三十九話 救うと決めたから
「森を守るためなら、救うためなら、世界を滅ぼすくらいの覚悟はできている」
言った、その瞬間だった。
緋の輝きが見え、それが瞬く間に槍を形作る。
剣を縛る布切れは簡単な魔法で千切れただろうが、そのためには何秒かかるか。剣での迎撃は間に合わない。
ならば。
脳が高速で回り、緋色に向かって手を伸ばす。
詠唱もいらない。
悲しいかな、緋色の力の源がどこにあるのか、彼女は既に教えてしまっていた。
光の槍を上半身の動きだけで避けて、反撃に魔法を放つ。
それだけで済むはずだったのに、済ませるはずだったのに、眼前に思い描いた光景は再現されなかった。
私のとは違う、しかし同じ外套の袖に包まれた腕が伸びる。
その手袋を纏った拳が緋の錫杖を掴み、力任せに捻った。緋色が短い悲鳴を上げる。光の槍が大地に突き刺さり、ようやく反応できたルネが跳び上がりながら吠えた。
「構うな、じゃれているだけだ」
禍福が言い放つ。
それでも収まらないルネに、行き場を失った手をそっと伸ばした。
私にも牙を剥きかけたルネだったが、すぐに我に返ったのか、バツの悪そうな顔をして鼻先を向けてくる。撫でてやれば、剣呑な空気も程なく霧散した。
「どういうつもりですか」
「貴様こそ、頭を冷やせ」
ルネどころか、リューオとフシュカも顔に浮かべるのは不安げな表情。
それに気付いているのは私だけで、禍福も緋色も一瞥さえしようとはしなかった。
二人の主人の代わりに、私が二頭を撫でてやる。ルネも一緒になってなだめてくれた。原因の私が言っていいことではないんだろうけど、もう少し気を配ってあげてほしい。
「俺は貴様ほど教会に尽くす気はない。それが分かっているから、枢機卿の連中も俺には貴様ほどの情報を寄越さんのだろう」
と、そこで禍福は不意に笑みを零した。
「いや、そもそも聖女の錫杖を委ねるくらいだ。貴様以上に信頼された巡礼者などいないんだろうな」
「だとしたら、なんだというのです」
「それを失うのは誰のためにもならない、ということだ」
からりと笑ったまま、彼女は私の方を見やる。
「貴様も、力があるんだからもう少し余裕を持って対処しろ」
「そいつは殺す気だったぞ」
「そんなわけがあるか。その槍は魔物を貫いた」
「あの時は、な。だが結界でマナは底をついた。マナ由来の雨が降った直後とはいえ、エルフの身を貫けるほどの槍はまだ生成できないだろう」
詠唱もしなかったしな、と禍福は笑う。
見れば、緋色もどこか居心地の悪そうな顔で視線を逸らした。
「そうなのか」
「……いくらなんでも、問答無用で命まで奪うことはしませんよ」
「というより、奪おうとしても奪えんだろうがな。俺たちは所詮、魔法には不得手なヒュームよ」
などと笑っている禍福だが、あの反応速度を見る限り、魔法ではなく腕力で私の首くらいへし折れそうだ。
そう考えると、やはり助けられたのか。
もし緋色に反撃していたら、禍福が私に敵意を向けてきたら……そんなこと、想像もしたくない。
「それは、悪いことをした」
「いえ、先に手を出そうとしたのはわたくしですから」
「なんだ、もう少しこじれると思ったんだけどな」
申し訳なさ半分、でも仕方ないんじゃないかと開き直りたい気持ちが半分の私たち。
対して一人、何故か楽しそうに笑っている禍福。
そんな姿を見せられてしまえば、ピリピリするのも馬鹿らしくなってくる。
「わたくしもエレカさんも、突き詰めれば同じこと。あなたにはそれが分かっていたんじゃないですか?」
緋色の声も私の心境とも等しいため息混じりのものだったが、その言葉までは頷けなかった。
私と緋色が同じ?
