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四話 エルフの魔法

 長老とは名ばかりではないらしい。

 一度も使っていないんじゃないかと思わせる真っ白なタオルから、触れただけで指が切れてしまいそうなナイフまで。

 それらは長老の家だけでなく、町中から集められた。

 あるいは、誰もが手を貸したいと願いながら、その方法を知らなかっただけかもしれない。

 町の広さに比べれば随分と少ないが、それでも静けさからは想像もできなかった人数が長老の家に詰めかけ、自分にできることはないかと名乗り出てくれた。

 長老は高濃度の酒に酔い、焦点の定まらぬ目で町民たちを見回している。

「ナイフを入れます。気を確かに」

 投げかけた声が届いているのかどうかも分からない。

 舌を切ったり奥歯を砕いたりしないために噛ませた布のせいで、何事か呻くように零された長老の声が言葉を結ぶことはなかった。

 誰もが不安そうだ。

 私だって、不安じゃないと言えば嘘になる。魔法に不安はなくとも、老人の身体が持つかは怪しいところだった。

 それでも、やる以外の選択肢はない。

 膿んだ足は遠からず腐り、全身を蝕む毒となる。

「膿や血が飛び散るかもしれません」

 手伝いのため残ってくれた何人かにも声をかけ、長老の右足に布をかける。

 その下にナイフを入れ、半ば手探りで刃を当てた。一息、ナイフの切っ先を突き刺す。膿んだ足には思いの外弾力があって、刃を跳ね返しかけた。そのせいで痛みが増したのだろう。

「ぅぐう……!」

 言葉を発せない長老の口がそれでも唸り声を上げる。

 町民や何より妻である老婆が悲鳴じみた息を漏らすも、ここで止める方が酷だ。躊躇いを捨てて刃を滑らせる。堰を切られた膿と血が溢れ出し、一瞬にして布を赤黒く染め上げた。それが余計、老婆を震え上がらせる。

 だが、男衆にまで縮こまってもらうわけにはいかない。

「タオルを!」

「は、はい……っ!」

 いの一番に手伝いを買って出てくれた、あの門番の男に指示を出す。

 男はタオルを患部に当て、汚れきって重くなった布と入れ替えた。それだけでは終わらない。控えていた青年が次のタオルを用意する。こちらは一度お湯で濡らしたものだ。大差ないとは思うけど、やれることはやっておきたかった。

 ほんの数分だというのに、みんな汗だくだ。

 それでいて、横顔には疲れとは裏腹の覇気が見える。ヒュームだって人間だ。同胞を救うとあれば必死にもなるし、救えると思えば疲れなど吹き飛ぶだろう。

 いける。

 心配はいらない。

 青年が三度取り替えたタオルには、鮮やかな赤色しか付いていなかった。膿はもうない。同時に血肉もかなり削ってしまったが、それを再生させるのが治癒魔法だ。

 最後は体力勝負になるとはいえ、エルフの誇りを懸けて必ず救う。

「あとは魔法でいきます」

 私に代わって患部を押さえていてくれた男と再度入れ替わり、タオル越しに傷口に触れる。

 長老はまだ細々と苦悶の声を漏らしていた。ヒュームは脆弱だ。出血量から見ても、長くは持たない。

 急ぎつつ、同時に慎重さも忘れず。

 想起するのはエルフの森の中央に鎮座する神樹。

 その小さな芽から森が始まったと言われる伝説の時代の大樹は、ヒュームにとっての信仰に近い感情をエルフに抱かせてきた。

 それは私たちエルフの根源であり、マナが最も集まる神聖な存在。

 今ここに神樹はなく、それどころか私は森にさえいないけれど、いつだってマナはそこに繋がっていると信じて。

 タオルを剥がす。

 どくどくと脈打つ肉が見える長老の右足を、一瞬、淡い光が包んだ。

 しかし、すぐに消えてしまう。

「……足りない?」

 そうか、ここはエルフの森じゃない。

 出力を上げる。木々が根から水を吸い上げるように、空気中に溢れるマナを吸い上げる感覚。

 再び淡い光が長老の右足を包んで、今度は消えなかった。

 じわり、じわりとだけど傷口が塞がっていく。再生した肉を皮が覆う。シワどころか日焼けのシミ一つない、白い皮だ。真新しい、赤子の肌。

 ただ、それもまた一瞬のこと。

 すぐに血肉は長老自身のものとなり、私からのマナの供給を絶っても崩れはしなくなる。

「これが……!」

 青年が小さく叫んだ。

 露わになった肉に目を剥いていた老婆も、目の端に涙を湛え喉を詰まらせる。

 布を噛まされた長老が喉の奥で唸り、それきり静かになった。

 男が不安な顔を見せる。焦って、手に唾液が付くのも構わず布を取り出してから、安堵の息を漏らした。そんなことをしなくても、長老の胸は上下している。

 まぁ、穏やかな寝息が聞こえたことで、老婆も一安心できただろう。

 私が足から手を離し、包んでいた淡い光も消えたとなると、傍目にも治療が終わったことは明白だ。老婆が私の手を取り、言葉になっていない声を並べながら上下に振った。頭も、脳震盪になるんじゃないかと心配になるくらい揺らしている。聞き取れない声は感謝の言葉らしい。

