三十七話 異変、転換、あるいは加速
異変が起きたのは、ちょうど野営の支度を始める頃だった。
昨夜の一件――。
私の左腰に収まる剣について話すため、今日の移動はまだ日が高いうちに断ち切られた。
相変わらずのだだっ広い、ルネの背で振り返れば長く伸びた砂煙が見えるような荒野。
日差しや風を遮るものは何もなく、かろうじて姿形を残しているものは枯れ果てた低木や、砂色の草くらいだ。
こんなに開けた土地で一夜を過ごすと思うと少し心細いが、こんなところを旅する者もいないだろう。ヒュームは言うまでもないし、獣でもイタチネズミより大きな体躯となると生きてはいけまい。
お陰で設営は手早く済むはずだった。
人手もいらず、むしろ三人で寄ってたかって手を出す方が時間がかかる。
ルネたち竜馬も休憩中なのか寄ってくる気配はないし、私は手持ち無沙汰で落ち着かない気持ちのまま剣の柄を撫でていた。
柄から鍔、鞘にかけては幾重にも細く切られた布が結んである。
本当にただ結んだだけの急場凌ぎだけど、その扱いを考えるためにも禍福や緋色と話す必要があるのだろう。
揺れのせいか緩んだ結び目を直していると、不意に辺りが暗くなった。
夜闇に比べればずっと明るくて不便もしないが、あまりの前触れのなさに声を上げる。
「おい、天幕くらい手早く――」
てっきり禍福か緋色が天幕を張ろうとして、それが風に煽られて頭上を覆ったのだと思ったのだ。
しかし数秒が過ぎ去っても辺りは暗いままで、見やった先では設営道具を取り出す最中だったらしい二人も怪訝そうな顔をしていた。揃って上を見ている二人に釣られて視線を持ち上げ、はっと息を呑む。
「雲……?」
空には一面、所々の黒を孕んだ灰色が広がっている。
雨雲?
決して特別なものじゃない。……そのはずなのに失われ、久しく見なかったそれ。
どうにも現実感に乏しく、驚くというよりは呆然としてしまった私たちに、それは確かな冷たさで教えてくれる。
ぽつり、ぽつりと零れ始めた雨粒は、誰かが何かを言うより早く音色を変えて、ざぁざぁと本格的に降り出した。
嘘だろ、と口にしかけた言葉を飲み込む。
「禍福!」
これは現実だ。
代わりに叫べば、僅かに早く我に返っていた禍福が頷いてみせる。
「設営は中止だ! それよりさっさとフードを被れ。中まで濡れるぞ!」
言われ、そういえばフードはそんな風にも使えるのだと思い出した。
万が一のために外套は着つつも、耳元をこすって邪魔だからと外していたフードを目深に引っ張る。
雨は一秒ごとに勢いを増していった。
会話をするにも声を張り上げるしかない状況になり、誰からともなく自然と寄り添う格好になる。一方で三頭の竜馬は皆はしゃいでいて、早くも泥になった地面をぺちゃぺちゃ鳴らしながら辺りを駆け回っていた。
「どういうことだ、干魃だったんじゃないのか」
いや、干魃にしても雨くらいは降るだろう。
恵みの雨、というやつだ。
ただ禍福曰く、オールドーズ曰く、この干魃は単純なものではない。
否、視点を変えれば、むしろ極めて単純なのか。マナの枯渇。世界の何一つとしてマナに関わりのないものなど存在しないだろうに、そのマナが世界から失われれば想像を絶する影響が生まれるくらいは想像に難くない。
そもそもマナとは移ろうものであり、一つ所に留まり続ける方が不自然なのだが、だとしてもこの雨が自然とも思えなかった。
声が届かなかったわけでもないはずなのに返事もせず、揃って深刻な顔をする二人を見れば自分の感覚が間違っていないことを嫌でも察してしまう。
「これは大変なことになったかもしれない」
禍福が呟き、不意に手を振った。
何事かと思っているうちにも竜馬のうちの一頭、リューオが寄ってくる。そうか、あの手振りは合図か。
移動中はそうするように、ルネとフシュカもリューオの背というか尻を追って近付いてきた。雰囲気はどこかしょんぼりしている。遊びを中断させられたからか、あるいは遊びすぎたことを咎められているように感じたのか。
どちらにせよ、そこまで気を配る余裕が今の禍福にないことは見て取れた。
「移動する」
「野営は中止か」
「状況が分からない。だが立ち止まっていても埒が明かない」
「下手に動くのも危険ですけど、この目印がない中で向かう先を見失う方が危険です」
禍福と緋色がそれぞれ若干違う理由から、しかし同じ結論を告げる。
