのだろう。干魃によって水嵩が減り、削られた大地はそのまま斜面となって姿を現した。
しかし今、降り続けた大雨によって以前の姿を取り戻そうとしている。
このまま突っ込めばルネも私も水の底。
一心不乱に走り続け、今にも鼻先を水面に突っ込もうとしたルネは、――その寸前。
「……ぐぅっ」
重力を引き剥がさんとする、強烈な方向転換が肺の奥の空気を潰す。
喉から漏れ出た音が耳に届くかどうかという時、ようやく追い付いてきた浮遊感が衝撃とともに弾け飛んだ。
着地。
かつて水底だった小さな川だか湖だかを飛び越えて、ルネと私は対岸へと渡った。
道を阻むものは、もう何もない。
走り出そうとしたルネは、そして久方ぶりの声を上げた。
「キシゥ……ッ」
初めて聞く声だった。
明らかに尋常ではない、絞り出したような響き。
それでも走ろうとしたルネだったが、その足取りこそが私に異変の出処を教えてくれた。
前足だ。
踏み出した右前足が泥濘んだ大地を踏み締めようとし、できずに沈み込んだ。泥に足を取られたわけじゃない。
人間でいえば膝、竜馬にとっても膝なのか、それとも踵なのか分からないが、ともあれ足の関節から下に力が入らない様子だった。膝立ちするかのように、無理やり立ち上がるも走り出せない。
ルネは吠えた。
きっと言葉ではなかったのだろう。
うぅ、とか。
おう、とか。
痛みを堪えながらも力むために吐き出す、声というより息に近いそれ。
左前足が大地を踏む。
右前足が大地に落ちる。踏み締め、蹴り上げるだけの力はなかった。なのに前へ進まんとする。
「……ルネ」
もういい、と言えたらどんなによかっただろう。
心の底から、もう諦めていいんだと伝えられたら。
背から降りる。ルネは鳴き、鼻先を向けてきたが、また背に乗れとは言わなかった。隣を悪く私よりもずっと遅い歩みだ。息も乱れている。走り続けることで誤魔化してきた疲労は、歩き始めた途端に無視できない重みとなって全身を縛り付けるだろう。
それでもルネは足を止めなかった。
前へと、一歩と呼ぶにも短く、歩くと呼ぶにも力ない足を踏み出していく。
血は流れず、骨が突き出たわけでもないのに、右前足は痛々しい惨状をまざまざと見せつけてきた。
その足を大地につける度、短い声がルネの口から漏れ出る。
どうすればいい。
今だけ入れ替わって、ルネを背に担いで走れたらよかったのに。
それだけの力は、私にはない。
「いや、そうだ」
腕力はなくても、代わりの力が私にはある。
「ルネ。止まって」
「フウゥ――ッ!」
「違う、森には帰る。だけど、だから今は止まって」
鼻息荒く向けられた視線にじっと見据え返し、額を撫でてやる。ようやく行き違いを悟ったのか、ルネは諦めたように足を止めた。
「そう、それでいい。痛いかもしれないけど、少し我慢して」
しゃがみ込み、右前足を間近に見やる。
骨折か。
やはり骨が皮膚を突き破るほどじゃない。流血がないことからも、さしたる大怪我でないのは確かだった。
だが、それはエルフの基準でいえば、だ。
腕が折れても、人が死ぬことはない。
しかし獣にとって、特に四足歩行の竜馬にとって、前足の損傷というのは致命的だ。
折れていると思しき辺りに手を伸ばす。
触れた瞬間、ルネが吠えた。ピクリと跳ねた足が頬を掠め、雨粒とは違う冷たいものを背筋に這わせる。頭上から申し訳なさそうな声が落ちてきた。いいよ、と声の代わりに左前足を撫でて返す。
獣は人より本能が強い。
痛みに耐えろと言っても限度がある。反射的な動き一つで、私の細い首は簡単にへし折れるだろう。そうなれば死は免れない。ルネも分かっている。今は信じるしかなかった。
患部に触れ、私とルネの体内を巡るマナを意識する。
治癒の魔法。
アーロンの長老を癒やし、メイディーイルでは禍福の傷も癒やしたそれ。
同じことを今、ルネにするだけだ。
集中した指先に、淡い光がほんのりと灯る。
だが、それだけだった。
もう一度マナの流れを意識する。……? もう一度。
「……っ」
どうして。
焦る。
それは指先を通してルネにも伝わり、ふるると毛先が震えるのが分かった。
でも諦めるわけにはいかない。
もう一度伸ばした指の先で、ルネが右前足を跳ね上げた。私を蹴るのではなく、逃げる動きだった。
「シフゥ」
今なお痛むはずのルネの口から、怒りでも苦しみでもない声が零された。
もういい、と言いたげに。
「だけど」
「シッ、シッ――」
短く区切られた鳴き声とともに、鼻先が進むべき方向を指し示す。
前へと。
まだ進めると、ルネは言ったのだろうか。
「……。あぁ、分かった」
すまない、と喉元まで出かかった言葉は飲み込んだ。
きっと伝わってしまうのだろうけれど、だとしても声に出すことはできなかった。
雨に濡れ、足元に屈み込んだせいで泥にも塗れてしまった髪をかき上げる。
父や母とは違う鈍色の髪は、雨が降り続ける闇の世界に、さぞお似合いなことだろう。
力なく歩くルネの背を撫でながら、私と森との間に割って入る雨粒たちを睨んだ。
この身朽ち果てようとも、構うものか。
救うと、決めたのだ。
お父様が、リクが、ティルが、残してきた全ての民が、死んでいった先人たちが、生まれてこられなかった子供たちが待っている。
帰らなければ。
私たちの、私の、森に。