「ありがとうございます、ありがとうございます……!」

 男も繰り返す。

 そんなに感謝されることじゃないのに。確かに最後の一押しは私の魔法だったけど、そこに至るまでの道具は全て町で用意したものだ。

 でも、人心地つけたのは事実か。

 我知らず笑みが零れる。それを見られることに何故か抵抗があって、すぐに気が付いた。そうだ、私は彼らを騙したままだ。巡礼者などという、誰なのかも知らぬ者に成りすまして感謝されているだけ。

 そう思えば、笑みも消える。

 怪訝に思われないよう口元を一文字に結び、潜めた声で言う。

「まだ終わりではありません。むしろ、ここから回復するまで体力が持つかが勝負です。しばらくは安静に。今は静かにしておいた方がいいでしょう」

 男と老婆がはっと顔を見合わせ、互いに苦笑した。

「では、外へ。空き家を一つ、整えさせました。そちらへ案内します」

 促されるまま、長老の家を後にする。

 いつの間にか辺りはすっかり明るくなっていた。来た時は見えなかった町の様子が見通せ、男が当たり前のように言っていた干魃という言葉が嫌でも思い出される。

 水とスープを何杯も貰ってしまった。

 決して十分ではないはずの道具も使わせ、次の夜を越すためにまた何もかも借りることになる。明日まで口にする水や食料もそうだ。

 それが老人の足一本に釣り合う対価だろうか。

 あるいは、いっそ――。

 頭を振って、脳裏によぎった選択肢を払い除ける。男が怪訝そうに振り返った。

「どうかしましたか?」

「いえ、大変なのだろうと思いまして。この町も」

「それは……はい。ですが、どこも似たようなものと聞きます」

 干魃の地か。

 ヒュームは同族を守る意識が薄い。同じ町に暮らす者同士は互いに守り合うが、少し離れた場所に暮らせば敵対さえする。そんなヒュームが、これほどまでに水や食料を売れる土地を見過ごすとは思えない。

 余所に売って回るほどの余裕はない、ということか。

「しかし、自分たちは幸運です。こうして巡礼者様に助けていただくことができました」

「私のしたことなど、大したことではありません」

 謙遜ではない、本心からの言葉だった。

 同時に、新たな感情が芽吹く。この有様だ。困っているのが長老だけとは思えない。

「他に助けが必要な者はいますか? 見ての通り、道具はあまりありませんが、魔法には幾らか心得があります」

 男は口を開きかけ、閉じ、また開いた。

 けれど声は続かず、何か言いたげな表情のまま頭を振る。

「自分たちばかりご厚意に甘えるわけにはいきません」

「ですが、困っている者を見捨てるわけにも――」

「他の土地に、もっと困っている者もいるでしょう。……幸い、ここにあるのは不作だけです。呪いはありません。自分たちにも畑は耕せますが、呪いに打ち勝つ術は持っていないのです」

 呪い。

 それはあれか、神樹を穢そうとした者が異形に変えられてしまうという、子供を叱る時の常套句か。

 だが男はヒュームで、ここはヒュームの町だ。

 神樹など見たこともないだろうし、穢そうにも穢せまい。

 ならば、なんだ。

 訊ねたい気持ちはあったが、どうやら巡礼者が知らぬはずはないものらしい。それを知らぬと白状するのは得策ではないだろう。

「でしたら、明日――」

 出立までにできることがあればなんなりと。

 そう言いかけた声は、しかし半ばで遮られた。

「じゅ、巡礼者様――ッ!」

 背後からの叫び声。

 思わず振り返り、言葉を失う。

 女性だった。若い女性。ヒュームの歳はよく分からないけど、私ともそこまで違っていないように見える。十代か二十代だろう。

 そんな女性が赤子……というには些か大きすぎる子供を抱え、肩で息をしていた。

 目の下には深い隈ができていて、服もただ走っただけとは思えないほどくたびれている。ちらりと背後、つい先ほどまで前方だった側に立つ男を見やれば、焦りと困惑の入り交じる表情を浮かべたところだった。

