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四十話 旅の束の間

 無我の境地。

 剣術を極めた者が辿り着く高みだと、そう無邪気に話していたのはリクだったか。

 ヒュームの暮らしに誰より興味を持っていたリクだから、森にいては見ることのできない剣の極みに心躍らせたのだろう。

 そんなに外が好きなら、一度くらい旅に出たらよかったのに。

 反感は避けられないにせよ、リクの生まれを考えれば無理に引き止めようとする者もいなかったはずだ。

 無論、私がいなければ、だけど。

 リクは私の――、次期森長の許嫁となることで森に縛られたとも言える。

 そうでなくとも彼の性格的に、好奇心だけを原動力に森を出たとは思えない。

 私がいなければ、リクはどうしていたのだろう。

 それでも私のせい、とは言わない。

 許嫁なのだから私にしたところで親や大人の都合で決められた話だ。とはいえ森長の娘に生まれた以上、まだ恋心どころか物心もつかぬうちに婚姻の話がまとまるのは当然のこと。

 私はいつ生まれても許嫁との結婚と、次代の森長になることを定められていた。

 しかし、リクは……。

 詮なき仮定と言えばそれまでだが、どちらかがもっと早く、あるいは遅く生まれていたらリクには違う人生があった。

 ルネの背で揺られながら、風に煽られた髪や外套が立てる音を聞く。

 昼間はずっと聞くせいで耳に馴染み、無機質でありながらも多彩なリズムを奏でるそれは心地良く胸に響いた。

 いつからだろう、とぼんやり考える。

 どうあれ無我の境地という言葉を思い出し、それがなんだったかと考え始めた頃には、もう無我の心地は過ぎ去っていた。

 と、何かに気付いたルネが不意に耳を動かす。

 何に気付いたんだろうと首を傾げ、直後に私のことかと思い至った。

「さっきまでの方が走りやすかったか?」

 よしよし、と声には出さないで首元を撫でつつ、相変わらずの速度で走り続けるルネの背で少し思案。

「けど、どんな風にしてたかな」

 我を無くすとはよく言ったものだ。

 どれだけ思い起こしてもさっぱり思い出せず、最後には諦めてルネの首元をもう一度撫でる。

 座りが悪くてごめんね、という意思表示。

 伝わったのかは定かではないものの、それきりルネは走ることに専念した。

 私も無我とは言えないまでも、風やルネに溶け込む感覚を常にイメージし続ける。雑念は風に洗い流され、私の末端がルネの末端と重なり、私とルネの境目がどこにあるのかも曖昧になっていくようだった。

 先頭を走るリューオが足を止め、その背から降りた禍福が振り返る頃になって、ようやく私も我に返る。あれほど曖昧だったルネとの境目は、探るまでもなく明瞭に感じられた。鞍から降り、随分と気持ち良く走っていたらしいルネの鼻の上辺りをそっと撫でる。

「すっきりした顔だな」

 微笑を浮かべた禍福には同じく微笑で応える。

「無我の境地を考えてみた」

「無我の境地?」

「剣の達人が至る境地なんだと」

「はぁ? いや、剣に限らず聞く話ではあるが、それがどうしたんだ」

 そうなのか?

