三十五話 竜馬たち
黒い影の正体はルネだった。
ルネ。
私が名前を付けた、一頭の竜馬。
それは元気よく飛び込んできて、というか跳んできて、勢い余って私は押し倒される格好になってしまった。だがルネはお構いなしだ。
ふすふすと空気の抜けたような、あと間も抜けた声で鳴きながら尻尾を振っている。
ていうか、重い。流石に全体重を乗せてきたわけでもないけど、重いものは重いのだ。
邪魔だよ、と言葉にはせず手で押しやると、ようやく気付いてくれたのか重さがなくなった。
しかし未だ、顔には毛むくじゃらを感じる。
まるで禍福のよう、などと言ったら彼女に申し訳ないか。
だが、これはなんだ。ルネの顔は遠のいたはずなのに、まだ何か残っていた。手を伸ばす。生暖かい。あと柔らかい。……何より、軽い?
掴めてしまったから掴んで、持ち上げられてしまったから持ち上げて、そして見てしまったから悲鳴を上げた。
「ひっ、ひゃ、ひぁ……ッ」
否、悲鳴さえ上げられなかった。
それは……なんだ、一体なんだ、脳が理解を拒んでいる。
白い、違う。灰色、でもない。砂色とでもいおうか。
砂色の毛玉だった。ただの毛玉ならよかったんだけど、それだけじゃない。草木が大地に根付くように、毛は肉体に根付く。それはただの毛玉ではなく、れっきとした生き物だった。だった。
どうしてそんなことが分かるのか?
その毛玉は砂に塗れたように血にも塗れていて、同じ色の液体がルネの口の周りにもべったり付いていたからだ。
「なん、なっ、なんんんッ」
「おちちゅ、落ち落ちつ着いてください」
「貴様も落ち着け」
ひょいと手袋に包まれた手が伸びてきて、肉体付き毛玉を私から引っ剥がしてくれた。
あぁ禍福、何度となく私を救ってくれてありがとう。安堵と感謝のあまり泣きそうだった。恐怖と絶望の涙は既に流している。今も頬を流れている。
「……なんだ、これ」
「私が知るか!」
「わたくしも知りません!」
禍福が手にしている肉体付き毛玉こと、物言わぬ小動物だったモノは見慣れない姿をしていた。
ぱっと見の印象はネズミである。ちょっと無惨な姿になってはいるが、ネズミだと言われれば、そうかネズミかと納得しただろう。
しかし今一自信を持てないのは、それがネズミにしては大きかったからだ。イタチくらいの体躯はある。ネズミにしては規格外の大きさだ。
だが、……誠に遺憾ながら、思わずぎゅっと掴んでしまった感触は、ネズミのそれであった。
つまりはイタチサイズのネズミ。敢えて呼ぶならイタチネズミとでもいおうか。
そのイタチネズミは、見れば分かるが絶命している。犯人もまた明白だった。口元にべったりと証拠を付けている。
いや、犯人と呼ぶのは些か間違っているか。
犯人ではなく犯竜馬のルネは、しかし何食わぬ顔で私を見ている。なんだったら、どこか誇らしげですらあった。自慢話を持ち寄った時のティルを思い出す。
……あぁ、そうか。
褒めてほしいのか、ルネは。まさかとは思うが、友好の印とか? そんな大袈裟なものではなく、狩りの腕を自慢しているだけかもしれない。
なんにせよ、理解してしまえば頬が緩むのを止められなかった。
無辜のイタチネズミには申し訳ないが、私にとってルネは特別な存在になりつつある。それも遠くへ行ってしまったと思っていただけに、その帰還はただでさえ並外れた喜びをもたらしてくれた。
というか、突然走り去っていったのが狩りの腕を見せつけるためだったとすれば、最早笑うしかない。笑ってしまうのも無理はない。笑おう、大いに笑おう。
撫でろと突き出された鼻先を、手に血が付くのも厭わず撫でてやる。誇らしげな顔がだらりと緩んだ。それで鼻筋から額の辺りも撫でる。ふしゅふしゅと喉が鳴らされた。猫か、やはり猫か。
「……はぁ」
少し離れたところでは、禍福が疲れ切った顔でため息を零している。
色々と言いたいことがあるのは一目瞭然だったが、どれも言う気力を失っているのも、また一目で見て取れた。緋色に至っては腰が抜けてしまったのか、錫杖を支えにどうにか立っている始末だ。
「まぁ、骨折り損でよかったよ」
