47話 たとえ時代が滅ぶとしても
竜のごとく力強く。
猫のごとく軽やかに。
竜馬は、駆けた。
イスネアは小高い丘に構える街であり、国だ。
そこから出るためには必然として坂道を下る必要があったが、狭い下り坂を並んで走るリューオとフシュカに躊躇の色はない。それどころか一歩、また一歩と蹴るほどに加速し、転げ落ちるかのような速度に達しながら一路南へと直走る。
しがみつくような前傾姿勢から顔だけ上げるも、エレカとルネの背中は当然見えない。
いかに竜馬が頑強だろうと、休息もなしに走り続けるのは無茶だ。
仮に休憩したとて、ルネが運ぶ荷はマナを原料に作った調合薬だけ。エレカのポーチにある食料を勘定に入れたところで、果たして何日持つか。
何日も持つはずがない、と考えるまでもなく結論できる。
それはエルフと竜馬が何日間飲まず食わずで生きられるかを数えるに等しい。その上、無茶な速度で走り続けてるとなれば……。
逸る気持ちは、腕や足を通して竜馬に伝わる。
元より先を急ぐ気持ちの強かった二頭だ。リューオがぐんとまた一段加速すると、すぐさまフシュカも呼応した。
乾いた地面が恐ろしい勢いで背後へと流れていく。
転げ落ちたら、俺の獣と化した肉体でも無事では済まない。竜馬にしても窪みに足を取られてしまえば命を落とす。
だが逸りこそすれ、怯みはしなかった。
決して平らなばかりではない大地の上、二頭は瞬時に踏むべき道を見極め走り抜けていく。
ただ一歩、踏み締めやすい場所を見つければいいわけじゃない。その次、また次と瞬間的に蹴っていくためには、空を往く鳥にも劣らぬ速度で走りながら常に二歩先、三歩先を探し続ける必要があるはずだ。
人に飼われてなお、野生の勘は薄れないのか。
不意に笑いそうになる。
本当の故郷を知らないまま、一度たりとも自由に駆けたことのない大地を、しかし本能に従って走るというか。
その向かう先が主人の元だというのも、また可笑しかった。
「行くか、俺も」
口の中で笑い声を転がし、黒い短毛に顔を埋める。
イスネア以南の地形は、完璧には程遠くともある程度は把握できていた。わざわざ前を見るより、少しでも風の抵抗を減らしてやった方が竜馬も走りやすかろう。
俺とて、言ってしまえば一匹の獣。
外套越しに跨る毛玉と一体になる思いで、エレカの真似をして身を委ねてみる。怖がりはしない。俺が怖がれば、竜馬も緊張する。
だから、そうだな。
「思い出話でもするとしよう。貴様らが知らない主人の話だ」
竜馬は鳴かなかった。
俺の声が聞こえていたかも怪しい。
風さえ置き去りに疾走する竜馬たちは、気のせいか、それでも楽しげに鼻を鳴らした。
どれほど走り続けただろうか。
空を見上げ、陽の傾きを確かめようにも、目に映るのは一面を埋め尽くす黒雲ばかり。
溜めきれなくなった水分を零すかのように、黒々とした雲たちは大粒の雨を降らせ続けていた。
あと五年早く、これだけの雨が降っていたらオールドーズの権威は地に落ちていただろう。あるいは、それさえも知り得たと豪語し、人々からの感謝を掠め取るか。
どうだっていい。
だが、巡礼者の中でも比較的多くを知るはずだった俺でさえ、一寸先を見通せない事態に陥りつつあるのは確かだ。
今までは干魃こそが時代の終焉を招くのだと考えてきた。
今の時代に魔王や、同じく人間に敵対した亜人どもは存在しない。だからといって争いが生まれないかといえば、そんなこともないと歴史が雄弁に語る。
干魃は単なる始まり。
多くの命が篩いに掛けられ、残った者たちが椅子取りゲームのごとく僅かな生きる糧を奪い合う。
その果てに文明が途絶えると考えれば有り得ない話ではない。
しかし、なんだ、この雨は。
遅すぎる雨は、干魃によって失われた多くの命を取り戻すには足りない。あまりに、足りなすぎる。
ただ、生き残った者たちを繋ぎ止める命綱にはなるだろう。
限られた富を奪い合うのではなく、零れ落ちていく命を掬い上げるために手を取り合う。
その果てに終焉があるとは、到底思えなかった。
緋色なら何か知っているのか。
それとも枢機卿で情報が止められているのか。
はたまた、オールドーズに伝えられた前の時代の知識は所詮、前の時代にしか通用しない無用の長物だったのか。
「どちらにせよ、か」
知らないのも知らされていないのも、最早同じこと。
教会にも、この外套にも助けられてきた。
だとしても俺は、きっと外套を捨てることになる。緋色とは互いにフードの中身を知る者同士、腐れ縁とも呼ぶべき仲が続いてきた。それも終わるだろう。あれは教会随一の信奉者だ。
ひどい雨のせいで全速力を出せない竜馬の背で、ふと空を見上げる。
どこまでも広く高く続いていそうな曇天。
遅すぎた恵みの雨が嘲笑うがごとく濡らし、掘り返す大地に目を落とした、瞬間だった。
「――ッ!?」
黒い、何か。
遠くに一瞬、雨に打たれ舞い上がった土塊が見えたのだと思ったが――。
竜馬が地を蹴り、近付いていくほどに思っていたものと違うとありあり見えてきて、遂にその姿を捉える。
「ッ……! 止まれ!」
竜馬の横腹に足を押し付ける、その停止の合図も忘れて叫んだ。
それでも幸い、意思を汲み取ったか驚いただけなのか知らないが、竜馬は急減速した。
しばらく慣性で走り続けた二頭が足を止めるのと同時、飛び降りて遠目に見えたそれに駆け寄る。
途端、息が塊となって溢れ出た。
外套だった。
雨と泥で無惨な姿に成り果てているが、持ち主もろとも朽ち果てたわけじゃない。安堵の息が、またどっと零れる。最悪の可能性。そんなはずはないと思いながらも、考えずにはいられなかった結末。
それが杞憂だったと知るや、今度は感情ではなく理性がぐるぐると脳を駆け巡らせる。
見慣れ、着慣れた巡礼者のための外套。
これは一体、誰のものだ?