しばし考える……までもないか。異論を挟む余地はなかった。
星や太陽が見えない状況では方角を知るだけでも大変だが、このまま立ち止まり続けて『どちらに進んでいたか』さえ忘れてしまう方が面倒になりかねない。雨が長引くなら進むしかないし、すぐに止むようなら修正は利く。
どちらにせよ、今は真っ直ぐ進んでしまった方が後々の選択肢の幅も広がるわけだ。
「ルネ、進む方向は分かるか?」
ここまでは禍福が乗るリューオを先頭に走り、方向の指示も大まかにだけど禍福が行ってきた。
とはいえ、竜馬とて盲目的に従ってきたわけではあるまい。
先頭を走ってきたリューオは勿論、ルネも大凡の方角くらいは分かるだろう。三頭の中で最も意思疎通できるのがルネだから、ここからはリューオではなくルネに先導させるしかない。
「ふすすっ」
「ふしゅん」
ルネがリューオに鼻先を向け、会話なのかくしゃみなのか分からない声を互いに交わす。
程なくルネが歩き出し、その後ろにリューオとフシュカが並んで続いた。私たち三人も顔を見合わせ、横に追いつく。
言葉は交わさなかった。
私たちの沈黙が伝染したのか、……いや、そもそも移動中は声を上げてのコミュニケーションは取らなかったか。ともあれ三頭の竜馬も静かに歩を進める。
そんな時間がどれだけ続いただろう。
きっと長くはなかった。
誰も時計は持っていないから正確な時間を知ることは叶わないが、心の中で数えられないほどの長時間ではなかったはずだ。
十分か、長くても十五分ほどだったに違いない。
バシャバシャと地面を掘り返す勢いで降り続いた雨の幕切れは、降り始めた時と同様、あまりに唐突だった。
パラパラと小降りになることもなくピタリと止んだ雨の後に、雲に残っていた水分を絞ったかのような数滴の雨粒が落ちてきて、それきり辺りに静寂が立ち込める。
と、気付いた頃には辺りが明るくなり始め、空を見上げた時には雨雲の欠片さえ既になくなっていた。
ルネも戸惑い、足を止めてしまう。
後ろに続いていた二頭と三人も必然的に足を止め、それぞれ当惑を表情や態度で表しながら顔を見回した。
「なんだったんだ?」
疑問の声を漏らしたのは、しかし、私一人だけだった。
禍福は忌々しそうに空を見上げ、緋色は苦々しい顔つきで唇を噛む。ルネとリューオとフシュカも、落ち着いてはいるが警戒心が小刻みな耳の動きで見て取れた。
だが、何が起きているのかまでは分からない。
音は……雨音は勿論、足音や羽音といった何者かの接近を告げる予兆もなかった。マナはどうか。意識を凝らそうとして、遮られる。
「魔神が現れた恐れがあります」
緋色がおもむろに呟いた。
ピクリと震えた手が我知らず剣に伸び、それから我に返る。
「どういうことだ」
「推論に過ぎん。……だが、尋常ではないマナが発散されたと考えれば辻褄は合う」
緋色に代わって答えた禍福だったが、それは疑問に答えたというよりも、ただ己の推測を否定したいがために口に出しただけらしかった。
しかし、言われて思いを巡らせると、強ち否定もできない話だと悟る。
マナの発散。
膨大な魔力を持つ魔神がどこかに現れ、暴れ回る中で魔法を使うなりしてマナを発散したらどうなる。移ろい、枯渇したはずのマナが辺りに満ちて、マナが溢れていた頃の自然の営みを局所的かつ一時的にだが取り戻すのではないか。
あまりに唐突だった雨の意味、それを説明することはできる……のかもしれない。
正直なところ、分からなかった。魔神なんて森を出るまで知らなかったし、マナのことも知っているようでほとんど剃らない。
「けど、そんなことがあるのか?」
「推論だ。こんな話は聞いたことがない」
「オールドーズでも?」
いや、しかし、オールドーズにとっても時代の終焉は経験したことのない未知のはず。
当然だろう。
世界だろうが文明だろうが、そんな規模での終焉が起きたなら人間は生き延びられない。それを経験できた者がいるなら終焉は訪れなかったことになり、本当に終焉が迎えたなら経験者は一人残らず断絶した時代の狭間に消えている。
「やはり説明は避けられませんか」
「くどいな」
「ですが……」
「エレカはエルフだが、エルフとて人間だ。俺たちヒュームとは、同胞ではないにしても肩を並べて戦った仲間だろう」
言い合う二人に、悲しいかな私はついていけない。
「ちょっと、ちょっと待ってくれ。なんの話だ」
肩を並べて戦った?