それは一体、どういうことだろう。
しかし首を傾げたのは私だけで、禍福は我が意を得たりと鷹揚に頷いた。
「貴様には分からんか」
そして声を差し向けられれば、不承不承にでも頷かざるを得ない。
「緋色にとって、エルフの森など大した価値はないだろう」
「だから同じなんだ」
からから笑う禍福に、緋色はまたため息で応じる。
「エルフの森を、エレカさんの生まれ故郷を犠牲に他の全てが救えるのだとしたら、わたくしは迷いません。あなたが森のために世界を犠牲にするなら、わたくしは世界のために森を犠牲にする……それだけのことです」
それだけのこと。
およそ似つかわしくない言葉だったはずなのに、すとんと腑に落ちた気がした。
今は、まだ仲間だ。
同じ道を歩む旅のとも。
しかし、いつか時代の終焉とやらが訪れて、そこで世界か森か、ヒュームかエルフかの二者択一を迫られるなら。
「今はまだ、それでも仲間か」
「えぇ、少なくとも今この時だけは」
嫌になるな。
いつかエルフの敵になるなら、ここで始末しておいた方がいい。そうでなくとも無力化し、敵対するだけの能力を削いでしまえば……。
同じことを考えた緋色が先手を打った結果が、今この時か。
仮に私が先手を打ったとて、禍福なら止められただろう。この間合いは、幸か不幸か常人離れした膂力を持つ禍福に有利すぎる。
「まぁ、喧嘩両成敗だな。逸った緋色に非はあるが、背後を取らせた挙げ句に過剰反応したエレカもエレカだ」
旅の仲間に背を見せることが失態となるなら、私は誰かと旅などできない。
だとしても私は禍福と、緋色と旅をしているし、叶うならばこの先も一緒に歩きたいと願ってしまう。
「……次の時代、か」
「ん? それがどうした?」
「あぁいや、気にしないでくれ」
いつだって未来は分からない。分からないままに、進んでいく。それが人生だ。
けれど死が避けられないものと知った時、人々は己に残された人生ではなく、遺していく次の世代の者たちに願いや祈りを託そうとする。
同じことを、禍福たちオールドーズの者たちは考えているのか。
時代がいずれ終焉を迎えると知って足掻き、避け得ないと悟ったなら次代に託す。
そこには最早『今』など存在しないのだろう。
「なぁ、緋色……」
問うてしまっていいのかは分からなかった。
それがどんな意味を持つ問いなのかさえ、私には判然としない。
「お前はそれで満足なのか? 私はエルフの森の未来を守りたい。私の子や孫が生まれ育つ姿を見ていきたい。だがお前たちの……オールドーズの謳う次の時代に、お前たちは存在しないんだろう?」
寂しくはないのだろうか。虚しくはならないのだろうか。
あまりに壮大というか遠大な話で、自分ならどうだろうと考えてみるのも難しい。
「そもそも、わたくしたちはヒュームですから」
「ヒュームには未来を見通す力があるとでも?」
「逆ですね。長命のエルフと違って、ヒュームには見届けられる未来なんて限られていますから」
だから、虚しくなるんじゃないのか。
思ったが、訊ねるまでもなかった。
足を止めて見やれば、緋色の眼差しには暗い陰など探しても見つからない。
「国とは元来、そういうものです。自分たちの子孫を、子でも孫でもなく、孫のまた孫、あるいは血も繋がっていない隣人の子供たちの将来。そうしたものを守っていくために国があり、だからこそ国を守るためなら人生を費やせるんです」
不思議な話だ。
ただ、国を森に置き換えてみたら、ぐっと想像しやすくなった。
森長は世襲制。私は結局継がず仕舞いだったけど、森の民に頼られる父の背中を見ていれば感じるものもある。そんな人々に私も父も支えられて生きていたのだから、次は私が、今いる民だけでなく、まだ見ぬ新しく生まれてくる同胞たちの故郷を守りたいとも願った。
今なお、願っている。
そのためなら、森に戻れなくなっても構わないと思うほどに。
「まぁ、わたくしは親がいませんから。殊更に恩を感じているんでしょうけど」
「なっ……。そう、だったのか」
さらりと言ってくれるが、禍福に驚いた素振りはない。
教会の誰かに拾われ、親に代わって育てられたのだろうか。
「なんだか、すまない」
「え? 何がです?」
「いや、私が森を想う気持ちは、決して特別じゃないんだとな」
森長の娘だから、と責任感を持ち続けてきた自覚はある。それは誇りでさえあった。