否、他に可能性がないことなんて分かっている。
イスネア以南、これより先にはエルフの森しかなく、迂回して東に向かおうにも竜寧山脈が行く手を阻む。竜寧山脈は戯画的な三日月を描く霊峰。山々に囲われるかのようにオールドーズ教会の本拠地があると聞くが、いくら巡礼者でも気軽に足を運べる道程ではない。
大抵は北からぐるりと山脈を回り込み、細い細い谷底を往くのだという。
俺は行ったことがなかった。全て伝聞だ。
しかし、どうあれ山脈越えが無茶なのは遠くそびえる威容を眺めれば一目瞭然。
こんなところにまで足を伸ばす巡礼者などおらず、外套を捨てていくとすればエレカを措いて他にいない。
リューオとフシュカも外套に気が付き、鼻先でつんつんと突付き、上手いこと捲って雨や泥の汚れが少ない内側の臭いを嗅いでいるようだ。顔を上げ、何か言いたげに視線を投げてくる姿からして、やはりエレカのもので間違いない。
だとすれば何故、エレカは外套を捨てていった?
遠からず外套を捨てることは想像できていた。だが、それは比喩的な意味合いでの話だ。元々巡礼者として旅をしていたつもりなどないであろうエレカとて、俺や緋色以外のヒュームの前では巡礼者の振りをせざるを得なかった。
その振りさえやめた時、エレカは正真正銘、ただ一人のエルフに戻る。
そうは言っても、この外套は上質なものだ。
これほどの雨となると形無しだが、多少の水気なら物ともしない。夜には体重を預けられる棒切れか何かさえ見つければ、あとは外套をそのまま風除けとして朝を待つこともできる。
巡礼者の振りをしなくなるからといって、わざわざ捨てるには惜しい品。
何か事情があったのか、捨てざるを得ないほどの。
考えてみるも、答えは出ない。兆しも一向に見えない。
頭を振る。
「フシュカ」
名を呼ぶのは、ここまで俺を乗せてきたのとは違う、緋色の竜馬。
早くも自分たちの名前を覚えたのか、そいつは鼻先を俺に向けて返す。
「次は貴様の背に乗せてくれ。エレカとルネを追う」
この雨だ。
普段以上に疲れるはずで、いい加減どこかで足を止めていても不思議はない。それと同じくらい、無茶を承知で走り続けていることも考えられるが……考えても仕方のないことを考えていられるほど、俺たちに時間はないだろう。
乗りやすいよう前足を曲げてくれたフシュカの背に跨がり、足で軽く横っ腹を蹴る。走れ、の合図。だがフシュカは走り出さなかった。
すぐ隣、身軽になったリューオが未だ、泥濘に転がる外套を鼻先でいじっている。
泥を掘り返すような仕草。外套を持ち上げようとしているのか。泥だらけのそれを、俺の主人と間違えるほど愚かではないはずだが。
「よせ。持っていっても邪魔になるだけだ」
「フッシュ!」
「俺には貴様らの言葉は分からん。だが、余計な荷物を持っていっても、エレカに追い付くのが遅くなるだけだぞ」
俺には分からなくても、竜馬には俺の言葉が分かるらしい。
しゅんと項垂れたリューオの鼻の上辺りを、フシュカが鼻先で撫でてやっていた。やがてリューオも外套を諦める。
二頭が並び、声もなく吠えるような仕草をした。
視線は前方に、エレカが走っていったであろう雨が描く紗幕の向こうへと注がれる。
そして、合図もなく走り出す。
雨を、風を、外套を置き去りに。