「あ、あの、巡礼者様。私の、私の娘はもう、もう」

「ナーシャ! やめるんだ、ナーシャ! 巡礼者様は今しがた長老を手当てしてくださったばかりで、お疲れなんだ。旅の疲れもあるだろう。せめて明日まで待っていなさい」

「けど……! ですけど、今日も泣いたんです! ずっと、ずっと泣いているんです……!」

 娘、と言ったか。

 ナーシャと呼ばれた女性が抱きかかえた赤子は、母親の切迫した声を聞いてか、途端に泣き出してしまう。大きな、大きな声だ。それでいて悲痛さはなく、エルフの私でも聞き覚えのある泣き方。

 まだ何か言おうとしている男を手で制し、我が子をあやし始めたナーシャと向き合う。

「私は構いません。……しかし、見たところお腹が減っているのでは?」

 干魃とは言うが、赤子の食べ物は乳だ。まさかヒュームの子といえど、親に抱かれているうちから肉や穀物を食らうわけではあるまい。

「そう、なんですが……けど、私はもう乳が出ないんです」

「干魃で栄養が足りていないと?」

「いえ、いえ……そうではないんです。そういうわけでは、ないんです」

 母親の狼狽が更に赤子を泣かせた。

 不安か恐怖か、どちらにせよ空腹を訴えるのとは違う悲痛な泣き声が町に響く。騒ぎを聞き付けた者がぞろぞろと集まり始めてもいた。男が顔を顰め、一層赤子が泣く。それが伝播し、野次馬たちも顔を顰める。

「巡礼者様、ナーシャがその子を産んだのは四年前なのです」

 耳元でぽつり、男が言う。

「なっ……? 今、なんと?」

「アレンの子は、あれで四つ、今年で五つになります。ですが未だ立つことさえできず、乳離れもしない有様で……。少し前までは動物の乳を与えていたものの、馬草も満足に育たなくなって家畜も肉にしてしまいましたから、今は」

 男の言葉は、彼が何を言っているのかは、かろうじて理解できた。

 だが、その意味まで汲み取ることは、ついぞ叶わなかった。

 五つ? 五歳? なのに、少し大きすぎる赤子くらいの見た目で、母親に乳をせがむ?

 エルフなら、まだ分かる。

 それでも異常だが、ヒュームに比べ寿命は二倍から三倍、少し成長が遅ければそんなこともあるかもしれない。

 一方、あの母親はどう見てもヒュームだ。

 彼女の細腕に抱かれる赤子が、十年かそこらで子を産み育てる歳になるとは……到底、考えられなかった。

 異常。

 あまりに簡単な言葉すぎて、たったそれだけで片付けていいものとは思えなかった。

「し、失礼」

 近寄ることさえ、躊躇われる。

 それでも近寄らなければ、この不幸な母娘の悲しみを見過ごすことになる。

 赤子は、一見して普通の赤子だった。歳を聞いていなければ、むしろよく成長しそうな健康な子だと感じただろう。

 ただ――。

 傍に寄り、目を背けず見据えれば、その異質さは一目瞭然だった。

「……ッ」

 なんだ、これは。

 目から――否、指先や肌から飛び込んできた衝撃が心臓まで揺らしたようだった。

 何か言わねばと思うばかりで、言葉など浮かぶはずがない。開けた口は渇ききっていて、お陰で、遂に言葉を結んだ思いを声に出さずに済んだ。

(これは、こんなものがヒュームなのか?)

 心臓が凍えるほどの緊張感。

 ただただ泣き叫び続ける赤子以外、誰もが沈黙していた。

 白昼の、寂れた町の只中で。

 しかし次の瞬間、赤子をも黙らせる何かが、たった一歩、足音を鳴らした。

「これは何事か」

 女の声。

 澄んだ、澄みきった、美しく、あまりに美しすぎて、何者も寄せ付けまいとするかのような凛とした声。

「……巡礼者、様?」

 誰かが声を漏らした。

 途端、誰もがそちらに振り向く。

 誰からともなく身を引き、その者に道を開けた。

 そうするのが必然であると、本能が直感したがごとく。

 私が認めると同時、その存在もまた、私を認めた。

「なるほど、これは奇妙なことがあるものだ」

 それは、まるで鏡写しの私だった。

 同じ外套を身に纏い、やはりフードの陰に顔を隠した存在。

「巡礼者が二人。珍しいこともあったものだ、そうだろう?」

 その存在は、ニヤリと口元を歪ませる。

「なぁ、もう一人のオールドーズよ」

 オールドーズ。

 初めて聞く言葉。

 返す言葉など――、

 返せる言葉などあるはずもなく、私には黙ることしかできなかった。

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