だが、だからといって他の森の者たちに……例えばリクやティルにだって、愛情がなかったわけもないだろう。森のために命を賭しても、とは思ってほしくないけど、それほどまでに想う者がいても不思議はない。
「何かと大変だったんだろうし、だとしたら私も無神経なことをした」
すまない、と重ねて詫びる。
森の危機を払うためならばなんでもする。ヒュームの全てを殺せと言われたら悩むかもしれない。でも、もし本当にその方法で森が救えて、他の方法が何一つないのなら、最後には手を染めるだろう。
それは譲れない。譲らない。
だけど、同じ想いを緋色も抱いているのなら。
「そういうことでしたか」
彼女はふっと儚く笑い、夜の帳が下りつつある薄闇の空に優しく目を向けた。
「でも、本当に大変だったのはわたくしの親だったと思いますよ。わたくしは、どうあれ教会に命を救われ、人並み以上の暮らしをさせていただきましたから」
「しかし、我が子を手放すというのはな……。まぁ、その、不幸な事故とか事件があったならともかくだが」
「だからこそ、です。我が子を捨てる以上の苦しみなんて、わたくしには想像もできません」
遠く遠く、星々がちょうど輝き始めた空。
緋色がそこに何を見ようとしたのか、私には知りようもないことだ。
「捨てる苦しみなぁ……」
それは、確かに辛かろう。
けれども。
比べるようなことではないと承知で、どうしても考えてしまう。
生まれてくるはずだった我が子を、しかし手に抱くことすらできないまま失った母親たちの、父親たちの苦しみはどれほどのものだったか。
「詮なきことだな」
「何かお悩みでも?」
「いいや、悩むようなことでもないさ」
だから森を救うと決めたんだ。
そこに悩む余地など、迷っている余裕など、あるはずがない。
時代の終焉なんて未だに想像もできないけれど。
それでも、救うと決めたから。
「でもやっぱり、少し難しいかな」
「貴様な、さっきから言葉が足りなすぎるぞ」
禍福に笑われ、仕方ないだろと声になっているのかも曖昧なまま笑って返す。
自分の中でも上手く言葉にできない感情だった。それを口に出して伝えるなんて、もっとできない。
「禍福のことは疑いたくないんだ」
「はぁ? あのな、だから言葉が――」
「緋色のことも信じたいと思う。二人は関係ないはずの私に良くしてくれた。たとえ警戒心からでも、助けられた事実は変わらない」
あぁ、とそこまで言って、不意に気付いてしまった。
だから、なのか。
疑いたくない、信じたい、そんな二人から告げられた言葉だからこそ、どこかに何か間違いがあるんだと叫びたくなるんだろう。
時代が終焉を迎える。
エルフも、ヒュームも、いなくなる。
それが真実だなんて、定められた運命だなんて、どうやっても想像できない。納得もできない。
だって、森はまだ生きて。……生き、て?
「……? おい、エレカ? どうしたんだ、おい」
肩を揺すられているのは、理解できていた。
なのにそれは、どこか遠くの自分が……ここ以外にいるはずのない自分が、にもかかわらず遠くのどこかで左右に揺れているようにしか感じられなかった。
「なぁ、禍福」
「エレカ? 大丈夫なのか、貴様。顔が真っ青で……」
「エルフがいなくなると、そう言ったか?」
禍福が何か言いかけ、飲み込んだのが見て取れた。
そして、すぐさま代わりの言葉を見つけたのも。
「確かに言ったが。そして事実なんだろうが。ただ、それはまだ先の話だろうし、それに言葉通りの意味でも――」
「違うんだ」
分からない。
考えたくもない。
脳裏で結び付こうとする点と点を、本能が必死で散らそうとしているのが自分でも滑稽に感じられた。
「もう何人も、死んでるんだ」
禍福が押し黙る。
それから緋色が何か言おうとしたのを、そっと止めた。
「生まれてくるはずだった子供が、何人もだ」
森に何か問題があるのかと思っていた。
病気か、気候か、マナなのか。どうあれ何か問題があって、それを正せば元通りの森が戻ってくるのだと信じていた。
だが、しかし。
「エルフは、本当にいなくなるのか……?」
それが真実だとすれば、何をどうすれば運命は覆ってくれるんだ?
禍福を疑いたくなんかないけれど。
だったら、笑い飛ばしてやりたいものだ。
全てを知ると謳うオールドーズなんて、所詮は何も知らぬ人間の片割れじゃないか。
そう笑い飛ばせたら、どれほど楽だったことだろう。