ようやく零された安堵の声とともに、禍福が手にしていたイタチネズミ……の死骸をぽんと投げ置く。
それに目敏く反応したのがルネだった。
すぐさま走り寄ってイタチネズミを咥えると、それをまた私のところに持ってくる。いや、いらないんだけど。思ったが無下にもできず、逡巡の末に頭を撫でた。
「腹が減っただろう、食べていいよ」
ルネがイタチネズミを放した。
と同時、がっつき始める。ぐちゃ、ぴちゃ、くちゃ、パキ、ポキ。そろそろ腹が減ってもいいはずの時分だったが、何故だか食欲は一切湧かなかった。禍福と緋色も似たような顔をしている。
しかし残る存在、二頭の竜馬にとっては食欲そそる光景だったらしい。
のそりと起き上がるなりルネに近付き、くんくんと嗅いで回る。ルネは鼻先を上げた。視線は私に向けられる。
リレーのごとく、私の視線は禍福に向いた。
「もう好きにしろ」
「じゃあ、手伝ってくれ」
「え、え……?」
困惑する緋色をよそに、禍福と手分けして二頭の鞄も外してやる。
二頭も私たちの意図に気付いたのか、目だけはイタチネズミに釘付けになりながらも抵抗はしなかった。お陰ですぐに鞄は外れる。
「よし、ルネ」
「ルネってなんだ」
「ふすん」
「貴様か」
「二頭を連れていってあげなさい。運動も食事も、旅では大事だ」
言葉を解するとは思えない。
それでも伝わると確信できた。
ルネと二頭の竜馬はほんの一分足らずでイタチネズミを平らげ、颯爽と荒野の彼方へと走っていく。元気だなぁ。私は疲れてしまった。気力が出ない。立っているのも億劫になって、地べたに座り込む。
「……名前を付けたのか」
禍福が訊ねてきた。
いや、訊ねてはいないか。答えも求めていないような声だった。
「あとの二頭にも付けないといけない」
「いけないってことはない」
「不便だよ。オールドーズと同じだ。やっぱり名前は、あった方がいい」
穏やかな眠りだった。
お昼を食べた後、木漏れ日に照らされる木の根に身を預けて寝た時のような柔らかい心地に似ている。
だが、似ているだけだ。
今は昼下がりではなく夜半で、ここは森ではなく荒野。
そろそろ野宿にも慣れてきたけど、地面から這い上がってくる冷たさは未だに堪える。木漏れ日の記憶は瞬く間に遠のき、身を起こすなり肩を抱いてしまった。
と、それがよほど寒そうに見えたのだろう。
「火を起こしましょうか?」
見張り番をしてくれていた緋色が小さく静かな声で言った。
「大丈夫だ、調子も悪くない。交代しよう」
「いいえ、まだ時間ではありませんから、もう一眠りしてください」
見張り番は禍福に始まり、次いで緋色、三番目に私の順だ。この後、夜が明ける前に私はもう一度寝て、禍福に代わる。二度の見張り番は禍福だけだった。有り難いが、それ以上に申し訳ない。
しかし、引け目から休息を怠っては本末転倒だ。
私は旅慣れていないし、禍福は夜に強い。獣化症の影響で夜目が利くのもあるが、元々睡眠時間が短いのだという。
それで禍福だけが二度の番をすることになった。
いずれは私が最初に番をして、全員一回ずつにできたらいいと思っている。……と同時に、そんなに長くかけず森に帰りたいとも思っていた。
「寝られませんか?」
考え込む私をどう見たのだろう。
くすりと小さく笑って、緋色が顔を覗き込んできた。どうせ通りがかる者もいないだろうし、外套は脱いでいる。そう覗き込まなくても表情は見えたはずだ。
「目が冴えちゃってね。……やっぱり代わろうか」
言ってみるも、案の定首は横に振られた。
「そうか」
呟き、何をするでもなく視線を落とす。
何気なく見やった手には、いつのものかも分からない小さな傷の痕が幾つもあった。森に暮らしていた頃は指先を少し切っただけで何日も不便な気がしたものだが、旅をしていると細かいことが気にならなくなってくる。
気にしていられない、というのが実情だけれど。
今だってそうだ。
緋色と二人、確かに同じ時間を過ごしているはずなのに、互いに必要以上の言葉を交わそうとはしない。夜の荒野はあまりに静かで、潜めた声さえ眠りの妨げになってしまう。特に禍福と竜馬たちは耳が良い。警戒心も強く、些細な音でも敏感に反応する。