 色々と説明が間違っていたり足りなかったりするぞ、リクめ。

「森で許嫁から聞いた話だったんだがな。ともあれ、ルネが気持ち良さそうに走るから、私はどうしているのが一番いいのかと考えてみたんだ」

 剣の稽古もそうだったが、なんであれ何かに専心するのはいい。

 森の未来は不安だ。今この瞬間も、次代を担う子供たちが生まれることもできず死んでいっているのかもしれない。エルフが世界から消え去るなんて、考えるだけで総毛立つ。

 しかし、どれだけ不安がったところで今の私にできることは何もなかった。

 否、予定通り調合薬を持ち帰ることが何よりの方策で、そのためには思い悩むよりルネの背で揺れる黒毛に紛れ込む方がずっと意味がある。

 それは昨日から悩み続けてきたことへの答えであって、もっと言えば成果だった。

 にも、かかわらず。

「……貴様、許嫁がいるのか」

 禍福が驚きに目を丸くし、唖然と声を零すのはどうでもいい話の方だった。

 森長の娘なんだから許嫁の一人や二人いるだろうに。……冗談ではなく、万が一のために二人目や三人目がいても驚きはしない。

「いた、が正確だけどな」

 笑って、これもまた当然のことを付け加える。

「私は追放された身だ。次の森長にはなれないし、ならないから、森に帰ってもリクとは……あぁ、許嫁だった男とは単なる友人の一人として再会することになるだろうな」

「そうなのか? しかし、そうなると次の森長はどうするんだ? エルフにとって血は重大な意味を持っていたはずだが」

 その問題は確かに避けては通れない。

 血筋を強く意識したことはないけど、森長が世襲制なのには意味があるのだろう。

「まぁ父が新しい妻を得てもう一人作るか、他の重役が引き継ぐってところじゃないか?」

 そろそろエルフにしても高齢の父だが、若い奥さんを貰えば不可能ではない。

 しっかり育て上げる前に他界してしまっても、血さえ繋げれば一時的に他の者が仕事を担うなりして、また脈々と受け継がれてきた森長の血筋が後世へと続いていく。

 それが無理なら無理で、他の格式ある血筋の者が森長の責務を継ぐという選択肢もあった。

「そういえば貴様は母を……とはいえ、森の存続となれば愛だのなんだの言ってはいられまいか」

「そういうことだ。父も責任感はある」

「貴様を見ていれば分かるさ」

 ははと声を上げて笑う禍福だったが、すぐにその笑みを引っ込める。

 どうしたのだろう。

 探し当てるより早く、答えは自ずと口を開いた。

「お二人とも、もう一つの可能性を忘れていませんか? それとも意図的に失念を?」

 禍福の眼差しは私の背後、緋色へと向けられている。

 私も振り返って、彼女のにんまりとした微笑を見つけた。

「血筋というなら、エレカさんがいるじゃありませんか。森長にはなれなくても、その……リクさんでしたか? 許嫁の方と子をなし、その子を次の森長とすればいいのでは? 高齢のお父上に頼るより、よほど安全かと思いますが」

 言われてみれば、なるほど盲点だった。

 ……けど、それはどうなんだろう。結局のところ、追放の件を有耶無耶に片付けるだけに終わらないか。まぁ私の罪は私だけの罪であって、子に受け継がれるものではないと言えばそれまでなんだが。

 しかし、何かもやもやする。

 視線を戻し、どうなんだろうなと笑いかけようとするも、禍福の表情を見て笑いが引っ込んだ。

 無である。

 楽しさも苛立ちも感じさせない、恐ろしく無に等しい表情を浮かべていた。どういう表情なんだ、それ。

 しかも何が面白いのか、背後では緋色が堪えきれないとばかりに大声で笑い出す。

 ちらと振り返ってみたら、なんと比喩ではなく腹を抱えていた。

 また禍福を見やるも、やはり無表情。

 緋色の態度には苛立ちを通り越して怒りを見せても驚かなかっただろうが、こうも無反応だと却って驚いてしまう。というか、若干怖い。何があった。

「すまない、何かまずいことを言ったか?」

「そこの馬鹿は放っておけ」

 言うと、ようやく禍福が表情を覗かせた。僅かだが仏頂面である。

 ……仏頂面で安堵するというのも変な話だな。

「そうか? しかし、よく分からんが、とにかく緋色の話は多分無理だぞ」

「そんな話はどうでもいい」

「どうでもよくはないさ。エルフにとって、森を追われるというのはそれだけ重大なことだ」

 たとえ血筋があっても――否、確かに血を受け継ぐからこそ、追放された者の子など森長にはできまい。流石に親もろとも放逐はせずとも、良くも悪くも血筋で特別扱いはされないだろう。

「そんなことより、だ」

 そんなことと済ませていい話じゃないんだけど。

 とはいえ、エルフならともかくヒュームには興味のない話か。

「貴様もそろそろ慣れてきたらしいな」

「何に? ……って、竜馬にか。そうだな、最初に比べたら随分と楽だ」

 純粋に慣れたのもあるし、ルネが合わせてくれてもいる気がする。

 これならもう少し行けそうだぞ、とは言うまでもなかった。禍福も最初からそのつもりで確かめてきたのだろう。

「なら、今日はもう少し進むとするか」

「跡地まで、ですか?」

「あぁ」

「跡地?」

 当たり前のように交わされた言葉だったが、私にはなんのことだかさっぱりだ。

 だから訊ねてみたものの、二人は顔を見合わせて含み笑いを浮かべるだけだった。

「まぁ、行けば分かるだろうよ」

「そうですね。エレカさんがどう見るのかも気になりますし」

 それの何が面白いのやら。

 ただ、こうも堂々と興味本位で隠されてしまうと、しつこく聞き続けたところで答えが返されないのも想像できてしまう。釈然としないが、諦めるしかあるまい。

「あ、ですけどフードはしっかり被っておいてくださいね?」

「何が『ですけど』だ」

 不承不承にフードを引っ張りつつ、脳裏ではフードが必要な跡地とやらに思いを巡らせる。

 まぁ実のところ、それらしいものは一つ浮かんでいるのだが。

 私としては些か以上に苦い記憶となっている、教団のアジトだ。あそこは魔神によって失われた街の跡地だった。イスネアまでの片道旅とはいえ、中継地点は考えているのかもしれない。

 心中では想像しながら、口にも顔にも出さず再びルネの背に跨る。

 楽しみにしているところ悪いけど、そんなに面白い反応はできないだろう。

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