誰と?
何と?
そもそも、いつ?
疑問ばかりがぐるぐると脳裏を巡り、やがて答えを得る。
自答ではなく、慣れ親しんだ禍福の声によって。
「我々の、オールドーズ教会の知識の源だ。それは同時に、貴様の剣を危惧する理由にも繋がっている」
知識の源と、剣の危険性。
すぐには汲み取れない言葉だったが、最早考えるより先に耳を傾ければいいのだと本能的に察していた。
「オールドーズがどうして他を圧倒するほどの知識を持ち、随一の国力を誇る帝国にさえ教え諭す真似ができるのか。理由は単純だ」
禍福は声なき笑みを零し、ちらりと緋色を見やった。
彼女は目を伏せ、首を振り、諦観に近い表情を浮かべて言葉を引き継ぐ。
「そもそものスタートラインが違うんです。彼らはゼロから文明を築こうとした。経験を積み、それを知識とした。しかしわたくしたちは、オールドーズは、そうではありません」
ゼロから、文明を。
脳裏の点と点が線を結ぶ前に、緋色は告げる。
「オールドーズは、前の時代から知識を得ているんです。……いえ、前の時代の知識を受け継いだ者、それがオールドーズの礎なんです」
前の時代。
その知識を、受け継ぐ……?
あまりに常識の埒外にあった話は咄嗟には理解し難く、却って変な先入観に囚われずに済んだ。
「エレカさん」
緋色が呻くように言う。
「わたくしたちは前の時代の知識を受け継ぎました。……だからこそ、あなたにも同じく受け継げた可能性を考えないわけにはいきません」
そして、決定的な言葉が紡がれた。
「勇者によって討たれた魔王の遺志――。それを宿したのが魔剣ではないかと、わたくしは考えています」
勇者だとか、魔王だとか。
そういう伝説上の、つまりは今の私たちの毎日には関係のない物語。
それが今ここにいる私に結び付くなんて想像できなくて、実感も湧かなくて。
我知らず撫でた柄頭に、そこにあるのが当たり前になってしまった長剣に、なんの感慨もなく目を落とした――はずだったのに。
「……ッ」
魔神。
初めてその言葉を聞いた時と同じ、本能的な冷たさを抱く。
冷たい、何か。
暖かい何かが失われ、断ち切られ…………。
「懐かしい、……のかな」
「はぁ?」
禍福が素っ頓狂な声を上げる。
そうだ、思い出した。
違う。
覚えていた。
なのにどうして、気付かなかったんだろう。
「私の母は、私が幼い頃……生まれて何年もしないうちに死んでるんだ」
「それは……や、待て、急になんの話だ?」
「私はそのことを覚えていない。物心つく前のことだから当然なんだ。母のことは、大人たちから聞かされる存在だった」
雨除けのフードは、もういらない。
じっとりと濡れながらも中まで水を通すことのなかったフードのお陰で、髪は湿り気を帯びつつも涼やかな風になびく。
その毛先に指を通し、頬の横から前に持ってくれば、嫌でも気付いてしまった。
「なのに私は、知っている」
あれほどの雨を感じさせない晴れ空の下、私の髪は鈍色に光を返すばかり。
けれど。
「母の、お母様の髪は綺麗で、暖かい金色だった」
父と母の髪は揃って金色なのに、どうして私の髪だけがこんな色なのか。
ずっと嫌で、それ以上に気になっていたけど、だからこそ考えが回らなかった。
「私は何かを忘れている。何かを失っている。それが魔剣だとか魔王だとかとどう関係してくるのか、それとも何一つ関係ないのかは分からない。だけど」
髪を撫でる。
そして、剣を鞘ごとベルトから引き抜いた。
それらは同じ、鈍色をしている。
「私が、私の知らない誰かから、私の知らない何かを受け継いでいる。それが多分、真実なんだろう」
ただの偶然か、あるいは必然か、作為的な因縁なのか。
何もかもが曖昧で不確かな中、それでも確かなことを幾つかは知っている。
「教えてくれ。私に教えられる、お前たちが知る全てを」
禍福は信頼できるし、緋色もまぁ信用できる。
何もかもが不確かなのに、何一つ不安にならずにいられたのは、きっとそういうことなのだろう。