だから言葉は交わさなかった。
沈黙が気にならないと言えば嘘になる。
緋色とは、まだ長い付き合いじゃない。それを言えば禍福もそうなんだけど、何故だか緋色の方が距離感が分からなかった。どう詰めていいのか分からない。
というか、禍福とはどうやって距離を詰めたんだっけ。いつの間にか、すぐ傍にまで近付いてしまっていた。一方通行かもしれないけど、言葉がなくても通じ合える気がする。
だけど緋色とはそうじゃなかった。
それで余計、何か喋っていたい気持ちに駆られる。
せめて表情だけでも見ていたいけど、喋るわけでもないのに顔ばかり見ているのはどうなんだろう。あまりに不躾じゃないか、それは。
結局、自分の手だけを見て何分も過ごした。
でも、もしかしたら一分も経っていなかったかもしれない。
「寝られないようでしたら――」
唐突に、考えあぐねたかのような迷いに満ちた声音で、緋色が口を開いた。
「少し、よろしいでしょうか?」
エレカさん、と顔色を窺う声で呼ばれると、こっちまでぎくしゃくしてしまう。
いや、逆か。
私の迷いが彼女に伝わって、変に距離感を探らせてしまったのか。
「どうかしたの?」
極力柔らかな声音を作ってみる。
どうだろう、できたかな。
分からないけど、緋色はどこか安堵したように息を零した。
「ここではなんですから、ちょっと歩きませんか?」
「あぁ、そうしよう」
ちらりと目を向ければ、禍福はまだ寝ている。寝息は立てていない。あまりに静かだ。
しかし三頭で団子になって寝ている竜馬のうちの一頭、ルネは眠そうに瞼を持ち上げていた。手というか指先を振って、なんでもないと示す。伝わっただろうか。ルネは瞼を閉じた。寝てはいないようだ。
残る二頭、リューオとフシュカ(それぞれ禍福と緋色が名付けた)は私たちが立ち上がる音に反応してピクピクと耳を動かしたが、それだけだった。やはりルネが頭一つ抜けて警戒心が強いらしい。
足音を殺して、天幕の下からそっと出る。
涼しいを通り越し、冷たい風が頬や肩を撫でた。緋色が外套の襟を寄せる。
すっかり忘れていたが、外套とは本来、防寒具であった。
私も着てくればよかったかな。少し後悔。わざわざ取りに戻ると禍福を起こしてしまいそうだから、ここは我慢するしかない。
幸いにして凍えるほどではなかった。そもそも凍える寒さなら野営などしない。できない。
緋色を半歩後ろから追いかけ、どこへ向かっているのかと考えてみる。
てっきり歩きながら話すものと思っていたが、そうではないらしい。では、どこまで行くのか。
しばし歩いて、見当が付いた。崖の上か。あそこなら見通しが利く。見張りにもなるだろう。
やがて崖の影から出て、月明かりに照らされる。
影に慣れた目には月の光だけでも明るすぎて、遮るもののない荒野をどこまでも見渡せそうだった。どこまで見渡しても、何もないのだが。
……いや待て。
だとすると、ルネはどこからイタチネズミを捕まえてきたんだ? 崖の上から見た時、あんな姿があっただろうか。遠くは砂塵に覆われ……そういえば、ルネは砂塵に消えていった。まさか砂塵の向こう側を見通していたのか。
「エレカさん?」
「すまない、考え事をしていた」
答え、頭を振る。
緋色は少し悩むような目で私を見たが、すぐに向き直った。既に地面は傾斜している。自分がどこで曲がったかも覚えていない。ダメだな、考えに耽りすぎた。そりゃ心配もされる。
そこからは無心で斜面を登った。
傾斜している以外は辺りと変わらぬ枯れた地面を眺めつつ、緋色の背を追う。
頂と呼ぶには低すぎる崖の終端に着いたとて、特段の感慨はなかった。真っ直ぐ前を見ても、記憶の中の砂塵よりずっと手前で夜の闇が立ち込める。
夜の闇を背に、緋色が振り返った。
その手は、錫杖の柄を強く握り締めている。
「エレカさん」
ただならぬ気配に身を強張らせた次の瞬間、緋色は震えを押し殺す声で言った。
「あなたの剣、わたくしに預けてはくださいませんか」




